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外をみないかい

作者: aska

腰に痛みを覚えてからもう十四日目になるー


日曜日にテニスの自主練で壁打ちをしていたら、跳ね飛ばされるテニスボールを追った二十七回目に右腰を痛めた。壁に打ち付けられた球は勢いづいて速度を増して跳ね返り、わずか十四センチ足らずに拾い損ねて前へと倒れた。膝に抱えた赤く生温かい血液はどろりと私の心を溶かし、起き上がった時には立派な腰痛持ちになっていた。



Yahoo知恵袋で調べたら、打撲には冷却湿布を貼ると良いとあったので、コンビニに冷えピタを買いに行こうとしたけれど、自力で買うのは苦痛だろうと姉の英美が渡してくれた。薬局すまいるで買った七百五十六円で十二枚入りの冷えピタは、十三日後に開かれた公式戦の復帰にはくしくも役には立たなかった。腰の痛みは益々悪化し、テニスどころか授業に行く事すらできなくなった。




Dear Prudence, open up your eyes

Dear Prudence, see the sunny skies

The wind is low, the birds will sing

That you are part of everything

Dear Prudence, won't you open up your eyes?


Look around round





英美が夏休みにモータースクール盛岡で取った自動車免許を使って橘接骨医院に連れて行ってくれたのは、打撲してから五日目のことである。

英美は火曜日を全休にしていたし喫茶きくののアルバイトもいれていなかったから、女子高生で腰痛持ちの哀れな妹を救おうとしてくれたのだ。ハンドルを動かしながら打撲で死んだぼくってギャグで笑わせようとしてくれたけど、あいにくそんな好意に苦笑いすることすら出来ないくらい痛みは引かなかった。永遠に続くんじゃないかと思うくらいに間髪いれずに痛みが続く。橘接骨医院はマンションの駐車場から坂を下り、幹線道路を右に進んで七分程走ったところにある。途中、私の学校によく似た制服の高校生を見た気がした。


そういえばさ、と口を開く。あんた最近学校どうなの。


学校ー 高校生活は楽しくないわけではなかった。母の期待を一心に受けて育った姉の英美とは裏腹に、都内でも有数の進学校(出身者一覧に大学教授だとか政治家だとか官僚補佐官だとかの名前がばーと載ってるようなとこ)に落ち、偏差値も60と満たない私立の女子高に通っても、テニス部に入って友達も作り、雑誌eightteen載ってるような綺麗目女子高生ファッションしながらそれらしい高校ライフを送れていたから、楽しくないわけではなかった。成績の話になって、英語と世界史だけは早くから固めておいた方がいいよと言われる。それだけ固めとけば、私大ならどこでも受かるから。

姉が通うのは都内にある歴史ある女子大で、所謂一流とかの大学ではないけれど、女性の社会的地位向上だとかに力を入れているものだから、就職先は一流企業の総合職にいけるらしい。私は一流企業のOLさんなんてやるつもりはなくて公務員試験を受けるつもりだし、女子高から女子大に行くなんて世界が狭くなるようで嫌だけど、それでも人生の先輩の姉の言うことは聞いた方が良いんだろうなと思う。二年後には私も大学生やって、姉と同じくcamcamに載っているようなウェーブのかかったゆるふわパーマにマルイで買った4980円の丈の短いワンピース、ボディーショップで買ったサンセットの香水と共に、そのうち「労働者福祉論」だとか「社会学言論」だとかの授業を聞くのだろう。労働者にも福祉にも社会学にも興味はないけれど、そうして他大のラグビー部のマネージャーでもしながら四年間を過ごしたら、ポテトに漬けるディップの種類が四つあるハンバーガー屋さんと一杯二百円以下で飲める珈琲ショップに挟まれた郵便局の受付で、渡された通帳を機械に通して判子をペタンと押していく作業でもするのだろう。そう漠然としたことを考えながら、姉のニッサンシーマは橘接骨医院に止まった。



橘接骨医院で保険証を出し、英美と待つこと約8分、やまださーんといかにも医院にいそうな若い女性の声に呼ばれて診察室に入った。

先生は筋骨隆々とした30半ばくらいの男性で、二の腕にかかった筋がセクシャルな魅力を持っていて思わずぐいと眺めてしまった。そんな私にお構い無しに、今日はどうされたんですかと聞いてくる。

腰が痛いんです、と私。五日前にテニスの自主練で転んで右腰を痛めてしまいました。ズキンズキンとしていた痛みですが、今尚激しく続いています、冷却湿布を貼っても痛みが取れません。そうですか、それでは検査するのでこちらに横になってください、うーん、腫れていますが骨が折れているわけでもなさそうですね、数日間の湿布のあとはなるべく腰を冷やさないようにしてください。途中から冷やしてしまうと逆効果なんですよ。様子を見るので来週も一度来てください、何曜日が空いていますか。水曜日なら学校も四限で終わるしテニスの練習も無いので行けると思います。じゃあ水曜日にまた来てください。分かりましたありがとうございますーー




