LIFE
“典型的”という言葉が嫌いになったのはいつからだろう?
自分が生まれてから何年経っただろう?
1日がこんなに楽になったのはなんでだろう?
って、ずっと考えてた。
楽な時だけじゃない。
時々、苦しい時もある。
いつも、俺にまとわりついてくるあの首輪が、俺の首を締め付けてくる時とかね。
俺は普通の中流家庭に物心ついたときから住んでいる飼い犬さ。
好きじゃないんだが、家族にはコリーって呼ばれてる。
そして今日も、“典型的”な一日が始まった。
もうすぐ6時か…………。
朝日が昇って間もなく、この家の大黒柱にしては、頼りない男が家から出てきて、こっちを笑顔で見てくる。
『さぁ散歩に行こう!!』と訴えてくるような表情は、とても正面から見られるものではないよな。
1日の始めからこれじゃ、今日もつまらない日になることぐらい目に見えてるな。
『ワン!ワンッ!!』
ダルそうにしっぽを振った。
その鳴き声を確認して、何やら嬉しそうに一人言を呟いている彼と共に、俺は散歩を始めた。
………………。
…………………。
まだ喋ってる。
人間ってのは一人で喋ってて楽しいものなのだろうか?
少なくとも、彼には当てはまっている。
まあ、野良達とくらべりゃこっちの方がましか……。
いつもと変わらないコースをロボットのように歩く。
ただ歩くだけならまだ良いが、頼むから首輪を引っ張らないでくれ。
この首輪、俺には合ってないんだって。
長くて短い散歩の時間が終わった。
彼は、かなりこの時間が楽しかったのか、相当な上機嫌で鼻歌を歌っている。
すでに、玄関先まで来たのに止まる気配はない。
ふと、彼は寂しそうに、こちらを振り返った。
『ワンッ!!』
精一杯の作り笑顔で吠える。
それを見て、彼が満足げに家に戻るのを確認してから、俺は犬小屋に座り込んだ。
さて、そろそろアイツが家を出る時間かな。
不意にドアが開き、家族からの愛を注がれ過ぎたわがまま息子が飛び出してきた。
「ワンッ!!」
いつものように、ちらっと俺を見て、何も言わずに家を出ていった。
ちなみに、ここ2年間でアイツが俺に喋りかけてきたことは一度もない。
今すぐにでも、そのおかっぱ頭に噛み付いてやりたい所だが、一応はこの家で飼われている事だし、今回も睨みつけるだけで勘弁してやるかな。
一仕事終わってやっと、一息つく。
賑やかな朝から一転して淋しい昼が訪れる。
どちらにしても“典型的”な事に変わりはないけど。
じっと、じっと小屋の中で座ってるだけ。
時々ベランダが開いて服を干す音が聞こえる。
うるさい…………。
バイクが目の前を通り過ぎていく。
うるさい……………。
こんなときは、一呼吸置いて空を見ながら叫ぶんだ。
難しい理屈などは無いさ。
ここに自分は居るんだって。
誰かが気付いてくれたらそれでいいんだ。
だいたい日が沈む少し前には、あの無愛想な息子が帰ってくる。
「…………ワンッ!!」
一応優しく吠えてみる。
俺のこの気持ちを知ってか知らずか、相変わらずの態度であいつは家の中に入って行った。
うっすらと見える星が動き始めた頃。
いつもどおりに門が開いて、少し顔が赤くなった彼が顔をのぞかせた。
そうかい、そんなに今日は上司と折り合いが悪かったのかい。
分かったから早く家の中に入ってくれよ。
その願いが通じたのか、今日は愚痴を1つもこぼさずにフラフラと家の中へ倒れこんでいった。
「ワン。」
今日は、彼の愚痴を聞かなかっただけ、ましな日だったかな。
なんだか眠くなってきた。
もうこんな真っ暗だ。
「ワウ、ワオーン。」
野良達の遠吠えが聞こえる。
俺も野良だったらこんな風に吠えているんだろうな。
あいつ等は誰に向けて吠えてるんだろう?……………。
月が沈み、少し間を置いてから太陽が登り始めた。
さて、今日もいつもと同じ“典型的”な一日が訪れる…………はずだった。
見慣れた風景が続く散歩道。
違う事は、通り過ぎる人と雲の流れぐらいだ。
相変わらず首輪は俺を締め付けてくる。
