白い結婚の三年目、離縁状の旦那さまの署名に線が一本引かれていた
「君を愛することはない」と言われてから、ちょうど三年。約束の朝のお話です。
三年目の朝は、よく晴れていた。
リーゼロッテは、寝台の上に、トランクをひとつだけ開いた。
入れるものは、多くない。嫁いできた日に持ってきた服が三着。母の形見の櫛。それから、この三年で書きためた帳面が四冊。
帳面だけは、置いていこうかと思った。辺境伯家の台所の薪の数、畑に植えた香草の名前、村の子どもたちに読み書きを教えた日の記録。この家のことしか書いていない。
少し迷ってから、トランクの底に入れた。
(……三年、か)
窓の外に、北の山が見えた。峰に、もう雪がかかっている。三年前のちょうど今ごろ、リーゼロッテは、あの山のふもとのこの城へ、馬車に揺られてやってきた。
父の借金のかたに。
男爵家の娘が、辺境伯ユリウス・ヴァルトハイムの妻になる。誰が聞いても、釣り合わない縁だった。父は「お前は運がいい」と笑い、リーゼロッテは何も言えなかった。
そして、婚礼の夜。
寝室の扉の前で、夫になったばかりの人は、こちらを見ずに言った。
「君を愛することはない」
低い、平らな声だった。
「三年、白い結婚のままでいてくれ。三年たてば、この国の法で、婚姻はなかったことにできる。……そのあとは、君の好きにすればいい。君は、自由だ」
それだけ言って、扉を閉めた。
リーゼロッテは、その夜、ひとりで泣いた。怖かったのか、ほっとしたのか、泣きながら考えても、答えは出なかった。
◇
白い結婚の三年は、思っていたより、ずっと忙しかった。
最初の冬、城の台所の薪が、春まで持たないと気づいた。帳簿を見せてほしいと執事のゲオルグに頼むと、老執事は少し驚いた顔をしてから、黙って鍵を渡してくれた。
帳簿は、ひどいものだった。先代のころから、誰もきちんとつけていなかったらしい。リーゼロッテは、ひと冬かけて、それを全部書き直した。
二年目の春には、城の裏の荒れた畑に、香草を植えた。三年目には、村の子どもたちに、台所の隅で読み書きを教えはじめた。
夫とは、ほとんど話さなかった。
ユリウスは、毎朝、同じ時刻に食堂へ来た。向かいの席に座って、黙ってパンを食べた。リーゼロッテが「おはようございます」と言うと、「ああ」とだけ答えた。それから、国境の砦へ出かけていった。
夜は、遅くに帰ってきた。
ただ、ひとつだけ、ふしぎなことがあった。
ユリウスは、城の正面の門から入らなかった。いつも、裏の畑のそばの小さな門から帰ってきた。遠回りになるのに。
一度だけ、聞いたことがある。
「どうして、裏から入られるのですか」
ユリウスは、パンをちぎる手を止めて、少しだけ考えた。
「……こちらのほうが、静かだからだ」
それだけだった。
◇
二年目の冬に、一度だけ、熱を出したことがある。
村の子どもの風邪が、うつったのだった。三日のあいだ、寝台から起きられなかった。
二日目の夜、喉が渇いて目を覚ますと、暖炉の火が、赤々と燃えていた。
寝る前には、もう埋み火になっていたはずだった。誰かが、夜中に薪を足していったのだ。枕もとの小卓には、湯気の立つ椀が置いてあった。リーゼロッテが畑で育てたタイムを、蜂蜜で煮出したものだった。
翌朝、ゲオルグに礼を言うと、老執事は「わたくしでございます」と答えた。
けれど、その日の朝食の席で、向かいに座った夫の手袋から、かすかに煙の匂いがした。それから、タイムの匂いも。
リーゼロッテは、何も聞かなかった。
ユリウスも、何も言わなかった。
ただ、その冬のあいだ、暖炉の薪が、帳簿の数よりいつも少しだけ多く減っていた。リーゼロッテは、帳面のその欄に、毎晩、小さな印をつけた。
春になって、印は、四十七個になっていた。
◇
昼前、リーゼロッテは、トランクを閉めて、書斎へ向かった。
