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月のみた夢

作者: 一瀬詞貴

 太陽が中天に差し掛かる頃になってやっと、若き実業家・フェルナン・エンデ子爵は、のそりとベッドから這い出た。

 久々の清々しい朝だった。

 高熱が下がったばかりの身体は、まだ気だるさを訴えていたが、もう通常生活を送れるまでには回復していた。

 フェルナンは、少しウェーブがかった黒髪をかき上げ、部屋を見渡した。溜まった仕事の書類と共に、見舞いの品々が山と積まれている。彼は寝間着の下に手を突っ込み、だらしなく腹をかきながら、一つ一つ送り主の名前を確認した。段々と、彫りの深い美しい顔が曇っていく……大げさな溜息が零れる。

「…………夫人の名前は、なし、か」

 彼は、部屋の空気を入れ換えるため窓に歩み寄った。押し開けると、初夏を告げる清風が吹き込む……と、窓枠に横たえられたブルースターの切花に気付き、その小さな心遣いに彼は少しだけ表情を和らげた。花を手に取り、鼻を寄せる。やがて、彼は身支度をすると、部屋にやってきた執事に、外出用の馬車を用意するよう、声を張り上げた。


 颯爽と部屋を出ていった主を、部屋の片隅で鉢植の花が見送っていた。丸く盛られたように咲き誇る、その星形の青い花弁は、一部が無残にむしり取られている…………


* * *


「――どう思う? 俺はちゃんと寝込んでいるって伝えたんだ」

 鮮やかな緑の葉をつけた木々に囲まれた、町外れの教会には、白い墓碑に混じって、色とりどりの花々が咲き誇っていた。空は、雲一つない晴天。穏やかな静寂に野鳥の囀りや、梢の囁きがこだまする。

 フェルナンは、墓地の中でも町側に設けられた、ところどころ苔むした大理石のベンチに座っていた。隣には背の小さな修道女が並ぶ。――名はエマ。フェルナンの元恋人であり、ブルースターの送り主だ。彼女は墓地の手入れでもしていたのだろう、足元の地面には掃除用具が放られていた。

「……で?」

 彼女は小首を傾げて、フェルナンに続きを促した。俯くフェルナンは、エマが、呆れ、大きな瞳を細めているのに気付いていない。

「だから、俺は、その……どうして彼女が見舞ってくれなかったのか、知りたくて」

「じゃ、こんな所にいないで、本人に聞けば」

「それで『面倒だったから』とか言われたら俺は立ち直れないぞ!?」

「知らないわよ」

 立ち上がり、大げさに顔を歪めて訴えるフェルナンに、エマは素っ気なく応える。

「知らない!? って、冷たいな、お前! 俺のこと、世界で一番愛してるんだろう? だったら、もう少し優しくしてくれたって」

「愛してるからって、あなたに優しくする義務があって? 私は、私なりに愛してるの」

「そりゃ、そーなんだけどさ…………」

 強い眼差しに、フェルナンはたじたじと地に目線を落とし、弱々しく口を開いた。

「エマ、頼むよ。俺、どうしたら良いのか分かんないんだ。何て言うか、こう、胸の辺りにポッカリ穴が空いてるみたいな、苦しくて。どうにかなっちゃいそう」

 エマが足と腕を組む。やがて、本日何度目かの、深い深い溜息を吐くと、目を閉じた。

「……で? あなたはどうしたいの」

「ただ、彼女に愛されてるって実感したい」

 フェルナンは自分の土に汚れた両手を見下ろす。次いで無意味に、黒い砂粒の入った爪の間をいじり始めた。エマのこめかみに青筋が浮かんだ。

「じゃあ、そう頼みなさいよ」

「頼めるかよ!?」

「うるっさいわね。あなた、さっきから『してして』しか言ってないじゃない。自分から動いたらどうなの」

「だ、だけど……だけど、怖いんだよ!」

 悲痛に叫ぶと、フェルナンはうろうろと落ち着きなく、左右に行ったり来たりし始める。

「我儘言って嫌われたら……どうしようって」

「そしたらそれまででしょ」

「そんなことになったら、俺は死ぬ!」

 仁王立ちして訴えるフェルナンに、エマはぴしゃりと言い放った。

「なら死ねば」

「酷い!!」

 エマは、鬱陶しそうに首を回して、肩周りの筋肉を解すと、元恋人に指先を突きつけた。

「あなたも、もう、子供じゃないんだから。自分で思う通りに動きなさいよ。自分でケツさえ拭えば、誰もあなたを制限したり、批難したりはしないわ。……笑われるだろうけど」

