マリオネットの公園
扉を開けると、白い便器がいくつか目についた。すっかり汚れがこびりつき、蛍光灯も消えているためか、全体的に暗い印象のトイレだ。よりによって、こんなところに出るなんて。吸っている空気まで、薄汚れている感じがする。すぐさま外に出る。
外に出ると、太陽の光が目を刺した。ちょうど、上ってきたところだったのか、まっすぐトイレの入り口に光が差し込んでくる。すぐさま顔を背け、辺りを見渡す。塗装がはげた滑り台にシーソー。鎖が錆ついたブランコ。そして、これもおそらく遊具なのであろう、パンダやライオンの像が端の方で静かに座っていた。
どうやら、ここは公園らしい。しかし、人は一人もいなかった。太陽光に気をつけながら、そちらのほうに視線を移すと、白く輝く海が見えた。海の見える公園。そんなところだろうか。
「だからどうした。」
その言葉が合図になったわけではないだろうが、ブランコの揺れる音がした。再び、ブランコのある方を向くと、いつの間にか、短パンにサスペンダーをつけた少年が座っていた。毎度のことなので、俺は少年の隣に座ることに迷いはなかった。
少年の隣に座ると、眩しさに目を開けていられなかった。ブランコは、ちょうど海に向かって立っていた。否応なく、少年の方を向くことになる。少年は真っすぐ向いたままだ。
「こんなところに一人で、どうした?何か悩みでもあるのか?」
反応がない。驚きもしなければ、こちらの質問にも答えない。部屋の住人が我儘なことは毎度のことと言えばそうなのだが、どうも気分がよくない。相手の決めたルールに、何の理由もなく従っている気がするからだ。
「眩しくないのか。」
今度は反応があった。少年は首を左右に振る。しかし、それだけだった。少年は前を見続ける。これは、どうしようもないのではないか。今まで感じたのとは違う不安が込み上げてくる。石を水の上に浮かばせようとするときのような、奇跡が起きることを期待しながらも無力感を拭い去ることが出来ない不安だ。
すると、そこに子供の集団が明るい声で騒ぎながら公園に入ってきた。こちらには見向きもせず、ただひたすら走りまわっている。こっちの少年よりも、あっちの相手をした方がなんとかなりそうだ。俺はブランコから立ち上がろうとする。
「おじさんもそうなんだ。」
俺は後ろを振り返る。少年がまっすぐこちらを見上げている。
「おじさんも、あの子たちと一緒なんだね。」
「いや、違うな。」
咄嗟に否定はしたものの、少年の真意は分からなかった。少年は太陽を見ていたときのままの表情で、俺を見続ける。
「おじさんも、僕のことが分からないんでしょ。いや、分かろうともしてくれないんでしょ。」
「それは、おまえがそんな態度だからだろうが。」
俺は声を大きくしながら、ブランコに乱暴に座る。何もかも見透かしたように話す、その言葉と無表情が、こちらの怒りを滲みださせたようだ。少年は無気力な目で俺を追う。
「友達が欲しけりゃ、話しかけろ。不満なら怒れ。自分のことを知ってほしいなら、表現することから始めろ。」
「しているじゃないか。」
少年の口調が変わる。しかし、子供に特有の少し高めの声色や、表現に乏しい表情はそのままだった。している、と少年は消え入る声でもう一度つぶやく。なるほど、そういうことか。
「それが、おまえなのか。何も表現できず、なにも求めない。まるで人形みたいなパーソナリティーが、おまえなのか。」
反応がない。相変わらず、無表情だ。子供たちが笑いながらブランコの前を走り去る。
「でもな。そんなんじゃ、寂しいだろ。ずっと一人ぼっちで、誰からも認識されない。そんな世界の片隅でひっそりと生きる生き方もあるのかもしんねえけど、俺は薦めないぞ。」
「人はどうせ死ぬ。そして、全てを失う。知っているでしょ?」
死という言葉が少年の口から出たことに戸惑いを覚えた。いや、この少年なら言いかねないなと頭の片隅で思ってはいたが、実際に口にされるとやはり心が乱される。
「どうせ死ぬのに、なんでみんな友達をつくるのさ。どうして、いい思いをしようとするのさ。僕には理解できないよ。世の為、人の為生きるっていう人もいるけど、それも同じことだよ。どうせ、消える。遠い未来のいつか、とかじゃなくて、自分が死んだら、全部無くなるんだ。どうせ無くなるなら、手に入れる必要なんてない。手にしたものは、手放す痛みも内包しているんだ。」
とても子供とは思えない言葉で、少年は述べる。そして、今口にした言葉が、まさにこの少年の全てを言い表していた。一呼吸おいて、少年は再び口を開く。
「ねえ、おじさんはどう思う?何のために生きているの?」
その質問は難しかった。人は一度くらい死について考えたりするものなのだろうが、四六時中そんなことを考えているわけではない。適当に思考を切り上げ、日々を生きるために働く。自分なりの答えを見つけた人もいるのかもしれないが、それも、皆が納得するような答えではないだろう。それもそうだ。テストみたいに、唯一の答えが用意されていない問いだ。
しかし、俺がこの少年に言うべきことは決まっていた。
「それだよ。それでいいんだ。」
「なにがさ。」
「今、おまえは自分の考えを述べた。とても、みんなが喜びそうな考えとは言えないが、今の考えには、おまえらしさが出ていた。おまえはおまえの考えを持っているわけだ。」
「僕の質問に答えてよ。」
少年の口元が微かに動く。感情の芽だ。それを見つけた俺は、自然と笑みがこぼれる。
「だから、おまえは生きていていいんだよ。」
次の瞬間、目の前が白くなる。太陽の光が強くなり、丘の上の公園を包み込む。ブランコが飲まれ、少年も光の中に飲まれていく。そこまで見えたところで、俺は目を閉じてしまった。
「ねえ、お兄さん。大丈夫?」
俺は目を開ける。いつの間にか地面に倒れていたのか、ポニーテールの少女と頬に絆創膏を貼った少年が覗き込んでいる。俺はゆっくりと起き上がり、辺りを見渡す。どうやら、先程と同じ場所らしい。あの少年も子供たちもすっかり消え、いるのは目の前にいる二人の少年少女だけだ。
「ああ、大丈夫だ。」
そう返事をすると、二人は同時に笑みを浮かべる。二人同時に素早く手を伸ばし、俺の肩に触れる。
「タッチ!お兄さん、鬼だよ。」
そう言い残し、二人は駆けだす。何を考えているのか、二人はトイレに飛び込み、それぞれ、男女のトイレに入る。
子供は元気だな。すっかり忘れていた無邪気だったころを思い出す。あの頃は、何も考えていなかった。何も考えずに、ただ遊んで生きていた。反抗することもしばしばだったが、大抵は親の示す道を歩いていた。まるで人形のように、何も考えてずに生きていた。
そして、それは成長してからも、あまり変わっていないような気がするときがある。俺は、何も考えずに生きている。
俺はゆっくり立ち上がり、トイレに向かって歩き出す。女子トイレに入るのもどうかと思い、迷わず男子トイレに入る。そこに男の子の姿はなかった。ただ、目の前に木の扉が立っていた。青いタイル張りのトイレの真ん中に立っているその扉は、どうにも、奇妙な光景だった。
あの少年は、あの答えで納得してくれただろうか。実は、あれが俺の、俺自身に対する、生きるということに対しての答えだったのだが。
生きていていいんだ。そう言い聞かせて、俺は生きてきた。