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迷惑な溺愛者  作者: 安芸
特別番外編
100/101

奇跡

 秋の陽射しは心地いい。

 透明で、清らかな明るさの中に柔らかみがある。

 澄んだ空気を深く胸いっぱいに吸い込めば、身の内にこもった血生臭さも幾分か和らぐようだ。


 キャスは一仕事終え、裏路地から表参道に出て何食わぬ顔で群衆に紛れた。

 地味な仕立てのフロック・コートを着用し、黒いシルクハットを被り、黒靴を履く。手に持つステッキは一見ただのステッキだがその実は仕込杖で、護身用にも使える便利な暗殺道具だ。どこにでもいる、ごく一般の紳士の服装は日中の暗殺をカモフラージュするためには最も具合がいい。


 尾行を警戒し、やや遠回りとなるが迂回路を使って屋敷へと向かう。いまのところ尾行者の気配はないが用心するに越したことはない。先だって裏世界を掌握したばかりの身としては、降りかかる火の粉は払わねばならない。

 視力に頼るだけではなく、音を聞き、臭いを嗅ぎ、気配を読む。空気の流れを感じることで、どんな死線をも潜り抜けてきた。これまでもそうだし、これからもそうだろう。死は隣人、常に身近なものだ。残念なことに、平穏とは無縁の身である。


「簡単に、生き残れるとは思うなよ?」


 虫も殺さぬような善人面で、鮮やかに、残忍に、世間の眼からは見えない場所で屍の山を築いた父が死の間際まで繰り返した。

 何度も訊いたセリフだ。もう骨の髄まで叩き込まれている。


「殺す者は殺される。今日じゃなくても、いつか必ずその日は来る」


 因果応報。

 人を殺せば罪となり、罰を受けなければならない。

 だが、それがなんだ?

 子供は親を選べない。

 物心つく前より、善悪を教わるよりも先に人の命を奪う技を教わった。

 人間の流す血の色が赤いと教わった。

 生きるためではなく、死なないための手段を教わった。


「明日を迎えるのは難しい。だが、もっと難しいのは――」


 残念ながら、その続きの言葉がどうしても思い出せない。

 あのとき父はなんと言ったのだろう?


 キャスが歴史建造物保存地区である閑静な住宅街を通りぬけようとした折り、眼の前に帽子が落ちた。そのまま風に押され、どんどん道を転がっていく。

 ほとんど条件反射のまま動いて帽子を拾い、道を戻ると、ある感じのいい邸宅の鉄門の傍で子犬が盛んに吠えていた。


「……」


 小犬を一瞥すると、子犬は身の危険を察知したのか一目散に逃げていった。

 代わりに現れたのは金色のまっすぐな長い髪を背に流した見目よい若い女性で、足元にまとわりつく子犬を優しく窘めている。

 だがキャスの存在に気づいてはいないようで、門の方へは眼もくれない。


「失礼。帽子を拾ったのですが、あなたのものですか」


 声をかけると、女性はゆっくりと顔を擡げて振り向いた。

 足が悪いのか、杖をついて一歩一歩、道を確かめるように慎重に歩いて来る。

 急くことも物怖じもせず鉄門に近づきキャスの前に立った女性は、小首を傾げて言った。


「おそらく私のものです。薔薇の剪定をしている最中に風に飛ばされましたの。すぐに犬が追いかけてくれましたけど――」

「門に行く手を阻まれたようですね」


 キャスが先んじて言うと、女性は屈託なく笑った。


「そのようですわね。ご親切な方が拾ってくださって助かりましたわ。いま門を開けますので少々お待ちになって」


 女性に呼ばれ、すぐに鍵束を手にした執事がやってきて門を開く。

 キャスが拾った帽子を差し出すと執事が会釈して受け取り、それから「お嬢様、お手にどうぞ」と伝え、女性の手に渡る。

 女性は帽子をすっと撫でた。


「間違いなく、私のものです。どうもありがとう」


 そう明るい声で礼を言い、帽子を被り直して微笑む女性にキャスはふと違和感を覚えた。

 ここで初めて、キャスは女性の眼が自分を見ていないことに気づいた。

 執事に視線を合わせ無言で疑問を投げかけると、執事も無言のまま頷いて女性が盲目だと教えてくれる。杖は盲人用の物だったのだ。

 軽い驚きを覚えたものの、努めて無表情を保つ。

 なんの事情も知らぬ赤の他人が安い同情を寄せていいわけもあるまい。

 キャスは余計な口は挟まず、ただ紳士らしく一礼した。


「では私はこれで」

「お待ちになって。ささやかですけど、心ばかりのお礼です」

「礼など」


 結構、と断りかけたキャスの眼の前へいまが盛りと咲きこぼれる真っ白い薔薇が差し出された。輝くような笑顔と一緒に。


「……どうも」


 無下にも出来ず、受け取る。

 血に汚れた身に花など不釣り合いだと苦々しく思いながらも、キャスはそれを家まで持ち帰った。

 そしてなぜか、眺めてはその都度、彼女の笑顔を思い出した。


 世界中どこにでもありふれた、邂逅。

 これが二人の出会いだった。














「死ぬ前に一度だけ、海に行ってみたいのです」


 望みの少ない妻の願いを断ることはできなかった。

 妊婦に馬車の旅など危険だということは百も承知だった。そうでなくとも妻は身体が弱く、眼も見えない。危機が迫っても自分では対処ができないのだ。

 無理だ。命にかかわる。お腹の子供にも母体にも負担が重すぎる。

 キャスは「ダメだ」と首を振りたかった。懇願し、説得してでも止めるべきだとわかっていた。

 だができなかった。

 どうしても海に行きたい、と細く白い手を伸ばされては、その手を両方の掌で包むほかない。


「連れて行ってください、あなた」


 キャスは妻の温かな手を額に押し抱いた。気がつけば、自分の心とは真逆の言葉を口にしていた。


「わかった。連れて行こう」

 

