犬と現状・2
十
「……あんた、そこでなにしてんのよ」
冷たい疑念を含んだ声でビスカが芸術家に訊ねる。
芸術家は彼女に背を向けたまま、床に散らばった大小様々の石を手にとっては戻し、重量を確かめては撫でまわし、と集中した様子で、ビスカの問いに上の空で答える。
「見てわかると思うけど」
「わからないから訊いてるんでしょうが」
「ロック・バランシング」
「なによ、それ」
「石を積み重ねて作る芸術作品さ。接着剤を一切使わずにのせていくんだよ。大きな石と小さな石を組み合わせて、まるで不可能と思える絶妙なバランスで自立させる。すごいだろう」
「ふーん。で? そのロックなんとかってやつを、どうしてよりにもよって姫さまの居室のど真ん中でやってるわけ? 通行の邪魔でしょうが」
苛々しながらビスカが苦情を申し立てるも、芸術家はどこ吹く風で鼻高々に言う。
「僕は天才だからね。ごらんよ、この石塔を! もう十四の石を積んだ。素晴らしいだろう。あと一つで完成さ――よし、この石だ」
芸術家が呼吸一つにも注意し、大人の頭ほどもある大きな石を小さな石の上に積みにかかる。
精神集中して取り組む芸術家の背後に立ち、不動のままビスカは見守った。
そしてついに、芸術家が石を頂点に置くことに成功した。芸術家の眼が喜びに輝く。彼は得意満面の笑顔で言った。
「――やった。さすがは僕だ。やはり天才に不可能はないのさ。さあお嬢さん、とくと見たまえ! 僕から美しいあなたに捧げる壮大な愛の芸術作品の完」
成、と続くであろう揚々としたセリフの最中、無情にもビスカの回し蹴りが炸裂し、見事な石の塔は一瞬にして崩壊した。
芸術家は堪らず絶叫する。
「ぎゃあああああーっ。ひ、ひどいよ、ひどいよ、ビスカ君! 僕が一生懸命、心血注いで作った愛の塔が台無しじゃないかあ」
ビスカは「ふん」と鼻を鳴らし、ガミガミ怒鳴った。
「うっさい! こんなところでそんなものを作るあんたが悪いのよっ。とっとと全部の石を拾って片づけないと、あんたごと捨ててやるからね」
「またまたー。そんなこと君がするわけないじゃないかー。僕たち友達なのにー」
「あんたと友達になった覚えは一瞬もないわ、クソボケが」
氷点下の声で芸術家の発言を一蹴すると、ビスカは身体の方向を変え、ソファの上でシャレムの頭を撫でながら本を読むミレのもとへいそいそと駆け寄る。
「ひ・め・さ・ま! お待たせしましたぁ、ビスカ特製パンが焼き上がりましたよぉ。お茶の支度をしますから、ひと休みなさってくださいな」
有能な侍女を地でいくビスカはたちまちテーブルを整え、ミレを着席させた。
ミレの右隣にはシャレムが座り、左隣には聖職者、正面に芸術家、彼の左右に闇騎士と大商人がちゃっかりおさまっている。
そして右手にトング、左手に鉄扇を握ったビスカがにっこりと微笑む。
「さ、召し上がれ!」
まず頭を抱えて呻いたのは大商人だ。
「デジャヴ、デジャヴが。なんだか前にも同じことがあった気がする」
闇騎士が籐の籠に盛られたパンを眺めてびびりつつ言う。
「確か、野菜に果物、お菓子、肉に魚に、それからえーと、アタリパン、ハズレパンだったっけか?」
無表情ながらも溜め息をついて聖職者が補足する。
「おまけパン、猫パン、犬パン、他もあった」
シャレムはプイと横を向き、ボソッと呟く。
「魚キライ」
鉄扇を手にしたままビスカの拳がシャレムの頭をガツンと殴る。
「ふぎゃっ」
ビスカは鉄扇をこれみよがしに手の中で弄びつつ、ミレを除く全員を視界に捉えながら宣言した。
「食ってから文句言いなさいよ、この駄犬が。あんたたちも、残したら命はないわよ。この新・鉄扇の錆にしてやるから」
シャレム、聖職者、闇騎士、芸術家は一斉に同席する大商人を注視した。どの眼も「またおまえか」と憤っている。
代表してシャレムが詰問した。
「新・鉄扇?」
大商人はフィンガーボールで指を洗い、布巾で拭きつつ、しどろもどろの体で言い訳する。
「だ、だって俺、商人だし。商売上、頼まれたら断れな――」
