海運商家の嫁(前編)
蒼玉都市は王国の西海岸に位置する、陸と海の交易路を繋ぐ中継地である。
多くの人や物が行き交う賑やかな街で、遠く海を隔てた国から訪れる者もある。
華やかな反面、国を追われた罪人や難民も多い。
良くも悪くも混沌とした街だ。
そんな蒼玉都市の一等地に、バルビローリ商会の館はあった。
敷地内には商会に属する者が使用できる共用の商館の他に、会主であるダマススの私邸も建てられている。
私邸では会主の末息子が、海の見える露台で海図を眺めていた。
小さい頃から、港を往来する船を見るのが大好きな子供だった。
今では趣味が高じて、自分の船を持って船乗りの真似事までしている。
父が私兵を叱責する怒声が広間から聞こえてくるが、ガイウスは気にしないようにして遠い海を空想する。
次の航海はではどんな景色が見られるのか、今から楽しみだ。
海は良い。
繋がっているのが良い。水平線の彼方へ、風に帆を立ててどこまでだって行ける。
実行できるかはともかく、海に面した土地なら世界中どこにでも行ける理屈だ。
商業の気風に溢れる蒼玉都市において、広く名の通ったバルビローリ商会。
会主ダマススには三人の息子があり、その末弟ガイウスを人は「不良息子」と呼ぶ。
そう呼ばれても仕方は無いな、と彼自身も思う。
貧民窟でおたずね者たちと酒を酌み交わし、船に乗り込んでまだ見ぬ島々を冒険し、遊び歩いている。
素封家の家系に生まれていなければ、とうに勘当されていただろう。
ガイウスについては、父も二人の兄も見放して好き放題させている。
商家に生まれながら商人を志さぬ変わり者を、家族は疎んじたのだ。
末弟にはほとんど干渉しない家族だったが、一度だけ「世間体が悪い」と強引に婚礼を進めようとした事がある。
役立たずは役立たずなりに、政財界との結びつきを強める道具として活用しようという腹積りだった。
しかし末弟は、とんでもない手段で抵抗してみせる。
いいように利用されるのは真っ平だったので、結婚させられる前に自分で嫁を「買って」きたのだ。
悪い伝手を通じての人身売買である。
それだけでは何を言われるかわからないので、帝国属領の田舎貴族に金を握らせた。
形式的にでも貴族の令嬢という事ならば、最低限の世間体も立つ。
これには父たちも黙らざるを得なかった。
屋敷の使用人たちは、少女と言って差し支えない程に年若い妻のレナータを「若奥様」と呼ぶ。
内向的で無口な妻だったが、「不良息子との望まぬ結婚を強いられた可哀想な若奥様」という筋書きが彼らの間では出来上がっているようで、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
さらに、どこへでも妻を連れ歩く夫を見て「新妻を溺愛する不良息子が、貧民窟の酒場や蛮地の冒険にまで同行させる。お労しや、若奥様……」となる。
ガイウスは苦笑いするしかない。
広間から聞こえる父ダマススの怒鳴り声が、また一段と大きくなった。
「仕事も全うせずに逃げ帰るとは、なんたる腰抜け! 何のために貴様らを飼っていると思っているのだ!」
聞いていて、あまり気持ちの良い声ではない。
道理の通らぬ叱責なら、尚更だ。
父は自分の不注意で秘密の書類を盗まれておきながら、奪還に失敗した私兵に当たり散らしている。
四人の部下を失った隊長のブノワも、さぞ口惜しかったろう。
本来なら命を賭して仇に一矢報いたい気持ちを堪え、断腸の思いで商会まで帰還してくれた。
書類を取り返せなかった事ならまだしも、報告に戻ったのは評価して然るべきだ。
それとも父は、私兵が全滅するまで戦って、何が起こったのか状況が掴めぬままのほうが良かったとでも言うのだろうか。
「でも、俺の私兵じゃないしな……」
気の毒なブノワに助け舟を出してやりたい気持ちも無いではないが、そのために父と関わるのは御免被る。
ガイウスはどうしても、父ダマススと馬が合わないのだ。
立場の弱い者に高圧的な態度を取るのは気に食わないし、「商売は裏切られた方が悪い」という口癖も容認できない。
バルビローリ商会の会主であればこそ、経営のため冷徹に振舞っている──と言う者もある。
しかし、内情を知ればそうも言えなくなる。
父の代になってから商会の減収は下げ止まらず、ダマススの経営理念とやらが正しいのか甚だ疑わしい。
それどころか、損を取り返そうとして抜け荷──密輸に手を出している。
結果、密輸の記録を盗まれて窮地に陥っているのだから世話はない。
俗に「無能な働き者」は「有能な怠け者」より質が悪いと言うが、父は「無能な働き者」の典型だった。
