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「こんにちは校長先生。いつからそこに?」
悠夜は自分の予想が当たっていたことに少しばかり安堵し、「闘氣」を解除してから尋ねる。
相手が九曜であるなら、多式魔法を見られてもそこまで騒がれはしないだろう。
「お主がそこの書物を選り分けとるところからじゃ」
「……そんなに前からですか」
誰かが来たときに備えて周囲には注意を払っていたはずのだが、かなり気付くのが遅れてしまったようだ。
いくら資料に気を取られていたとはいえ、これは失態だ。
「それにしても、見たことない術式を使ってますね」
悠夜の視線は、九曜の足元で仄かな輝きを放つ術式に向けられていた。
多式魔法とは術式の構成が大きく異なり、見ただけでは何の魔法かは分からないが、目の前にいる九曜から一切の気配が感じられないことから十中八九隠密系統の魔法だろう。
おそらく悠夜の扱う隠密系統魔法「絶影」と同質の魔法だ。
「お主の使っておった魔法もな」
そう言いながら九曜も魔法を解除する。
それに伴って、壇上で挨拶をしていたときとは違い、川の畔で初めて会ったときと同様の風に揺れる楓のような掴みどころのない気配が現れる。
「(やっぱり、この人も独自の魔法を開発していたんだな)」
驚きよりも納得が先に立つ。
初めて会ったとき「偽装」を見抜かれた時点で、この老人なら、と思っていた。
「それに随分と珍しいものを持ち出しておるの」
そんな悠夜の心情を知ってか知らずか、九曜の目は悠夜が引っ張り出してきた資料に向けられていた。
「前から興味があったので」
「ほお、ならば儂の権限でそれを貸し出してやってもかまわんぞ」
九曜は随分あっさりと言い切った。
「本当ですか? そもそもこの学校の校長とはいえ、そんな気軽に貸し出し許可とか出せるんですか?」
「うむ、昔は儂もそこに保管されていた書物を読み漁ったりしたのじゃが、今ではそういう者は全く見掛けん。貸し出したところで問題ない」
「そうですか。ありがとうございます」
これは非常にありがたい。わざわざ周りに注意を払わなくて済む。
「ただし」
だが、ただで、とはいかなさそうだ。
「何故そんな埃を被った資料を持ち出していたのか話してもらえんかの。
できればお主が使っていた魔法のことも含めて」
「……そうですね」
やっぱりか、と思いつつ、悠夜は少し考え込むような素振りを見せ、
「あなたが使っていた魔法についても語っていただけるならかまいませんよ。
技術交換というやつです」
九曜の質問に答えながらも、悠夜は先ほど目にした術式を思い起こす。
あれは悠夜の「絶影」と効力こそ同じだったが、術式の構造は多式魔法とは全くの別物。
多式魔法とは異なる方向で進歩した魔法。
非常に興味をそそられる。
「ふむ、ならば立ち話もなんじゃし、場所を移すとしようかの」
「……わかりました。少し待っていてください」
てっきり秘匿技術か何かで、そう簡単には教えてもらえなさそうだと思っていた悠夜は、これまた随分あっさりとした返答に肩透かしをくらったような気分になりながらも荷物をまとめに掛かる。
そうは言っても、必要な資料の埃を払い落してから鞄に入れ、それ以外をもとの本棚に押し込むだけだが。
「お待たせしました」
「なに、そんなに時間は掛かっとらんよ。ではついて来てくれ」
会ってからずっと軽い調子の九曜に言われるがまま、悠夜は図書室を後にする。
相当な歳にもかかわらず全く曲がっていない背中としっかりとした歩みの九曜の後を追い、誰もいない校舎の中を少し歩いて辿り着いた先は、
「(……生徒指導室?)」
悠夜は部屋の扉の上に貼られたプレートに首を傾げる。
てっきり校長室あたりかと思っていたので、これは少々意外だ。
マスターキーらしき鍵で扉を開けて中に入って行く九曜に続いて悠夜も生徒指導室に足を踏み入れると、そこは今朝職員室で感じた場違いな雰囲気のない、いたって平凡などこの学校にもありそうな部屋だった。
