第2話
ようやく真菜穂の家に辿り着いた。立派な日本家屋に住む真菜穂の家柄は、『狩人』だった。人間に危害を加える『妖怪』を殲滅し、人々の平和を維持するのが役目。
真菜穂の戦闘は『言霊』を得意とする。『言霊』とは、自分が心の中で定めたことを声に出して詠唱するのだ。その意志の強さが『言霊』の強さを決定する。さらに戦闘だけでなく、日常の意思決定でも発動しかねないので、真菜穂の日常生活の座右の銘は、『不言実行』だそうだ。
そんな真菜穂はこの家の末っ子で兄が一人いるのだが、兄は『狩人』に適さない性分だったため、真菜穂がその使命を代わりに担っている。
『相原』という表札を掲げた門をくぐり、玄関の引き戸を開ける。すると玄関先で妹の帰りを待っていた兄が血相を変え、緋雨に怒鳴りつける。抱えられている真菜穂の状態も省みずに。
「貴様、真菜穂がこんなになるまで戦わせたのか!」
責められる緋雨。だが、それも当然の事だと理解しているが故に反論しない。自分の怪我を肩代わりされ、こんな状態にしてしまったのだ。己の不甲斐なさに腹を立てる気持ちを理解されようなどとは思ってはいない。
精神力を大幅に削ぎ落とす言霊を唱えた後の主の身体を運ぶことしか、できなかったのだ。それは唯一緋雨が真菜穂に、主にできたことだった。
「だから式神は嫌なんだ!何も考えないで自分の命を最優先する!」
酷い言葉で詰られる。緋雨はいつでも真菜穂を最優先にしてきた。自分の命など捨て置き、真菜穂が生きていればそれでいいと願っている。そのためだったらどんな怪我を負っても構わない。どんな死に方をしてもいい。そう思っているのに、その思いを踏みにじる言葉を浴びせられ、緋雨の肩が震えた。
兄は式神を従えてはいない。しかし、彼らの父親は式神に見捨てられて戦闘時に命を落とした。まだ真菜穂が物心つかないときだったが、歳の離れた兄はその光景を昨日の事のように覚えている。
自分が死にたくないが故に主を見捨てて生き延びる。式神とはそういう存在だと、兄は感じている。
「にいさ……、緋雨を、責めないで……」
掠れた声で緋雨を守ろうとする真菜穂。幼い頃から一緒に過ごしてきた緋雨が、無意味に叱られている。真菜穂はそれには我慢ならなかった。
だが、緋雨は優しい目線を真菜穂に向け、静止した。
「いいんだ。俺が悪いんだから、責められるのは当然だよ」
「どうして、緋雨が、責められるの?緋雨は、悪くない。悪いのは、油断した、私。だから、緋雨は、悪く、ない……」
ぼんやりした、焦点のあっていない眼で緋雨を見つめる。緋雨を探す腕が宙をさまよい、力なさげに揺れ動く。
不意にその腕が緋雨の髪に触れる。そして、慣れた手付きで頭をわしゃわしゃと撫でる。優しい目線の彼女は、意識を朦朧とさせながらも緋雨に伝えたいことを口にした。
「ひ、さめ……、自分を、責めちゃ、だめ……」
その光景を目の当たりにした兄は、苦い顔をして何も言わずに玄関から去っていく。それも当然のこと。これ程までに二人の絆を目の当たりにしたことがなかったのだ。真菜穂にとっての式神の存在を思い知らされたのだ。
緋雨は一瞬で我に返り、素足のまま家に上がると真っ先に真菜穂の部屋を目指した。玄関近くの階段を登り、右の突き当たりの扉を開く。落ち着いたベージュで統一された部屋の片隅に置かれている小さめのベッドに、そっと抱えている身体を下ろす。
服を脱がせて手当てをしようと思ったが、ふと自分の性別を考えた。式神であるとしても、緋雨は男だ。女の真菜穂の身体を見ることは、きっと犯罪ではないのだろうか?
