第3話
朝目覚めると、床に白く丸まった狼が寝息を立てて惰眠を貪っていた。枕元にある時計は朝八時と表示されている。だが、今日は幸いにも日曜日。本来ならばゆっくり寝ていられるはずなのだが、真菜穂は決してそんなだらしのない生活はしない。毎朝六時に起きるのが日課である。
床に寝そべる緋雨の尾を踏みつけ、強引に起こす。
「―――――っ!」
声無き叫びが部屋中にこだまする。じたじたと暴れまわる狼は足を退かれると大人しくなったが、かなり悶絶していた。
起こされただけでなく、尻尾まで踏まれた。哀れ、緋雨。
「痛いよ…っ、真菜穂…っ」
「泣き言言わない。六時に起こさなかったのは何処の誰?」
緋雨の毎朝の日課。六時に真菜穂を起こすこと。それをどうやらサボったらしいのだ。緋雨は心当たりがあるらしく、だんまりしている。
あるはずもない明後日の方向を見つめ、絶対に真菜穂と視線を合わさない。
その仕草でそれが確信となってしまった。
緋雨は何か不都合な事があるとすぐに真菜穂と目を合わさないのだ。
「ほほう。起こさなかったんだ。いい度胸してるね」
「違う!お前の爺さんが『起こすな』って俺に言いつけたんだよ!だから絶対俺は悪くないやい!」
ぎゃんぎゃんと吠え立てる緋雨。この光景はまるで、ではなく本当に狼だ。だが、緋雨の言い分が正しければ、緋雨は無実となる。しかし、祖父がそこまで気を遣うなんてあり得るのか?
いいや、そんなことはあり得ない。何と言ってもあの祖父だ。口では「かわいい孫」と言いつつ修行は手厳しかった。情けも容赦も知らない祖父が、今日に限って真菜穂を甘やかすなんて真似はしない。
祖父に対しての疑問を手早く整理し、足元で騒ぎ立てる式神をたしなめる。
「はいはい、言い分は分かったから少し静かにしてね。―――あれ?」
そういえば痛くない。昨日の夜まで存在していた腹部の鈍痛が、ない。
何度自分の手で触ってみても、また同じ。包帯を解き痣を確認するも、そこに痛々しい痣はなかった。
緋雨を見やるとぷいっと視線を逸らされる。ああ、そうか。そういうことか。
「緋雨」
主の呼びかけに応じない。ならば再び呼ぶまでのこと。
「緋雨」
だが、ことごとく無視される。ならば最終手段を行使するしかない。緋雨の変化を強引に解き、人型に戻すのだ。
本来の真菜穂なら、そんな強引な事はしない。しかし、今の緋雨は真実を頑なに話そうとしない。
仕方なく緋雨を本来の姿に戻すための言霊を唱える。
「我、彼の者と契約せし者。我と契りを交わした者、名を緋雨。真の姿を我に見せよ」
唱え終えた瞬間、緋雨は狼の姿から転じ、人型となってベッドの傍に座っていた。片胡坐を掻き、機嫌悪そうに真菜穂を睨みつける。
「ていっ」
真菜穂は迷わず緋雨の腹部を触った。その瞬間、緋雨の身体が強張った。そして真菜穂の身体を突き飛ばす。
息を乱し、腹を抱える姿を見て確信する。祖父は緋雨に痣を移したのだ。その証拠に、酷く痛い鈍痛に耐え、長い爪を二の腕に突き刺している。
爪を突き刺した部分から血が滲んでくる。止めどなく流れてくる血は、緋雨の白い腕を紅く染めていく。
「緋雨…」
「俺が頼んだんだ。この傷は、真菜穂のじゃない。俺のだから、俺に返してくれって」
痛みも、傷跡も、全部俺に頂戴――――――。
きっと優しい式神はそう願っただろう。それが緋雨の意思ならば、祖父は緋雨の望みを叶えるだろう。
そこまで自らの主の事を思うのであれば、祖父は簡単にその心を砕くだろう。
だが、そこまで想われている主は、腹部の傷を庇い、痛みに耐える姿を見たくはない。けれどその傷を再び自分の身体に移せば、また緋雨は己自身を責め苛むだろう。
どうしたものか。考えているうちに部屋の戸がノックされる。返事もしていないのに扉を開けたのは、祖父だ。
常に和装の祖父。相原一族の中で最も強いといわれる『狩人』。真菜穂は手厳しい祖父の下で修行を積み、日夜鍛錬してきた。日常生活も手厳しいのだが、今日は一段と穏やかな目つきをしている。