「笑われるって……」

 仕事の仲間や、友人らに取り囲まれ嘲笑される自分の姿を想像し、フェルナンの顔から血の気が引く。

「じゃ」と、エマは、飽きたと言うように、考え込む彼を無視して、くるりと背を向けた。

「お、おい! エマ!! エマ!?」

 慌ててフェルナンはエマを探したが、すでに彼女の姿はない。余りにも素早い身のこなしに、彼は呆然と立ち尽くした。

「……薄情者ぉ」

 情けなくぼやくと、フェルナンは足元の掃除道具を手に、立ち上がった。がくり、と肩を落とす彼を、萌葱色の草花が笑う……


* * *


 書斎の机に頬杖をついて、フェルナンは小包の中身を覗き込んでいた。中には、細工の凝らされた、首飾りが収っている。

「……素晴らしい出来でございますね」

「あー……うん」

 背後から声をかけてきた壮年の執事に、おざなりな声で応える。

「お届けに参らないので?」

 カリブ海を思わせる真っ青なサファイアをぼんやり見つめる主人に、執事が問う。

 フェルナンは胡乱げに、首元で手のひらを振った。

「今日、旦那が慰問先から帰ってくるらしいし。泊まれないじゃん。イチャイチャできないじゃん。それで、これ、渡しにだけ行ったら、俺、貢いでるだけの都合の良い男じゃん」

