犬と飼い主・2
これもひとつのボーイ・ミーツ・ガール。
二
彼がその子に会ったのは、牢獄を出て四ヶ月後。火傷による痛みから回復し、ベッドから起き上がれるようになってからのことだ。
それまでの期間、彼はほぼ寝たきりだった。火傷して最初の数日間の記憶はないが、眼を覚ますといつも紳士が傍にいたことは憶えている。
日が経つと痛みは癒えて傷痕だけが残った。
「来なさい」
彼は紳士に従った。火傷を負ったのは紳士のせいだが、傷が癒えるまで看病についてくれたのも紳士だった。
与えられた食べ物は、はじめはスープのみ。咽喉の筋肉を動かせるようになってからは、色々な物が出された。
きれいな部屋、清潔なベッド、安全な食事、静かな時間。
どれも彼には無縁のものだった。
ひどい目には遭ったがそれを補って余りある上等な扱いに、彼は戸惑い、やがて受け入れた。そのときには完全に彼の心は紳士に従っていた。
紳士は彼を別棟に連れていった。常盤色のベルベッドの絨毯が敷かれた廊下を渡り、通された部屋はたくさんの本でちらかっていた。
それらの本に埋もれるように幼い女の子がいた。
「ミレ」
紳士が呼びかけると、ぴく、と小さな肩が動き、女の子が振り返る。
「おとうしゃま」
女の子がすっくと立ち、小さな手に広げた本を持ったまま引き摺りながらとたとたと駆けてきて転ぶように紳士の腕の中に飛び込んだ。
「今日はなにをしていたのだね?」
紳士が優しい顔で訊ねる。
「ごほんよんでた」
「そうか。あとでお父さまにも読んで聞かせておくれ」
「うん。みれ、おとうしゃまにごほんよむ」
紳士は彼を振り返り、幼い女の子と引き合わせた。
「私の娘だ」
眩しいほど愛らしい。
紳士は愛おしげに女の子の頭に手を置いて話しかけた。
「ミレ。おまえの犬だよ。名前をつけてあげなさい」
ミレがかわいらしく小首を傾げる。
「いぬ?」
「犬だ」
「みれの?」
「そう、おまえの犬だ。これからずっと傍にいておまえを大切に守ってくれる。だからおまえも大事にしなさい」
「だいじ?」
「大事だ。かわいがって、優しくしてあげるんだ。絶対に苛めてはいけないよ」
ミレと呼ばれた幼い女の子はぼんやりと眠たげで、彼をぽーっと見つめている。
父親の言葉を理解しているのか理解していないのか不明だったが、彼に気は惹かれたようで、まっすぐに無垢な瞳を向けてくる。
華奢な腕が持ち上げられた。白いぷっくりした指が彼の咽喉を指す。
「しゃれみゅ」
幼い舌足らずの声が響く。
彼はミレがなんて言ったのかわからなかったが父親である紳士はわかったようで、「ふむ」と頷いている。
「『シャレム』……星、か。なるほど、おまえにはその刻印が星に見えるのか」
彼は思わず咽喉を撫でた。
するとミレがトコトコやってきて彼の足にひっついた。そのまま離れない。
「しゃれみゅはみれのいぬ。みれ、だいじにする。やさしくする。いじめない」
「いい子だ」
「……」
彼は戸惑った。いままで彼が他人に優しくされたことは数えるほどしかない。こんなに小さな女の子は近くで見たこともなければ、触られることもはじめてだ。
貧民街では女の子は売られるか、売りものになるかで、外にはあまり出てこない(さらわれて売り飛ばされるか慰み者にされてしまう)。
「……」
困った。離れてくれない。
彼の内心の焦りとは裏腹に紳士が興味深げにミレの様子を窺っている。
「どうやら、君は娘に気に入られたようだ」
彼は黙っていた。
「返答を許そう。口を利いてもいい」
彼はぼんやりと紳士と女の子の両方を見ておずおずと訊ねた。
「……『シャレム』?」
呟くと、ミレがほわっと笑った。無垢な笑顔にシャレムは息が詰まった。なにか温かいものに心を揺さぶられた。胸の動悸が速くなる。眼頭が熱くなって、彼の眼から涙が一粒、つ、と頬を流れた。
「……?」
涙があとからあとから溢れた。とめどなく溢れた。
何年も心身ともに虐待に遭い痛めつけられてきたシャレムは己の感情に鈍くなっていた。頬を擦りながら、彼はなぜ涙が出るのかと訝った。嬉しくても涙が出るということを、彼はまだ知らなかったのだ。
そんなシャレムをミレが下からひょいと覗き込む。
「しゃれみゅ、かなしい? いたい? くるしい? さびしい? みれがいるよ。みれ、ここにいるよ。だいじにするよ。いじめないよ。だいじょうぶだよ」
涙が止まらない。
するとミレはなんだかよくわからないことをやりはじめた。
「いたいのいたいの、とんでけー。いたいのいたいの、とんでけー」
紳士が苦笑する。
「……ミレ、シャレムは痛いんじゃない。嬉しくて泣いているのだ」
ミレがきょとんとする。
シャレムもきょとんとした。
「おまえが笑いかけたから嬉しくて泣いているのだよ。そうだろう、シャレム。さあ、もう泣きやみなさい。ほら」
顔を拭かれた。
紳士は後ろ手を組んだ。若くても振る舞いに隙はなく、年齢に見合わぬ貫録を備えている。ダークブロンズの貴族服にレドグレイのタイ、揃いの靴という暗めの色は常に泰然としている紳士に相応しい。
「君の新しい名前はシャレムだ。君の飼い主は私、娘のミレが君の主人だ。君はミレの犬だが、命令優先順位は私の方が上だ。理解できたかね」
シャレムは泣きやんで頷いた。
「うん」
シャレムの返事は紳士の意に適ったらしい。満足そうに微かに笑む。
「私の名は、キャス。キャス・ル―エシュトレット・ガーデナー」
シャレムは頭を垂れた。
「キャス様」
服従を強制されてもどうということはない。
生まれたときから自由は許されていなかった。常に誰かの(主に父の)命令に従っていた。またそうしなければあの場所では生き延びていけなかった。
だから犬ならば犬でいい。
あの悪の巣窟には戻りたくない。檻の中も嫌だ。
生きていくならここがいい。連れ出してくれた、この人の傍がいい。
キャスはシャレムの頭を掻き撫ぜた。褒めるように優しく。
「そうだ。私も君のことをシャレムと呼ぶ。ミレ、来なさい」
シャレムはキャスの温かな手が離れたことを残念に思った。
キャスはミレの脇から両手を差し入れて彼から強引に引き離し、左腕に抱き上げた。ミレは逆らわず、おとなしい。
キャスはシャレムを手招き足元に跪かせた。
そして言った。
「いまからおまえたちは私と三つの約束をする」
次、主従にまつわる3つの約束の話です。
近日更新予定。
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