魂に幸あれかし(前編)
王国から見て東に国境を接する大国こそ、伝説の時代から連綿と続いてきた神聖帝国である。
同盟関係はないものの一応は友好国と言ってよく、王国との関係はほどほどだ。
今のところ人も物も円滑に流れているが、帝国が政治的な外圧をかけてくる場面は過去に幾度となくあった。
そうは言っても北方連合国のように現時点で王国と剣を交えているわけではないし、南方平原民のように一切の国交を拒絶されてもいない。
帝国を怒らせず、手綱も握らせず。上手に付き合っていく事が、王国にとって最善の道なのである。
晴れ渡る秋空の下。
爽やかな空には似つかわしくない憮然とした表情で、新米騎士は天を仰ぐ。
王立騎士団の憲兵隊に所属するジョエルの姿は今、帝国領内にあった。
しかも正教会本庁の直轄地、琥珀都市にである。
訪れた者は皆、荘厳な教会建築に息を飲むと言う一大観光地でもある。
確かにジョエルは、一度は国外を旅して見聞を広めたいと思っていた。
国外に出るなら、芸術と学問が盛んな琥珀都市に決まりだろうと思っていた。
ついでに言えば、良き伴侶を娶った折にでも、正教会本庁まで共に巡礼できれば浪漫溢れる最高の思い出になるだろうとも思っていた。
そんな憧れの琥珀都市に、わけのわからない貴族と男同士の二人連れで訪れている。
目的は、連続猟奇殺人犯「血まみれ判官」の情報を得るためだ。
浪漫の欠片もない。
事の発端は、半月ほど前に遡る。
奇人変人で知られる伯爵が「旅に同行せよ」と言い出したのだ。
まして行先が帝国だと聞いたときは、さすがのジョエルも狼狽えた。
「初仕事で王国から出るとは思いませんでした、閣下」
「ハミルトンと呼びたまえ、ジョエル君。旅行だと思って気楽に楽しんでくれて構わないよ」
そう言うだけあって、旅費も国境越えの手続きも、すべて伯爵が用立ててくれた。
唯一の不安は貴人の身辺警護であり、ジョエルは自分が身につけた軽装鎧と剣一本でどれだけの働きができるか心配で胃が痛くなる。
憲兵の心配などどこ吹く風の伯爵は「いざとなれば君が守ってくれるんだろう? 騎士だものな」の一言で済ましてしまった。
ハミルトン卿は以前から一人旅も厭わない性分だったらしく、自身が王国の要人だという自覚がない。
不味い干し肉も木賃宿も、慣れたものだ。
少しは貴族らしくしてほしいと、ジョエルは思う。
「それにしても、なぜ他国の事件など調べるのですか。我々は王国の民です。王国の事件を優先して調べ、王国の犯罪捜査に役立てるべきではないのでしょうか」
行動学の基礎は、情報の蓄積である。蓄積された情報の中から似た境遇、似た状況、似た心理の事件を参照できれば、犯人像や捜査方針が絞り込めるはず──というのが伯爵の理論だ。
帝国の事件など二の次だと力説する助手の言葉に、伯爵は不思議そうに首を傾げた。
「君は何か勘違いしてないか? 僕が行動学の一環として犯罪を研究しているのは、捜査の役に立てるためではないよ。純然たる趣味、知識欲、好奇心さ」
ジョエルの口から思わず「は?」という声が漏れてしまう。
「わかってないなあ。行動学に限らず、あらゆる学問の動機は知識欲だよ? どの研究が役に立つとか、どの知識が儲かるとか、実際に調べてみるまでわからないんだから」
いったん言葉を切って眼鏡をくいっと押し上げてから、ハミルトン卿は続ける。
「今この世の中で役に立つとされている知識は、役に立つかどうかもわからず知識欲で研究された膨大な成果の、ほんの一握りなのさ」
街の平和を守り、犯罪者を捕縛するのが主目的の憲兵隊である。
そこに身を置く者として、そうハッキリ「犯罪捜査の役に立てるためではない」と言われてしまうと、ジョエルには立つ瀬がない。
助手が脱力したのがわかったのか、取り繕うような事を付け加えた。
「僕が研究する目的は役立てるためではないけれど、君が勝手に役立てるぶんには何の問題もないんだよ」
伯爵に言わせると「研究すること」と「研究結果を有効利用すること」は、全く別な才能なのだそうだ。
学術論文の中には、発表されてから数十年後に価値を見出される物もあるという。