 ぽん、と沈黙が落ちる。フェルナンは、はたとして、背後を振り返った。

「…………何で黙るんだよ、オイ」

「お寂しいのは分かりますが、少しは落ち着いたらいかがです?」

 執事の指摘に、「ぐう」と唸ったフェルナンは、首飾りの入った小包を脇へ押し寄せると、机に突っ伏せた。それから、思いだしたように、付け加えた。

「そうだ。部屋の百合、片付けてくれないか。どうにも、最近、あの香りが苦手で」

「かしこまりました」

 軽く頭を下げて、執事は花瓶へと歩み寄った。と、彼は立ち止まり、耳を澄ませた。

「おや。お客人のようですね」

 ――やってきたのは、フェルナンの道ならぬ恋の相手・アンナ夫人の女中だった。

「え……伯爵の帰りが、明日になった?」

 客間で女中に対面したフェルナンは、彼女の言葉をオウム返しに口にした。女中が頷く。

「はい。ですから、今夜は旦那様はいらっしゃいません。奥様は、子爵さえお暇でしたら、いらっしゃらないか、と」

「だ、だけど……今夜は、ほら、仕事があるって伝えてあったはずで」

「はい。ですから、子爵さえお暇でしたら、と申し上げました」

 顎に手をやり、フェルナンは低く唸った。その様子を冷めた瞳で見つめると、女中はケープで顔を隠し、さっさと席を立った。

「それでは、わたくしは失礼いたします」

「……………………ちょ、ちょっと待て」

「はい?」

 その背に、フェルナンは声をかけた。後ろに控えていた執事の眉がつり上がる。

「準備する。表に馬車を回しておけ」

 席を立った主に、執事は冷静に告げた。

「フェルナン様、今日は大事な取引の――」

「先方には、母上が馬車に撥ねられて危篤だと伝えろ」

「すでに大奥様は七回亡くなってます。ちなみに大旦那様は二九回、お亡くなりです」

 ピクリとも表情を変えずに、首を振る執事に、フェルナンは言葉を詰まらせた。脳裏に、手を振るピンピンした両親が過ぎる。

「あーもーうるさいな!」

 やがて、彼は髪を掻きむしると、両の手を広げて叫んだ。

「仕事より彼女と過ごす時間の方が大切だ!!」

 足音高く、フェルナンは部屋を出ていった。きょとんとする客人の隣で、執事は眉間に手をやると、深々と溜息を吐いた。


* * *


 馬車を飛ばして小一時間ほど。錆び色に薄闇の滲む頃、フェルナンはブラウン伯爵の館に到着した。女中の案内に従い、ピカピカに磨きこまれた階段を進む。と、二階から華やかな声が飛んだ。

「まあ、フェルナン! 来てくれたのね! 会いたかったわ!」

「……夫人! 今日も一段とお美しい……ッ」

 レースの散りばめられた、薄桃色のドレスを翻し、駆け下りてきたのは、ブラウン伯爵の奥方・アンナ夫人だった。年の頃は、十代後半にも、フェルナンよりもずっと年上のようにも見える。彼女は、少女のような軽やかな身のこなしで、フェルナンの首筋に抱きついた。熱い抱擁を交わす二人に、迎えに出ていた女中たちが、何も見ていないとばかりに、持ち場に散っていく……

「あら、随分、頬がこけているわ。酷かったのね。ごめんなさいね、見舞いにも行かず」

 頬を両手で包み込み、夫人が眉をハの字にする。フェルナンは擽ったそうに微笑んだ。

「いえ……夫人こそ、色々お忙しかったと窺いました。お疲れでしょう」

「貴方に会えば、疲れなんて忘れてしまうわ」

 腕に腕を絡めて、夫人はフェルナンを誘った。

「そうだ、フェルナン。これをどうぞ」

 夫人の自室につくと、彼女は真っ直ぐ化粧台へ向かった。引き出しから、茶封筒を取り出す。

「これは……」と、フェルナンは差し出された袋の中身を手にすると、目を瞠った。それは彼が数年来探し続けても手に入らなかった、絶版した一冊の本だった。

「知人に頼み込んで、譲って貰ったの。貴方、欲しいと言っていたじゃない?」

「はい。……覚えていてくれたんですか」

「貴方のこと、忘れたことはなくってよ」

 夫人が笑う。感極まって、古ぼけた本を見下ろしていたフェルナンは、はた、と、慌てて上着のポケットから小包を取り出した。

「そ、そうだ。夫人」

「なあに?」

「以前、お伝えしていた、宝石職人の友人に作らせたものです」

 茶封筒をテーブルに置き、蓋を開ける。示されたものに、夫人は口元で両手を合わせると、小さな悲鳴を零した。

「凄い。素敵だわ。これは? サファイア?」

「はい。夫人の瞳の色に合わせました」

「ロマンチストね」

 クスクスと、小鳥の囀るような笑いが零れる。恥ずかしそうに、顔を逸らしたフェルナンは、そっと彼女の背後に回った。その細肩に手を置き、鏡の前へエスコートする。不思議そうにする夫人の、ブロンドの髪を持ち上げて、彼は頸飾りをかけてやった。夫人は鏡を覗き込んで、嬉しげに目を瞬かせた。