いったい何をしているのだ、と嘆息したくなる。
父や兄たちの、既得権益に胡座をかいた商売では、国家情勢が砂猫の目のように移り変わる今の時代について行けまい。
だが父が商売で損をしようと得をしようと、所詮は父の金だ。
ガイウスは徹底して「自分が遊ぶ金さえ商会に残しておいてくれるなら、それ以外はどうでも良い」との考えである。
円満に不良息子を続けるためには、時には割り切りも必要だ。
不愉快な声が、また耳に飛び込んでくる。
「答えろ! 盗まれた書類は、何者の手に渡ったと言うのか!」
それが分かれば苦労はない。
しかし──と、不良息子は考える。
海外からも犯罪集団が進出して来ている蒼玉都市とは違って、黒檀都市なら「謝肉祭」の勢力下だ。
断言はできないが、いずれ書類は謝肉祭の知るところとなろう。
そして流通経路を辿るか、捕らえた私兵から聞き出すかすれば、バルビローリ商会の名も知られる。
「そうなりゃ、こっちから探しに行かなくても、向こうから交渉にやって来るだろうよ」
数日後、ガイウスの読み通りの展開となった。
謝肉祭の遣いと名乗る二人組が、商館の門を叩いたのだ。
「謝肉祭の幹部、オフィーリア・モーリオンブランドの代理で参りました。エリックという者です。連れは、同じく謝肉祭のクラリッサ。あなた方の持ち物を、取り戻したのが彼女です」
冴えない傭兵くずれ、といった風体の男が自己紹介する。
どう頑張っても、犯罪組織の幹部代理とは思えない。
隣の落ち着いた雰囲気の女は補佐役だろうか。
「当商会の会主、ダマスス・バルビローリです。この度はようこそお越し下さいました、お客人がた」
会主は着席を促し、珍しい異国の茶菓子を勧める。
「ああ、こりゃどうも。会主直々のお目通りが叶うとは、話が早くて助かりますわ」
「商売は速度が重要ですからな。この度の御用向きは、取り戻した物とやらをお持ち頂いたわけですか」
ガイウスは広間の片隅で、会談の成り行きを静観していた。
気にならないと言えば嘘になる。
商会が行なった密輸の証拠を、犯罪組織に握られているのだ。
もし交渉が決裂して事が公になれば、憲兵が押し寄せて来て商会は取り潰しになりかねない。
「ええ。うちの組織は盗品に詳しいので、どうやらこちらの商会から盗まれた物らしいと突き止めましてね」
そうら、おいでなすった──と、ガイウスは鼻で笑う。
ここまでは筋書き通りだ。
バルビローリ商会が奪還のために私兵を放った事はあちらも知っている。
ならば秘密の書類に価値ありと見るのは当然の事。売却を持ちかけてくるのはわかりきっていた。
問題はここからだ。
重要なのは、連中が書類の意味を理解しているかどうか。
それによって、こちらが支払うべき金額が変わってくる。
「この数字が羅列された書類。見覚えがありますね」
「さあて。似たような書類は毎日扱っていますから、見覚えがあるような、無いような」
「ほう、そうですか。我々の勘違いなのでしたら、持ち帰って別な商会に当たってみましょうかね……」
「それは困る!」
慌てるダマススを見て、末弟は溜息をつく。
完全に手玉に取られているからだ。
「困りますか、そうですか。では金貨に換算すると、どのくらい困るのか教えてもらえますか」
「ぬ、ぬう……。金貨二百枚でどうですかな」
父にしては良い切り出し方だ、とガイウスは胸をなでおろす。
私兵五人に奪還を命じるのであれば、人件費から逆算してそれ以上の価値でなければおかしい。
高すぎる値付けは論外だが、安すぎて謝肉祭を軽んじているように思われるのは避けたい。
さて、この返答が試金石だ。
二百枚を拒否するのは当然である。そうでなければ交渉の意味が無い。
もし十倍程度を吹っかけてくるのであれば、相手は書類の真意を知らぬまま交渉に臨んでいる。
ただ定石通りに値段を釣り上げているだけなので、最終的に五倍前後を渡して悔しい顔の一つも見せてやれば相手は満足して帰るだろう。
だが書類を密輸の証拠と知っているなら、十倍では済まされない。
バルビローリ商会そのものが吹っ飛ぶ秘密は、そんな端金では釣り合わない。
さらに、知られているなら書類が戻ってめでたしめでたし──では終わらない。
弱みを握られ、事あるごとに金を強請り取られる禍根を残してしまうからだ。
「わかりました。二百枚でお売りしますよ。俺とクラリッサが駄賃を貰って、残りを経費に充ててもお釣りが来るってもんです」
「交渉成立ですな。金貨を用意させましょう」
馬鹿な──とガイウスは訝しむ。
父は喜んでいるが、それで済む筈がない。