最終話 幸せな犬
複数の高い塔と先端が槍の如く尖った柱により壁が支えられたシリン大聖堂。
その歴史は古く、二度に渡り大掛かりな補修が行われた由緒ある巡礼の地は、教徒たちにとって神聖な祈りの場であり、歓迎の場、そして婚礼の場として広く開放されていた。
大鐘楼の鐘が三度大きく鳴り、結婚の儀式の始まりを告げる。
大聖堂内は熱気に溢れながらも厳粛な空気に包まれていた。
緻密な模様のステンドグラスから射し込む光は淡く滲み、すべてを幻想的に照らし出す。
尖塔アーチと丸型アーチが複雑に融合した謹厳な大天井、白黒大理石の列柱群、左右対称の聖歌隊席は白い衣装の聖歌隊の面々で埋まり、列席者たちは揃って顔を上げ沈黙を是としている。
内陣の壇上には、白地に金刺繍を丹念に施した儀礼用の外衣を身に付け、生涯を信仰に捧げた大主教がシリン福音書を手に持ち儀式に臨んでいた。
大主教の前に立つのは、三人。アーティス、ミレ、シャレムだ。
なにがどうして、こうなったのか。
シャレムは表情だけ取り繕いながら、柄にもなくうろたえていた。
今日はミレの結婚式で、慣例に則り、ミレはキャスと共に入場するはずだった。
だが蓋を開けてみれば、ミレはキャスとシャレムの両方を伴って聖壇前で待つアーティスのもとへ歩いて行き、キャスはなんとミレとシャレムの二人をアーティスに引き渡したのだ。
そうこうする間に参列者が全員起立し、讃美歌を斉唱し始めたので勝手に動くわけにもいかず、シャレムは混乱する頭を抱えてミレの隣に立ったまま。
続いて大主教が福音書を朗読し、結婚生活における戒をいくつか説く。
粛々と式が進行していくので、シャレムは焦っていた。
誰もなにも言わないが、これはどう考えてもおかしい。
本来は花婿と花嫁の両名だけが聖壇に残るのに、なぜか自分も残っている。そして悪いことに、完全に引き際を逃してしまった。
このままではミレばかりかキャスも汚名を着ることにもなりかねない。
早くこの場を退かないと。
だけど、どうやって?
シャレムが最適な打開策を講じられず逡巡している間に大主教の訓示は終わり、とうとう誓約の儀式に到る。
――もはや、万事休すだ。
シャレムは呼吸を潜めた。気配を断ち、せめて邪魔にならないよう空気と化す。
大主教の誓約文を読み上げる穏やかな声が大聖堂内に通る。
それから一拍の間をおいて、大主教はアーティスを見た。
「汝、この者を花嫁とし、生涯を共にすることを誓いますか?」
「誓います」
大主教は軽く首肯し、次にミレを見た。
「汝、この者を夫とし、生涯を共にすることを誓いますか?」
「誓います」
大主教はまた頷き、最後にシャレムを見た。
「汝、この両名を飼い主とし、生涯を共にすることを誓いますか?」
予期せぬ事態にシャレムは心底驚き、咄嗟に親族席の最前列にいたキャスを振り返る。
キャスはシャレムの視線を冷静に受け止めて、微かに首を縦に振った。
その所作を眼にしたシャレムは、突然、どうしようもなく心許なくなった。
――君の新しい名前はシャレムだ。
――君の飼い主は私、娘のミレが君の主人だ。
キャスに拾われてからこちら、常に道を示してくれたのは彼だ。
彼がいなければとっくの昔に野垂れ死にしていただろう。
至極当然の如く、自分は死ぬまで彼の犬だと思っていた。
――それなのに。
急に突き放されて眼の前が真っ暗になったシャレムは身の置き所もなく立ち尽くした。
「大丈夫だよ」
「ああ、大丈夫だ」
いつのまにかシャレムはミレとアーティスの間に挟まれていた。
「だいじょうぶ、って……?」
訝しさをそのままぶつける。
ミレが囁く。
「シャレムは私の犬よ。ずっとずっと、傍にいて」
アーティスが告げる。
「キャス殿に代わり、私がおまえの新たな飼い主になる。一生、ミレと共に大切にすると誓うから、どうか認めてほしい」
ミレが笑う。
「シャレム」
アーティスが笑う。
「シャレム」
大主教が微笑む。
「どうしますか?」
真っ暗だった視界に光が戻り、身体の硬直が解ける。
眼の前にはミレとアーティスの柔らかな笑顔があり、無条件で手が差し伸べられていた。
まるであの日のように。
キャスが生き地獄から連れ出してくれた、温かい手のように。
「誓います」
ごく自然とシャレムはそう答えていた。
「では指輪の交換と誓いのキスを」
アーティスとミレの指輪交換が滞りなく済んだあと、シャレムにも三人の名前が刻まれた指輪が贈られた。そして額に代わる代わるキスされる。
大主教は新郎新婦の誓いのキスを見届けると、結婚証明書に署名を求めた。
アーティス、ミレ、シャレムのサインが並ぶそれを掲げて、朗々と宣言する。
「聖シリンの御名において、ここに二人の結婚と犬一名の永久所有権を認めます」
シャレムは黒いロングコートのポケットに両手を突っ込み、貧民街の薄汚れた路上に立っていた。
瓦礫同然の住居群、道端にはゴミの吹き溜まり、そこかしこにある黒い染みは反吐か血痕か。
職にあぶれ、暇を持て余した連中があちこちにたむろし、饐えた悪臭を放っている。耳に届くのは罵声や怒声、泣き声や悲鳴、商売女の客引きの声かけだ。
かつてここの住人だった頃は、悪と暴力と下種の巣窟だった。
こうして見る限り、いまもたいして変わらない。
「……なんか用かい?」
振り向くと、鉄棒や斧などの得物を手にした浮浪者の集団が迫っていた。
「人を探しています」
「ここにゃあ、あんたみたいな立派な身なりの御仁が探すような奴ァいねぇよ」
「いるはずなんですけどね」
「悪いこたァ言わねぇ。命が惜しけりゃ有り金全部と身ぐるみ全部置いてとっとと帰ぇんな」
「とっとと帰った方がいいのは、そっちだと思うけどな」
言いながらシャレムはポケットから手を抜き、コートの襟をおもむろに開いた。
「見ます? 僕の『首輪』」
シャレムの咽喉に捺された焼印を一目見るなり浮浪者たちは悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。
路上にただ一人残ったシャレムは襟を直し、コートの埃を払って軽く伸びをした。
「さて、と。お仕事、お仕事」
国家の犬。
国益の名のもとに生かされている、元犯罪者。
名も戸籍も過去も自由も剥奪された、暗殺指令の執行者。
狙われたら最後、決して逃げられない。
犬の名は、星。
飼い主に溺愛された、幸せな犬である。




