第2話
泣き疲れた真菜穂は緋雨の隣に寝そべって眠りに就いている。安らかな寝顔を見るのは本当に久しぶりだった。
祖父はその寝顔を見て安心したのか、ゆっくりと襖を閉めて母屋へと戻る。できるだけ足音を殺して歩き、渡り廊下まで進む。
ふと廊下の柱に背を預け、夜の月を見上げる。今宵は雲ひとつない空に浮かぶ月は、一点の曇りもなく、欠けもしていない満月だった。そよ風を受け、周りの木々が揺れ動く。その音を聞き、心を和ませる。
そんな時、祖父はある気配を感じる。人間とは違う、妖怪の気配を。しかし、この家に侵入しようと試みる愚か者はいない。理由はひとつ。ここが狩人の住まう場所だからだ。迂闊に近寄り、見つかりでもしたら簡単に倒されてしまうのだ。
しかしその気配は祖父のすぐ近くの柱の影から感じられた。祖父は気を抜くことなく気配のする影へと目をやった。しかし、そこには何かが実体としているわけではない。
何も見えず、しかし確実に存在する妖怪と言えば祖父にはひとつしか思い浮かばない。
「何用じゃ、『影法師』。…何故、おぬし等がここに居る」
『影法師』とは、本来地面などに映る人の影を指す。しかし、妖怪としての定義は違う。人の影から転じ、その者の心の闇に触れることで邪悪な欲望を持ってしまう。それが、妖怪・影法師。
祖父は鋭い眼光を以って影法師に詰め寄った。
「お前がここに来た理由と、緋雨が呪により倒れたことと関係があるのか。答えよ」
その答えはすぐには返ってこなかった。しかし、何か知っていそうな気配がある。祖父は懐に手を突っ込み、一枚の札を引き抜いた。その札には何かしらの術が墨で描かれている。
脅しのつもりなのだろう。狩人が放つ札は、少なからず何らかの痛手を負うことに繋がる。それも相手は狩人最強の人間。いくら老いて隠居生活を送っているとはいえ、力はそうそう衰えていないはずだ。そんな人間の札の威力を受ければ生きて帰ることは難しい。
影法師は大きくため息を吐き、話を始めた。
「お前の可愛い孫娘は、ある御方の計画の妨げになっている。我の目的は処分することではなく、監視することが目的だ。直接的な危害を加えるつもりはない」
祖父は顔をしかめ、厳しい口調でさらに詰め寄る。
「『ある御方』とは誰だ?処分を目的とするものは誰だ?そもそも何故、我が孫娘が標的なのだ?」
しかし、周りの木々が一瞬の風にざわめき、静まり返った瞬間には既に影法師の気配はなく、静寂が戻っていた。祖父はゆっくりと天を仰いだ。そこには先程と変わらず一点の曇りのない月が空に浮かんでいた。
祖父の表情が、ほんの一瞬曇った。