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迷惑な溺愛者  作者: 安芸
番外編 バカな犬ほどかわいい
91/101

犬と甘い日々

      六


 水面下にて国家の(ダベル・ダラス)であるシャレムの名が裏世界の隅々まで浸透した頃、闇の政府の頂点に君臨したキャス・ルーエシュトレット・ガーデナーは軽く頭を悩ませていた。

 芸術家をミレの筆頭婿候補に据えて何年も経つが、肝心のミレがいっこうに芸術家に親愛の情を抱く気配がない。

 また芸術家もミレの心を得ようとするどころか、むやみに嫌がらせまがいの贈り物を押しつけては煙たがられている。

 いつまでもこんな調子では、進展など見込めそうにもない。


「さて、どうするか……」


 キャスは執務室の窓際に立ち、中庭を眺めながら呟いた。眼下ではミレが本を片手に庭の芝生に寝転がり、犬であるシャレムを侍らせている。

 そこへどこからともなく芸術家が現れて、二人の間に首を突っ込み、ひっかきまわして迷惑がられている模様だ。

 のどかないつもの光景だ。

 キャスは年を追うごとに妻に似てくる娘のことを考えた。ミレも十五になり、まもなく結婚適齢期を迎える。遠からず婿を取ることになるだろう。

 問題は相手だ。

 芸術家にその気がないわけではないことは、十分わかっている。ミレにあの手この手で接触を図ろうとする輩を徹底的に排除していることからしても、それは明らかだ。

 他の男を寄せつけず、ただ自分だけがちょっかいを出して、疎んじられることに暗い喜びを見出している。


「バカな奴め」


 ミレがシャレムを愛していることに嫉妬して、素直になれないでいる芸術家の背中を静観し、もう何年経つだろう。いいかげんどこかで区切りをつけなければ、ミレの心を動かすことなどまず無理だとなぜ腹を括らないのか。

 ミレとシャレムは切り離せない。故にミレを妻に迎えようと思うならば、シャレムを大切に想うミレごと愛する覚悟を必要とする。

 だが芸術家はそれを由とせず、なんとか二人の絆に割り込もうと苦心し玉砕し続けている。哀れと言わずしてなんと言おう。


「子供でもあるまいし」


 常に世の動向を冷静に見つめつつ、白を黒に黒を白に情報操作し得る芸術家をキャスは高く買っていた。彼にかかればどんな情報も手に入る。正確無比なそれらの眼に見えない武器は裏世界を制するために必要不可欠で、事実、芸術家によりもたらされた情報を基にキャスは着々と足場を固めた。

 平凡な容姿や若さからは想像もつかないほどの人脈の多さ、見聞の広さは瞠目に値する。天然の迷子癖すらも糧にしている節がある。闇の世界の住人らしく、腕っぷしも弱くない。財力、魅力は言うに及ばずだ。

 なによりはじめて引き合せたときよりずっと、ミレを憎からず想っている。

 だがミレにその想いが届いていないことは火を見るより明らかで、キャスとしては如何ともしがたい。


「このままミレが芸術家を愛せないのであれば、他を薦めるよりないだろうな」


 嘆息と共に漏らす。

 キャスとしては芸術家とミレがうまくいってくれるのが一番だが、肝心のミレにその気がないのでは仕方ない。

 さいわい、婿候補者として何人か目途はついている。いずれも芸術家に劣らぬ男たちだ。頃合いを見て傍に置こう。

 その中の誰かを愛するようになってくれればいい、とキャスは願った。

 ミレが幸せになるために。

 彼らの誰を選んでも、愛し愛されれば幸福になれるだろう。

 娘が愛されないことについての心配はしていなかった。ミレは普通の貴族令嬢ではないが、抗いがたい魅力を備えている。一度引き寄せられてしまえば、もう離れることなどできないくらいに。