最近気づいたたんだが、時間ってのは楽しい時は速いが、苦しい時は長く感じる。
どうりで、毎日の散歩道が長く感じるわけだ。
そんなことを考えながら、あっという間に家の近くまで戻ってきた。
今日もつまんなかっ………。
その時、俺は見つけたんだ。
ガラス張りの建物の中に一匹の猫を。
“典型的”な猫なら犬と目が合った瞬間にお互い威嚇し合うだろ。
本能って奴が働くらしい。
俺は威嚇なんて好きじゃないんだが、相手に睨まれて黙ってるほど『お利口さん』じゃないから、仕方なく吠え返すのさ。
けど、猫って奴は先に威嚇してきたのに、喧嘩になるとすぐ逃げる。
猫の考えなんて犬の俺には全く分からない。
だから猫は大嫌いなんだ。
でも、そいつは違った。
なぜか知らないが、笑っていたんだ。
考えられるかい?初めて会った犬に笑いかけるなんて愛想の良い人間でもしないことだ。
あいつは他とは違うって思ったさ。
そして、ふと気付いたら五感全てをあの猫に注ぎ込んでいる俺がいた。
あと1分1秒でもここにいたい。
しかし、向こうに行こうとすればするほど、更に首輪は深く締め付けてくる。
あの猫の姿もそれに比例して小さくなっていった。
俺は吠えた。
ガラスの裏側に届いているかは分からない。
でも、届いてほしい。
もう、ガラスの反射でキミの姿は見えなくなっている。
俺は首輪の苦しさに負けて、仕方なく歩き出した。
歩く俺の背中を冬の残り風が後押しする。
…………………………。
「ミャ〜」
……………えっ?聞こえた!!確かに聞こえたぞ!!!!
冷たい北風は急に俺の周りから姿を消した。
無論、俺は犬だから猫がなにを言っているかは分からない。
せいぜい分かって、喜怒哀楽の感情ぐらいだ。
でも、キミの声は喜怒哀楽のどれでもなかった。
優しい春の風がこの街を通り抜ける。
こうして、いつもと同じ日々は今日で終わった。
一昨日までは今日なんてどうでも良い1日。
でも、今は今日も明日も明後日も特別な日。
3回月が満ちて、そして欠けていった。
その間は今までの何倍も早く感じる。
でも、これまでの10倍も20倍も中身の詰まっている充実した毎日だった。
最近は、あの場所を通り過ぎる時に1回だけ吠えるんだ。
あんまりうるさくされてもキミは困るだろうからね。
それに、犬が猫の事は分からないように、猫も犬の事は分らないだろうし。
そして、この気持ちを夜になったら空に向かって叫ぶんだ。
確かじゃないけど、月や星がこの気持ちを照らしてくれるような気がするから。
今日もきれいな満月だ。
「ワ〜ウ」
まだまだ吠え足りないけど、そろそろ、人間が寝る時間だな。
でも、最後に一回!!
「ワオ〜ン」
これは誰かにではなくて、ガラスの向こうにいる君のために。
長い間人間の家にいると少しは言葉が解ってくる。
例えば(オスワリ)
この意味は地面に座ること。
これをすると時々美味しい食べ物をくれるから一番好きな言葉だ。
(シンブン)は、必ず一日の朝早くと夕方に玄関の箱に入れていく紙の束の事。
紙なんて食べ物じゃないのに、なんで毎日来るのかよく分からない不思議な物の名前だ。
そして、一番嫌いな言葉は“典型的”って言葉さ。
もう、2度と使いたくないね。
もちろん、まだ知らない言葉も沢山ある。
最近みんなが『ヒッコシ』という言葉をたくさん使い始めた。
みんな楽しそうにしてるからきっと良い言葉なんだろう。
響きも好きだし、お気に入りの言葉になりそうだな。
話によれば『ヒッコシ』は明日するらしい。
早く明日にならないかなぁ。
次の日、俺は車に載せられて、知らない場所に連れて来られた。
ここは、景色も匂いも全く違う場所。
同じなのは、朝は明るく夜は暗いところ。
広い庭がある、前の家より日当たりも良い。
なんて居心地がいいんだ!!
って、自分に何度言い聞かせても寂しさは増すばかり。
今日も朝が来た。
此処も向こうも、いつも同じ時間に太陽は昇るのに俺から向こうは全然見えない。
「ワン」
キミに聞こえてないのは解ってる。
「ワン」「ワン」
何で吠えているんだろう?