「どこらへんが『新』なわけ?」
「重量三倍」
次の瞬間、大商人は全員の渾身のローキックをくらって椅子ごと背後にぶっ飛ばされた。
「バカですか。いっぺん死になさい」
「一発くらったら、マジ昇天するっーの! ボケっ」
「……」
「凶器を渡す相手は選んでくれないと困るよ、大商人君。脅すよ?」
四方八方から口々に責められる大商人を無視して、ミレは黙々とパンを頬張る。
それにハッと気づいたビスカはコロッと表情を変えてミレに擦り寄った。
「お味はいかがですかぁ、姫さま?」
ミレが愛くるしい顔をビスカに向け、無垢な笑顔を浮かべる。
「おいしい」
ビスカは嬉々として、ぴょこんとその場で跳ねた。
「きゃあ、本当ですか!? ビスカ感激! さぁさ、温かいうちにいっぱい食べてくださいね。ジャムやお茶のおかわりもたくさんご用意してますからぁ」
闇騎士が呆れた顔で漏らす。
「……どーよ、あの変わりよう。この待遇の差。俺たち完っ全に、ないがしろー」
「ほほほ。あたりまえ」
「あたりまえ、キタ!」
「……やーみーきーしーぃ。それ以上無駄口叩くと、ビスカ姉さんがこの新・鉄扇でかわいがっちゃうぞー」
掌をタシタシと鉄扇ではたくビスカの笑顔はもはや顔面凶器というほかなく、見る者をぞっと恐怖に陥れた。
それからしばらく賑やか(?)に食が進み、ビスカの手により、皆の皿に紫色のパンが配られた。見るからに奇抜で味の保証がないように思える。
シャレムは食べた途端、口を両手でおさえた。
「おええ。なんじゃこりゃ、毒か!? 毒なのか!?」
「個性的な味だなあ。腐臭が漂うのに甘くて爽やか、舌にはぴりりと刺激」
「……酸味が強い」
「まずい!」
「ご主人さま、僕、吐きそう」
闇騎士、芸術家、聖職者、大商人、シャレムがもれなく悶絶する。
ミレがビスカの顔を窺うと、ビスカはテーブルにあった蜂蜜とレモンジャムとライムジャムを混ぜてたっぷりパンに塗り、「どうぞ、姫さま」と恭しく差し出した。
「このパンは、ドニスイードってとても珍しい果物を練り込んで焼いたんです。このままだとまずくて食べられたものじゃないんですけど、こうすれば独特の酸味が酸味で中和され、おいしくいただけます。いかがです?」
「うん、おいしい」
勇気ある闇騎士がお茶をがぶ飲みしながら抗議する。
「それを早く言えよ!」
「ふん、私がそんな親切な女だと思ってるの?」
「姫さんには教えただろ!?」
「あーら、あんたたちクソたわけな野郎と私の大事な大事な姫さまが同列な扱いのわけないでしょ」
「クソたわけ!? ちょ、なんで俺、そこまでこきおろされなきゃならんの!?」
限りなく低レベルな舌戦を繰り広げるビスカと闇騎士を眺めて、憤死ものの紫パンを気合で飲み下した芸術家が曰く。
「……ビスカ君ってさぁ、侍女として有能だし、頭は切れるし、腕は立つし、美人で身体もプリプリで言うことなしなのに、ほんと、ざーんねん、だよねぇ」
「そこ、うるさい!」
地獄耳のビスカが芸術家を振り返り、ぶん、と鉄扇を投げて寄こした。
至近距離で矢の如く飛来した鉄扇を脊髄反射で受け止めた芸術家が、驚愕に眼を丸くする。
「うっひゃあ、重っ。これを軽々と扱うなんてか弱い女性じゃまず無理だ。すごいよ、ビスカ君! ぶっ」
突然、芸術家が椅子ごとひっくり返った。
シャレムが倒れた芸術家を見に行くと、彼の腹部に二本目の鉄扇がめり込んでいる。
ビスカが勝ち誇ったように鼻で嗤う。
「新・鉄扇の威力はいかがかしらぁ?」
シャレムは大商人を冷視した。
いったい何本都合したのか。
不穏な気配を察した大商人は既に椅子から腰を浮かせ、逃げの体勢を取りつつ、眼を泳がせる。
「待ちなさい」
「すまん! 俺、急用を思い出したからもう行くわ! じゃっ」
脱兎の如く逃亡した大商人を一陣の風を巻き起こしてシャレムが追う。
「……」
「……」
ミレと聖職者だけが我関せずの態でお茶の時間を正しく過ごす。
――それはありふれた午後の光景。




