罠は心の裏側に(後編)
襲撃の準備が整ったので、隊長のブノワは満足そうに頷く。
商会から盗まれた品の足取りを追っていたら、黒檀都市まで来てしまった。
早く任務を終わらせて、蒼玉都市に帰りたい。
盗品の奪還と、関係者の抹殺。商会が、五人の私兵に下した命令だ。
ブノワは、部下からの報告を思い出す。
「聞き込みによると、診療所一階に部屋は三つ。手前から待合室、診察室、治療室と呼ばれています。治療室手前の階段を上ると、二階に大部屋が一つ。現在、大部屋に入院患者はありません」
「屋内の人数は?」
「手負いの行商人、医師、修道女が二名。計四名が確認されています」
「易い仕事だ。いつも通りに殺れ。皆、抜かるんじゃねえぞ」
二人の部下と共に、隊長は戸口へ向かう。
残りの二人には、待合室と診察室の窓を押さえさせた。これで屋内に居る者は逃げ場がない。
合図と共に、部下が扉を蹴破る。
バラララッ!
扉を破った部下が、腹を穴だらけにして蹲った。
真正面に仕掛けられていた装置から、大量の釘や金属片が飛び出したのだ。
罠だ。
奇襲するつもりだったが、待ち受けられていた。
幸い死に至る傷ではないが、こいつは連れて行けない。
隊長はそう判断して負傷者を待機させ、無傷の部下と二人で待合室を進む。
屋内の灯りは全て消されており、真っ暗な中では自分たちの持つ角灯だけが頼りだ。
ぼんやりと影が揺れる待合室の片隅で、ブノワは目を凝らす。
罠が一つで終わりとは考えられないからだ。
用心深く観察すると──あった。
観察する必要が無いほど、糸が縦横に張り巡らせてある。
もはや隠す気など無いのか、小型の弩弓が二つ、こちらに向けて設置されていた。
糸に触れると矢が放たれる仕掛けだろう。
ブノワは思わず「阿呆め」と呟く。
いくら糸を張ったところで、罠の本体である弩弓が見えているなら無意味である。
矢が放たれる射線上にさえ立っていなければ、作動しても無害だ。
隊長は部下と共に壁際に身を寄せ、進む。
無駄に張られた糸は邪魔なだけなので、剣で払った。
バスッ!
予想通り、罠が作動して矢が放たれる。
唯一の誤算は、仕掛けられた弩弓の数が二本ではなく三本だった事だ。
僅かに開いた戸棚に隠されていた弩弓は、予定された位置を正確に射撃した。
部下が背中を射抜かれて倒れるのを間近で目撃し、ブノワは凍りつく。
見えすいた罠は、囮だった。
射線が丸見えの弩弓は、侵入者を壁際に誘導するための心理的な罠だったのだ。
二人の部下が倒れ、優秀な隊長の脳裏に「撤退」の文字がよぎる。
角灯を掲げて廊下の奥を見ると、診察室の入口が見えた。
明かりは届いていないが、廊下のさらに先には治療室とやらがあるのだろう。
「駄目だ。これ以上は進めねえ……」
待合室から診察室までの間には、またもや糸が張り巡らせてあった。
もう油断はしない。敵を侮るのは、分別ある者がすべき事では無い。
部下二名の負傷は高い授業料だった。
もう、この糸には触れない。先にも進まない。
ブノワは口笛を二度、短く吹いた。
「それでも、手立てが無いわけじゃねえさ」
* * *
隊長からの合図を受けて、外で待機していた二人の兵士が動き出す。
口笛二回は、窓を破って診察室に突入する合図だ。
木製の鎧戸を蹴り割って入ると、隊長の声が廊下から聞こえた。
「罠があって俺はここから先へ進めねえ。お前ら、行って任務を果たして来い。気をつけろよ」
隊長以外にも、小声で話している者が居る。
「ちょっと! 窓から入ってくるなんて聞いてないわヨゥ⁉︎」
「怪我人を二階へ運ぼう。傷が開くから、そっとね」
廊下に出て角灯を掲げると、担架を運ぶ二人組が階段を上って行くのが見えた。
「居たぞ! 追え!」
相手は担架を抱えているので、階段の途中で簡単に追いつく。
「嫌だ、追いつかれちゃうわヨ? まったく、こいつが重いせいだワ! いっそ捨てちゃう?」
「いいねえ、そうしようか。責任を取って、敵を足留めしてもらおう」
兵士たちは、どうせ軽口だと思った。
まさか本当に、上から担架を投げつけてくるとは思わなかったのだ。
「痛え! 糞ッ! あいつら、どうなってんだ。仲間じゃないのか?」
「まあいい。どうせ全員殺すんだから……」
そう言いかけて、兵士は悟る。
投げつけられた担架に乗っていたものが、人ではない事を。
「畜生! 油だ! 油を吸わせた毛布だ!」
それは寝具を丸めて作った偽物の怪我人だった。たっぷりと燃料が染み込ませてある危険物だ。
「引火するぞ! 角灯の火を消せ!」
