歌の女王2
床には赤い絨毯が敷かれていた。さっき道に並んでいた金の額縁が、宝の山のように乱雑に積まれている。その額縁の山の中に黒い椅子に座る女がいた。マスカラでもつけているのか、目の周りがやけに黒く、少し大きめの鼻と厚めの赤い唇が特徴的だった。確かに、美人ではない。
「客人か。」
女は組んだ両手に顎を乗せたまま口を開く。その声は女性にしては低音で、よく響き、よく通る声だった。
「客人じゃあない。」
「それでは、なんだ?」
「俺が聞きたいよ。」
冗談のつもりで言ったのだが、思いの外、情けない声が出た。やはり、心の奥では困惑したままなんだな、と認識を新たにする。
「迷い人か。」
結局それか。俺は黙ったまま頷く。何がおかしかったのか、女の赤い唇がニンマリと笑う。
「迷い人よ。ここに来る前に男に会わなかったか?」
「さあ?」
そうか、と女は短く息を漏らし、愉快そうに笑う。黒いサングラスをかけた銀髪の男なんだが、と女は後を続ける。なんだ、さっきのロックンローラーのことか。
「その男なら、さっき会いましたけど。」
「情けない男だっただろう。」
女はそう言うと、近くの額縁を手にとり、自分の顔の前に持ってくる。妖艶な笑みを浮かべる女の顔が額縁の中に収まる。ああ、そうしている方がさまになるな。俺には美術の教養のないからか、モナ・リザと大差がないような気がした。
「失礼いたします、女王様。」
どこからか執事のような男が現れ、女に深々と礼をする。女は額縁から顔を離し、執事を正面から捉える。
「そろそろ歌のお時間でございます。」
歌のお時間。なんだか懐かしい響きだ。女王様が、歌のお時間。さあ、みんなで一緒に、大きな声で―。
「そうか、もうそんな時間か。もっとこの迷い人と話をしたかったのだが。」
女は黒いブーツに力を入れ、椅子から立ち上がる。執事のような男がいつの間にかマイクスタンドを持ってきている。
「迷い人よ。世を統治する際に必要なのはなんだと思う?」
「全体の見えない民衆の声を無視する我儘。」
「歌だ。」
そう言うと、どこからか音楽が流れ、女は歌いだした。あっ、ロックかと思った次の瞬間、俺は奇妙な感覚に囚われた。女の声が音楽に乗り、鼓膜を震わせる。頭に響いたその音はやがて言葉としての意味を持ち、俺の脳に刻まれる。決して離れることのない、声による支配。
女が歌うのを止め、音楽が終わる。音楽が終わっても、声による支配から解放されることはなかった。
「私は女王だ。私の歌を聞いたものは、みな私の虜となる。私の言葉は全て真理となり、いかなる命令も疑うことなく実行する。
それ故、私はいつも孤独だ。私が何を尋ねても、みな私が思っていることと同じことしか言わない。同意を求めても、必ず同意する。同意すると分かっている同意ほど意味のないことがあろうか。
それならば、同意を求めなければよいではないかとは思うのだが、求めざるを得ないのだ。自分が正しいと思っていることを他人も正しいと思っているということを確認したくなるのだ。たとえ、その他人が己の意見など持ち合わせていないとしても、私に支配されていると知っていても、やはり不安になるのだ。
故に、尋ねよう。迷い人よ。私の歌は美しかったか?」
「大変、美しかった。しかし、女王よ。それはあんたに支配され、言わされている言葉ではない。確かに、あんたの声には人を支配する力がある。こう言っている俺の言葉も、今まで何千、何万回と聞いたことがある言葉かもしれない。
でもな、俺は敢えてこう言う。あんたの歌は魅力的だ。魅力的な歌を魅力的だと言って何が悪い。それとも、魅力的だと思った瞬間に、支配されたことになってしまうのか?」
女は再び金の額縁を手にとり、その中に顔を入れる。やはり、モナ・リザと大差がない。
「残念だ。迷い人よ。今まで私の歌を聞いた者どもは、おまえと一字一句違わず同じことを言っていた。もし、私に支配されていないと言うならば、どうして全く同じ言葉を選ぶ?どうして同じ息遣いでその言葉を述べる。
迷い人よ。今、おまえの述べた言葉はおまえの言葉ではない。私に言わされた言葉だ。」
「言わされた言葉で何が悪い。あんたの歌にはそう言わせる力がある。だが、魅力的だと思っているのは確かに俺だ。そして、その言葉を発しているのは間違いなくこの口だ。」
女の眉が下がる。額縁の中のモナ・リザは今にも泣きだしそうだった。
「迷い人よ。全く同じなのだ。先程の言葉も、今の言葉も、今までと全く同じなのだ。私には、次におまえが何を言うか分かる。おまえは言う。『もう一度、歌ってくれ。』と。」
「そんなことはない。」
「おまえは、もう支配されている。」
「だったら、もう一度、歌ってくれ。今度は『最悪だ。』と言おう。」
「残念だ。迷い人よ。おまえは、もうここに留まる運命だ。」
「ちょっと待て。今のはおまえが『支配されている。』とか言ったからだろ。おまえが余計なことを言わなければ、俺は『もう一度歌ってくれ。』とは言わなかった。」
「それも全く同じだ。」
「伝言がある。」
マイクに向かっていた女が、ゆっくり振り返る。
「おまえの歌は歌ではない。命令だ。」
女が静かに瞬きをする。瞬きの速さがややゆっくりだったが、元からその早さだったかもしれない。
「私の歌は紛れもなく歌だ。そして私の歌は命令になる。これで何万回目だ。」
「この言葉はあんたに言わされた言葉じゃない。あの男が言った言葉だ。」
「そうじゃないだろう。その言葉を言うタイミングはお前が決めた。そして、そのタイミングは今までと全く同じだった。セリフも全く同じだった。」
「男に正確に言え、と言われたからだ。」
「それを男の言った通り、正確に言うと決めたのもおまえだ。」
「あの男はミック・ジャガーか?」
女の目が見開かれる。ただでさえ目の周りが真っ黒だったので、見開かれても白目の部分ははっきりとは確認できなかった。
「驚いたか?驚くよな。突然、ロックミュージシャンの名前を言われたんだから。さっき、男はギターケースをガラスの扉にぶつけて壊していた。それをそのまま言っても、今までそのことを言った奴はいるかもしれない。だから、俺は敢えて名前を言うことにした。しかも、根拠のない名前だ。」
女は俯き、肩を震わせる。泣いちゃったか、とも思ったが先程の男を思い出し、怒っているのかと思い直す。
「私の歌に支配されていなかったのか?」
「いや、あんた勘違いしているだけなんだって。一字一句覚えている人間なんてそんなにいないだろ。だから似たようなこと聞いたら、前にも聞いたって思うんだよ。記憶は柔軟なんだよ。実際、みんな違うこと言ってたんだろうよ。似ていただけで。でも、あんたは支配していると思いたかった。だから、一字一句同じだと思い込んだんだ。」
女は何も言わない。何も言わず、マイクに向かう。また歌うのだろうか、と思って黙って見ていたが、マイクを握ったまま歌うことはなかった。
「歌が命令になるかどうか、俺には分からない。でも、あんたの歌は魅力的だったよ。」
額縁の山の向こうに鉄の扉が見える。俺はそれに向けて歩きだす。
扉を開ける前に、俺はもう一度振り返る。やはり、女は歌いださない。惜しいな。俺は静かに扉を開ける。