「だから行動学を犯罪捜査に活かすも活かさないも、君しだいってわけさ」
上手く丸め込まれたような気がしないでもないが、ジョエルはそれを信じるしかなかった。
そんなやり取りがあってから半月間。
二人は血まみれ判官の噂を追って帝国各地を転々と旅した。
噂の大半は真偽のほどが怪しいものばかりで、信じるに足るものではない。
しかし旅を続けるうち、最新の情報が飛び込んできた。
ほんの数日前、琥珀都市に血みどろ判官が現れたのだという。
琥珀都市と言えば、法王のおわす正教会本庁のお膝元。教会法を採用する帝国司法の中心地だ。
それゆえ、帝国各地で捜査された犯罪の情報が集まってくる。
いずれどの道、向かうつもりだった場所なのだ。
「一石二鳥じゃないか。良かったな、ジョエル君!」
「間違っても被害者の前でそんな嬉しそうな顔をしないでくださいね、ハミルトン卿」
そう、被害者。
今回の犯行は、被害者が生存している初めての事件だった。
これまで血みどろ判官は、侵入した家の者を残らず殺して遺体を切断している。
被害者と話ができれば、犯人について有力な目撃証言が得られるかもしれない。
まずは渡りをつけるため、帝国憲兵隊の隊舎に向かう。
「また貴方ですか、ハミルトン伯。貴方が犯罪を調査する許諾は、ここ神聖帝国の地においては無効だと以前も申し上げた筈ですけどね!」
帝国憲兵隊のお偉いさんは、露骨に嫌な顔をした。
待遇を見る限り、伯爵は過去にもここを訪れているらしい。
「貴方のお母上がオルブライト家から嫁いだ所縁があるからこその、あくまで特別な措置ですよ!」
ジョエルはここに来るまで知らなかったが、伯爵の母親は帝国の名門貴族の出身なのだそうだ。
帝国憲兵隊の上位組織である聖騎士団にはオルブライト家の者が何人も名を連ねているため、こうして無理を通せるのだと言う。
お偉いさんは、血まみれ判官事件に限って捜査記録の閲覧許可を発行してくれた。
「どうせ犯行現場を見せろとか、被害者に会わせろとか、またぞろ我儘を言うんでしょう? わかってますよ。おおい、モーリス! こちらのお客様を案内して差し上げろ! 失礼の無いようにな。こんなのでも伯爵様だ!」
こんなの呼ばわりされるほど、伯爵は過去に何をやらかしたのか。ジョエルは「知りたくもない」と独り言ちた。
「ご案内します。どうぞこちらに」
モーリスという帝国憲兵に連れられ、二人は馬車に乗り込む。
「以前お越しの時はお一人でしたが、今回は護衛を連れておられるのですね」
「これは僕の助手のジョエル君だ。王国の憲兵でもある」
逆だ。憲兵が本業で、片手間に助手をやらされているんだ。そう思ったが、ジョエルは口に出さない。
「ほう、ご同業でしたか。どうぞ宜しく。憲兵同士、国は違えど協力し合えると良いですな」
まったくです、と握手を交わす。
「今、我々が向かっている場所は犯行現場です。到着までに、血みどろ判官の事件を掻い摘んでご説明しましょう」
モーリスによると、血みどろ判官と思しき犯罪者が過去に起こした事件は五件で、今回が六件目になるという。
最初の事件が約二年前。以降、犯行時期に規則性はなく、地域も一貫していない。
いずれも個人の屋敷に侵入するという手口で、その場に居た物は全員殺害されている。
殺害方法は、鋭い短刀による刺殺。
いずれも被害者が犯人と争った形跡は無いので、不意打ちで急所をひと突きにして即死させている模様。
特筆すべき点は二つあり、ひとつ目は殺害後に必ず遺体を損壊させている事。
胴体から四肢と頭を切り離し、放置している。この時、切断には鋸を用いる。
二つ目は、殺害現場に被害者の血液で「無罪」と書き残す事。
この特徴があたかも判決を言い渡す裁判官のようであるから、巷で「血まみれ判官」と呼ばれるようになった。
やがて馬車は犯行現場に差し掛かる。
損傷が酷いため遺体はすぐに埋葬したが、検分官の詳細な記録は残っているし、検分にはモーリスも立ち会っている。
伯爵にとっては満足いく環境だろう。
屋敷を一通り見て回ってから、伯爵は思いもよらない事を言い出した。
「行動学的な見地から僕の見解を言うと、犯人はかなり優しい人物だと思われるね」