犬と甘い日々・3
八
国家の犬の名は伊達ではない。
シャレムは暗殺指令の実行者として遺憾なくその能力を駆使し、任務を着実にこなしてきた。それも一重に、ミレの犬でいるために。
愛用の武器はナイフ。
それも手の中に隠せるくらいのものが暗殺には最も使い勝手がいい。護身用、もしくは対人用に関しては刃渡りがある程度長く、重量もそれなりのものでなければ接近戦では不利となる。
シャレムは腰に帯びた対人用のナイフで容赦なく攻撃した。灰色の髪が風に煽られてそよぐ。冷徹な灰色の瞳に疎ましそうな感情をあらわにしながら、唇はきつく結ばれている。
そんなシャレムに対するは、恍惚とした表情の闇騎士だ。職業に相応しく黒ずくめで、同じく黒一色を纏うシャレムと交戦する様子は影が二つ踊っているかのようだ。
いかにも楽しげに闇騎士が笑う。
「あっはっはっはっ! 犬君、なっかなかやるじゃねぇのー。俺相手にここまで頑張るとは結構なお手前だよー」
闇騎士の堂々たる上から目線の発言をシャレムは見事にスルーして言った。
「僕、あなたに用はないんです。とっとと失せてください」
「そんなつれねぇこと言うなよー。俺たちオトモダチじゃないかぁー」
「だ・れ・が、オトモダチなものですかっ! 死ね」
「いやいやいや、殺したらまずいっしょ。ってゆーか、勝手に死んだら俺も犬君も主にミンチにされて骨まで食われるぜぇ」
「安心してください。あなたが死んだら僕が責任をもって豚の餌にしてあげます」
「なんで豚なんだよ!?」
「豚ぐらいしか食いませんよ、あなたは見るからにまずそうですからねっ、と」
シャレムが死角から刺した一撃を闇騎士は紙一重の差でかわす。
「おっとぉ、際どいねぇ。犬君ってば野蛮だぜー」
カラカラ笑いながら今度は闇騎士が大剣を立て続けに繰り出す。
「ところであなた、僕のご主人さまをつけまわす行為、やめてくれません? 目障りなんですけど」
「つけまわしているわけじゃねぇよ。視察だ、視察。なにせほら、未来のお嫁さんになるかもしれ――っとっとっと、危ねぇなあ」
「ちょこまかと動かないでください」
「避けなきゃ死ぬだろ!」
「死んでください」
「やだよ。なあ、俺も犬君に訊いてみたいことあるんだけどさ、犬君のいっちばーん大事なものって、なに?」
「愚問ですね」
闇騎士の大剣とシャレムのナイフががっきと音を立てて組み合う。得物は違えど、展開は五分五分だ。闇騎士は予備動作なくシャレムの足を払いにかかり、一瞬早くこれを察したシャレムが押し離れて後方に跳躍した。黒い上着の裾が鳥の翼の如く翻る。
闇騎士は距離を詰めず、大儀そうに大剣をトンと肩に置く。
「やっぱり、姫なわけ?」
暗い瞳で訊いてくる闇騎士にシャレムは暗い微笑で答えた。
「当然でしょう。僕はご主人さまなくして、生きる価値のない犬ですから」
シャレムの返答を耳にして、闇騎士の顔面が苦渋に歪む。大きく舌打ちし、片眼だけギリっと眇めた。
「うわ、やっぱムカつくわ。姫にちょーっとかわいがられているからって、しれっとなんてこと言いやがるかな」
シャレムはだらりと下げた両手にナイフを身構えた。闇騎士の下手な探りを嘲笑い、口角を持ち上げる。
「言っておきますけど、ご主人さまは僕のですから。僕が守って、僕が慈しんで、僕が死ぬまで傍にいます。なにせ犬ですから。ご主人さまに尽くすのがお仕事なんです。あなたがいくら僕を疎ましく思おうと、追っ払えませんよ? なにより、ご主人さまは僕のことが大大大大好きですから」
「……やばい、心底ムカついてきたわ」
「それはこっちのセリフです」
シャレムが闇騎士に極上の微笑みを見せると、闇騎士がいきなり剣を腰に据えて突っ込んできた。対暗殺者を生業とする闇騎士の常にふざけている余裕が怒気に変質し、こめかみがピクピクと痙攣している。
洗練された動作で難なく斜めに避けて、シャレムはダメ押しの一言を加えた。
「ご主人さまは渡しません。あなたにも芸術家にも――他の誰にも」
ミレが心から愛さない限り。
いくらシャレムを牽制しようとムダだ。たとえ夫候補だろうと遠慮する筋合いはない。犬は主人の傍にいて当然、主人の面倒をみるのは犬の仕事なのだ。
ミレはよく本を読む。