「嬉しい。大切にするわ。ありがとう」

「………………夫人」

 その麗しい微笑みに、フェルナンは夫人を背後から抱きしめた。

「どうしたの、フェルナン?」

 くすぐったそうにする彼女の首筋に、唇を落とす。

「愛しています」

「ありがとう」

 熱い吐息と共に告げられた愛の告白に、夫人はニコリと口の端を上げた。肩すかしをくらったような、物足りない気持ちに、フェルナンは鏡越しに、夫人を見た。

「貴女は、俺を……」

「フェルナン」と、夫人は、彼の言葉を断ち切るように振り返った。

「愛や恋はね、下心をカモフラージュする方便なのよ」

「ちっ、違います! 俺は、本当に……ッ」

 カッとして声を荒げたフェルナンに、夫人は目を丸くした。それから困ったような顔をすると、ぐい、とフェルナンを引き寄せ、彼の唇に触れるだけのキスをした。

「もう。可愛い――可哀想な、フェルナン」

 青い瞳に見つめられて、フェルナンは急き立てられるように、夫人をきつく抱きしめた。細く締め付けられた腰に、手を這わせる。熱っぽい瞳が絡み合う。――――と。

「――――はい? どうぞ」

 扉をノックする音に、夫人はさっとフェルナンから身体を離すと、廊下で待機する召使いに声をかけた。

「奥様。仕立屋が到着しました」

「そう。今、行くわ。――ごめんなさい、フェルナン。今夜は、夜通し用事があるの」

 夫人は肩を竦めて、フェルナンに向き直った。フェルナンは、頬を引き痙らせた。

「え……し、仕立屋など、明日でも」

「パリで人気の仕立屋よ。やっと、今日、捕まえたの。これを逃したら、再来月のサロンに間に合わないわ。分かってちょうだい」

 無言で不服だと訴える恋人に、夫人は厳しげに眉根を寄せ、嘆息した。フェルナンは、慌てて――けれど渋々ながら――頷いた。

「……………………わ、分かりました」

「良い子ね。じゃ、また」

 スルリ、と夫人は恋人の頬を撫で、扉に向かった。退室する前、一度、フェルナンを振り返り、首元で輝く頸飾りを指先で摘み上げると、微笑んだ。

「これ、大切にするわ。本当にありがとう」

 ぽつん、とフェルナンは主を無くした部屋に取り残された。

 テーブルの上の、茶封筒に指を這わせる。ざらり、とした感触と共に、胸に苦いものが広がっていく……

「馬車の用意が調いました」

 いつの間に来たのか、女中が立っていた。フェルナンは、封筒を手に、ぼんやり彼女を振り返った。

 ――自分から動いたらどうなの。

 そのとき、不意に、去来したエマの声に、彼の身体はビクリ、と震えた。

「…………フェルナン様?」

 女中が訝しげにする。

 フェルナンはグッと拳を握り締めた。やがて無言で彼女の横をすり抜けると、駆け足で夫人の後を追った。女中が飛び上がった。

「フェルナン様! 奥様はこれから――」

「夫人! いや、アンナさん!! 俺は――ッ」

 薄桃色のドレスが消えた部屋へ向かう。フェルナンは部屋のドアノブに手をかけて――

「おかえりなさい、あなた」

 中から聞こえた声に、硬直した。

「ああ、ただいま。アンナ」

 穏やかなテノールの声。……紛れもない。彼女の夫の声だった。フェルナンの全身からさあっと熱が引いていく。冷静になって扉を見遣れば、そこは夫の書斎のようだった。

「……おや? 素敵な頸飾りをしているね。どちらからのプレゼントかな」

「とっても仲の良いオトモダチからですわ」

「罪作りな女性だね、君は」

「妬いていらっしゃる? ふふ、安心してくださいな。わたくしが愛しているのは貴方」

「知っているよ」

 くすくすと、睦み合う談笑が、フェルナンの耳を擽る。……彼はそっとドアノブから手を離した。目線を流せば、慌てて追ってきたせいで息を切らせた女中の、憐れみのこもった瞳とぶつかった。女中が慌てて目を逸らす。フェルナンは、奥歯を噛みしめて――わざとらしく、肩をすくめてみせた。

「…………帰るよ。失礼したね」

 戯けた調子で言ったつもりが、明らかに、声音は沈んでいた。……フェルナンは作り笑いに失敗した自分に、激しい殺意を感じた。


* * *


 月の光に導かれるように、フェルナンの足は、よたよたと町外れの墓地に向かった。安酒を浴びるように飲んだ彼は、一見して爵位持ちには見えなかった。絹の服もあちこちしわくちゃだった。

