引きこもりのストーリーメーカー
俺は扉の前に立っていた。さっき、扉を開いたばかりだというのに、目の前にはまた扉があった。古びた木製の扉だった。随分古いものなのか、扉は閉まりきらず半開きになっている。
錆び付いたドアノブを回し、ドアを開く。薄暗い部屋だった。暗闇の奥で、橙色の明かりが灯っており、それを中心として、同心円状に光の輪が広がっている。
その輪の中に人影があった。人影は本や紙が山積みになった机に向かって、背中を丸くしていた。どうやら、書き物をしているらしい。一歩踏み出すと、そこにも本の山があったらしく、音を立てて崩れた。人影が振り向く様子はない。
さて、ここでは何をしたらよいのだろうか。改めて考えてみると、このように本当に部屋のような『部屋』は初めてだった。空気が埃っぽく、とても快適とは言えない。さっさと立ち去るのが無難だ。
「少し尋ねたいことがある。」
人影は振り返らず、ひたすらペンを動かしている。しばらく待っていると、ペンを机に置き、ゆっくりと振り返る。真っ黒い隈のある目は、初めのうちは退屈そうだったが、俺の存在に気が付くと、カッと目を開いた。
「君は誰だ。」
手入れされていない髭、不衛生な髪。目尻に浮かぶ皺。そんな外見から予想される年齢と、今の少年のような声は違和感があった。
そして、今この男の言った言葉。大抵、部屋の主は俺のことを『迷い人』と言っていた。少なくとも、俺の正体を知っているようだった。しかし、この男はどうやら俺のことを知らないらしい。
「この部屋の住人じゃないのか?」
「確かに、ここは僕の家だけど。ところで、君は誰だ?」
そうか。家か。ということは、ここは『部屋』ではないのか。そう思ったが、今までも部屋の住人が、ここは『部屋』だ、と言っていなかったことを思い出す。
「小説を書いていたのか?」
「ああ、うん。僕にはこれしか出来ないから。」
男は、俺の正体を突き止めることをあきらめたのか、それとも忘れただけなのか、机に置いてある書きかけの原稿を指さしながら答える。どうも、部屋が暗すぎる。そう思い、目を凝らし周りを見渡すが、電気のスイッチのようなものは見当たらなかった。
「よかったら、見せてくれないか。」
男は躊躇することなく、書きかけの原稿とは違う、クリップでまとめてある原稿の束を手渡す。俺は、それを受け取るが、読むための明かりが必要だったため、結局その原稿を机の上において読んだ。
読み耽るつもりもなかったので、あらすじだけを追って原稿を読む。パラパラ原稿をめくるその様子は、表現にこだわる小説家なら、眉間に皺でも寄せたかもしれないが、隣の男は、どうやらそうではないらしい。腕組をし、まるで怖いものを見ないように力強く目を閉じている。
5分程度で小説を読み終える。あらすじは、片足を失った少年が、いろいろな人と触れ、経験を積み重ねることで、失っていた希望を取り戻すというものだ。題材自体は悪くない。しかし、俺が思うに問題はその中身だった。
「リアリティーがない。これじゃあ、本当にただの作り話だ。」
隣でいまだに目をつぶっている男に言ったつもりはなかった。ただ、口から出たということは、この思いを男に伝えようとはしていたのだろう。
「分かっている。でも、しょうがないじゃないか!」
男は目を開いたかと思うと、突然怒りを顕わにした。
「僕は、何もしてこなかった。そのせいで、何の能力も身に付かなかったし、そのせいで、ますます何も出来なくなっていった。他の人より、経験が少ないことも分かっている。でも、それでも、僕は書き物だけは出来た。その能力を使っていれば、その能力を使って、僕の思いを書き続ければ、きっと救われる人だっている。そんなに大勢じゃない。一人の人間が救われればいい。」
男は間髪を入れず、声に力を込め力説する。今、口にしたことを小説にすればいいんじゃないかと俺は思ったのだが、仮にそうしたところで、この男の書く物が小説になることはない。
「あんたは、自分の世界に籠りすぎなんだ。自分の目で世界を見て、それで意味を与えようとしている。だから、あんたの書くものは、全てあんたの色に染まっている。それを第三者が感じ取ってくれるのか?経験不足もあるかもしれないが、それ以上にあんたに欠けているのは、他の見方を学ぼうとする姿勢だよ。」
「だから、さっき言ったじゃないか。一人でいいって。一人でも分かってくれれば、それでいいんだって。」
「じゃあ、それは小説じゃないさ。それは、あんたの思いを込めた、その一人にむけた手紙だよ。助けてください、僕は一人で寂しいんです、ってな。あんたは、その一人の存在に救われることがあっても、その一人を救うことはない。」
「うるさい!」
男は机の上にあった原稿用紙と本の山を腕で払い、そこに出来た空間に顔をうずめ、声を殺して泣き始めた。じゃあ、どうすればいいんだ、と何度も繰り返し言っていた。
申し訳ないが、俺はその方法を知らない。薄暗い部屋に長年籠っていた一人の人間を、痛いほどの光が照りつける外の世界に適応させる方法を。
そこで、再び『ファウスト』を思い出していた。あの話も、メフィストフェーレスという悪魔が、ファウスト博士を外に連れ出したが、全ての知識を習得したファウスト博士ですら、外の世界に対応する方法を見出せなかった。
「生きるって、難しいんだよ。」
そうつぶやいた俺の声は震えていた。