祖父は、無言で緋雨に近寄り、その場に片膝を折る。
「どうじゃ?傷の痛みは」
強引に変化を解かれ、不貞腐れている式神はぶっきらぼうに答える。
「痛いに決まっている。だが、この傷はもう誰にもやらない」
「素直じゃないのぉ」
祖父はほけほけと笑いながら豊かに生やした白のあごひげを撫でる。その後ゆっくりと立ち上がり、扉付近に立つ真菜穂にこっそりと耳打ちする。
「あの傷はの、『呪』が刻まれておる。早いうちに対処せねばならんのだが、今回は主たるお前が何とかしなさい。なに、術自体は軽い、単純なものじゃ。お前の手に負えぬことはなかろう」
真菜穂は祖父の言葉を聞いて愕然とした。
『呪』。それは、対象の身体を蝕むだけでなく、そのものの命を奪う冷酷な術式。緋雨はそれが分かっていたのだろうか。もし分かっていたにせよ、そうなれば一刻を争う自体だ。悠長に緋雨と口喧嘩を繰り広げている暇はない。
「ああ、そうじゃ。早くご飯を食べにおいで。お腹が空いたろう」
不意に祖父が朝食を勧める。丁度お腹が空いていたので、大人しく従うことにする真菜穂。確か今日は母が地元の同窓会で昨夜から不在、兄は早朝から大学へ出かけているはずなので、祖父と二人きりの朝食となる。即ち、早く食べて片付けなければならないという暗黙のルールだ。
「あ、うん」
緋雨を一瞥し、祖父とともに部屋を後にする。戸がゆっくりと閉まり、ぱたぱたと階段を駆け下りる音をじっと聞きつつ、痛みを堪える式神。足音が遠ざかり、聞こえなくなると、痛みの『本性』が緋雨の身体に現れる。
「クククッ、弱イナ。コノ式神ノ身体ハ」
だが、その『本性』は一瞬にして掻き消される。緋雨はまだ己を失ってはいないのだ。ぎりぎりと歯を食い縛り、二の腕に深く爪を立て、掻きむしる。
「はあっ、……あっ、……誰が、この身体を渡すか…っ」
(早クコノ身体ヲ寄越セ。アノ娘、我ガ喰ッテヤル)
頭の中に直接響く『声』。真菜穂を欲しがる『妖怪』の『怨念の声』。きっと、昨日の夜に真菜穂が倒した、あの『妖怪』だろう。
絶命寸前に緋雨の痣に『呪』を刻み込んだのだ。緋雨はそれを知っていたのだが、真菜穂自身は知らなかった。いいや、知るほどの察知能力が欠けていたのだ。ただ、痣があれば自分の身体を運ぶのが困難だとだけ考え、傷を移しただけだ。
だが、それは自殺行為であることは明白で、早くその傷を返して欲しかった。それを今朝、真菜穂の祖父に相談しに行ったら、あっさりと傷を移し返してくれた。
だが、余計なお節介を焼くのが真菜穂の、相原家の血筋らしい。痣に秘められた『呪』を解こうとしたのだ。けれど、どうもそれは目覚めが悪く、拒絶してしまった。
「つ……あっ、動くな…っ!」
身体中を怨念が這い回る。その感覚が気持ち悪く、床に突っ伏してしまう。それでも自我は保たれており、意識ははっきりとしている。
だが、次第に身体が動かなくなっていく。ゆっくり、ゆっくり怨念に蝕まれていく。
(モウスグダ。モウスグ、コノ身体ガ、我ノ元ニ堕チル…)
怨念は嬉々として緋雨の体内を駆けずり回る。身体中に違和感を覚え、ついに己の身体を支配するだけの気力すら無くしてしまう。
言えるのは、減らず口だけ――――――。
「堕ちてたまるか…!」
身体中蠢く痣の中の『呪』。それがとうとう精神を侵食していく。ここまで着たら、もう為す術はない。『呪』の闇に蝕まれる身体と精神はどんどん支配され、じわじわとゆっくり侵食される。
そして――――――。
「く…っ、真菜穂…、ま……な、ほ……」
緋雨が、『呪』の闇に引きずり込まれ、堕ちていった。怨念は堕ちた式神の身体をゆっくりと動かし、慣らしていく。
「こんなものなのか?式神の『意志』とやらは」
その声は、確実に緋雨の声ではない。思いやりの心を忘れた、冷たい声。
それが、その身体を支配する者は緋雨ではないと物語っていた。