図書館の魔物2
「今度はなんだよ。」
いろんな部屋でいろんなものを見てきた俺は、今何が起きても対して驚きそうもなかった。ドラゴンが飛び出してきても、弾丸が飛んできても、そのまま平然としていられそうだった。
そんなことを思っているうちに影が消え、黒いオオトカゲみたいなものが現れた。オオトカゲといっても、そんなに巨大なものではなく、全長はおよそ二メートルくらいだった。目が金色に光り、赤い舌を時折見せる。案の定、俺は驚きも感じず、肩をすくめるだけだった。
「なんですか、これは。図書館の魔物かよ。」
そのとき、袖を引っ張られる。いつの間にか、少女は俺の後ろに隠れていた。少女が小さな体を震わせ、袖を握る手に力を込める。
「なんだよ、あれ。図書館の魔物かよ。」
先程の質問を少女に投げかける。
―いかにも、私がこの部屋の主だ―
少女の代わりに、黒いオオトカゲが答えた。
「いや、そうじゃなくて。俺は図書館の魔物ですかって聞いてんの。部屋の主ですかって聞いてないだろ?」
―迷い人よ。私は私のことを、おまえの言う『図書館の魔物』とは思ってはいない。しかし、部屋の主だとは思っている。だからそう答えただけだ―
「はいはい、そうですか。で、何のご用ですか?この女の子のお迎えですか?」
―迷い人よ。おまえは今、その少女をたぶらかし、堕落への道へ誘おうとしただろう。その少女は真理を知る資格がある。力がある。おまえごときに邪魔はさせんぞ―
「なあ、あんなこと言ってるぞ。ひどいよなあ。お兄さんの弁護をしてくれよ。」
俺は笑みを浮かべながら、少女を見下ろす。しかし、少女は身体を震わせ俯いたまま顔を上げることはなかった。ゴメンナサイと何度も小さな声でつぶやいていた。
―迷い人よ。おまえの話は一部始終聞かせてもらったぞ。今、部屋を訪れたばかりにもかかわらず、全てを知っているような生意気な話だったな。生意気で、幼稚だ―
「そりゃあ、どうも。」
―その少女は生まれたときから、この部屋にいたのだ。親に見捨てられ、友達もいない。しかし、この少女には真理を知る力があった。だから私は、少女にこの部屋で知識を身につけさせ、守ってきた。
おまえは、真理はひとつじゃないと言った。その通りだ。真理はいくらでもある。しかし、余計な邪念のない、普遍の真理というものがある。それは、この少女にしか得られないのだ。それをおまえは邪魔しようとしている。おまえは悪だ。邪のない真理を得るのを妨害する、小悪魔だ―
「そうだな。俺は悪魔だ。」
そんなに大きな声を出したつもりはなかったのだが、俺の声は部屋じゅうに響いた。図書館中に積もった埃がふわりと舞った気がした。少女が顔を上げるのが分かる。
「まさしく、俺はメフィスト・フェーレスだよ。ゲーテの『ファウスト』に出てくる悪魔だ。これだけ本があるんだ。見たことくらいあるだろ。」
俺は少女を見る。少女は俺を見上げ、軽く首を縦に振る。
「確かに、天才ファウストはメフィストに唆されて外に連れ出された後、外の世界に対応できなくて死んでしまったよ。メフィストは神様との賭けに勝ったと思った。でもな、実際は違ったんだ。」
「最後に、ファウスト博士は救われた。愛する人がいたから。」
少女がか細い声で答える。俺はなぜだか嬉しくなって、自然と笑みがこぼれる。ファウストのことを話す日が来るなんて、思ってもみなかった。そして、自分の読んだ本について自分の考えを述べることがこんなに楽しいとは思わなかった。
「こいつは、まだ若い。ファウスト博士は死んじまったが、こいつならきっと生きていける。そして、こいつはこいつの真理を見つける。」
―迷い人よ、まるでおまえは経験不足の子供のようだ。少女が一人でどうやって生きていくのだ?外の世界はそんなに甘いところではない―