「………………フェルナン?」

 呼んだわけでもないのに、フェルナンが教会の門近くに至ると、エマが顔を出した。フェルナンが突き出したランタンの明かりに、エマの訝しげな表情が浮き上がる。彼女は、酔っ払ったフェルナンを認めると、呆れ顔になった。それだけで、彼女が彼の身に何があったのか悟ったのだと分かった。

「こんな夜更けに来るなんて。あなたって人は。……神父様も、もうお休みになってるわ」

「俺は、バカだ」

 呂律の回らない口調で、フェルナンが告げる。エマは嘆息した。

「何を今更。みんなが知ってますとも」

「情けない。本当に、俺は情けない。バカで阿呆で、まぬけで。俺は、本当に……惨めだ」

 言って、フェルナンは門に身体を寄り掛からせると、込み上げてきた吐き気に、大きく身体を震わせた。

「ちょっと。吐いたら、自分で掃除して頂きますからね」

「…………はい」と、エマの鋭い声に、彼は身体を丸めるようにして地面に座り込んだ。

 何だかんだと優しいエマは、水を持って来てくれた。ぐい、と傾け一気に飲み干す。けれど、心の渇きは身体にまで感染したかのように、全く咽は潤わなかった。吐き気も全く遠ざかる気配がない。フェルナンは壁に背を預けて、一息ついた。彼の手は、ガラスコップを撫でた。ざらり、と砂が剥がれる。

 天では数多もの星が瞬いていた。月の白い、明るい夜だった。

 静寂に耳を傾けていれば、エマが言った。

「少し、外を歩きましょうか」

「外? ……ハッ。散々な日だな。締めが墓地でデートとは」

「帰る?」

「すいません」

 フェルナンは、素直にあやまって立ち上がった。すでに歩き始めていたエマの背に従う。

「月が綺麗な夜に散歩するって、とっても気持ちが良いものよ」

 エマは誰にともなく言った。墓地の至るところで、真っ白な百合が夜風に揺れる……

「立ち止まって、目を閉じれば、世界を側に感じる。世界は優しい。優しくて、孤独だわ」

 背後のフェルナンを一瞥し、彼女は言った。

「世界に寄り添う。孤独に寄り添う。……孤独に交われば、寂しさは薄れる」

「薄れたって、一時凌ぎさ」

 彼女の隣に並び、フェルナンは吐き捨てた。夜風の心地よさに目を細め、言葉を続ける。

「寂しさは通り魔だ。しかも、応戦したって、勝てたためしがない」

 言って、フェルナンは低く自嘲した。

「本当に。本当に憎い。憎いよ――寂しさが」

 エマが立ち止まる。フェルナンは何者かに八つ当たるかのように、荒々しく口を開いた。

「すぐ惚れて、突っ走って、阿呆して、落ち込んで、また、すぐ惚れて……全然、学ばない。いつも、次こそはもっとまともな恋を、って思うのに……自己嫌悪に吐き気がする。本当、バカだ。俺」

「そうね」

 エマが頷く。フェルナンはそのあけすけな反応に、不平を口にしようとして、諦めた。

 投げ出すように地面に尻をつき、両手で上半身を支えて天を仰ぐ。彼は『貴族らしさ』を脱ぎ捨て唇を下品に歪めると、舌打ちした。

「クソッ!……あー、しっかりしてーよ。靴磨きから死ぬほど苦労して、子爵の位まで買って……万々歳の人生だ。なのに、何だって、いつも恋がうまくいかない? ダメになる度、こうやって落ち込んで、仕事も進まない。何も手が付かなくなる。それでたっくさん失ってきたってのに……自分が嫌になる!」

