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迷惑な溺愛者  作者: 安芸
番外編 バカな犬ほどかわいい
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犬と飼い主

 シャレム視点。

 シャレムの過去からはじまります。

 

      一


「私の犬になるかね」


 ――それがキャスにかけられた、最初の言葉。



 十四年前、まだシャレムという名前ではなく、当時は世界に光があるとは知らなかった。

 生まれは貧民街。悪と暴力と下種の巣窟で、彼が五歳まで生きながらえたのは容姿に優れ、男の床でも女の床でもかわいがられたためだろう。

 転機が訪れたのはそれから一年後、細かいことは憶えていないが眼の前に大人の男が使うナイフがあったので持ってみた。

 気がついたときには裸で血の海に立っていた。


 地下牢獄に投獄された彼のもとに訪問者があったのは、ナイフでついた傷にようやくかさぶたができた頃だ。

 訪問者は一人ではなく、四人だった。

 一人は牢番、一人は身なりのいい紳士で、あとの二人は亡者のようだった。片方は死んだ眼をした男で、もう片方は腕が異様に長い。


「私の犬になるかね」

「……」


 牢番が紳士にへりくだって声をかける。


「あのう、その罪人は返事を許可しなければ口を利きません」

「なるほど」


 紳士は頷いた。


「返答を許そう。もう一度訊く。私の犬になるかね」

「……犬?」

「そうだ」


 牢番が急に慌てた。この続きを聞くのは危険だと直感が働いたらしい。


「わ、私は仕事がありますのでこれで。ご用があるときはお呼びください」

「ああ、案内をありがとう」


 礼を言った紳士に対し脅迫に遭ったかのように震えあがって牢番は消えた。

 紳士は地味なコートに帽子をかぶり、ステッキを身体の前についていた。


「年はいくつだね」

「たぶん、六歳」

「たぶんというのは?」

「誕生日を知らないから」

「なるほど」


 にわかに紳士の眼が細くなった。服装にも態度にも変化はないのに、明らかに一瞬前となにかが変わっていた。

 彼は牢獄の隅まで逃げて壁に背中をへばりつかせた。玉の汗が額に滲む。膝が震え身体が言うことを利かない。前を見ていられず、視線を床に落とした。


 怖い。


 これまで数え切れないほどの暴虐と悪意と恐怖に耐えてきた。だがそれらはいまのこの感じの比ではない。全身が総毛立つような恐怖、これは。

 なんだろう、と彼は考えた。

 すると紳士が親切に教えてくれた。


「いまのは私の殺気だ」


 紳士が微笑むとまた空気が変わった。今度は穏やかで親和的だ。


「君のことは聞いたよ」


 紳士が彼をちょいちょい、と手招きした。近くに来いということだろう。

 彼は恐る恐る牢獄の中央まで戻った。


「ナイフ一本でご両親と駆けつけた隣の住人、それに君を取り押さえようとした市街警備担当官一名、市街警備担当監督官一名を刺殺したそうだね」


 誰を殺したかは憶えていない。


「死亡者は急所をひと突きだったそうだ」


 どう殺したかも憶えていない。


「他にも怪我人多数、病院送りになった者も数名。はじめてとは思えない手並みだ。それともはじめてではないのかな」


 彼は消え入るような声で答えた。


「はじめて……」

「そうか」


 紳士が彼に思いがけない質問をぶつけてきた。


「殺しはどうだった? 楽しかったかね。つまらなかったかね」


 彼は首を振った。


「なにも感じなかった」

「ふ、やはり素質があるな」


 牢獄内に反響する紳士の声にかすかな愉悦が滲んでいて、彼を訝しくさせた。

 紳士は帽子の鍔をちょっと指で持ち上げた。じっと彼の眼を見る。


「君は重罪だ。子供だろうと裁かれる。遠からず処刑されるだろう」


 彼は罪を理解しているわけではなく、罰が与えられることだけ理解していた。彼にとって独房は大きいだけの檻にすぎず、檻に監禁されることは日常茶飯事だった。そしてたいてい檻から出たあとは厳しい体罰が待っていた。

 彼は膝を抱えて身を縮めた。首を引っ込める。


「……ぶたれる?」


 痛いのは嫌いだ。痛みに慣れることはない。でもきっと痛めつけられるのだろう。両親がいなくなっても、他の誰かに。


 紳士は他の二人から離れて牢獄に近づいた。


「君には主人が必要だ。私の犬になりなさい。君を飼ってやる」


 よくわからない。

 彼は黙っていた。


「返事はしなくてもいい」


 紳士が少し手を振ると手の長い男が動いてどこかへ行き、戻ったときには牢番も一緒だった。


「出してくれ」

「は、はい。いますぐ」


 牢番は手にしていた鍵束から牢獄の鍵を選び、鍵穴に入れて捻り牢扉を開けた。

 

「出ろ」


 彼が牢獄の外に出ると紳士が彼を見つめて告げた。


「これで君は私の犬だ」


 牢番は明後日の方を向いてしっかりと耳を塞いでいた。

 紳士が身を翻す。肩越しに少し振り返って言った。


「来なさい。犬には首輪が必要だ」



 そのまま連れていかれた場所で彼は手足を押さえられ、熱の塊を押しつけられて絶叫し、失神した。

 目覚めた彼が紳士に差し出された鏡の中に見たものは、咽頭に捺された焼印。

 国家の犬の証し(ダベル・ダラス)。




 番外編を書くと言いながら半年以上。

 本当は300万PV突破記念に連載を間に合わせたかったのですが、だいぶ遅れてしまいました。おつきあいいただければうれしいです。

 シャレム主人ミレの出会い編から。

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