 通常、馬車で片道せいぜい一日半の道のりを一週間かけた。馬車の揺れが母体に与える影響を最小限に抑えるため、ゆっくり、ゆっくりと進む。一目で貴族のものとわかる地味だが頑丈そうな馬車が人気(ひとけ)のない街道を牛の歩みにも負けるほどの速度で前進するのだから、追剥(おいはぎ)の眼に留まらないわけがない。

 案の定、襲撃された。

 だがその都度『墓堀人』の二人、ジェイハとゾリスが撃退した。手加減無用とキャスの指示を受けていた彼らは襲いかかる手合を赤子の手をひねるよりも容易く、次から次へと葬る。結果、街道には惨殺死体が幾つも転がり、赤黒い血痕が残った。


 粛々と馬車は進む。

 川にかかる橋を渡り、丘を越え、林を過ぎて、舗装道路から砂礫の道へ、のどかな田舎の宿場に泊まり、延々と続く単調な田園風景を突っ切った先に――。

 突如、視界が青く染まった。

 海だ。

 海岸線はゆるやかな弧を描き、白い砂浜が広がっている。

 キャスは馬車にジェイハを残し、ゾリスを伴に命じて妻を馬車から降ろした。


「着いたぞ」


 妻は長旅がこたえたのか衰弱していた。それでも泣き言一つ漏らさず、キャスの呼びかけには淡い微笑を浮かべた。

 キャスはやたらと軽い妻を横抱きにして、無言で砂浜を歩いた。

 降り注ぐ午後の太陽の光は穏やかな海面を照らし、キラキラと波間に弾ける。

 絶え間なく紡がれる波の音色は海の息吹そのもの。

 キャスは腕の中で静かに呼吸する妻を見下ろし、囁いた。


「波の音だ」


 ザッ……

 ザザ……ン……

 ザーッ……


 妻が首を傾け、見えない眼を開けて波音の生まれる海を見つめる。


「美しい響き」

「ああ」


 キャスは波打ち際で足を止めた。靴が濡れても構わなかった。


「私も好きだ」


 小さな笑い声が転がる。

 妻があどけなく笑っていた。


「あなたがそうおっしゃっていたから、私も聞いてみたくなったのです」

「そうか」

「そうですよ」


 耳を澄ます。

 押しては引いて、寄せては返す波。決して止まることなく、時間の流れに背くことなく、繰り返し、繰り返し、永遠に打ち寄せる。


 太陽が昇っても。

 太陽が沈んでも。


 月が昇っても。

 月が沈んでも。


 妻が生きているいまも。

 妻が永の眠りにつこうとも。


 不意に、絶望にも似た不安が込み上げる。

 どうしようもなく苦しくなって、キャスは押し殺した声で言った。


「逝くな」


 キャスは妻をギュッと抱きしめた。


「私を置いて、逝くな」


 妻がキャスの胸にコトンと頭を預ける。


「まだ逝きません」


 それからそっと言い添える。


「この子を無事に産むまでは、命懸けてお傍におりますよ」


 キャスはそれでは足りない、と叫びたかった。

 嗚咽が漏れる。

 妻の白い指がキャスの目元を優しく拭った。


「泣かないで、愛しい人。私は幸せなのです。生きて、あなたに出会えた。あなたを愛して、子供まで授かりました。奇跡のようです」


 そのとき突然、キャスの脳裏に亡き父の言葉が甦った。


『明日を迎えるのは難しい。だが、もっと難しいのは――』


 その続きが、どうしても思い出せなかった。

 だが、いまはっきりと思い出した。


『心から愛する者を得ることだ』


 キャスは妻の額に口づけた。


「私にとっては、君が奇跡だ」


 人の命を奪うことなど造作もなかった。これまでも、これからもそうだろう。しかし守るに足る命があること、守りたいと思うからこそ戦う意味があるのだと知った。

 もしかすると、父も同じだったかもしれない。

 父にとっては自分こそが奇跡だったのではないか。

 だとすれば、父は父なりの愛情をもって生きるすべを教えてくれたのか。

 俄かには信じがたいが、父の手に育てられたのは紛れもない事実だ。

 衝撃にしばらく言葉もなく立ち尽くしたあと、キャスは妻に告げた。


「私がこの子を守る」


 なにからも。誰からも。どんなことがあろうとも。どんな手を使っても。

絶対に守る。


「約束する」


 妻は安堵したように微笑んだ。


「はい」


 お願いします、と柔らかな囁きは高い波音に吸い込まれた。

 光射す海を潮風が押し上げるように撫でていく。

 無言で見つめる。

 海の青さを眼に焼き付けるように。波音を耳に縛りけるように。

 ややあって言った。


「……身体が冷えるといけない。そろそろ帰ろう」


 キャスは踵を返し、来た道を戻る。

 一歩歩くごとに潮騒が遠ざかっていく。

 妻がふと、思い出したように声をかけてきた。


「あなた」

「なんだ」

「子供の名前、考えてくださいね」

「もう決めている」


 キャスは愛する妻に向かい、微笑みながら告げた。


奇跡(ミレ)だ」







                         完


 長い間お付き合いいただきまして、ありがとうございました!

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