プロローグ
この作品は展開が進むにつれて残酷な描写・倫理的な問題を含む描写が出てきます。
読み始める前に、あらかじめご了承ください。
研究所内を、けたたましいサイレンが鳴り響く。
天上に付けられた電灯が、赤く点滅している。
地下に設置されたこの研究所を、男は必死に走っていた。
「はあっ……はあっ……!」
男が着ているのは、白いシャツだった。病院で手術を受ける際に着る服のようなものだろうか。
対して、研究員たちは綺麗なスーツに綺麗な白衣だ。これだけで、男と研究員たちの間にある格差がかいま見える。
『緊急指令緊急指令。脱走した被験者48を確保せよ。繰り返す。被験者48を確保せよ』
「ちっ!」
目の前からまた研究員が迫ってくる。男は素早く横道にそれる。
「おい!まずいぞ、この先はエレベーターが……!」
「管理室に連絡!至急シャッターを降ろせ!」
研究員の慌てた声が耳をかすめる。どうやら出口が近いらしい。男はニヤリと、走りながら笑う。
やはり、エレベーターが近いのか、自分を追う数はどんどん増えていく。だが、男はそれでも足を止めはしなかった。
『シャッター降下中。シャッター降下中』
「!」
角を曲がり、ようやくエレベーターが見えた。しかし、既にシャッターが緩やかに下り始めており、もうすぐ男の頭くらいの高さになる。
「そこまでだ!観念しろ!」
「誰が!」
男は手に持っているものを胸に抱きよせる。残り15㎝……
「間に合ってくれよ!」
そして、男はシャッターのわずかな隙間に向かってスライディングを繰り出した。研究員が一瞬怯む。
閉まる直前に男は手を床に水平にした。手がシャッターの真下を潜り抜けたとほぼ同時に、シャッターが完全に閉じられた。
息を弾ませながらも、男は急いで立ち上がる。後ろを振り向くも、ほかに研究員はいないようだ。男は逃走中ずっと握っていた数枚の書類と小さな拳銃を確認する。これらは、逃亡する時に近くの研究員を殴り倒して得たものだ。どうやら、シャッターを潜るときに落としたりはしなかったようだ。ひとまず安堵する。
男はそのままエレベーターに飛び乗る。しばらく使われてなかったのか、エレベーターの中はところどころ薄汚れていて、監視カメラすらなかった。
エレベーターの外は白い小屋だった。そこにエレベーターがあること自体不自然なくらい質素な作りだった。明らかに、人が住んでいた形跡はない。一組の机といすは隅に追いやられており、カーペットは歩くたびに埃を舞い上がらせた。
外は夜のようだ。月さえ出ていない。静かな空気が逆に男の警戒心を煽る。男は書類を丁寧に折りたたんでズボンのポケットにしまう。唯一の武器である拳銃に手を添える。
小屋の外に出て、男は初めて月が出ていない理由に気づく。空を巨大な屋根が覆っていたからだ。通称『デッキ』と呼ばれる、空中都市に。あの全世界の住民4500万人が移住した、もはや小さな「地球」と呼んでもいいくらいの屋根のおかげで、本当の地上には陽の光が射し込むことは無くなった。今では、人間が見放した地上はじめじめした広大なジャングルに変貌してしまっている。
「まだ存在してたんだな、デッキは」
男は呟くと、ゆっくりと歩き出す。裸足で真っ暗なジャングルを歩くのは出来れば勘弁したいが、あまりあの小屋の中に留まるわけにいかなかった。
ベチャッと、ぬかるんだ土を踏むたびに湿った音がする。周囲には全くと言っていいほど気配がない。男は身を隠せる場所を探していた。逃げる際に咄嗟に奪ったとはいえ、この書類を詳しく調べる必要がある。
前進してずい分経った。暗すぎてどれだけ進んだのかもよく分からない。だが、依然として辺りに何らかの気配を感じることはない。
ふと、男は空を、空を覆うデッキを見上げた。研究所に閉じ込められていたせいで記憶が曖昧だが、そういえば、何故人間は地上を捨てたのだろう?
