表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
優しい闇  作者: 早野 紫希
第1章
5/21

第5話

 「あ、お帰り。ご飯美味しかった?」

 いつものように緋雨が真菜穂を迎える。その姿は未だに人型だった。

 「うん。でも、若干鯵がしょっぱかった。―――ほら、ミカン持ってきたよ」

 いつもの会話を繰り広げる。だが、掌に乗っているミカンに緋雨が興味を示さない。とぼけた顔で真菜穂に抱きつき、扉に押し付ける。

 ミカンが手から滑り落ち、緋雨の荒い息遣いだけが耳に届く。恐ろしいほどの息遣い、怖いぐらい強い緋雨の腕力。今の緋雨の存在は恐ろしいほど不気味だった。

 「緋雨…っ!」

 払い除けようとしたが、緋雨の腕力の方が勝っていて逃れられない。

 熱い舌が真菜穂の首筋を舐める。ねとりとしたものが首筋をなぞる。荒々しい息は、このことを示していたのだ。首の肉をカリッと啄ばまれ、大きな緋の眼が近寄る。

 「ねえ、いいよね?真菜穂」

 冷たい呼びかけだった。普段の緋雨はこんな冷たい言葉は発しない。啄ばまれた肉に彼の牙が埋め込まれようとした瞬間、緋雨の身体がビクリと痙攣(けいれん)し、その場にうずくまる。

 突き離された真菜穂はこの状況を正しく把握していないが、分かったことはたった一つだけ。足元にうずくまる式神に何かが起こっているということ。

 「緋雨?」

 真菜穂がか細い声で問いかけるが、緋雨の耳には届いていない。聞こえるのは、荒々しい息と、何かに抗う声。その声の正体こそ、真菜穂が従える式神だった。

 「はあっ、…はあっ、止めろ、真菜穂に、手を出すな…っ!」

 必死に何かを堪えている。両腕を交差させ、二の腕を掴む。丸まった背は小刻みに痙攣している。これは明らかにおかしい。

 異変を感じ取った真菜穂は即座に言霊を唱える。

 こんな緋雨は異常だ――――――!

「我、闇の賢者。彼の者を捕らえし者、その身体から離れよ…っ」

 「くうっ!止めろ、やめろ……」

 緋雨はそのままぱたりと意識を手放した。この言霊は一時しのぎである為、早急に『呪』を解放しなければならない。だが、今回は緋雨が相手となる。それは真菜穂にとって辛いことだった。『式神』との契約を無視することになりかねない行為だ。

 『式神』は命を賭けて主を守り抜くのが定め。しかし、今しがた緋雨は主に危害を加えようとした。それが『呪』に起因するものであっても、主に危害を加えてはならない。

『呪』を開放したとしても、一瞬でも真菜穂に牙を剥いた以上、『式神』として緋雨が真菜穂の傍にい続けられるとは限らない。

 だが、それ以上に『緋雨』が大事なのだ。『式神』としての形式に縛られる緋雨はいらない。傍に居続けてくれるなら、どんな存在になっても構わないのだ。

 幼い頃のことはほとんど憶えていない真菜穂だが、たった一つだけ憶えている。それは緋雨を式神にした直後、彼は人型から毛足の長い狼に変化し、共に遊んでくれたこと。そしてそれを心から楽しんでいたことだった。

 そんな心優しい緋雨を、失いたくはない。

 「緋雨、緋雨…!」

 うずくまった式神の頭を抱きかかえ、泣きじゃくる。泣いてもこの状況は変わらない。けれど、泣かなければ気持ちの整理がつかなかった。

 眼を閉じ、大粒の涙が頬を伝う。その涙を何かが拭った。眼を開いた先にあるのは、緋雨の白い手。息を乱し、辛そうな表情を浮かべながらも「泣かないで」と口を動かしている。

 (大丈夫だよ。俺なら、大丈夫だよ)

 そんな優しい緋雨の声が聞こえた気がした。きっと気のせいではない。緋雨の声はちゃんと真菜穂の心に届いている。苦しいのに、辛いのに、痛いのに真菜穂を慰める事を止めない緋雨。その健気な姿に、真菜穂は涙を堪えきれない。

 力を振り絞り、起き上がった緋雨は泣き止まない真菜穂を抱きしめる。本当はしたくなかった。いつ呪が出てきて真菜穂を殺すか分からないのに、こんな危険な真似はしたくはなかった。けれど、こうしなければきっと真菜穂は泣き止んでくれない。

 「大丈夫だよ。だから、泣かないで」

 今の緋雨にできる事は、子どもの様に泣きじゃくる真菜穂を慰めることだけ。その他はできなかった。しゃくり上げる背中を擦り、ぽんぽんと叩く。その動作がより一層真菜穂の安堵感を増幅させ、再び涙が頬を伝う。

 「緋雨、緋雨……っ!死んじゃ嫌だよっ!」

 緋雨に縋りつき、そう言うしかできなかった。それ以外に今は気が回らない。

 今この腕の中にいる緋雨を、手放したくはない――――――。

 「死なないよ。誰が真菜穂を置いて死ぬもんか」

 優しい眼がそこにある。濡れた眼が緋の目と合う。その眼が、緋雨の眼が語りかける。

 『もう泣かないでよ。俺は誰よりも真菜穂の笑顔が大好きなんだ。だから、笑って欲しいんだ、真菜穂』

 幼い頃に言ってくれた言葉が、その眼を見て蘇る。

 どくどくと脈打つ緋雨の心臓。規則正しい鼓動が緋雨の生存を示している。

 「ほら、笑って」

 青ざめた顔を押し隠し、笑ってと促す式神。涙で濡れた瞳は強張り、上手く笑えない。しかし、緋雨は満足そうな笑みを見せた。

 「真菜穂、いつでもそうやって笑っててね…」

 そう言い残すと、緋雨はゆっくりと瞼を下ろし力なく崩れる。呼吸はしている。心臓も動いている。なのに動かない。反応してくれない。もう、喋ってくれない――――。

 「緋雨――――――――っ!」

 真菜穂のこだまする悲鳴を、廊下に佇んでいた祖父がひっそりと聞いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