ほんの小さい頃から本好きの子供だった。お気に入りの椅子に座ったり、庭の木に寄りかかったり、書庫の床にごろごろ転がりながら、夢中になって読む。
そんなときシャレムはミレの読書の邪魔にならないよう、息をひそめ、おとなしく空気と化している。
しばらく経つと、ミレの手が無意識にうろつき始める。シャレムがいそいそとミレの手の下に頭を潜り込ませると、ミレは探し物をみつけたときのようにホッと気分を寛がせてシャレムを撫でる。
ゆっくりと髪を梳く華奢な指の感触にシャレムはいつもうっとりする。
「ああ面白かったー」
ミレが本を閉じてホウッと感嘆の溜め息をつく。シャレムはなにげなく書名を見ると、算数術に関する難解な書物らしい。
いつどうしてミレが算数術などというものに嵌ったのかよくわからないが、最近はその道の権威であるダリアン博士とやらに師事している。
算数術に没頭するミレの横顔は凛々しくて好きだ。ミレに放置されるのは面白くないけれど、普段熱のない眼に情熱の火が点くときれいで、つい見惚れてしまう。
「ご主人さま」
シャレムはミレの手に擦り寄った。
「なに? シャレム」
「僕、ご主人さま大好きですー」
「私も。シャレム、大好き」
ちゅ、と頭にキスが落とされる。
ミレは細い指でシャレムの鼻のてっぺんをツンとつついた。
「ね、おやつにしようか」
「わんっ」
「お父さまのお土産でマカロンをいただいたの。シャレム好きでしょ?」
「僕、ご主人さまと一緒に食べるならなんでも好き。お魚はキライだけど」
「お魚も食べなきゃダメ。栄養が偏るもの」
「えー」
「えーじゃなくて。そうだ、今日のお夕食はお魚料理にしてもらおうかな」
シャレムはくるっと踵を返してすたすたと足早に扉へ向かった。
「僕、お仕事行ってきます」
「待て。お座り」
脊髄反射で従う。
ミレは手と片膝を床につくシャレムのもとまでやってくると、「めっ」と言ってデコピンした。
「そんなにお魚が嫌なら、私があーんして食べさせてあげるから」
想像して、シャレムはぽわんと赤面した。
「……そ、それなら、ちょっとだけ食べようかな」
「ん、いい子」
ミレの胸にギュッと抱きしめられる。
バカ正直なシャレムはつい口を滑らせた。
「……ふわっふわー」
「なあに?」
「ご主人さまの胸」
ゴン、と脳天に拳を落とされてシャレムはうっかり舌を噛んでしまった。
「痛いですー」
「余計なこと言わないの」
「はあい……」
正直すぎてもいけないらしい。
反省したシャレムの耳に背後から邪魔者の声が届いた。
「こらこらこら犬君、僕の婚約者といちゃつくのはよくないよー。……脅すよ?」
嫌々ながら振り向くと、そこにいたのは飄々と笑う芸術家。
「や、お嬢さん。元気?」
ミレには人畜無害そうな笑顔を浮かべつつ、シャレムには睨みを利かせてしっしと手を振る。
ミレとシャレムはほぼ同時に緊張して一歩、後退した。さりげなくシャレムはミレの前に出て背に庇う。
「今日はとびきりの手土産を持って来たんだよー。欲しい? 欲しいよねー?」
「結構です」
「またまた、そんなつれないこと言わずに。まあ見るだけ見てよ」
芸術家はミレとシャレムの警戒信号など意に介さず、能天気にしゃべりながら部屋に入ってくる。手には不吉な形の包みが一つ。恐ろしいことに、不気味な臭気が漂っている。
「はい、どうぞ」
差し出された包みの中でもぞもぞとなにかが動く。
シャレムは引きつって身をのけ反らせた。ミレには逃げるよう、手振りで合図する。なにを持ってきたのか知れないが、これまでの経験上、決して嬉しくないものだろう。
「お嬢さん、隠れてないで出ておいで。受け取りなよ。僕がせっかく苦労して手に入れた珍品中の珍品だよー? 面白いよぉー?」
「……」
ミレが硬直し蒼白になる気配を感じ取って、シャレムはミレに代わり芸術家を睨んだ。
いつでも不意に現れては迷惑極まりない贈り物を寄こす、この男。
芸術家は全身で拒絶する二人を前に、残念そうな溜め息を吐いた。
「はー。そんなに遠慮しなくてもいいのに。まったく奥ゆかしいなあ。仕方ない。じゃあ現物を見て、いるかいらないか決めるといいよ。ほら」
と言って、止めるまもなく芸術家は包みをほどいた。
見たくもないのに見てしまい、瞬間、シャレムは不本意にも屋敷中に轟き渡るほどの雄叫びを上げた。
「ぎゃーっ!!」




