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迷惑な溺愛者  作者: 安芸
番外編 バカな犬ほどかわいい
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犬と甘い日々・2

      七



 たとえば世界で一番美しいものはなにか?

 と、問われれば私は迷わず答えるだろう。

 それはあなたの手。いつも私に向かい差し出されるあなたの優しい手。

 

 たとえば世界で一番醜いものはなにか?

 と、問われれば私は迷わず答えるだろう。

 それは私の黒い心臓。あなたに恋い焦がれるあまり腐食し焼け爛れる心臓。



「……えーっと、それ、なに? ご主人さま」


 シャレムは無邪気な声で訊ねた。

 今日はミレの供でカッセラー国立大図書館へ来ていた。国家一の蔵書量を謳うここは、大貴族の大邸宅並みの規模を誇り、その広さは書物に興味のないものからすると迷惑なほどである。


 建物内部の構造は次世代への知識の譲渡を目的とするため、保管と保全を最優先とし、閲覧者にはそれほど親切ではない。それゆえに各書棚は天井まで届くほど高く、上段にある書物を手に取りたければ梯子を使用するしかない。

 落ちれば怪我をする高所にある書物も、ミレは自分で手に取りたがった。梯子はしごを立てかけ、登り、選び取る。ドレス姿だろうと器用にひょいひょいと登っては、降りて、また登っては降りる。


 ドレスの中を覗かれる危険などは露ほども考えていない。外出用の装いをしているため、衆目の視線を一身に浴びるほど可憐で美しく、どうしようもなく目立っていようと、けしからん下心から虎視淡々と狙いを定められ狼どもの標的になろうと、おかまいなしだ。


 ミレは閲覧席の一テーブルにつき、本を捲りながらシャレムの問いに答えた。


「テューレ・ルーレーの『目覚め』って詩の一節。大好きなの」

「ふーん」


 シャレムは決してミレから注意を逸らすことなく、ゆっくりと周囲を徘徊し、肩を揺らすことなく滑るような歩みで、隙あらばミレに声をかけようとうろつく輩を一人ずつ確実に仕留めていった。

 シャレムの気配に気づかない者には背後から忍び寄り、首筋に手刀を一撃。接近を察した者については遠慮なく回し蹴りや鳩尾に一発。ふらふらと近寄ろうとした者については容赦なくナイフの雨を降らせて前進を阻んだ。

 だが、シャレムの行為についてミレは皆目気づかない。

 熱心に文字を眼で追いながら、愛らしい声を響かせる。


「ね、シャレムは世界で一番美しいものってなんだと思う?」

「ご主人さま」


 即答したシャレムにミレは破顔した。

 ちょっと照れてはにかんだ様子がかわいい。


「嬉しいけど、私以外で答えてみて」


 シャレムはミレに見えない角度からナイフを投擲し、ミレに擦り寄ろうと襟を正していた身なりのいい貴族を威嚇しながら肩を竦めた。


「ないよ」

「じゃあ、世界で一番醜いものは?」

「僕」


 これも即答した。

 シャレムはひとまずミレの身辺にまとわりついていた有象無象の影をすべて追っ払ったことに満足して、スッとナイフを隠しミレの傍に戻った。

 ミレは一旦書物から眼を上げたものの、シャレムを見つめる瞳は憂いに満ちていて表情は曇っている。


「……どうして、そう思うの?」

「たくさん殺したし、これからもたくさん殺すから」


 ご主人さまのために。


 シャレムがにっこり笑うと、ミレに「お座り」と命じられた。

 片膝をついたシャレムをミレがぎゅっと抱きしめる。


「シャレムは醜くないよ。私のかわいい犬だよ。世界で一番かわいくて、かっこよくて、強い、私の、大好きな犬なんだから……っ!」

「僕もご主人さま大好きー。好き好き好き好き、大好きー」


 だから、ご主人さまに近づく奴は許せない。

 

 柔らかい身体と温もりに陶然としながらも、そっと袖口から取り出したナイフを無防備な動作で室内にて入って来ようとした男に投げつける。ナイフは宙を斬り、男の膝を掠めて壁に突き刺さった。男は低い呻き声を漏らし、なにが起こったのかわからない、といった顔で膝を抱え、迂闊にもシャレムを見た。みるみる間に男の顔から血の気が引き、泡を食ってまわれ右をする。

 シャレムは眼から男を脅した凄みを拭い、優しい手つきでミレの頭を撫でた。


「ご主人さまのために、僕、頑張るから。だから」

「だから……?」


 僕だけのご主人さまでいて。


 喉元まで出かかって、でも、口には出せない言葉はシャレムの胸を苦しめた。

 姿が美しくなればなるほど、寄ってたかる虫の数も増える。

 最近では滅多に社交場に出ないミレの姿を一目見ようと、外出先に出張ってくる輩が眼に余り、こうして強制排除をすることがたびたびあった。命まで取らないのは、シャレムの情けだ。


「ご主人さまの犬でいさせてね」


 いつかその無垢な瞳が他の男を見つめ、きれいな唇が他の男の名を呼び、細い腕が他の男を抱きしめるときが訪れても、影のように傍にいよう。

 それがどんなに苦しくても、辛くても、心を殺してあなたの傍に居続ける。


 十三年前、キャスがこの身に課した三つの約束。

 残酷な縛りは、だが、誓いを守りさえすれば未来永劫ミレと共にいられる契約でもある。

 愛して、愛されるなら。

 一生涯、犬で構わない。


 ミレが微笑み、シャレムの額にキスを落とした。細い指でシャレムの髪を上から下へ梳いて、もう一度笑いかけてから読書に戻る。

 シャレムはミレの邪魔にならないよう背後に仁王立ちになった。

 邪悪な笑みを浮かべる。

 そして微かな声で呟いた。


「……僕は利口で忠実な犬ですから、ご主人さまに近づく奴はとりあえず噛むことにしてるんです」


 声は届かなくても、唇の動きで読めたはず。

 シャレムは姿の見えない監視者に殺気を放った。


 ――誰かが、見ている。


 国家の(ダベル・ダラス)である自分の迎撃範囲内にいながらにして、居場所を特定させず、様子見をしている。ただ者であるはずがない。

 おそらくはキャスの言っていた芸術家以外の、ミレの夫候補の一人。

 突然、死角から一本の矢が飛来した。

 シャレムは動じることなく手に閃かせたナイフで弾き、天井へとクルクル回転しながら落ちてきたそれを空中で掴んだ。

 矢には青い花が一輪青糸で結ばれていたが、シャレムは掌で握り潰した。

 青い花は闇の中で咲く、夜の花。

 この花を紋章に掲げる秘密組織がある。


 ――闇騎士


 対暗殺者のための人間兵器。暗殺者の始末を専門に請け負う闇稼業を担う者。

 即ち、シャレムの天敵だ。


「……いいでしょう。このケンカ、買いますよ」


 シャレムは不敵に口角を持ち上げながら、矢を真っ二つにへし折った。

 周囲を伺い襲撃を待ったがなにも起こらないまま数秒が経ち、ややあってどこかで誰かが小さく笑い、消えた。


 完結まで、残り8話。

 最後までおつきあいください。

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