十七 自虐的です
……してる、なんて、言えるわけがない。の巻。
「されていません」
「紅が落ちている」
「芸術家に口紅など似合わないと拭われただけです」
「のしかかられていただろう」
「すぐに引きはがされてボコボコにされました。ご覧になったでしょう」
確かに、芸術家は悲惨な状態で地面に大の字になっていた。
アーティスは胸が空くのがわかった。どす黒い嫉妬の霧がたちまち晴れていく。頬がゆるむのが抑えられない。
「そうか、よかった……」
「なにがです」
不審そうにミレが眉根を寄せる。
「いや、別に」
と咳払いをし、応じながら、アーティスは恰好つけている自分を罵った。
なにが「いや、別に」だ。正直に「他の男に唇を許さないでくれて嬉しい」と言えばいいじゃないか。
ユアンであれば、素直に伝えるだろう。
「……弟にできて兄である私にできないことがあるまい……」
「なにをブツブツ言ってるんです」
ますます疑わしそうにミレがアーティスを眺める。
アーティスは意を決した。
「ミレ」
「はい」
直視する。直視される。まともに眼が合う。
途端に、カーッと頭に血が昇った。ドクドクと心臓が暴れ出す。
おかしい。
やはり、おかしい。
女性に関しては百戦錬磨――とは及ばないまでも、それなり以上の経験があるにも関わらず、このていたらく。
ミレとは既に何度も深いキスを交わした仲なのに、いまになって眼を見つめて話すこともできないとは、幼児以下だ。
アーティスは上擦った声で、懸命に言葉を継いだ。
「いいか」
「はい」
「君は、わ、私以外の男に――」
「はい」
「隙を見せたり、気を許してはいけない」
予定とは違ったセリフになってしまった。
ミレは相変わらず淡白に応じて来る。
「なぜですか」
「なぜでもだ」
「そうですか」
「そうなのだ」
アーティスはむきになって言った。
シャレムはともかくとして、ミレが他の連中にちやほやされる様を見るのは面白くない。はっきり言って不愉快だ。四六時中奴らが傍にいると考えるだけで、苛々する。ちょっかいを出されるなど、論外だ。
「君をどうこうするのは、私だけでいい」
うっかり本音を漏らしてしまい、慌ててアーティスは口を押さえた。
さいわいにもミレはよそに注意が向いていて――バルコニーの方を見ていた――アーティスの不用意な一言は聞いていなかったようだ。
「ミレ、こっちを向きなさい」
「はい」
素直なミレはかわいい。
アーティスは一瞬、呆けた。
次の言葉が出てこない。
ミレのつぶらな瞳の中に、自分の色ボケした赤い顔を見出し、アーティスはうろたえた。
急に押し黙ったアーティスを前に、ミレは可愛らしく小首を傾げた。
「……具合でも悪いのですか。真っ赤ですよ。熱でもあるんじゃ……」
ペタ、と小さな手が額にあてられた瞬間、アーティスの緊張は臨界点に達し、もうなにがなんだか、わからなくなった。
「悪いが」
「はい」
「私はまだ執務の途中だ。君と遊んではいられない」
勝手に拉致しておいて、どんな言い草だ。
だがミレはコクリと頷いた。
「わかりました。では帰らせていただきます」
「それはだめだ」
「どうしろとおっしゃるんです」
「私が戻るまでここにいたまえ」
「なぜです」
至極まともな疑問をぶつけられて、アーティスは咄嗟にバルコニーを指した。
そこには錬鉄製の鳥籠があり、青緑の羽に黄色い嘴のオウムがせっせと羽を繕っていた。
「私の鳥――ドナの世話をしなければいけない。いいね、ここから一歩も出るんじゃない。誰が来ても扉を開けるな」
一方的にそう告げて、アーティスは踵を返した。急ぎ足で部屋を出る。
そこにはミレの取り巻きがたむろしていたが、アーティスは無意識のまま無視した。
「……くそっ」
呻く。
既に後悔していた。
我ながら挙動不審だ。支離滅裂もいいところだ。勝手が過ぎるというものだ。
いい大人の男が女性を引き止めるのに「鳥の世話をしろ」とはどういう口説き文句だ。ばかばかしいにもほどがある。さしものミレも怒って帰るに違いない。
唖然とした顔だった……。
愛想を尽かされたかもしれない。
アーティスは拳で額を突いた。
「ただでさえ、疎ましいと思われているのに……」
少しずつ距離を埋めようとした矢先にこれだ。
深々と、何度も溜め息をつく。
……してる、だって?
そんなばかな。まさか。
ただほんの少し言動が珍しくて、面白くて、結婚相手としては条件がよくて、とびきり可愛くて美しいだけであって――。
傍にいたい、なんて。
いつも見ていたい、なんて。
……してる、なんて。そんなふうに想うなんて、なにかの気の間違いだ。
第一、好かれてもいない。いや、それどころか。
「相手にされない相手に惹かれるなんて、不毛もいいところだろう」
自虐的に呟いて、アーティスは落ち込んだ。
かなり自業自得だが、意気消沈したまま、トボトボと執務に戻った。
次話、部屋に戻ったアーティスが見たものは……?
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。




