十七 悩みます
ビスカの本職判明です。
六
ミレはビスカにマッサージをしてもらいながらうとうとしていた。
湯上りで髪をタオルドライしたあと、ソファに寛ぎ、ビスカに首と肩を軽く揉みほぐしてもらっている。
膝の上にシャレムの頭をのせ、ミレはほとんど無意識のままに撫でている。
部屋には三人だけだ。闇騎士と聖職者が外で待機、芸術家と大商人は不在だ。
「お疲れのようですね」
「……」
気持ちよさのあまり口がきけない。
ミレが小さく首を縦に振ると、ビスカがうっすら微笑する気配がした。
「色々と面倒くさい思惑がひしめいているようですが、姫さまのなさりたいようにすればよろしいのではないかと、ビスカは思いますよ?」
限りなく落ちかけていた意識がすうっと浮上する。
ミレはゆっくりと後ろを向いた。ビスカの指が止まる。
「……なにもしたくないし、なにも考えたくない」
これが本音だった。
そもそもミレの日常には、本と算数術とシャレムがいれば事足りる。父がいて、ビスカがいて、たまにダリアン博士と会えれば完璧だ。読書と研究三昧の日々。それでいいのだ。
なのに――。
なにがどうして、こうなった。
ミレは溜め息をつき、首の位置を戻した。ビスカの指が絶妙な力加減でまた動きはじめる。
「あら、ではなにもせず、なにも考えなければいいじゃありませんか」
ビスカは無邪気に言った。
「姫さまのお好きなように過ごせばよろしいのです。相当お疲れなのですもの、回復されるにはそれが一番です。日向でゴロゴロして、おいしいものを食べて、お気に入りの本を読んで――は主に禁止されていましたね、確か。では代わりにシャレムでもかまって」
「わん!」
ここぞとばかりに、シャレムが元気よく吠える。
「心を癒して、早くお元気になってください」
ビスカの提案はミレを慰めた。
そう、確かに王宮に来た当初はそれでよかったのだ。
だが、いまは。
顔を曇らせ口を固く結ぶミレの思考をビスカは苦もなく汲んだらしい。
「ユアン殿下には姫さまのお名前で差し入れもしましたし、ほとぼりが冷めるまでもう少し距離をとってもいいでしょう。アーティス殿下は極力避けるようにして、オウムの世話は殿下の留守を見計らって通えば問題ありません。他の有象無象は闇騎士に追っ払わせましょう」
シャレムがグイと身体を起こし、ミレに膝を詰めた。眼が嬉々と輝いている。
「僕、ご主人さまの命令があれば誰でも斬るけど」
「斬っちゃだめ」
「えー」
いかにも不満そうに抗議したシャレムをビスカが冷たく遮る。
「黙れ、クソバカ犬」
「なんだと、この厚化粧女」
よせばいいのにシャレムが応酬し、ミレを挟んで侍女と犬が火花を散らす。
ごごごごご、と怒りの気を撒き散らし、ものすごい剣幕でビスカがシャレムを睨んだ。
「なぁんですってぇ……あんた、言ってはならないことを言ったわねぇ」
「なにが。本当のことじゃないか。ぐえっ」
ビスカが眼にもとまらぬ早さでどこから取り出したのか鉄扇をシャレムに投げつけた。
使い方が間違っている。
が、これをシャレムはもろに顔面にくらい、のけ反ってソファから転げ落ちた。
反撃に出ようとしたシャレムを、ミレは「待て」と一言命じ、次に「伏せ」とシャレムの身動きを封じた。
「ケンカしないの」
「はぁい……」
渋々とシャレムは攻撃をとりやめる。
「いい子」
ミレはちゅ、とシャレムの赤くなった鼻の頭にキスした。途端にシャレムがでれっとする。機嫌が直ったようだ。こういうところが、単純でかわいい。
ビスカはなにごともなかったかのように会話を続けた。
「では身内以外、誰も近づけさせないようするのではどうです?」
「それなら……」
いいかな。
いや、よくはないかもしれないが。
しかしミレもだいぶ疲弊していた。普段ひと付き合いなどしてこなかったのに、王宮に召喚されてからというもの、急に周囲が騒々しくなった。
それまで滅多に交流のなかった父の配下である芸術家、闇騎士、聖職者、大商人の存在はもとより、王子殿下やその側近、宮廷人など、ひとの耳目にたえずさらされることになった。
おまけに、求婚騒動。
恋愛問題などまったく無縁だったのに、いつのまにか渦中にいる。
正直とても面倒くさい。
考えると鬱になる。
あの芸術家までがいったいどうしたことだろう。何年も何年もろくに親しくもせず放置したくせに、急に掌を返したように「お嫁さんにしたい」とはふざけた話だ。なにが狙いなのか。
ミレは芸術家の「本気だ」という言葉を信じてはいなかった。いままで一度もそんなそぶりを見せたことがないからだ。いつもふらふらしていて、迷子で、掴みどころがなくて、ミレ自身に興味などなさそうで、それでいて忘れた頃に現れては迷惑な、本人いわく、芸術的土産物を残していくのだ。
それでも優しくしてくれればなにかが違ったかもしれない。
ミレは好意に弱い。
誰でもそうかもしれないが、とにかく優しくされると嬉しい。それが優しさであるとわかるならばの話だが。
対人関係が不得手なミレはわかりにくい優しさというものは理解に至らない。特に、好意の裏返し、なんて行動や心の機微はよくわからない。
もしかしたらそれはミレ自身に問題があるのかもしれないが、広く浅く人脈を築きたいわけではないので、自分の好きな相手にだけ心が届けばいいと思う。
あとは自分を好きでいてくれるひとがいるならば、そのひとにもできるだけ前向きに接したい。
ただし、相手にもよりけりだが。
ふと、ミレの脳裡に最後に会ったときのアーティスが甦った。
真顔でひどく緊張したふうに、思い詰めた表情でなにか告げられた。
「君を……してる、からだ」
と。
あのとき彼はなんて言ったのだろう?