「それがあなたでしょ」

 その隣に、エマが膝を抱えて座る。じろりと睨め付けてくるフェルナンに、彼女はニコニコ笑って、言った。

「私、あなたのそういうところ、好きよ」

「……厭味かよ」

「厭味なものですか。友情も、愛情も与えるものでしょ? だから、無様だろうが、何だろうが、好きだーって突っ走るあなたの姿を、私は、好ましく感じてるの」

 思わぬ言葉にポカンとするフェルナンの横で、彼女も天を仰いだ。噛んで含めるように、言葉を続ける。

「いいのよ。恰好悪くたって。思うままに生きてるんなら、何も恥じることはないのよ」

 それから、フェルナンへと目を向けると、言った。

「むしろ胸を張って、愚かになったら良いわ」

「………………励まされてる気がしない」

 何とかそれだけ言って、フェルナンは顔を逸らした。目頭に走った熱に、慌てて、手の甲を目元に押しつける。歯を食いしばる。

「みっともねーな、俺」

 涙の温かさが、胸を締め付ける……

 優しい夜が二人を包む。

 暫く、子供のように鼻を鳴らしていたフェルナンは、遠くを見るようにして口を開いた。

「……なあ、エマ。俺たち、どうして別れたんだっけ」

「やむにやまない事情でしょ」

 鼻声の問いに、エマが淡泊に応える。

「……お前は俺のこと好きだろ?」

「ええ。愛してるわ」

「で、俺もお前のこと好きなわけだろ? どうして別れたんだ? やむにやまない、って何だっけ?」

「はいはい。スキスキ」

「茶化すなよ。俺は、本気で――――」

「夫人はどうしたのよ? なんちゃらさんとか、なんちゃらさんとかは?」

 半眼で覗き込んでくるエマに、フェルナンはあたふたした。

「たっ、確かに、色々といたよ。好きだって思って――そ、その、恋人関係になった人はいる。いるけど……いつだって、俺の胸ン中には、エマ。お前がいるんだよ。お前が俺の一番なんだよ」

「ブスでデブでも?」

「掘り返すなよ。あれは喧嘩の時に思わず言っちゃったってだけで、本心じゃない。お前は誰よりも可愛いよ」

 思わず滑らした言葉に、ぼっと顔を赤らめたフェルナンは、目線を地に落とした。それから、拗ねたような声が付け加えた。

「お、お前だって、俺のこと、鬱陶しいって」

「喧嘩の時だもの、本心じゃ……本心だったわ」

「そこは否定しろよ」

 顔をあげ、フェルナンが真顔で指摘する。プッとエマは吹きだした。

「うふふ……ふふ、あはははは! なあに、その顔!」

 余りにもエマが楽しそうに笑うから、フェルナンもつられて笑いそうになり……慌てて、ゴホンッと咳払いを一つ落とす。

「エマ」

 それから、静かにエマを見つめた。エマがきょとんとする。フェルナンは、暫く、無意味に唇を開閉させてから、下唇を舌で湿らせた。それから――声を絞り出した。

「お前のこと、抱きしめたい。いいだろ?」

 答えを待たずに腕を伸ばす。が、予測していたのか、エマはそれよりも先に、立ち上がった。夜風に、足元の百合たちが揺れた。

「そういうのは恋人にしなさいな」

「エマ!」

 厳しい流し目に睨め付けられる。フェルナンは彼女の前に回り込むと、地に身を投げた。

「俺が間違ってた。俺は、お前がいい。お前を愛してるんだ。今までフラフラしてごめんなさい!」

 墓地を取り囲む、森の梢が囁く。――静寂。

 やがて、エマは、肺が空っぽになるほどの大仰な溜息を吐いた。

「私にとって、あなたはもう恋人じゃないの。近すぎて……何て言うのかな。……家族、なの。あなたが求めているような関係には――」

「なら、もう一回、恋をしよう!」

 バッと勢いよく、フェルナンは顔を上げた。目を丸くするエマの、青い瞳を覗き込む。彼女は戸惑ったように視線を泳がせてから、あたふたと顔を背けた。

「しっ、しようって言われて、できるものじゃないでしょーが」

 上ずった声が告げる。フェルナンは熱く、言葉を重ねた。

「俺が触れたいのは、お前だけだったんだよ。いつだって、求めてるのはお前の姿で……お前の代わりは、やっぱり、誰もいなくて」

 フェルナンは立ち上がると、膝下を汚す泥も叩かず、エマへ一歩近付いた。びっくりするエマに愛おしさを感じた。フェルナンはきつく拳を握り、衝動を抑えると、大地を睨んだ。胸中の思いを、溢れるまま口にする。