俺は笑みがこぼれる。悪戯小僧が見せる、あの笑みに近い。相手の本音が、本質が見えたときに見せる子供の真理の目。
「一人で生きていけない?何でそんな言葉が出てくる?おまえは少女に真理を得させたいんだろ?おまえがここに閉じ込めているのは、真理を得させるためで、こいつが外で生きていけないからじゃないだろ。おまえの今の言い方は、真理のためというよりも、少女を閉じ込めておきたいかのような言い方だった。」
オオトカゲが、わずかに退く。鋭い音を鳴らし、赤い舌を震わせる。少女が小さく叫び声をあげて、再び俺の後ろに隠れる。
「俺には、おまえが魔物に見える。黒い魔物に。おまえはこの少女を利用しているんだ。邪のない真理とやらを得るために、この少女をここに閉じ込めている。こいつがこいつの真理を得ることを妨害して、自分の真理を押しつけている。おまえはお姫様を牢獄に閉じ込めて満足している魔物だよ。」
―黙れ、この悪魔が―
黒いオオトカゲが突進してくる。少女の甲高い叫び声が聞こえる。この状況はなんだか―
「ファンタジーっぽいな。」
少女が逃げようとして、俺の袖を何度も引っ張る。お姫様を連れ出した勇者。男の子なら一度は憧れるシチュエーション。
恐怖を感じるよりも、脅威に立ち向かう興奮があった。ただ、勇者の剣がないのは非常に残念だ。俺は少女に微笑みかけると、少女が持っていた本を受け取り、前に踏み出す。
オオトカゲが迫ってくる。俺は身体をひねらせ、左腕を思い切り振る。少女が持っていた本が風を生み、音を鳴らしながら空を切る。本はオオトカゲから大きく逸れた方向に飛んでいく。本棚に追突し、大きな音が鳴る。オオトカゲが間合いに入り、飛びかかってくる。
そのとき、上から無数の本が落ちてくる。オオトカゲはみるみる本につぶされ、本の山に埋まった。這い出してこないだろうか、としばらく身構えていたが、本の山がわずかに崩れた以外には、大きな瓦解はなかった。
「メフィスト・パニッシュメント。」
メフィストの断罪。俺はヒーローみたいに、必殺技の名前のようなものを口にする。振り返り、少女を見る。少女は驚きのあまり、固まっていた。
「どうだ?カッコいいか?」
「子供みたい。」
ようやく口を開いた少女はそんなことを言った。悪かったな。そう俺が言うと、少女は笑った。なんかまぶしいな、と思い、上を見上げる。ステンドグラスが外からの光を反射し、虹色に輝いていた。その光の照らす先を目で追うと、そこには銀色の扉が光を反射して光っていた。
「ちょっと待ってくれよ。タイムリミットかよ。」
扉が現れたら、その部屋に留まってはいけない。しかし、まだこの少女を外に連れ出してはいない。いや、そもそも、この部屋に『外』なんてものがあるのかすらも分からない。この少女を救ってやることは出来ないのか。
「お兄さん、どこかに行くの?」
「一緒に来るか?」
俺はしゃがみ込み、少女に尋ねる。きっと、ついてこない。部屋の住人は部屋を離れられない。そんなことは分かっていたが、そう尋ねてしまった。無力な自分にすこし心が痛んだ。
泣き出すかな。そう思っていたが、少女は静かに首を横に振った。
「いや、大丈夫だよ。お兄さんには、もう十分助けてもらったし。あとは私が自分で何とかするよ。私は私の真理を見つける。でしょ?」
そうか。大丈夫そうだな。俺はゆっくり立ち上がり、扉の前に立つ。扉の前に立つと、ちょうど虹色の光に俺の体がすっぽり覆われた。
「お兄さん。」
「なんだ?」
俺は振り返る。このくらい、いいだろう。誰に言い訳することもなく、心の中でつぶやく。
「助けてくれてありがとう。お兄さんも、お兄さんの真理を見つけてね。」
俺は黙って頷くと、そのまま前に向き直り、扉に手をかける。その扉はやけに重かった。
俺の真理。それが見つかるのは、まだずっと先の話だろう。