聞こえなかったと訊き返したのに答えてはもらえなかった。真っ赤な顔でどやしつけられ、うやむやになったのだが、どうしてだろう。いまになって気になる。
胸がもやもやした。
アーティスにははじめの頃、強引にキスされたり、押し倒されたりと散々な目に遭わされたが、最近は無理矢理そういうことをされることはなくなっていた。
代わりに、よく見つめられるようになった。気がつけば、眼で追われている。なのに視線がかち合うと逸らされる。なんの用だと訊ねても返事ははぐらかされ、赤くなり、困ったように、拗ねたように、怒ったようにそっぽを向いてしまう。
なんなのだ、いったい。
わけがわからないひとだなあ、と訝しく思う。
と同時に、「逃がさない」と言われたことを思い出す。
「……」
まさかと思うが、本気の本気ではないだろう。
しかしアーティスは真剣な眼をしていた。疑いようもないくらい熱を帯びていた。怖いほどに。
「……」
もし本気だったらどうしよう。
もしアーティスが父キャスに正式にミレとの結婚を申し出て、父が了承すればミレに断るすべはない。そうなればあとは王子妃の座にまっしぐらだ。
「どうかされました?」
不意に黙りこくったミレを不審に思ったためか、ビスカが怪訝そうに問う。
ミレはぼんやりしたままポツリと呟いた。
「……アーティス殿下、に」
ビスカが鸚鵡返しに訊ねてくる。
「……アーティス殿下に?」
「会いたく、ない……かも」
会うのが怖い。
ミレのひとことを聞いてビスカの眼は鋭く光り、シャレムに顎をしゃくった。
「ですって」
「ん」
シャレムが頷き、こともなげに言う。
「いいよ、ご主人さまには近寄らせない」
ビスカも頷いた。手を滑らせ、うなじのほつれ毛を背後に払う。
「任せたわよ。私、しばらく留守にするから」
言って、ビスカはミレの背後から横にまわり、ソファの肘掛の横に片膝をついた。すまなそうに眼を細めてミレをじっと見つめる。
「申し訳ありません、姫さま。こんなときにお傍を離れるのは心苦しい限りですけど、私、お仕事が入りましてこれより向かわなければいけませんの。少々お暇をいただきます」
「そうなの」
「はい。姫さまのお身の回りのことは代わりの侍女を手配いたしましたので、ご心配なく。しばしご不便をおかけしますが、どうぞお身体に気をつけてお過ごしください」
「ビスカも、気をつけて」
ミレが懸念もあらわに言うと、ビスカはからりと笑って胸に手をあて不敵な微笑を浮かべた。
「お心遣い感謝しますわ」
それからくるりとシャレムを振り返り、強かに凄んで見せる。
「シャレム、あんた姫さまのこと頼んだわよ。きっちり、しっかり守りなさいね。もし姫さまになにかあったら、あんたを煮て焼いて八つ裂きにしてやるから」
だがシャレムはビスカの脅しなどどこ吹く風で、「ふわぁ」とあくびした。
「つまらないこと言ってないで、早く行けば? あいた」
癇に障ったのか、ビスカはシャレムの横っ腹を蹴飛ばした。だがシャレムも慣れたもので、すかさず受け身を取り深刻な痛手を被った様子はない。
「では、いってまいります」
「いってらっしゃい」
ビスカがミレに礼をし、颯爽と辞去する。
ミレは束の間、侍女の身を案じた。今度はどこへ、誰のもとへ、潜入するのだろう。
ビスカは諜報員だ。それもかなり危険な筋の。裏稼業専門の諜報員、即ち、対諜報員のための諜報員だ。必然、失敗は命にかかわる。
なにごともなく無事帰ってきてほしい。
ミレはそう願った。
そして、ユアンとは距離を置き、アーティスからは逃げる日々がはじまった。
2012年最後の更新となりました。
今年一年、拙作へお付き合いいただきました皆様にお礼申しあげます。
ありがとうございました。
皆様、よいお年を!
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。




