第1話
緋雨が意識を閉ざしてから早三日が経過した。緋雨の身体は、この家の一角の隅にある離れの和室に寝かされていた。そして真菜穂もそこから一歩も動こうとしない。それどころか、あの日から食事も摂らず、一睡もしていないのだ。
「大丈夫かしら…。あんな真菜穂は見たことがないわ」
母が居間の祖父の前で呟く。いくら食事を持って行っても、いくら寝せようとしても、頑なにそこから動こうとしないのだ。
兄が行ってもまた同じ。いくら問いかけても返答がないのだ。
そろそろ大学の試験なのだろう、ちゃぶ台に参考書とノートを広げ、勉強する兄も心配そうにペンを止めた。
「……大丈夫じゃろうて。あれにはそこまで柔な鍛え方をしてはおらん。少しばかり気が滅入っておるだけじゃ」
「……」
祖父が二人にそう言い聞かせるとゆっくり立ち上がり、居間を出る。齢八十の祖父の足腰は歳相応に弱いらしいが、そんな印象を持たないほどしっかり早々と歩くのだ。
目指した先は真菜穂と緋雨が居る和室。母屋から離れて建つ離れへ向かう渡り廊下を歩き、まもなく到着する。
襖を開けるとそこには朝からぴくりとも動かない孫娘と、昏々と眠り続ける式神の姿だった。暗く沈んだ眼で緋雨を見つめ、ただひたすらに呼吸を繰り返す孫娘。
祖父にはそれの光景が、まるで自分の無力さを問い続けているようにしか見えない。
自分が不甲斐ないから、自分がもっとしっかりしていれば、緋雨はこんな事にはならなかったのに。そう問い質し続けているのかと思うと、とても心が痛んだ。
襖を開けてから少しばかり時間が経っているのにそれにも気付かない。普段なら人の気配を察知するのが上手な孫なのに、それすらできていない。
やはり、これは真菜穂が背負うには重過ぎる現実だった。あの日の早朝、緋雨が自分のもとに訪れ、痣を移した時と一緒に『呪』を解放すべきだったのだ。どれ程緋雨に拒絶されても、後のことを考えるとそうした方が正解だったのだろう。
あの時は真菜穂の実力を試すことができるいい機会だと思っていた。しかし、今回選んだ相手が悪かった。緋雨相手に呪を解けというのがそもそもの間違いだったのだ。
「真菜穂や」
祖父の優しい問いかけにも応じることはなかった。その視線が、その声が祖父に向けられることもない。ただひたすらにそこに存在するだけ。
こんな真菜穂の姿を誰が予想することができただろうか。兄は昨日まで「式神なんてそんな存在だ」と言い放っていた。しかし、今日初めて憔悴しきった真菜穂の姿を見た。その時に祖父は「愚か者」とだけ言った。
兄は『狩人』ではない。だから祖父や父、真菜穂の気持ちを理解することができない。だからそのようなことを平気で言えるのだ。
祖父もまた父と同じく式神に一度戦闘時に見捨てられたことがあった。しかし、それは状況を立て直すために仕方なく行うことで、式神自身好き好んで行うわけではない。
だが緋雨だけは違った。己がどんな状況になっても真菜穂の傍から離れようとしなかった。そのせいで何度命を落としかけたか分からない。それでも戦線離脱はしない。しようとしないのだ。
そんな緋雨には敬意を示すべきだ。本当の意味で命を懸けて真菜穂を、主を守ろうとしている。だからこそ真菜穂は緋雨を信頼している。だが、何故その絆を否定するようなことを言えるのか。
兄にそう告げた。その時兄は初めて自分がどれ程までに緋雨を侮辱し、真菜穂を傷つけていたのかを痛感した。涙を流し、動かぬ真菜穂に、起きぬ緋雨に「すまない」と言うことしかできなかった。
「真菜穂や。いつまでもしんみりしておったら、緋雨が泣くわい」
その瞬間、真菜穂の肩がぴくりと揺れた。
祖父は少しばかり反応を示した孫娘に向かって続けた。
「緋雨はのぅ、少々疲れただけじゃろうて。お前さんがいるべきはそこではない。もっと緋雨にできる事があるじゃろう」
真菜穂はゆっくりと祖父の方へ顔を向ける。沈みきった眼には涙を浮かべ、その瞳の奥には己を責める孫がいた。
祖父はその場に正座し、真菜穂と眼を合わせる。涙を堪えない眼から大粒の涙が一粒、頬を伝っていく。
「真菜穂や。いつまでもそうやって自分を責めても、緋雨は起き上がらん。今回ばかりはじい様の失敗じゃ。許しておくれ。じゃがの、緋雨の呪は早く解かねばならんのじゃ。……じい様と一緒に、呪解きを手伝ってはくれぬか?」
壊れた心は反応しない。ここに緋雨がいない。ただそれだけの事実が真菜穂の心の均衡を崩していく。
祖父はその場から動かない孫のもとへ歩み寄り、骨ばった腕がその身体を包んだ。
体温があって暖かいのに、この身体に真菜穂がいない感じがする。祖父はその感覚をその腕で確かめていた。
「真菜穂や。辛いじゃろうて。小さい頃から一緒だった緋雨がこんな状態で、誰よりも辛いじゃろうて。だから、たくさん泣くがいい。たくさん泣いて、じい様の手伝いをしておくれ。それが今一番、ここにいる緋雨が望むことじゃろう」
その言葉を聞いた瞬間、真菜穂は堪えていた感情を露にし、祖父の言うとおりに泣き喚いた。
祖父の優しい言葉に、優しすぎる言葉に真菜穂は声を上げることなく泣き続けた。あれ程厳しかった祖父がこのような事をしたことは記憶にない。これ程までに真菜穂に優しくしたことがなかった。
祖父は次第にしゃくり上げる孫の背をさすり、慰め続けた。
「そうじゃ。泣いてもいいのじゃよ。涙が枯れ果てるまで泣いたら、きっと真菜穂はすっきりするじゃろうて」
そろそろと動く真菜穂の腕。その腕は間違いなく祖父の背に回されている。やっとの思いで祖父の肩に腕を持っていくと、その肩に縋りつき、悲鳴にも似つかない声を上げた。
たった三日間。それだけの時間が、それだけ緋雨がいない時間が、真菜穂にとっては苦痛だったのだ。呼べばいつでも寄って来てくれる。なのに、呼んでも返事をせず、体も動かない。そんな緋雨を見るのは、責め苦に過ぎなかった。
己がもっとしっかりしていれば、こんな事にはならなかった――――――。
そう思えて仕方がないのだ。
「……め、緋……雨、緋雨…………っ」
しゃくり上げながら己の式神の名を呼び続ける。祖父はそれを聞き、やり過ごすしかできなかった。
「辛いのぉ」
祖父がぽつりとそう零した。