その時、地響きが聞こえた。すぐに拳銃を構え、周囲を警戒する。しかし、地響きはまさしく、自分の真下から聞こえてきていた。どんどん大きくなる。
男は迷うことなく横へ飛ぶ。一拍おいて、地中から、巨大な赤黒い頭部が現れる。避けきれずに、男は吹き飛ばされる。
「ぐあっ!」
木に激突し、思わずうめく。銃と書類が無事なことを確認すると、すぐに眼前の…全長5mはあろう巨大ミミズを見やる。。
見た目が巨大であることを除けば、残りは普通のミミズと変わらない。相変わらず、どちらが頭でどちらがしっぽか分からない体、勢いよく全身を土から引っ張り出し、頭部が鎌首をもたげている。退化した極小の目が男をにらんだ。明らかに、男を獲物と認識したようだ。
冷汗が流れ落ちる。ようやく思い出した、人間が地上を捨てた理由を。
巨大生物……『蟲』
人間のでは倒すことのできない、突然変異種である。
ライフルやマシンガン、さらにはミサイルですら、人間の今の技術では駆除できない。
瞬く間に成すすべを失った人間は、人口空中都市『デッキ』を造り、空に逃げたのだった。
いつか来るとは思っていたものの、こんな真夜中に遭遇するとは、本当に運が悪い。
男は既に、命の危機を感じていた。
巨大なミミズがゆっくりと接近してくる。ぬかるんだ土を赤黒い体が音を立てて這う。
こんな拳銃どころか兵器すら通じない生物相手に、残された手段はひとつだった。
「ちくしょう!」
男はミミズに背を向けると、全速力で走り出した。それに合わせて、ミミズの速度も速くなった気がする。
もう、こうなってしまっては今が夜だろうが裸足でジャングルを奔走していようが関係ない。一刻も早くあの巨大ミミズから逃げ切る必要があった。
「はあっ……はあっ……!」
地上にはみ出た木の根に何度もつまずきそうになる。対するミミズは木の根を巨大な体で木の根を踏みつぶしながら進んでくる。木の根にたじろぐ時間など、微塵もなかった。
「くっ!」
苦し紛れに拳銃を発砲する。ミミズの体に傷をつけることはできたが、ほとんどかすり傷に近いものだった。気休めにもならない。
「ちくしょ……!?」
悪態をつく間もなく、男ははみ出た根につまずき、勢いよく転んでしまった。全速力で走っていたのもあり、すぐには止まらずに何mも転がる。ようやく止まるころには、男はもう体を動かすだけの体力も残っていなかった。
地面がぬかるんでいたおかげでそこまで痛みはないが、足が棒のようだった。息も切れ切れで、整えることができない。動きが止まった男を、巨大ミミズが見下ろしていた。ゆっくりと頭が近づいてくる。
次の瞬間、男は目を見開いた。ミミズの頭が真っ二つに割れ、車すら呑み込みそうなほどの大きな口が現れたのだ。本来は歯などないはずのミミズに、ライオン顔負けの鋭い歯がびっしり並んでいる。
ミミズの口は先ほどのシャッターと同じくらいゆっくりと近づいてくる。獲物がもう逃げないと分かった上での余裕だろうか。だが、男もみすみす食われるのを待ったりはしない。
「うわああああああっ!!」
叫びながら、拳銃を乱射する男。銃弾はミミズの口の中にあたり、深緑色の体液が男に降りかかる。しかし、ミミズは全く怯まない。もうすぐ、歯が男の前髪をかすめる――――
「ふざけるな……!」
男は、同じように体液まみれの拳銃を構える。その銃口は、ミミズの口の中を見ていた。
「消えろ、このデカブツ!!」
男は絶叫と共に最後の銃弾の引き金を引いた。




