始まりの部屋
君はいつからの記憶ならある?赤ん坊のとき、このおもちゃでよく遊んでいたと言われても、全くなじみがなかったりする。少し大きくなって過去を振り返ってみれば、一体どれが最初の記憶なのか分からなかったりする。
今の俺は、まさにそんな気持ちだった。気が付けば、俺は真っ白い部屋の中に閉じ込められていた。一体いつからか、と思い返してみるとずっと昔からここにいたような気がする。
しばらく歩いてはいたが、どこかに辿り着くということもなく、いつの間にかそんなこともやめてしまっていた。俺は白い空間の中、ただ立ち尽くしている。
このまま、この部屋に立ち尽くすしかないのか。何がきっかけだったか、そう思い始めた矢先、目の前に黒い点が見えた。幻覚だろうか、と思い目を凝らして見るが、その点は白い空間に漂っている。
遠くにあるから小さな黒点が浮かんでいるように見えるのだろうか。それとも、ほんの数センチ先に蚊のような小さな物体が浮いているだけなのか。黒い点に向かって手を伸ばすが、何にも触れることが出来なかった。手をおろしてみてもなお、黒点は白い空間に浮かんでいる。
立ち止っていても歩いていても変わらないなら、歩いてみよう。そう思い、その黒点を目指して歩き出した。
歩くにつれて、黒点が形を帯び始めた。黒いフードをかぶった人のようだ。人を見たからといって、別に嬉しくもなんともなかった。そもそも、不安など感じていなかったからなのかもしれない。そのためか、歩くスピードは変わらなかった。
黒いコートの人物の目の前に立つ。目の前に立っているというのに、その黒いコートの奥には何も見えず、暗闇に包まれたままだった。その暗闇を覗き続けていると、暗闇に引き込まれる錯覚に陥り、俺は慌てて覗き込んでいた身体を引く。
―迷い人よ―
言葉が頭の中に響く。なるほど。これが声が頭に響くという感覚なのか。どこから聞こえたということもなく、声の情報が頭の中に沁み込んでくる。なんとなく、女性かなと思った。
―あなたは何者だ?―
「ああ、俺の名前は―」
そこまで言いかけて言葉に詰まる。俺の名前は、何だった?そもそも、名前があったということすら、自信を持てなかった。
―そう。君は誰でもない。身体を捨て、名前を捨てた。失くしちゃったの―
「失くした?どういうことだ?」
―本当は、君はここに来るはずじゃなかったの。君はここに迷い込んでしまった―
「質問に答えろ。俺は一体誰なんだ。」
―君のことは君がよく知っている。君が自分は鳥だと思えばそうだし、自分は蟻だと思えばそうなるの―
「そんなことはない。いくら自分が鳥だと思い込んでも、他人にそう見えなかったら、俺は鳥ではない。」
―それは他人の目を通して、君がそう判断するからだよ。他の鳥と自分を比較して、自分は鳥ではないということに気が付くこともあるかもしれない―
「分かった。だが、あえて尋ねよう。おまえから見て、俺はどんなふうに見える?」
―迷い人よ。君は先に進まなければいけない。このまま、ここに留まってはならない。君は君のいるべき場所に帰るべきなの―
「だから、質問に答えてよ。」
俺は懇願するように言葉を漏らす。黒いコートの人物は軽く頷くと、姿が徐々に薄くなっていく。ちょっと待てよ、と俺が掴みかかろうとしたが、黒コートをつかむことは出来なかった。
―この先、君は扉を見つける。その扉を開けていけばいい。いい?絶対、部屋に留まったらダメだからね―
黒コートの人物は、まるで忠告するというよりはお願いするような口調を残し、消えた。あとには、静寂が残る。俺に彼女はいたかな、と思い出そうとするが、全く記憶になかった。
「まあ、いないならいないでいいんだけどな。」
そんなことをつぶやいていると、目の前に白い扉が見えた。このまま、この部屋に居続けても何も起こりそうもないので、その扉に向かって歩き出す。もしかしたら、俺は赤ん坊なのかもしれない。そんな考えも思いついたが、自分のことを赤ん坊だと認めるのも癪に障るので、それ以上、自分が何者かを考えることをやめた。
まさか、罠じゃないよな。扉の前に立つと、この期に及んで下らない考えが浮かんできた。俺は軽く息を漏らしながら、扉のドアノブに手をかける。
そのドアノブは、陽の光のように優しい温もりを帯びていた。