離縁の書状は、三年前のあの夜のうちに、もう用意されていた。ユリウスの署名が入ったものが、書斎の机の、二段目の引き出しにある。三年目の朝が来たら、そこに自分の名前を書き足して、教会へ届ければいい。
婚礼の翌朝、ゲオルグが、申し訳なさそうな顔でそう教えてくれた。
ユリウスは、今日、城にいない。国境の砦へ、三日の見回りに出ている。わざと今日に合わせたのだろうと、リーゼロッテは思っていた。顔を合わせずに済むように。
(そのほうが、いいのかもしれない)
書斎の扉を開けた。
机の上は、きれいに片づいていた。二段目の引き出しを開けると、羊皮紙が一枚、きちんと置かれていた。
リーゼロッテは、それを取り出して、窓の光にかざした。
――ユリウス・ヴァルトハイム
見慣れた、角ばった字だった。
そして、その名前の上に、まっすぐな線が、一本引かれていた。
リーゼロッテは、しばらく、その線を見つめていた。
インクは、新しかった。指でそっと触れると、まだ、ほんの少しだけ、紙の表に光が残っていた。三年前の字ではない。ゆうべか、今朝早くか。
線の横には、何も書かれていなかった。
新しい署名も、言いわけも、何も。
◇
「ゲオルグ」
台所の横の小部屋で、老執事は銀の皿を磨いていた。リーゼロッテが羊皮紙を差し出すと、ゲオルグは眼鏡をかけ直して、それをじっと見た。
「……ああ」
ゲオルグは、ため息のような声を出した。
「ゆうべ、遅くまで、書斎の灯りがついておりました」
「旦那さまは、砦に行かれたのでは」
「夜明け前に、お発ちになりました。……奥さま、お掛けください」
ゲオルグは、自分の椅子をリーゼロッテにすすめて、自分は立ったまま、皿を置いた。
「本当は、旦那さまに口止めされております。けれど、三年たちましたので。……もう、時効ということで、お許しいただけるでしょう」
老執事は、少しだけ笑った。
「奥さまのお父上の借金は、二年前に、すべて片がついております」
リーゼロッテは、息を止めた。
「……え」
「旦那さまが、お父上の貸主から、証文をすべて買い取られました。それから、お父上に、手紙を一通。――『今後、娘を金のために嫁がせることがあれば、ヴァルトハイムが相手になる』と」
「そんな話、父からは、一度も」
「お父上も、さぞ言いにくかったのでしょう」
ゲオルグは、目を細めた。
「婚礼の夜、旦那さまは、寝室の扉の外で、奥さまの泣き声をお聞きになりました。……翌朝、わたくしに、こうおっしゃいました。『あの人は、売られてきたのだ。私が触れていい人ではない』と」
リーゼロッテは、膝の上で、羊皮紙を握りしめた。
「三年たてば、婚姻はなかったことになる。白い結婚のままなら、奥さまは、傷ひとつない身で、どこへでも行ける。お父上に、二度と売られることもなく。……旦那さまが考えたのは、それだけでございました」
「……それだけ」
「ええ。それだけ、だったはずなのですが」
ゲオルグは、羊皮紙の線を、指で示した。
「三年は、長うございましたな」
◇
リーゼロッテは、裏の畑に出た。
香草が、秋の風に揺れていた。二年前に植えたローズマリーは、腰の高さまで伸びている。その向こうに、小さな木の門があった。
夫が、毎晩くぐって帰ってきた門。
畑のそばの、静かな門。
(……静かだから、じゃない)
ここを通れば、畑の向こうの台所の窓が見える。夜遅くまで、帳簿をつけていた窓が。子どもたちに字を教えていた、台所の隅の灯りが。
門の向こうで、蹄の音がした。
速い音だった。土を跳ね上げて、坂を駆けのぼってくる。リーゼロッテが顔を上げると、泥だらけの馬が、門の前で止まった。
ユリウスが、馬から降りた。
外套にも、長靴にも、泥がはねていた。三日の見回りに出たはずの人が、昼前に戻ってきた。夜明け前に発って、砦にも着かずに、引き返してきたのだと分かった。
ユリウスは、門の前で、足を止めた。
リーゼロッテの手にある羊皮紙を見た。
しばらく、どちらも、何も言わなかった。
「……もう、行ったかと思った」
