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シキンはある街に急いでいた.灰色の外套に見を包み,腰には長刀をさしている.急いでいるといってもシキンの住んでいる街からは対岸にある街で,船での移動なので急いでいるのは漕ぎ手達ではあるが.船は晴天の下,穏やかな海を進んでいた.この海峡の両岸にある街は合わせて「アテア=ポルテ」と呼ばれており,扱い上は一つの街となっている.しかし,南側の地域は正教が強く,北側は旧教が強いという伝統がある.アテア=ポルテも南北で異なった信仰を持ち,文化も異なるためあまり強い関係を持っていなかった.シキンは南側に住んで10年近くになるが,北側に行った回数は両手の指で足りる程度でしかない.
そのシキンの横に大きな灰色の毛並みの犬が控えていた.シキンの相棒で6年程前から共に生活している.名をパシエンツィア,シキンはパシーと呼んでいる.狼と見間違えるほどの体で,多くの人は威圧されてしまう.そのため,パシーは他の客からは離れた所で荷物板をさせている.海峡を渡るガレー船は,屋根のついた甲板にシキンとパシーを含めた客が乗り,その板一枚下には罪人達が櫂を漕ぎ推進力を生んでいた.海峡を渡る船は定期的に運行されており,罪人を使ってはいるものの運賃は決して安くはない.それでも人間を運ぶ船は収益があまり出ない.その穴埋めは巨大な帆船貿易で収益を上げている.
シキンは船尾で海を眺めていた.シキンの仕事は首切り役人.言い換えれば刑吏・死刑執行人である.市民としての資格を持ち,街の中での地位は確立している.しかし,他の市民からの扱いは物乞いや娼婦,農奴と比べてもよくなく,賤民として扱われていた.そして,刑吏である事を示す目印を街中で付ける事を義務付けられていた.必要がなければ,人と接しない.それが刑吏の基本的な姿勢であった.
「旦那,北側へ行くなんて珍しいですね.何の用事で?」
同船していた男が話しかけてきた.刑吏と話すとウニベルシタスから除外され,自身も街で阻害される立場になってしまう.そのため普通話しかけてくる人間はいない.シキンも話しかける事はほとんどない.にもかかわらず,この男の様に人目を避けて話しかけてくる者はいる.そこに金の臭いをを嗅ぎ取っているからだ.
「残念だが,今回は旨みははないと思うよ.なにせ,相手は魔女だ.遺体も遺物も全部燃やすさ.」
魔女は火刑.誰でも知っている刑罰だ.他の犯罪であれば絞首刑や斬首もある.そのため色々失敬する事ができ,それを扱うこの男のような商人に売りさばくことで小遣い稼ぎが出来る.ただ,燃やしてしまえば何も残らない.そもそも魔女の資産は領主と教会,異端審問官が分け合うので,遺物自体が残されない場合も多い.
「ああ…今回のは派手にやるそうですね.私にはあまり恩恵はなさそうで.」
「派手?」
シキンは仕事の内容をまだ知らされていない.刑吏不足で助力を請われただけだ.知っているのは,魔女を処刑するという事だけ.関係者より情報を持っているのも,このような商人の特徴だ.特にこの男は商いの種を常に探している.
「まだ知らないんですかい?何でも魔女どもを一斉に処理するそうで,うちに大量の注文がありましてね.」
「藁と薪か.もう十分おいしい思いをしてるじゃないか.」
男はほくほく顏だ.火刑には大量の藁と薪が必要となる.人を燃やすのはそう簡単なものではないのだ.その仕入れに一枚噛めれば確実に儲かる.裁判費用は罪人の家族が捻出し,足りなければ領主と教会が補填するから踏み倒される心配はほとんどない.男の話で気になるのは一斉にという言葉だ.魔女裁判は最近多発しているが,主に行なっているのは北側の旧教だ.当然アテア=ポルテの北側でも行なわれる可能性はこれまでもあったが,今回までに訴訟すら起きた事はなかった.その理由は街を守護するアテア騎士団にある.アテア騎士団はアテア=ポルテの南側発祥で,正教の教えを強く守っている.つまり,街を守る正教の騎士団がいるせいで旧教側も手が出せなかったのだ.その街で一斉に魔女が処刑される.これは異常としかいえない.