橘接骨院から出ると、今にも雨が降り出しそうな塩梅で太陽が隠れている。雲と雲の隙間が見えないくらいに空一面に覆われた白い海。英美が車を出してくれるまでの間、今頃学校で行われているだろう授業のことに思いを馳せた。今日の授業は体育と古典文法とリーディングと化学だった気がする。体育はタルイけど他の授業は出たかったな、着いていけなくなると困るから。そんなことを考えつつも、キシキシと痛む腰によろめきながら車に乗った。

家に帰ると、冷蔵庫の側に四つ小さなゴミ袋があった。シンクの前のキッチンカーペットも変えてある。今朝は見なかった袋だからきっと、出掛けの前に置いたんだろうなと溜息が出た。





姉が病み始めたのは、確か英美が高校二年生くらいの時だったと思う。国立大学の受験を目指して大手予備校の選抜クラスに入り、週三回は深夜の22時まで講義を受け、空いた時間はほぼ全部自習室へと通っていた。 お姉ちゃんは優秀だからと母親も嬉しそうに弁当を作る。文化祭の実行委員長もやっていた英美が、たったその二つの両立にも耐えかねるほどのプレッシャーを与えられていたなんて、夢にも思っていなかった。夜中にふと目が覚め、水を飲もうと一階のキッチンにいった時のことだ。何か音がする。ビニールをやぶいたり、プラスチックをたたきつけているような音。なに?まさか泥棒?一階に向かって階段を降りていく中で、急遽怖くなって引き返すことにした。泥棒だったらお父さんに言わないと。わたし一人じゃ無理だからー くるりと反転してまたそおっと足を踏み出そうとすると、英美の声がしたのだ。


どうしたの、梨菜?


振り返るとそこには英美がいた。顔はキョトンとしているけれど、よく見たら目が虚ろだ。視点が定まらずに焦点も合わない。姉と目が合わないなんて初めてだったから、私は立ちすくんで階段に尻餅をついた。ぎゃあ、とは叫べず、死んだように真白い姉の顔を見る。姉が持っている袋に目がいく。英美は右手に赤色の包装紙、左手には空になった挽肉のトレイを持っていた。

お姉ちゃんなにやってるの・・?姉は戸惑ったような顔を続けながら、相変わらず目は合わない。恐る恐るキッチンにいくと、そこにはありとあらゆる食材が散乱していた。サバの缶詰、六枚切りの食パン、菓子パンの袋、クッキーだとかチョコレートだとか、もはや夥しい量の菓子類のゴミが広がっていた。お姉ちゃん、もしかしてこれ全部食べたの・・? うんともすんとも言わずに英美は立ちふし、わたしは何も考えられなくなりながら、散乱した袋を一心不乱にゴミ袋に詰めていた。キッチンを見るとフライパンを使った形跡ない。もしや挽肉はそのままで食べたのだろうか。お姉ちゃん、どうしたの?なにがあったの?言葉が出ないで涙ばかり出てくる。いつからこんなことをしていたのだろうか。普段の姉とは想像もつかないくらいに変わり果てた姉を見て、きっとこれから今までにない生活が待っているんだ、なぜかそんな気がして鼻水まで出てきて、顔中液体塗れでぐしゃぐしゃになった。


姉の奇行のことを、親には言えなかった。






ビートルズの「Dear Prudence」を教えてくれたのは中学の同級生のヤハシくんで、ヤハシくんは母子家庭でいつも弁当を持たずにコンビニで買ったカレーを食べていた。なんでいつもカレーを食べるのか、夏でも冬でも関係無しに毎日毎日昼にカレーを食べるヤハシくんを見て、よくまあ飽きないものだと尋ねてみた。ヤハシくんは言った。可能性にかけてるんだよ。可能性?つまりさ、一つの同じものを食べ続ける習慣から生まれる可能性。バカな梨菜には分からないかな、まあとにかく、一つのものを食べ続けた時に発生する因果律を俺は試しているってわけ。なんてことはない、実際には380円のカレーが一番腹持ちとコストパフォーマンスが良い、ただそれだけのことだったけど、見るに見兼ねてお弁当を作ってあげたら、案の定喜んで食べていた。弁当のお礼にと誘われた夏祭で、ヤハシくんには低体重で生まれた妹がいて、独学で覚えたギターと共に、妹に向けて歌っているのだと教えてくれた。



いとしのプルーデンス 外へ遊びにこないか  いとしのプルーデンス 真新しい一日に挨拶おし  陽が昇り 空は青く澄んで  君みたいに美しい日だ  いとしのプルーデンス 外へ遊びにこないか




なんて良い歌なんだろうと思う。マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの瞑想室に籠ったプルーデンス・ファローにむけて歌ったジョンとポールの愛情がじわじわと伝わる。どこにも行けない女の子を連れ出そうとする愛情の波が、襞になって押し寄せてくるような歌だ。この歌を妹のために歌っているヤハシくんのことを想像したら、なんだか微笑ましくなってにやけてしまった。





姉の奇行を初めて見た日から三年、その間週一ペースで深夜の過食が行われていた。ある夜父親がその光景を見て、ついに姉は病院に連れて行かれた。過食症を治す特攻薬はないんですよと言われる。ストレス性の心身症ですから、抱えたストレスを減らすことが肝要です。特別な薬も出せませんから、来週血液検査に来てください。食事指導を行っていきましょうー