ユリウスが、先に口を開いた。三年前と同じ、低い声だった。けれど、平らではなかった。
「行こうと思っていました」
リーゼロッテは、羊皮紙を広げて、線の引かれた名前を見せた。
「これを、書斎で見つけるまでは」
ユリウスの目が、紙から逸れた。
「消したのは、私だ」
「存じています」
「消して、……書き直そうとした。君を自由にすると、約束したのだから。だが、ペンを持ったまま、朝になった」
ユリウスは、泥のついた手袋を外した。指先が、インクで少し黒くなっていた。
「だから、砦に逃げようとした。君が出ていくところを、見なくて済むように。……峠の手前で、馬を返した。逃げるのも、違うと思った」
風が、香草の匂いを運んできた。
「書き直せなかった。かといって、引き止める言葉も、持っていない。私は、三年前に、君に何と言ったか、覚えている」
「わたしも、覚えています」
「……ああ」
「ですから、旦那さま」
リーゼロッテは、一歩、門のほうへ近づいた。
「決めるのは、わたしではありません。三年前に、あの言葉をおっしゃったのは、旦那さまです」
ユリウスが、こちらを見た。
「取り消すのでしたら、旦那さまが、ご自分で取り消してください」
長い沈黙があった。
ユリウスは、何度か口を開きかけては、閉じた。国境の砦で、隣の国の使者と三日にらみ合っても、顔色ひとつ変えなかった人だと聞いている。その人が、畑の前で、言葉を探していた。
「……君を愛することはない、と言った」
ようやく、声が出た。
「あれは、嘘になった。……いつから嘘になったのか、私にも分からない。気づいたら、毎晩、この門から帰っていた」
リーゼロッテは、少しだけ笑った。
笑ったつもりだったのに、目のふちが熱くなった。
「遠回りなのに」
「遠回りなのに、だ」
ユリウスは、まじめな顔で答えた。
「台所の窓に、灯りがついているのを見ると、……帰ってきたと思えた。三年、ずっとそうだった」
「二年目の冬も、ですか」
ユリウスが、ぴたりと黙った。
「暖炉の薪が、四十七晩、帳簿より多く減っていました。わたし、帳面に印をつけていたんです」
「……ゲオルグだ」
「ゲオルグは、夜中に二階まで上がれません。膝が悪いので」
ユリウスは、しばらく空を見上げていた。それから、観念したように、小さく息を吐いた。
「熱が下がるまでと、思っていた。……下がってからも、やめどきが分からなかった」
「四十七晩も」
「数えていたのか」
「帳簿をつけるのが、わたしの仕事でしたから」
ユリウスの口の端が、ほんのわずかに、ゆるんだ。三年で初めて見る顔だった。
◇
その日の夕方、リーゼロッテは、トランクを開け直した。
服を三着、衣装箪笥に戻した。母の櫛を、鏡の前に戻した。帳面を四冊、台所の棚に戻した。
線の引かれた離縁状は、暖炉にくべようかと思って、やめた。
書斎の、二段目の引き出しに、そっと戻した。
「捨てないのか」
戸口で、ユリウスが聞いた。
「捨てません」
リーゼロッテは、引き出しを閉めた。
「旦那さまが、三年で一度だけ、まっすぐな線を引けなかった日の記念ですから」
ユリウスは、何か言い返そうとして、やめた。耳のあたりが、少し赤かった。
「それから、明日の朝は、正面の門から帰ってきてください」
「……なぜだ」
「わたしが、門まで迎えに出ますので。台所の窓からでは、遠すぎます」
ユリウスは、しばらく黙ってから、小さく「ああ」と答えた。
三年間、毎朝聞いてきた返事だった。
けれど、その日の「ああ」は、少しだけ、違って聞こえた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「君を愛することはない」と言った人が、三年目の朝に、自分の名前に線を一本だけ引いてしまうお話でした。言葉の少ない旦那さまと、帳面を四冊ためた奥さまの、遠回りの三年です。
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