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迷惑な溺愛者  作者: 安芸
番外編 バカな犬ほどかわいい
96/101

犬と現状

      九


「言っておくけど、ご主人さまは(アジュール)なる花嫁(・マリー)にはならないよ」


 シャレムは闇を切り裂くナイフの切っ先を弾き返しながら言った。


「……」


 聖職者は沈黙を盾に距離を詰め、鋭くシャレムに襲いかかる。

 夜の裏庭、厚い雲が月光を遮る闇夜を絶好の鍛錬の場としてシャレムと聖職者は互いにしのぎを削っていた。

 濃密な静寂の中、刃を交える音が淡々と響く。

 シャレムは死角から突かれても難なくかわし、翻って斬り結ぶ。


「だからもう教会に帰れば?」

「……教会には、戻らん」

「なんで」

「ミレは私の貴女(ディエ)だ。己の天秤を捧げた以上、従う義務がある」

「ふーん」


 聖職者はシャレムの連続攻撃を右に左にと器用に避けて、黒の聖衣装の裾を揺らし、ナイフを斜に構えて反撃に出る。


「教会の犬が教会主以外に従うって珍しいよ。怖い人に脅された?」


 キャスならばやりかねない。

 聖職者は冷たく言った。


「答える必要はない」

「それともやっぱり、僕のご主人さまを好き好きーってことかなぁ」

「――くだらん」


 シャレムの問いに一瞬の間をおいて答えた聖職者は僅かに気を乱した。


「あれ、図星?」

「くだらんと言っている」


 一段と速さを増したナイフ捌きに適時応じながらシャレムは平然と続けた。


「あーあ、ほんっとーに僕のご主人さまは無駄に変な奴を呼び寄せるんだから」


 聖職者は苛立ちを帯びた声で告げた。


「私は(セインティス)シリンの教えに従い、主の認めた(アジュール)なる花嫁(・マリー)に敬意を払って天秤を捧げた。ただそれだけのことだ」


 暗に、他意はない、と突っ撥ねる。

 その割に普段より口数が多い、とシャレムは思ったが軽く受け流す。


「あ、そう」


 シャレムは納得していなかったが、聖職者の態度に邪な気配を感じられなかったのでそれで由とすることにした。

 大きく踏み込み、打ち合わせ、互いに飛び離れて得物を収める。どちらも呼吸一つ乱していない。


「明日はご主人さまが算数術の定期学会に出席する。僕と闇騎士はついて行くけど」

「……」


 微かに聖職者が首肯する。自分も同行するという所作だ。表情は変えない。

 シャレムと聖職者は無言で対峙し、ほぼ同時に背中合わせで踵を返した。




 算数術の定期学会は毎度のことながら荒れた。

 アルト会とヨハンナ会による論説のぶつかり合いから始まり、瞬く間に算数術に人生を捧げた出席者たちの導火線に火が点いて、方々で熱弁が振るわれた。

 それはミレとて例外ではなく、隣席する師シーズディリ・ダリアン・ルケイン博士と共に一般人では理解できない算数定理についての意見を闘わせていた。


「……」


 シャレムは闇騎士と肩を並べて会議室後方の壁に寄りかかりながら、この様子を静観していた。聖職者は一人離れて、学問における最高栄誉の称号を授与した(ヒア・)学者(ミストリー)の歴代受賞者たちの肖像画が並ぶ入り口横の壁際に立っている。

 聖職者の眼はミレにひたと向けられ、一瞬も逸れることがない。瞬きすら惜しむような一途な凝視に闇騎士がチッと舌打ちする。


「……なんてぇ眼をしてやがる。ンだよ、あいつも姫にマジなわけ?」

「うるさいです。いちいち口にしなくてもわかるでしょう、本当に頭悪いですね」

「なんだって奴まで……いや、だけど、やばくね? あいつみたいに普段ガチガチの禁欲生活を送っている奴ほど一旦キレたら怖いものってねぇよ? 姫が拉致られる前に絞めといた方がいいんじゃね?」

「はっ、あなたじゃ返り討ちに遭うのが関の山でしょう」

「ああ? ケンカ売ってんのか、コラ」

「いつでも受けて立ちます」


 シャレムと闇騎士が殺伐とした旋風を巻き起こして一戦交えようとした次の瞬間、椅子がすごい勢いで吹っ飛んできた。

 二人が難なく椅子を避けてサッとそちらを振り向くと、泣く子が更に激しく泣き喚くような恐ろしい形相のダリアンと厳しい顔をしたミレに睨まれていた。


「喧しい。我々の論戦の邪魔をする奴は表に出ていろ!」

「シャレム、出てって」


 名指しされ、シャレムはショックのあまり顔色を失い、オロオロした。

 闇騎士は隣で「ケケケ。ざまぁ」と他人事のように笑っていたが、間髪おかず、ミレに「闇騎士も」と冷たく告げられ同じく意気消沈する。

 すごすごと背中を丸めてシャレムと闇騎士が退場すると、聖職者はより一層熱のこもったまなざしをミレに注いだ。


 なぜか、どれほど眺めていても飽きない。


 起きているときも、眠っているときも、同じように眼が離せない。

 それが自分の務めなのだから当然と言えば当然だが、解せないのは、ミレを見ることで心が騒ぐ、その理由。


 ――それともやっぱり、僕のご主人さまを好き好きーってことかなぁ。

 ――くだらん。


 ふと、さきほどの会話を思い出し、聖職者は僅かに眉を顰めた。

 胸に手を置く。かつて肌身離さず下げていた天秤の首飾りは、いまはミレの所有物となっている。


 ――まさか、裏世界を統べる支配者の娘に(セインティス)シリンの加護があるよう祈るときがくるとはな。


 教会の教育では、人間を好き嫌いでは分けない。信仰の敵か、その他か。審判を下す断罪人か、否か。殺す必要があるか、ないか。いずれかだ。


 ――それなのに。


 天秤を捧げ、影のように付き従い、片時も眼を離すことなく守る相手を得ようとは、夢にも思わなかった。

 気がついたら、天秤を手放していた。ミレは彼の差し出した天秤を受け取り、首に下げた。あの瞬間、聖職者はミレのものになったのだ。

 悔やんだことは、不思議なことに一度もない。教会に仕えていたときと同様、いやそれ以上に日々の暮らしは充実している。

 視線の先で、ミレは若い男性会員二人と額を突きつけ合って異論をぶつけている。その距離が段々と狭まっていくにつれ、聖職者は苛立ちを募らせた。


「……」


 ついに黙って見ていられなくなった聖職者は、表情を変えないまま壁から離れ、ミレの背後にまわった。両脇に手を添え、細い身体をひょいと持ち上げて後退させる。


「邪魔しないで」

「してない」


 怒気を孕んだミレの抗議をしれっとやり過ごす。

 しかしミレは性懲りもなく討論相手との距離を詰めるので、聖職者はその都度、ミレを下がらせるという無言の攻防は会が終わるまで続いた。


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