「ワン」「ワン」「ワン」
それはキミのため?
もしかすると俺の為かもしれないな。
もちろん、悪い事ばかりじゃなくて、良い事もあった。
家族を念願の庭付き一戸建てに連れて来て、いい気になっている彼が言うには、
「こんなに広いのに、ずっとコリーに首輪をさせても可哀想だから、散歩の時以外、首輪は着けなくても良い。」だとさ。
こうして、生まれたときから俺を苦しめていた首輪はあっけなく外れた。
これで苦しい日々からは抜け出せると思っていた。
でも………。
こんな気持ちになるのは、なんでだろう。
俺は考えて、太陽に聴いてみた。
月にも、雲にも、青空にも聴いてみた。
でも、みんな何も答えてくれなかった。
夏は通り過ぎ、最近は秋も見えなくなった。
ずっと、ずっと考えた。
今までは見ないできた物が、やっとはっきり見えた時。
俺は気付いたんだ。
苦しかったのは、首輪で締め付けられていたからじゃないって。
それが見つかったら意外と早く、どうすればこの苦しみから抜け出せるか解ったんだ。
今日も大抵の犬にとっては、どうでも良い“典型的”な一日。
でも、今日は、俺にとって特別な日。
いつも通り散歩をして、じっと待つ…………。
ちょうど太陽が一番高くなった時に、俺はこの家を飛び出した。
今までありがとう。
そしてさようなら。
「ワン!!」
一度だけ止まって振り返り、また走り出した。
目的地はただ一つ、俺が昔住んでいた場所。
そして、その場所にいるキミに会いに行くために、俺は走るんだ。
それが俺の答えだから。
こうして、俺はあれほど嫌だった野良犬になった。
でも、思ってたほど辛くはなかった。
一歩、一歩、力強く走れるから。
ああ、もうどのくらい走ったっけ。
毎日の景色は目まぐるしく変わる。
暖かい場所、冷たい場所、寂しい場所、楽しい場所、いろんな場所に俺は出会った。
でも、ごめんよ。
俺はそこには居られないんだ。
行かなくちゃいけない場所があってね。
その場所は、あと少しで着くかも知れないし、あの山の向こうのもっと向こうのその先かも知れない。
足跡は乱れて目も霞んできた。
でも、走らなくちゃ。もう戻れない。
進むしかない。
方向感覚なんて、とっくに麻痺してる。
確かなことは、俺は走ってるってこと。
それだけで十分だ。まだ前に進めるな。
ようやく着いたあの町はがらりと変わっていた。
俺が住んでた家は他の人間が住んでいる。
昔、よく遊んだ原っぱには高いビルが建っていた。
そして、俺も変わった。
だからこそ真っ直ぐに走った。
あのガラス張りの家に。
キミが居る場所に。
この町は本当に変わった。
そんな中でこの家だけ変わんない事なんて、あり得ないって分かってた。
目の前には、鉄のフェンスが立ちはだかっている。
この町は昼間なのに、ここだけなぜか真夜中のような気がする。
俺が遠くに行ってる間に、キミと俺の距離はガラスから厚い鉄の固まりになった。
俺は今、何も分からない。
君はどこにいるの?
これから、俺はどこにいくの?
なんだか、今日は疲れたな。
もう寝ようかな…………。
此処はどこだろう?
周りには花が咲き乱れている。
その中に一本だけ、開けたあぜ道がある。
その道に立っているのは俺だって事までは分かった。
太陽は出てないのに何故か暖かい。
この道の後ろは暗くて先は見えない。
先が見えないのは同じだけど、この道の向こうは眩しい光で見えないんだ。
あんなに疲れてたのに、まだまだ走らなくちゃいけない気がしたし、まだ走れる気もした。
これは夢なのか、それ以外なのかは分からない。
いや、分かることの出来ないものと言った方が正しいかな?
ただ一つ分かるのは、自分がここに居るって事だけ。
さて、次はどこまで行こうかな?まだまだ先は長そうだ。
そうだ。
この場所にきて、俺は一つだけ分かった事があるんだ。
今日も明日もどうせ“典型的”な春の“典型的”な天気さ。
でも、今日も明日も特別な日。
全ての生き物にとっても、毎日が特別な日なんだ。