「まあ,こっちの入りも悪くはないが…」
「個人的にはあまり触れたい案件ではありませんね.お察しします.」
形だけの挨拶を交わした二人は離れ,元居た場所に戻った.船上では会話をしても問題はあまりない.客はそれぞれで会話をし他人にそこまでの関心を払わず,シキンもまた目印を外している.街中では何らかの目印を身につける事が義務づけられているが,ここは船の上.目印をつける必要はない.しかし北側に着けば目印を付けなければならない.その事を知っている男は時間をみて離れていったのだ.シキンも男に迷惑のかからないように場所を変え,外套を脱いでから目印をつける.大抵の人間はシキンの見た目を外套を基準に覚える.外套を羽織った男,というように.そこから外套をとれば残るのは単なる男.両者を結びつける者は少ない.
北側の港につくと,客が次々とおりていく.シキンはパシーを引き取った後,客としては最後に下船した.通常,他の街に出向く場合には,その地の刑吏の家に厄介になる.刑吏同士のつながりは強く,よほどの事がない限り宿と食事の提供が受けられる.街についたら刑吏の家に行く.これが常識ではある.ただ今回は着き次第裁判所に出向く様にとの連絡を受けていた.時間の指定ではなく着いたらすぐという指示も普通ではない.仕方がないので荷物を持ったまま,パシーをつれて裁判所に行くことにした.
道を歩くシキンは異様なほどの視線を感じていた.それもいつも浴びせられる蔑視ではなく,どことなく敵意の宿った視線だ.蔑視と敵意は全く異なる.いくら普段差別されているからといって,敵意は気持ちのよいものではない.シキンが歩を早めるのと同時に声をかけられた.
「シキン殿.お待ちしておりました.馬車を用意しましたので,こちらへ.」
声の主は法衣を身にまとった壮年の男だった.
「失礼ですが,どちら様で?」
一応シキンが問うと,男は懐から手紙を取り無言で差し出してきた.そこには司教の名前と裁判官5名の連名で,シキンに対し身の安全の為馬車で移動するようにとの要請が書いてあった.
「それではお言葉に甘えて.ところで安全の為とは?」
この問いに対してはやはり無言で馬車に乗る様に促すだけだった.
馬車は裁判所の前で止まり,シキンとパシーは大きな門の前に降り立った.裁判所の両隣は教会がある.何故一つの街に二つの教会があるのか.一つは旧教の,もう一つは正教のである.元々あった旧教側の教会は時代を感じさせる概観に対し,正教の教会は大きくそして荘厳な印象を与える.アテア騎士団の発展とともに正教も北側に教会を建てる事が出来たのだ.裁判所に入ると広間で6人がシキンを待っていた.一人は法衣を,残りは裁判官の服を着ていた.
「あ,犬は入れないでくれ.苦手なんでね.」
シキンがパシーをつれて入ろうとすると法衣の男が話しかけてきた.パシーを怖がり遠くに置きたがる人は少なくないので,こういった反応には慣れている.
「ここで待ってろ.」
入り口でパシーに告げ中に入り,重い音がして扉が閉まる.パシーはちょうど番犬の様に扉の前で待つ事になった.馬車をつけて周囲から裁判所を眺めていた市民達を,見かけ上牽制する形になっていた.扉が閉じた後も市民達は裁判所を見つめていた.やはりその視線には敵意がこもっている.しばらくすると不動のパシーの周りに兵士達が集まってきた.パシーを捕える為ではなく,守るかのように周囲を囲み市民達を威嚇する.どうやら彼らは市民の向ける敵意の理由を知っているようだ.どうしようもない市民達は,いっそう熱心に見つめる事しか出来なかった.
扉が閉じた後,しばらくの間沈黙が続いた.その沈黙を破ったのは法衣を着込んだ男だった.
「ご苦労.首落としのシキン.お初にお目にかかる.この街の司教サントス・エクスデーロだ.」
首落とし,いつからかアテア=ポルテ周辺でシキンはそう呼ばれていた.サントスは書類を放り,拾うようシキンに促す.投げられた書類は散らばりながら足下へと散らばる.間近に落ちた一枚を拾うと,そこには名前,罪状,証拠,自白,そして判決が記されている.どうやら,裁判の記録らしい.
「そこにあるのが今回処刑する者達のリストだ.つつがなく執り行うように.」
それだけいうと,シキンの脇を通り抜け扉へと向かう.
