屋上からのラブソング
扉を開けると、雨のにおいを含んだ風が顔を打った。なんの面白みもない灰色のフェンスの向こう側に、茜色の空が広がっていた。どうやら、ここは学校の屋上のようだ。
灰色の雲が、遠くの方に浮かんでいる。夕焼け空を見ると、自然とカラスの鳴き声を連想してしまうのだが、よく考えてみると別に昼間でもカラスの鳴き声はよく聞く。
俺はあたりを見渡す。まさかカラスを探すためかと聞かれると、そうだったのかもしれない。しかし、フェンス越しに茜色の空と対峙しているセーラー服姿の少女を見つけたとき、俺の探していたものがその少女であったことを思い出した。
俺は屋上に踏み込み、少女に近づく。少女は拡声器を手に持っていた。近づいてみると、少女はそんなに身長が高くなく、ちょうど俺の胸のあたりの高さだということに気が付いた。少女は俺に気が付くと、ゆっくりと振り返る。セミロングの髪が揺れる。
「何かよう?」
突き放すような言い方だったが、柔らかい声だった。少女に戸惑いはみられない。
「何をしているんだ?」
何の用もないので、そんなことを言ってみる。
「別に。」
少女はそう言うと、またフェンスの向こうに身体を向けた。よく見ると、少女の視線の先は空ではなく、その手前に広がる街並みでもなく、校門の内側にある運動場だった。運動場では、部活動なのだろう、ユニフォームを着てサッカーをしている集団がいた。
「試合の応援か?」
だとしたら、離れすぎだろう。
「サッカーに興味なんてない。」
少女の返答は、質問の答えとしては少しずれているような気がした。相変わらず、少女の視線の先は運動場のようだ。だとすると――
「彼氏でもいるのか?」
「いるみたいね。」
「いるみたいって、どういうことだ?まるで、他人事みたいじゃないか。」
今度は、頭に浮かんだ疑問がそのまま言葉になってしまった。気まずく思いながらも、しばらく少女の返答を待ったが、沈黙が漂うだけだった。
「それ、拡声器だろ?小学校の避難訓練のとき、先生が使っているのを見たのが初めてでささ。なんて名前なのか、しばらく分からなかった記憶がある。」
沈黙に耐えられなくなり、なんとなく、そんなことを言ってみる。この場所に来てから、すべてなんとなく発言しているような気がする。すると、少女が自分の手にしている拡声器を見る。
「私も、実はそうだった。」
微かに口元に笑みが浮かぶ。
「拡声器ってさ、声を大きくしているんだろうけど、それでもよく聞こえなかったことが多かった気がするな。聞こえないよってよく思ってた。」
「確かに、周りがうるさかったせいかな。拡声器を使って話しているときは、いつもよく聞こえなかった。」
「けど、一生懸命、何かを伝えようとしているのは分かったかな。」
そうだな。俺がそう口にしようとしたとき、少女が拡声器を口元に持ってきた。人差し指でスイッチを押し込む。すると、確かに口元は動いているが、声が全く聞こえなかった。
「なんて言ったか、分からなかったよね。」
少女は俺の返答を待つことなく、また運動場を見る。その顔は、また振り出しの状態に戻ってしまったようだ。別に、落胆したわけでもないのだろう。諦めたというのが一番正しいような気がした。
「分かったさ。」
もちろん、分かってなどいない。
「嘘ばっかり。」
その通りだ。しかし、ここで怯むつもりはなかった。
「嘘じゃない。」
「じゃあ、私、今なんて言った?」
少女はこちらを向くことなく、淡々と言葉を紡ぐ。淡々と、しかし柔らかい声で。
「『こんな感じにさ』だろ?」
少なくとも、そのくらいの長さだった。
「違うよ。」
「じゃあ、『サッカーよりテニス』か?」
少女からの返答はなかった。さすがに、呆れられたか。そう思いふと視線をフェンスと反対側に向けると、いつの間にかガラス製の扉が現れていた。
俺は、まだこの部屋で何も解決していない。なのに、扉が現れた。扉が現れるタイミングがいまだによく分かっていない。分からないことだらけのまま、俺は先に進んでいる。
「その拡声器で伝えられないなら、直接言えばいいじゃないか。こんな遠く離れていちゃ、いつまでもおまえの恋心は独りよがりのままだぞ。」
なぜ、そんなことを口走ったのか分からない。何もしないまま、この部屋をあとにすることに、少し抵抗があったのかもしれない。いや、ただの負けず嫌いか。自分の無力さを認めたくないわがままとも言える。
少女は何も言わなかった。ただただ、静かにまっすぐと運動場で繰り広げられているゲームを見つめている。そんなゲームに興味なんてないのに。恋なのかもよく分からない感情を抱いたまま、そこにいる一人を遠くからじっと見つめている。俺は、扉に向かう。
扉の取っ手に手をかけ、扉を開く。すると、背後に人の気配を感じた。振り返ると、さっきまでフェンス越しに立っていた少女がいた。俯いていて、その表情は分からなかった。手には何も持っていない。
だんだん光に包まれ、周りに景色が白に染まり始める。俺は、さっさと扉を開いたことを後悔し、思わず舌打ちが出る。どうせなら、彼女が想いを告げるところまで見届けたかった。
白一色になったとき、少女が顔を上げる。しかし、今度は眩しくて目を開けていられなくなった。
「――――」
少女が何かを伝えようとしたのは分かった。とてもまっすぐだった。感謝の言葉とか励ましの言葉とか、そんな感じの言葉だったと思う。
けれど、やっぱり聞こえなければ伝わらない。どんなに大きな声でも、どんなに一生懸命でも、相手に届かなければ意味がない。
少女の声を聞き遂げることができなかった俺は、そう思ってしまった。