「(僕やこの人なら、相当な使い手が気配を消して近付いてきたとしても察知できるだろうけど、こんな防音効果があるかどうかも分からないようなところで話していいようなものなのか?)」
悠夜は何故九曜がこの部屋を選んだのか疑問に思ったが、その理由はすぐに解消された。
九曜は悠夜に椅子に座るよう勧めることも、自分が椅子に座ることもなく、椅子や机の横を通り過ぎて備え付けの本棚に向かうと、そこに手をかざす。
「?」
悠夜の不思議そうな視線をよそに、九曜は非公開研究資料保管室の埃の積もった本棚と違い、きちんと手入れがされ、本や資料が規則正しくならべられた本棚に触れて、なんらかの魔法を発動させた。
それと同時に、大きく重そうな本棚がコンビニの自動ドアみたく横へ滑らかにスライドし、さらにその奥から出てきた一見何もない壁の表面が、まるでまだ乾いていない塗料を水で洗い流すかのように色を変え、一つの引き戸が現れた。
「これは……」
術式が展開されたのはほんの一瞬。
だが、驚きながらも悠夜はほとんど条件反射でそれを目に焼き付け、魔力の流れを読み取り、解析を試みていた。
「……本棚が横にずれたのは、おそらく本棚に掛かる重力の操作、扉の方は普通の何もない壁の幻影をその上に投射したもの。違いますか?」
悠夜が自らの大まかな考察を述べてみると、九曜はデキのいい生徒を見るように頷いた。
「さすがじゃの。では行くとしようか」
扉を開けるとすぐに階段があり、九曜はそれを降りて行く。
ここは一階なので、必然的にこの先は地下となる。内緒話にはもってこいだ。
悠夜が中に入って扉を閉めると、外で何かがこすれ合う音がした。本棚が元の位置に戻ったのだろう。
「(どういう仕組みだ?)」
何をやったのかは分かったが、どうやってやったのかまでは分からなかった。
この世界で普及している魔法と悠夜の開発した多式魔法は構造こそ大きく異なるが、術者が魔法を発動させ、その発動させた魔法がなんらかの効果を発揮し、役目を終えた魔法は消滅する、という根本的なプロセスは同じだ。
しかし、今の魔法はそうではなかった。
術者である九曜が魔法を発動させ、その魔法が効果を発揮した後消滅するのは同じだったが、それだけではなく、九曜の発動させた魔法に呼応するようにして、本棚と壁からも術式が展開されていた。
おそらく、九曜が展開した術式そのものには本棚を横へずらしたり、引き戸に施された幻影を剥がす効力はない。あれは「鍵」だ。
本棚には「鍵」を差し込むと、悠夜の言葉で言うところの干渉系統の魔法が発動し、引き戸にはあらかじめ施されていた眩惑系統の魔法が一時的に解除されるという設定を組み込まれた魔法が待機状態で展開されていたと思われる。
そして、あのように自分の肉体以外の何かに魔法を付加し、術者自らが魔法から離れている状態でもそれを維持し続けるということは、今のところ悠夜にはできない。
「(魔力源は魔石か魔結晶でなんとかなるだろうけど、どうやったらあんな条件設定ができるんだ?)」
ここの人々は魔石や魔結晶を生活に取り入れてはいるが、あれは単に内包する魔力を放出させているだけであり、火や光を発生させる、程度の原始的な使い方しか確立されていなかったはず。
やはり九曜の魔法は多式魔法とは根本的に違う。
悠夜が魔法の新しい可能性に内心興奮しているうちに下りの階段が終わり、重厚そうな鉄の扉が現れた。
九曜がまたしても、「鍵」となる術式を扉に取り付けられた鍵穴のない南京錠に使用すると ガチャリ という開錠時特有の音が鳴って錠が外れる。
重い音を立てながら開いた扉の先には教室一つ分はありそうな広い空間があり、そこにはいくつもの大きな棚が置かれ、中には様々な書物に、遠くからでも一目で純度が高いと分かる魔結晶や希少性の高い魔獣の素材が並べられていた。
ここにきてようやく、九曜の掴みどころがなく、モヤがかかったような気配がはっきりと輪郭を現した。
とても無邪気で、楽しそうな気配。
「ようこそ。儂の研究室へ」
振り向いた九曜はその老いた顔に、自分の持っている玩具を自慢する子供のような笑みを浮かべていた。