「エマ。俺は、愛してくれる人に触れたい。愛してくれる、愛してる人に。もう間違えない。俺は、お前のこと……」

 ――霧が晴れるように、脳裏を覆っていた陰鬱な何かが溶けていくのを、フェルナンは感じていた。何故、こんなにも簡単なことに気付いていなかったのか、彼は不思議だった。

 自分を愛してくれる人が間近にいる。そして自分も彼女を大切に思っている。それなのに、何故、他に求めてしまっていたのだろう?

「お前と、ずっと一緒にいたい」

 告白と共に、フェルナンは顔を上げた。

「お前だけを、愛してるんだッ!!」

 そして、彼は――――愕然とした。

「………………エマ?」

 戦慄く唇から、掠れた声が漏れる。

 エマの姿はなかった。墓地のどこにも見当たらなかった。そして、フェルナンは――ようやく全てを理解して、よろりと座り込んだ。

「俺は……本当に、バカだなぁ」

 引き寄せられるように、目前の墓標に刻まれた文字に、指で触れた。

「お前は、もう……いないのに」

 ――エマ・エンデ。此処に眠る。

 墓標を取り囲む、白百合が揺れる。鼻孔を擽る芳しい香りが、慟哭の告別の儀を呼び覚ます。吐き気が込み上げてくる。

 エマは――フェルナンの妻は、一年前にこの世を去った。風邪をこじらせた末の、呆気ない最後――――――

「――――――エマ」

 止まっていた時間が流れ出したのを、フェルナンは感じた。百合の香りが、暗い過去をノックする。幻は霧散し、真実が鮮やかに蘇る。記憶の彼方に追いやっていた喪失が、どくどくと血を滲ませ、息を吹き返す。

 フェルナンは夜空を見上げた。澄んだ月光を照り返し、涙跡が銀色に輝いた。

 ……目を閉じる。濡れた睫毛が震え、涙が止めどなく溢れる。

 夜に包まれ、世界は彼と共にあった。

 寄り添った世界は、優しかった。優しく――――孤独だった。

「孤独に交われば、寂しさは薄れる……か。寂しさそのものになれりゃ、楽になれるんだろうけど」

 フェルナンは、両腕で自身を抱いて蹲った。

 愛を喜び、流した涙は、温かかった。

 身を引き裂く絶望に、流れる涙も、温かい。――――けれど。

「エマ。涙は、やっぱり、しょっぱいんだよ」

 目を閉じれば、頬を掠める唇の、幻。

 エマは――世界は、優しく、彼に歩けと促していた。急かさず、立ち上がる力ができるまでは横たわっていて良いと、微笑みながら。「エマ。お前は無茶を言う。俺はもう……、歩けない」

 そして、彼の悲泣は僧服の少女を呼んだ。

「フェルナン。また泣いているの……?」

 声に、フェルナンの影は、長く黒く、深く、大地に縫い付けられる。彼は爪で地をかき、何かに耐えるように身体を強ばらせた。声ははっきりと彼の鼓膜を震わせていた。

「なぁ?――――――俺は、バカだよな」

「何を今更。知っているわ」

「本当に、俺は。俺は、本当に……」

 フェルナンは、顔を上げるとエマを見た。

 エマは、彼の髪をくしゃりと潰すと、ニコリと微笑んだ。

 フェルナンは泣いた。

 泣いて、彼は自分の手を、エマのその手に重ね、頬を寄せた。ぬくもり。……安堵に、フェルナンはゆるりと瞼を閉じた。確かに彼はエマを感じていた。


 世界が、静かに夜を歌う。

 噎せ返るような、白百合の香りに包まれて、フェルナンはいつまでも、愛おしい人を味わい続けた。……月の光だけが、愚者の喜びを、優しく見守っていた。




(了)

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