平日日中に学校のある姉は病院に行くのを辞め、大学受験を経ていったんはその精神を落ち着かせたものの、二年になるとまた情緒が落ち着かないようになってきた。そして今朝のありさまである。夜中にコンビニを徘徊し、手当たり次第に菓子パンや菓子類を買っては深夜通して食べ続ける姉のことを気味悪いと思ったけれど、それ以外では品行方正勤勉そのものだったから、なんとはなしにそっとしておくしかなかった。






夢を見た。おねえちゃんと私がブランコに乗っている夢だ。年齢は私が5歳で姉が8歳くらい。英美は私の背中を押し、私はより高い地点までいこうとする。おねえちゃん、と私は叫ぶ。おねえちゃんだった英美は私の背中を押す。おねえちゃん、すごい、こんなに高いよ。姉は背中を押し続けてくれる。おねえちゃん、真っ赤な空がきれいだね、半月の月も見えるよ。伸ばした足の爪先を見るのに夢中になるあまり、気づいたら姉の手の感触を忘れていた。ふと後ろを見ると、姉の姿がない。私は不安になってブランコを止める。おねえちゃん、どこにいるの?公園中を探し回り、疲れ果てた私が目を下ろすと姉の影が幾層にも連なり、私の視界に覆ってきた。どこにいってたのおねえちゃん、助けてよこの世界から。顔を上げると姉の姿はなく、影も私の視界から消え、代わりにパレットを混ぜたような色合いのスーパーボールの塊となって落下し、ボールはぼんぼんと跳ねた。私はかつて姉の塊であったそのスーパーボールを追って駆けると、ついにはぐちゃぐちゃと踏みつけて潰した。




子供の頃、遠足前になると近所の駄菓子屋に行った。お菓子は二百円までの規定があったから、六十円の手形のグミと三十円のマーブルチョコレート、二十円のゼラチン菓子を買って満足したのはいいけど、お金を余らせたくないから残った九十円で二十円のガムを三つ買い、それでも余ったお金で飴を買った。余ったお金で買ったガムと飴は遠足の帰り道によっちゃんに渡して消化した。よっちゃんを喜ばせたはいいけれど、私のお菓子のためにお金を渡してくれたお母さんのことを想うと三日間は眠れなくなった。

そんなわたしを見て、英美は笑いながらそんなん気にすることないよ、ガムも飴も梨菜が食べなくたってよっちゃんが食べたならーそう、よっちゃんが食べたんならお母さんだって別に悲しむわけじゃないしお金を捨てたわけでもないから気にしなくていいんよと慰めてくれた。こういう不安めいた話をするのは決まって二人が夜の十時を過ぎても寝れない日のことで、寝つきの良い私が寝れないなんて年に二回あればいい方だったから、わくわくしながら秘密の話として共有した。





トントンと叩かれ扉を開けると英美がいた。腰痛ってね、ストレッチがいいらしいんだ。臀部のストレッチっていうやつやったら効いたって、友達が。ならばと試しに仰向けに寝て、右膝の上に左の足首を乗せる。右の膝裏を両手で持ち、上半身に引き寄せること30秒、交代で左足も伸ばしていった。わざわざ友達に聞いてくれたんだ。親身になってくれる英美のことを優しいと思う。同時に、人のことを心配するならまずは自分のことを治してほしいと苛立ちも覚える。仰向けになって天井を見ている英美はふっくらと丸みを帯びていたけれど、独特の美しさを持っていた横顔は八歳の頃と変わらないなと思った。ストレッチをしたものの、すぐにその痛みが治るわけでもなしに、ゴロゴロと寝返りをうった。



梨菜、あのねー


気づいたら、英美は天井を見ながら喋っていた。

うんとも肯定もしなかったけれど、私が聞いていているのは分かっているだろう姉は喋り続ける。


私これから家を出ようと思うんよ。

家を出る?えっ、と、一人暮らし?


予想打にしない提案を聞いて私は思わずどもり始める。


うん、そういうことなんだけど、一人で暮らすっていうよりは大学休学して叔母の別荘に住んでみようかなって、一年くらい。


姉が言いだした提案は突拍子もなく感じられたけど、そうと決めた姉の心中は理解できた。

そっかぁ、長野かぁ。

一年、長いかもしれないけれど、うん、良いと思うよ。ゆっくりしなきゃいけない時ってあると思うから。うん・・


横を見ると姉は泣いていた。泣いてる姉を見ていたら私もなんだか泣けてきた。姉妹揃って泣きながら、一年なんてすぐだよねとか叔母の料理はまずいから耐えられなくなるかもとか言いあって、それで二人でぐるぐるうずめく轟みたいな涙を鎮めようとしてた。お母さんなんて言うんだろうね。いや、反対されないようにもう休学届は出してきちゃったんだ。姉の決心はそれほどに高く、もう何も言えることはないのだろうと目を閉じた。








その後姉は家を出て、気づいたら腰の痛みもとれていた。確か、姉が出てから三日後くらいのことだったと思う。


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