ある昼下がりの一幕
昼下がりの中華料理店には閑古鳥が鳴いている。
量だけが取り柄のこの店の書き入れ時は夕方からだった。近くの高校に体育学科があるお陰で持っているような店だ。
そんなうらぶれた中華料理店に男女が一組、向かい合って座っていた。
男の方は、三十路絡みで随分と体格がいい。Tシャツに、綿パンという肉体労働者風のいでたちで、頭に黄色いタオルまで巻いている。
対する女の服装は、この店にはそぐわないものだった。
いや、そぐわないという意味では商店街、あるいは日常生活全体とそぐわない。
黒いエナメル質のボンデージスーツにグラマーな肢体を押し込み、おまけに蝙蝠状の羽根と尻尾、角まで付いている。
もうすでに五分ほど、二人の間に会話はない。
ただ、男が腕を組んでむっすりと女を睨んでいるだけである。
二人を取り巻くのは、厨房から響く調理の音と、調子の悪いテレビから流れるワイドショーの声だけだ。
「明美」
「はっ、はい」
口火を切った男に、ボンデージスーツの女が委縮したように小さくなる。
ルージュもアイシャドウも濃い目に引いているから分かり難いが、かなりの美人だ。歳もまだ二十四、五といったところだろう。
「今朝の戦闘は、なんだ?」
「え、えっと……」
戦闘。
それがこの二人を結びつける二つ関係性の、より公的な部分に属する側の呼び方だった。
男、田之中公太郎は戦隊ヒーローのイエローとして、日夜この街の平和を守っている。
女、笠山明美は悪の秘密結社の幹部として、世界征服の為にこの街を狙っている。
二人の属する組織は今朝も、近くの採石場で激闘を繰り広げたばかりだった。
「俺たち今、喧嘩してる真っ最中だよな?」
「はい」
「一昨日、もう口も利かないってお前、言ったよな?」
「……はい」
明美、と呼ばれた悪の女幹部、<ミステレスM>は、俯きながら力なく答える。
公太郎と明美は歳の離れた幼馴染みで、彼氏と彼女で、ついでに同棲していた。
だが一昨日の晩、些細なことから公太郎と仲違いをした明美は、仕事着の詰まったリュックサックだけを持って友人の家にエスケープしている。
「あのさ、なんで俺が外した弾の所に絶妙なタイミングでお前がいるわけ?」
「だってハムくん、いつも活躍したいって言ってたし……」
「そりゃさ、俺だって活躍したいよ? カレー大好きイエロー! とかじゃなくてさ、もっといいポジションに就きたいしさ。でも、あれはないんじゃないか?」
「大きい声、出さないでよ…… なんでハムくんが怒ってるのか分からないよ」
切れ長の目の端に涙の粒を浮かべる明美を見て、公太郎は小さく肩を竦めると煙草を出した。
最近、本数が増えている。
その事も、喧嘩の原因の一つだった。
「へい、お待ち!」
ちょうどそのタイミングで、料理が運ばれてきた。
公太郎が麻婆丼と餃子二人前と若鶏の唐揚げ。明美はチャーハンのみ。
明美が公太郎の分の箸を取ろうとするのを、公太郎はわざとらしく払いのける。
「俺たち今、喧嘩してる真っ最中だよな?」
「……はい」
「……明美、俺の事を憐れんでるのか?」
「憐れ、む……? そんなこと、思ってないよ?」
言ってしまってから公太郎は口をへの字に曲げ、料理に向き合った。
麻婆丼を蓮華で大胆に掬い、口に運ぶ。量だけが取り柄の店というだけあって、はっきり言ってまずい。
それでも、今は明美の目を直接見ることはできなかった。
苛々の原因が、やっと分かったからだ。
上目づかいに向かいの席を見る。明美は一度何か言おうとして、そのままチャーハンに蓮華を差し入れた。明美は何をやらせても卒なくこなす女で、だからこの歳で悪の秘密結社の女幹部に抜擢されたのだが、公太郎が一番気に入っているのは、ご飯を綺麗に食べるところだった。
恐らくパラパラにもなっていないであろうチャーハンを、この女は実に綺麗に食べる。
その姿を見ていると、公太郎には全てがどうでもよくなってくる。
結局二人は、食べ終わるまで無言だった。
小さく手を合わせてご馳走様、と言った後、明美は勇気を奮った様子で口を開いた。
「……そう言えば、今日は何でこんな所に呼び出したんですか」
潤んだ目は、別れ話を切り出されるのではないかと問うている。
だが、公太郎の要件は違った。
「ほらこれ、忘れモンだ」
そう言ってテーブルの上に小さなシルバーのキーホルダーを置く。
束ねられた鍵の音が涼しげに響く。
「ま、いつでも帰って来いってことだ」
泣き出す明美の姿を見ながら、公太郎は頭の隅でヒーローと悪の女幹部の結婚が認められるのかどうかについて、誰に相談するべきかを考えていた。