だが、手当てをしなければきっと痣が残るだろう。意を決して真菜穂の服を脱がせる。慎重に脱がせた主の肢体は真っ白なのだが、その綺麗な身体に忌まわしく浮き出た、己が負うべき赤黒い痣を見つける。
緋雨が受けた打撲傷の部分は背面だったが、どうやら真菜穂はその痣を腹部に移しているようだ。痛々しいほどに広がる赤黒い痣。きっと、この傷を負いながら真菜穂を家まで運ぶことは困難を極めただろう。
見るも無残なその場所に冷たい湿布を張る。ひやりとした感覚に、思わず真菜穂が目覚める。
「冷たい…」
ぼけっとした間抜け面を披露し、今自分の身に何が起こっているのかを考える。上半身に着ているはずの服が脱がされ、顔の近くに追いやられている。その目の前には変化を解いた、人型の緋雨。
「何して…っ、つぅっ!」
ベッドから飛び起き、緋雨に殴りかかろうとした瞬間、腹部に激痛が走る。背を丸め、その部分を庇う。しかし、緋雨は再びベッドに押し倒し、揺ぎないその眼で真菜穂と視線を合わせる。何もかも射止める眼で、真菜穂を説得する。
「じっとしてて。後は包帯を巻くだけだから。―――殴るなら、後で」
意志の強い、真っ直ぐな瞳。だがその内には、主の傷を心配する心が潜んでいた。真菜穂はそれを察知し、大人しくされるがままになっている。
器用に包帯を巻く緋雨。長く伸び、尖った爪が自分の肌を傷つけずに巻くのは至難の業ではないのか。そんな取り止めのないことを考え、ベッドに全体重を預ける。
巻かれ終わると、ぱしっと緋雨の頬を叩く。端整な顔立ちが痛みに歪む。
「ばか。こんな痣、放っておいてもよかったのに…」
また緋雨の手を煩わしてしまった。それには毎度の如く罪悪感や、自分に対する嫌悪感が芽生えてしまう。
だが緋雨はそんな主だからこそ従おうと思ったのかもしれない。そう考えるとものすごく複雑な気分だ。
「真菜穂の身体に傷は似合わない。だから、その傷全部、俺に頂戴……」
緋雨は真菜穂の肩に顔を埋める。細い両腕が真菜穂を包み、優しく抱き止める。
緋雨の髪から優しい香りが仄かに匂う。その髪をさらりと撫で、眼を瞑る。
「そんなに、自分を責めないでよ……」
抱き止める式神を抱き返し、その存在を確認する。大丈夫だ、緋雨はここにいる。ちゃんと真菜穂の傍にいる――――――。
この質感が、この体温が、聞こえる鼓動がそれを証明している。
しばらくまったりとした時間が流れ、緋雨が不意に真菜穂から離れた。
「そろそろ、戻らないと」
そう言って緋雨は手早くベッドの脇にあるカゴから淡い桜色のパジャマを取り出す。そしてそれを手早く真菜穂の上半身に着せ、さっさと狼の姿に戻ろうとした。そうせねば、この次に何が起こるかが自分の中で分かったからだ。
だが、真菜穂が緋雨の変化を拒む。それにはささやかな理由があった。
「……眠るまで、手を握ってて」
拒む理由。それは、安心して眠れるように緋雨と手を繋ぐ事だった。幼い頃からそうして寝ていたせいか、今でも時折緋雨の手が恋しくなるのだ。
「真菜穂…」
緋雨もそれが分かっている。だが、もう真菜穂はそこまで子どもではない。そこまで自分に依存しなくても、そう簡単に傍から離れない。それが約束事だ。
だが、真菜穂の甘えた眼が緋雨に訴えかける。そして極めつけの一言を浴びる。
「お願い、緋雨。今日のわがまま…叶えて?」
緋雨は真菜穂の我が儘に弱い。お願いされれば何でも叶えてしまいそうになる。本来ならばたしなめて終われるはずなのだが、今日ばかりはその我が儘に付き合ってやらねば、帳尻が合わないだろう。
今にも泣き出しそうな眼が緋雨の目の前にある。じっと見つめられ、とうとう緋雨の心がぽきりと音を立てて折れる。
「仕方ないな。今日だけだよ?―――ほら、俺はここにいるから、安心しておやすみ」
布団を頭から被り、もぞもぞと顔と手を出す。猫のように身体を丸め、緋雨の方を向いている。その仕草がかわいらしく、緋雨は真菜穂の手を握り、髪を撫でる。
満足そうな顔が、次第に眠りの世界へと誘われていく。うとうとし始めた時に、真菜穂が緋雨に対しての寝言が聞こえた。
「緋雨、行っちゃ嫌だよ……」
緋雨はその言葉を聞き、苦笑する。そして規則正しい真菜穂の寝息が聞こえるまで、緋雨はその手を離さずにいた。