投げつけられた時に全身に油を被った兵士たちは、火達磨になるのを恐れて灯りを消した。
危機一髪で焼死体になるのを避けられた彼らは、さらに恐ろしいものを見る。
二階から、松明を持った男がゆっくりと引き返してくるのだ。
剥き出しの炎は彼らが今、最も近寄りたくない代物である。
「燃やしちゃうわヨゥ? アタシの診療所で滅茶苦茶やるなんて、許せないんだからネ!」
「お前ら引け! いったん引いて立て直せ!」
待合室で立ち往生していたブノワが、その場から指示を飛ばす。
被った油に足を取られた部下たちが、転がるようにして階段を降りて来た。
彼らが一階まで戻って来たその時。
階段の終わりに張られていた糸に触れてしまい、罠が作動する。
罠師の新作だ。
それは水鉄砲のような形状をしていた。
筒の内部には仕切りがあり、生石灰、松脂、硫黄などが入っている。
装置が作動すると強力なバネの留め金が外れて押し出され、混ざり合った焼夷剤が噴出する仕組みだ。
その際に火口を通って着火するので、恐るべき高熱の火炎が放射状に飛散する。
「やった! 実地の動作検証が上手くいった!」
大喜びするクラリッサの声も、茫然自失といった有様のブノワには聞こえない。
彼に届いているのは、倒れたまま動かない部下たちが、焼け焦げていく音と臭いだけ。
高熱での焼死は、低温と違って苦しみが長引かない。
焼け死んだ兵士にとって、それがせめてもの救いとなった。
ブノワは「信じられない」という顔で唇を噛む。
自分が見ている前で隊が壊滅したのは耐え難い屈辱だ。
凶悪な罠の連続にも驚かされた。
しかし、彼の心を捉えて離さない一番の関心事はそれらではない。
最後の罠を、誰がどうやって仕掛けたのか──という謎だった。
逃げる敵を追って部下たちが階段を上った時、罠など無かった。
にも関わらず、降りて来た時には仕掛けられていた。
屋内には明かりがない。
誰かが明かりを持ち歩いて罠を仕掛ければ、ブノワの位置からも見える。
そうすれば、部下たちに警告を発する事もできた筈だ。
だが実際は、明かりなど見えなかった。
部下たちが階段を上がった後、明かりを使わず退路に罠を設置されたとしか考えられない。
ブノワにはそれが恐ろしい。
闇の中を自在に動き回る者が居る。
自分を取り巻く暗がりにも、そいつが亡霊のように潜んでいる気がして肌が粟立つ。
血が滲むほど噛み締めていた唇を開くと、隊長は自身に言い聞かせるように強く静かに呟いた。
「──撤退する」
* * *
「さすがです、クラリッサさん! 凄いですよ、火炎放射装置!」
「いやあ、トリシアがこっちの言う通りに動いてくれたお陰だよ。まさか一度通った場所に新しい罠が仕掛けられてるとは、敵さんも思わないだろうからね」
「心の裏側に仕掛けるってやつですね。勉強になりました」
兵士たちがクラリッサとドリアンを追って二階へ向かった時、トリシアとロレッタは治療室に潜んでいたのである。
屋内に明かりは無かったが、盲目でも杖なしで歩き回れるトリシアにとって明かりの有無などお構いなしだ。
指定された通りの場所に新作の罠を仕掛け、治療室に戻ったのだった。
「うぉいアンタたち、休んでないでこっち片付けるの手伝いなさいヨゥ! まだ少し燻ってるじゃないのサ!」
闇医者ドリアンに急かされ、二人の修道女は残り火を消したり、壊れた物を集めたりするのに大わらわとなった。
「廊下に張られまくってる糸、邪魔なんですけどォ! 解除しなさいよ罠師ィ!」
「その糸、外して捨てちゃってください。どこにも繋がってないやつだから」
ドリアンは「あら、そう」と、私兵隊長のブノワがどうしても通れなかった糸をブチブチと切りながら通過する。
闇医者は「この損害はどこに請求すればいいの? ロレッタ? 謝肉祭?」と憤懣やるかたない感じだったが、そこは古株のクラリッサが上手になだめた。
「まあまあ。どこに請求したら良いかは、きっとこいつが喋ってくれますよ」
罠師の足元には、襲撃者の生き残りが拘束されて転がっている。
隊長はとやらは逃げたらしい。おおかた、蒼玉都市まで報告に戻ったのだろう。
「きっと、迷惑料もたんまり乗っけてくれるだろうね。こっちには大事な書類もある事だし」
クラリッサは楽しんでいた。
何か大きな儲け話に繋がりそうな予感がする。
罠師の勘が、そう告げていた。
「うう……。なんか煙いっス」
治療室の寝台で魘されながら行商人は孤独に呟いたが、皆がその存在を思い出すのはもう少し後の事である。