 ミレは愛されるだろう。狂おしいほどに。

 ただ、心配なのは。

 キャスの顔が懸念に曇った。腕を組み、窓枠に寄りかかる。

 もしミレがまったく別の男を選んだ場合は、どうなるか。


「――相手によりけり、だな」


 自分の眼に敵う男であればいい。だがそうでなければ……そこまで考えてキャスは失笑した。とんだ杞憂だ。まだ見ぬ相手に敵愾心を燃やしたところで不毛なことこの上ない。


「男親とは、切ないものだ」


 男手ひとつで育てた娘。手塩にかけて慈しんできた。誰よりも幸せになって欲しいと願う一方で、つまらぬ男にくれてやるものかとつい過保護になる。

 もっとも、ミレには獰猛な犬がいるので滅多なことでは余所者は近づけない。

 よほどの場合でなければ新しい出会いなどないだろう。



「ご主人さま、ご主人さま、ご主人さま」

「はいはいはい」

「ご主人さま、ご主人さま、ご主人さま」

「はいはいはい」


 数日ぶりにシャレムは屋敷に帰還した。

 廊下を駆け抜け、一目散にミレの自室に押し入り、懐へ飛び込む。


「会いたかったですー」


 華奢で柔らかい身体をガバっと抱きしめて頬をすり寄せる。ミレは少しの抵抗もなくシャレムを受け入れ、嬉しそうに笑み崩れた。


「おかえりなさい」

「ただいまですー」


 ここ数年でシャレムはミレに甘え尽くす術を身につけていた。

 抱きつく、抱き寄せる、抱き寄せられる。撫でられる、可愛がられる、キスされる。膝枕や枕を並べて寝ることが認められる役得も、絶対的信頼と絶対的忠誠心を合わせ持つシャレムだからこそ特別に許されている。

 また、ミレの前で拗ねたり、いじけたり、寂しがったりして優しくかまってもらえるのは、シャレムだけの特権だ。


「どこか怪我してない? 血の臭いがするけど……」


 ミレがスン、と鼻を鳴らし、心配そうに訊ねる。


「うーん。少し血が出たけど、大丈夫」


 事実とは異なるが黙っておく。多勢に無勢を血祭りにあげたものの、相手も素人ではなく、無傷では済まなかったのだ。


「血が出たって、どのくらい? 傷はひどいの? 見せて」


 ミレが顔色を変えて迫ってきたので、シャレムはかぶりを振りながら後退した。


「ううん、ご主人さまが心配するほどじゃないよ。ちょっとだけだから、平気」


 だがミレはシャレムが逃げるのを許さなかった。


「お座り」


 命じられ、反射的に片膝と片手をつく。

 ミレは問答無用でシャレムの服を捲った。血の滲んだ腹部の包帯を見て泣きそうな表情を浮かべる。


「シャレム」

「ごめんなさい」


 怒られると思った。

 ミレの手が伸びてきたのでシャレムはビクッと首を竦めた。

 ぶたれる、と覚悟したそのとき、首まわりにミレの細い腕が巻きつき、胸に抱き寄せられたので動揺した。


「あ、あの、ご、ご主人さま……?」


 シャレムはおろおろとミレの様子を窺った。泣かれたらどうしよう。

 しばらくそのままの体勢でいたあと、ミレがシャレムの頭を抱えたまま言った。


「お仕事だから怪我をするときもあると思うけど、隠しちゃだめ」

「えーと。でも、ご主人さまは僕が怪我するの、嫌いだし」

「あたりまえです」

「僕の傷を見てご主人さまが悲しそうな顔をするのは、僕が嫌だし」

「私は私の知らないところでシャレムが痛い思いをしているのが嫌」


 シャレムが困って眼を伏せると、ミレがちゅっと瞼にキスを落としてきた。

 驚いて、シャレムはミレを見つめた。


「……ね? 痛いときは一緒に痛くなろう? シャレムの痛いの、半分ちょうだい? そうしたら私たち、もっとずっと仲良くなれるよ。シャレムは私の一番大事な犬だから、いつまでもいつまでも一緒だから、特別に大事にしたいの」


 そう言って笑うミレは無邪気で、きれいで、シャレムは言葉もなく見惚れた。


「シャレム、返事」


 鼻の頭を指でつつかれ、催促される。


「……やっぱり、ご主人さまが痛いのは、だめ」

「シャレム」


 睨まれても、ここは譲れない。


「だけど僕が痛いとき、ご主人さまが優しく慰めてくれれば、嬉しい。治るのも、早いかも」


 ちょっと図々しいか、と気が引けて奥歯を噛んだとき、小さな手に腹部を擦られた。眼を瞠ってミレの行為を凝視する。


「痛いの痛いの、とんでけー」

「……」


 固唾を呑む。

 ミレが上目遣いでシャレムを見る。


「……効く?」

「……効く!」


 現金なもので一瞬、怪我してよかった、とさえ思ってしまったほどだ。

 シャレムはもう一度ミレをぎゅっと抱きしめた。

 腕の中にある、唯一無二の確かな存在。心が温かなもので満ちていく。ひとはこれをさいわいと呼ぶのだろう。


「大好きです、ご主人さま」


 あなたといるのが、僕の幸福。

 胸の内でシャレムはそっとそう告げた。


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