二 会いたくない・2
連続更新・2。
アーティスとソーヴェ。
それから丸三日、アーティスは機械的に働いた。
正常な状態ではなかったが、頭の芯はすこぶる冴えていて処理能力はまったく衰えることなく稼働した。
問題は、食べ物が喉を通らず、まったく睡魔を寄せつけないことだった。
午前は定例会議のあと、面会し、討議に参加、午後は実務仕事だ。執務室でソーヴェを相手に黙々と書類をめくり、筆ペンをはしらせ、印を捺す。
「次」
「終わりです」
「次だ」
「もう今日の分の決済はすべてに眼を通していただきました」
アーティスはがっかりした。
傍ではソーヴェが明らかに心配そうに気を揉んでいる。
「いいかげんに、少し休息してください」
「断る」
自分でも意外なことに、どうしようもなく衝撃的なことが身に降りかかるとどうも仕事に逃げる性質らしい。
なにかをしていないと落ち着かない。考える隙をつくってはだめだ。集中していないと余計なことに思考が及び、とんでもない奈落に足を踏み出す心地がする。
「では地下書庫に行く」
そこには裏の顔役しか立ち入れない秘密の書庫がある。歴代の裏の総帥の手記や閣議の記録が保管されていて、当然のことながら持ち出し禁止なので、いずれ時間をつくって訪ねたいと思っていたのだ。
「いけません、倒れますよ」
「うるさい」
ソーヴェの制止を無視すると呆れたように嘆息された。そして、
「わかりました。では、ご無礼を。苦情はあとで伺いますので」
油断はあった。それは否めない。
背後からソーヴェの腕が素早くアーティスを押さえ、口元になにか嗅がされた。
鼻から脳天に突き抜ける、強い刺激臭。
「っ、な、なにを……」
アーティスは噎せながら身を捩った。ソーヴェの腕を振りほどく。たちまち視界が歪む。膝から力が抜ける。平衡感覚がわからなくなる。
そのまま意識を失った。
……会いたくない、だと?
どうして。
なぜ。
いつから。
アーティスはうなされていた。これは夢だと思った。夢を見ているのだと自分でもわかっていた。なぜなら色々な表情のミレの残像がいくつも折り重なってアーティスの周囲を漂い、現れては消えて、また現れては消滅を繰り返していたからだ。
よく憶えているのは、なにごとにつけ、冷めていた眼。
人間に興味がないと言い、いつだって、なにに対してでも無関心だった。
その周囲の物事などどうでもよさそうな態度にかえって気を惹かれた。
いままで社交のあったどの令嬢とも違う素の顔が面白かった。
迷惑がられ、嫌がられ、疎ましがられることが新鮮に感じた。
たびたび顔を見たくなった。
もっと近づきたいと思った。
気がつけば……心を完全に奪われていた。
どうしようもなく。
どうしようもなく。
己の気持ちを自覚してからの日々は、無様だった。
なにもかもうまくいかない。
調子のいい言葉を並べられなくなった。取り繕おうとしても無駄に終わった。恰好をつけようとすればするほど惨めになった。誠実であろうとすればするほど空回りした。焦りと不安で胸がつかえた。
苦しくて、いてもたってもいられなくなって傍にいけば、空威張りの連続で、どうにも虚勢ばかりが目立ち、告白と言うよりも脅迫じみた威嚇になってしまう。
口を開くから悪いのかと反省し見つめてみても、今度は羞恥が邪魔をする。
眼が合うたびに逃げ出したい衝動に駆られるとは、意気地がなさすぎる。
……してる、のに。
そう、言えない。
アーティスが自分の部屋のベッドで目覚めたとき、誰かが顔を覗き込んでいた。
「……ミレ?」
眼がかすみ、輪郭がぼやけている。
だがなじみの声がアーティスの問いを否定した。
「申し訳ありません、ミレ殿ではなくて」
焦点が結ばれる。そこにあったのは疲労の色も濃いソーヴェの顔だった。
「おまえか……」
「私で悪かったですね。これでも不眠不休で二晩つきっきりだったんですよ。少しは労いの言葉をかけてくださってもよろしいのではないですか」
アーティスはおもむろに身体を起こし、眼を吊りあげ、掠れた声で怒鳴った。
「二晩だと? 閣議はどうした!」
「はいはいはい、大丈夫です。きちんと一部始終を記録しましたものがここにあります。夜までご覧になれば支障ないでしょう。ところで気分はどうです?」
「最悪だ」
いったいなんの薬を使ったのか。
まだ朦朧としている。おまけにズキズキとひどい頭痛だ。
アーティスがそう吐き捨てるとソーヴェは深々と謝罪した。
「お叱りは受けます。ですが殿下に過労死されては側近の立つ瀬がありません。どうか、以後は飲まず食わず休まずなどの無茶はお慎みください」
説教など聞きたくはない。
アーティスは仏頂面で要求を口にした。
「水」
「どうぞ」
ソーヴェに差し出されたグラスを掴み、一杯の水をゆっくりと飲む。
だんだんと意識がはっきりしてきた。
「……ミレ殿と、なにかあったのですか?」
一歩下がった位置で、おずおずとソーヴェが訊ねてくる。いつもの茶化した口調ではない。気懸りそうな瞳がそう裏付けていた。
アーティスは空のグラスをソーヴェに手渡し、肩を丸めて額を押さえた。
「……私と会いたくないそうだ」
「なぜです」
「どうも嫌われたらしい」
あらためて口に出すといっそう滅入る。
ソーヴェも少なからず動揺したようで、怪訝そうに追求してきた。
「いったいなにをしたんです」
「わからない」
アーティスが正直に答えるとソーヴェもそれ以上はなにも言えなくなったようで重い沈黙が落ちた。
「わからないが……このままではすませられない。会って理由を訊く」
それが三日間考えた末の結論だった。
ひとりで考えても拒絶される理由などわかるわけもない。本人の口から聞くまではどんな憶測も無駄だ。
アーティスが強い声音でそう言うと、ソーヴェも決然と頷いた。
「それがよろしいですね。仕事の調整はおまかせを。まず体力を回復しましょう。入浴と食事を優先し、諸々のご報告はそのあとで」
「ああ」
「殿下」
「なんだ」
ソーヴェはアーティスのためにベッド脇へ踏み台を運び、身を屈め、丁寧な手つきで室内履きを揃えながらこう言った。
「きちんとありのままの気持ちをお話になれば、殿下のお心もいずれは通じますよ」
次話、アーティスとミレの攻防。
追って追われて、そしての巻。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。




