十 むかつきました
王子VS犬の巻。
八
「またこんなところに寝て……」
運動場から朝の鍛錬より戻る途中、林道の木陰にひとの生足を見つけて、アーティスは思わず愛馬の手綱をグイと引いた。
「……」
案の定、そこにいたのは弟ユアンの新しい話し相手の姫君、ミレだ。
地面にコロンと横になり、丸まって、ぐっすりと寝ている。木の根元にはきちんと履物が揃えられ、行儀がいいといえばいい、女性としては、慎みがないといえばない。
おまけに……。
アーティスは眉根を寄せた。
ミレのドレスの裾が膝のあたりまで捲れて、細い足首と華奢な足が覗いている。無防備な寝姿に色っぽさが加わって、なんだか見てはいけないものを見てしまったような背徳感に胸がざわついた。慌てて眼を逸らす。
ところが、隣にいた側近のソーヴェはとっくり見つめて、顎を撫で、鼻の下を伸ばしている。
「おい、こら」
「いやァ、いい眺めだなぁ。あの肌の白さ! 真珠のようじゃないですか」
「じろじろ見るんじゃない。とっとと後ろを向け」
「おっと、怖い怖い。なんです、嫉妬ですか?」
ニヤニヤと笑い、いらぬ茶々をいれるソーヴェを一睨みして、アーティスはひらりと鞍上から降りた。
真っ白い生足も、あどけない寝顔も。
自分が見る分にはいいが、他の男に見せるのはなぜか不愉快だ。
アーティスは視線を背けたまま近づいて、膝を折り、ミレのドレスの裾を直そうと手を伸ばした。
「それ以上動いたら、殺すよ」
まぎれもない殺気が頭上から吹きつけた。
そして葉ずれの音と同時に、眼の前へ、文字通り男が降って現れた。
すっくと立つ。若干、男の方がアーティスより背は高い。両手は空でぶらりと下げたまま、姿勢には無理がない。表情は乏しく、全体的に色素が薄い。
一見地味で、たいしたことなさそうだが、如何せん、生きている気配がなさすぎた。虚ろな二つの眼に、アーティスは柄にもなく恐怖を感じた。
「ご主人さまになんの用?」
抑揚のない問いかけに、まず反応したのはソーヴェだ。
「殿下、これが件の輩ではありませんか?」
「わかってる」
そんなことは一目見て知れた。
白昼堂々、王宮を正面突破し、立ち塞がった近衛兵を片っ端から斬り捨てた男。
内密に調べたところによれば、国家の犬の中でも一、二を争う狂犬だ。
能力においては非の打ちどころなし。ただし、扱いにくさもこの上なく。
だが――。
「待て」
アーティスが見下し切った顔で告げた。
「……は?」
こめかみに青筋が奔る。男の眼に物騒な光が瞬く。
しかしアーティスは何ら怯むことなく、横柄に続けた。
「『待て』と言ったんだ。君こそ、そこを動くんじゃない」
眼に、声に、威厳を込め、アーティスは口を切った。
「私は第一王子だよ。君が誰の犬であろうと、王族である私に手を出すことは反逆となる。そうなれば、君は愚か、飼い主の責任も問われ、極刑は免れまい。どうする? 私に従うか、抗うか」
男はためらっていた。
アーティスは無言で左手首を見せた。王族である証明、赤い紋章が施されている。
「……」
男は紋章を認め、渋々と攻撃態勢を解いた。
だが従順になるつもりはないらしく、腕を組み、プイ、とそっぽを向いた。
「……僕の雇い主はあなたじゃありませんし、あなたの命令に従う義務もない」
逃げ口上にはかまわず、アーティスは問い質した。
「君の名は?」
「……」
「君の名は?」
「……」
「三度は訊ねない。名乗るんだ、さもなくば反逆とみなす」
「シャレム」
アーティスは内心「やれやれ」と嘆息した。犬一匹服従させるのも楽ではない。
「ではシャレム、退いてくれ」
意外にも、シャレムは素直に前を譲った。
と、思いきや、
「……ご主人さまに変なことをされたら、僕、ナイフを持った手がうっかり滑るかもしれないよ……?」
しれっとした顔でシャレムが鋭利なナイフを三本同時に掌で弄ぶ。あからさまな脅迫行為だ。
アーティスは不意にばかばかしくなった。
親切心を咎められるとは、理不尽すぎる。
ミレは口を半開きにして寝息をたてている。
暢気なものだ。
アーティスは身を屈め、ミレのドレスの裾に触れ、いささか乱暴な手つきで捲れた部分を引き下げた。それから踵を返し、さっさと馬に跨ると、憮然とした面持ちでその場を後にした。
アーティス、初視点。
せっかくの親切心が報われない話です。ミレ、また寝てるし。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。