「後の事は任せる.フリアン.」
裁判官の一人にそう告げ扉を開け出て行った.裁判官2名もそれに続く.残されたのはシキンと裁判官3名,そしてシキンをつれてきた聖職者1人だ.頭を下げて一行を見送る.扉が閉まると残された者達は一斉にため息をついた.
「厄介な人が来たものだよ,全く.」
「だが,この流れには逆らえまい.ケヒクトリの事もあるしの.」
「シキン殿,面倒な事をやらせることになり申し訳ない.」
フリアンがシキンに謝ってきた.
「フリアン様,事情を説明して頂けませんか?」
フリアンは元々南側の裁判官をしていた.数年前に副裁判長として北に赴任した,見識のある裁判官として有名だった.当然南時代にシキンと面識もある.フリアンの他の裁判官2人も元々南の出身で,シキンとの面識はないもののフリアンから首落としの話は聞いていた.
「何から話せばよいか.とりあえず,資料に目を通してもらえますか.」
資料は13枚あり,1枚が1人の裁判記録だった.つまり今回の罪人は13名.それも,その中にはシキンでも聞いた事のある名が記されていた.
「イラルギオツ…」
アルトゥル・イラルギオツ・アスケル.アテア騎士団セネシャル兼アテア=ポルテ地区コマンドゥール.次期騎士団総長の呼び声も高い,名門イラルギオツ家の当主である.さらに他の罪人の役職もセネシャルの供奉者となっている.つまりアテア騎士団のこの地区の最高責任者が直属の部下と共に罪人となっているのだ.
「ちなみに先月処刑した者のリストはこれだ.」
新たなリストには知った名は載っていない.ただ,職業は今回のリストにも負けぬほどのものが載っていた.聖アテア修道院長,裁判官,正教の司教など.他には大商人などの実力者が並ぶ.騎士団の団員も数人含まれていた.
「何ですか,これは.本当に処刑したのですか,この人達を.」
シキンの疑問は,おそらく街と少しでもつながりのある者なら誰しも抱くであろう,ごくまともなものだ.修道院長,裁判官,司教,街の有力者が消え,そして今回騎士団の上層部まで消えるのだ.街を動かしてきた人間のほとんどが消えれば,街は動けなくなり死んでしまう.
「事実だ.全員魔女の容疑をかけられ一時は無罪の判決が下ったが,後で逆転し有罪となった.全員がな.」
魔女裁判.数年前までは1年に数件しかなかったものが,ここ最近急増している.シキンも魔女の拷問や処刑を行なった経験はある.ただ,無罪判決が逆転して有罪になる事は聞いた事がない.
「逆転した理由は?拷問はあったのですか?」
シキンの仕事上,拷問がどのようなものかはおそらく目の前の裁判官達や聖職者より良く知っている.
「無罪判決の時の尋問にも,有罪判決時の尋問にも拷問はとられなかった.その資料にある様にな.拷問は行なわれなかった,とあるだろう.」
このフリアンの解答の意味することも,彼らにはわかるまい.いくら見識があろうが,知らないものは知らないのだ.その存在に気がつかなければ,知ろうとすら思わない.
「何故判決が覆ったのかといえば,裁判官が変わったからだ.無罪判決を出したのはケヒクトリ・ヴァーガンド.有罪判決を出したのはさっき出て行った中の一人,ダニエル = トレンテスだ.」
ケヒクトリ.先ほど少し聞こえた名だ.
「ケヒクトリ自身は無罪判決を出した後に魔女の容疑をかけられ処刑された.」
フリアンの横にいた裁判官の一人,大分年を経た男が続けた.
「つまり,魔女が下した判決は無効だから改めて裁判が行なわれ,そして有罪になったと?」
「その通りだ.」
明らかに何かが動いている.大分事態が把握できてきたが,まだわからない事がある.何故シキンが呼ばれたのか,だ.アテア=ポルテ南側にはシキン以外にも刑吏はいる.北側にも当然刑吏はいるはずで,本来南に依頼する必要はない.それにこの場にシキン以外の刑吏の姿がないのはどういったことか.そんなシキンの思いを読んだのか,それまで黙っていた聖職者が口を開いた.
「司教補佐を努めております,バルタザール・エスクリヴァです.私から街の状況を説明致します.」
この男が旧教の人間だという事は意外だった.裁判官達の口ぶりでは彼らはサントスによい印象を持っていない.そう感じさせるようなことを,旧教の人間がいる前で言うものだろうか.彼の説明は,この街が旧教と正教の争いが今後さらに激化する事を予想させるものだった.