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白い結婚の三年目、離縁状の旦那さまの署名に線が一本引かれていた

作者: 夜華カナタ
掲載日:2026/11/01

「君を愛することはない」と言われてから、ちょうど三年。約束の朝のお話です。

三年目の朝は、よく晴れていた。


 リーゼロッテは、寝台の上に、トランクをひとつだけ開いた。


 入れるものは、多くない。嫁いできた日に持ってきた服が三着。母の形見の櫛。それから、この三年で書きためた帳面が四冊。


 帳面だけは、置いていこうかと思った。辺境伯家の台所の薪の数、畑に植えた香草の名前、村の子どもたちに読み書きを教えた日の記録。この家のことしか書いていない。


 少し迷ってから、トランクの底に入れた。


(……三年、か)


 窓の外に、北の山が見えた。峰に、もう雪がかかっている。三年前のちょうど今ごろ、リーゼロッテは、あの山のふもとのこの城へ、馬車に揺られてやってきた。


 父の借金のかたに。


 男爵家の娘が、辺境伯ユリウス・ヴァルトハイムの妻になる。誰が聞いても、釣り合わない縁だった。父は「お前は運がいい」と笑い、リーゼロッテは何も言えなかった。


 そして、婚礼の夜。


 寝室の扉の前で、夫になったばかりの人は、こちらを見ずに言った。


「君を愛することはない」


 低い、平らな声だった。


「三年、白い結婚のままでいてくれ。三年たてば、この国の法で、婚姻はなかったことにできる。……そのあとは、君の好きにすればいい。君は、自由だ」


 それだけ言って、扉を閉めた。


 リーゼロッテは、その夜、ひとりで泣いた。怖かったのか、ほっとしたのか、泣きながら考えても、答えは出なかった。


               ◇


 白い結婚の三年は、思っていたより、ずっと忙しかった。


 最初の冬、城の台所の薪が、春まで持たないと気づいた。帳簿を見せてほしいと執事のゲオルグに頼むと、老執事は少し驚いた顔をしてから、黙って鍵を渡してくれた。


 帳簿は、ひどいものだった。先代のころから、誰もきちんとつけていなかったらしい。リーゼロッテは、ひと冬かけて、それを全部書き直した。


 二年目の春には、城の裏の荒れた畑に、香草を植えた。三年目には、村の子どもたちに、台所の隅で読み書きを教えはじめた。


 夫とは、ほとんど話さなかった。


 ユリウスは、毎朝、同じ時刻に食堂へ来た。向かいの席に座って、黙ってパンを食べた。リーゼロッテが「おはようございます」と言うと、「ああ」とだけ答えた。それから、国境の砦へ出かけていった。


 夜は、遅くに帰ってきた。


 ただ、ひとつだけ、ふしぎなことがあった。


 ユリウスは、城の正面の門から入らなかった。いつも、裏の畑のそばの小さな門から帰ってきた。遠回りになるのに。


 一度だけ、聞いたことがある。


「どうして、裏から入られるのですか」


 ユリウスは、パンをちぎる手を止めて、少しだけ考えた。


「……こちらのほうが、静かだからだ」


 それだけだった。


               ◇


 二年目の冬に、一度だけ、熱を出したことがある。


 村の子どもの風邪が、うつったのだった。三日のあいだ、寝台から起きられなかった。


 二日目の夜、喉が渇いて目を覚ますと、暖炉の火が、赤々と燃えていた。


 寝る前には、もう埋み火になっていたはずだった。誰かが、夜中に薪を足していったのだ。枕もとの小卓には、湯気の立つ椀が置いてあった。リーゼロッテが畑で育てたタイムを、蜂蜜で煮出したものだった。


 翌朝、ゲオルグに礼を言うと、老執事は「わたくしでございます」と答えた。


 けれど、その日の朝食の席で、向かいに座った夫の手袋から、かすかに煙の匂いがした。それから、タイムの匂いも。


 リーゼロッテは、何も聞かなかった。


 ユリウスも、何も言わなかった。


 ただ、その冬のあいだ、暖炉の薪が、帳簿の数よりいつも少しだけ多く減っていた。リーゼロッテは、帳面のその欄に、毎晩、小さな印をつけた。


 春になって、印は、四十七個になっていた。


               ◇


 昼前、リーゼロッテは、トランクを閉めて、書斎へ向かった。


 離縁の書状は、三年前のあの夜のうちに、もう用意されていた。ユリウスの署名が入ったものが、書斎の机の、二段目の引き出しにある。三年目の朝が来たら、そこに自分の名前を書き足して、教会へ届ければいい。


 婚礼の翌朝、ゲオルグが、申し訳なさそうな顔でそう教えてくれた。


 ユリウスは、今日、城にいない。国境の砦へ、三日の見回りに出ている。わざと今日に合わせたのだろうと、リーゼロッテは思っていた。顔を合わせずに済むように。


(そのほうが、いいのかもしれない)


 書斎の扉を開けた。


 机の上は、きれいに片づいていた。二段目の引き出しを開けると、羊皮紙が一枚、きちんと置かれていた。


 リーゼロッテは、それを取り出して、窓の光にかざした。


 ――ユリウス・ヴァルトハイム


 見慣れた、角ばった字だった。


 そして、その名前の上に、まっすぐな線が、一本引かれていた。


 リーゼロッテは、しばらく、その線を見つめていた。


 インクは、新しかった。指でそっと触れると、まだ、ほんの少しだけ、紙の表に光が残っていた。三年前の字ではない。ゆうべか、今朝早くか。


 線の横には、何も書かれていなかった。


 新しい署名も、言いわけも、何も。


               ◇


「ゲオルグ」


 台所の横の小部屋で、老執事は銀の皿を磨いていた。リーゼロッテが羊皮紙を差し出すと、ゲオルグは眼鏡をかけ直して、それをじっと見た。


「……ああ」


 ゲオルグは、ため息のような声を出した。


「ゆうべ、遅くまで、書斎の灯りがついておりました」


「旦那さまは、砦に行かれたのでは」


「夜明け前に、お発ちになりました。……奥さま、お掛けください」


 ゲオルグは、自分の椅子をリーゼロッテにすすめて、自分は立ったまま、皿を置いた。


「本当は、旦那さまに口止めされております。けれど、三年たちましたので。……もう、時効ということで、お許しいただけるでしょう」


 老執事は、少しだけ笑った。


「奥さまのお父上の借金は、二年前に、すべて片がついております」


 リーゼロッテは、息を止めた。


「……え」


「旦那さまが、お父上の貸主から、証文をすべて買い取られました。それから、お父上に、手紙を一通。――『今後、娘を金のために嫁がせることがあれば、ヴァルトハイムが相手になる』と」


「そんな話、父からは、一度も」


「お父上も、さぞ言いにくかったのでしょう」


 ゲオルグは、目を細めた。


「婚礼の夜、旦那さまは、寝室の扉の外で、奥さまの泣き声をお聞きになりました。……翌朝、わたくしに、こうおっしゃいました。『あの人は、売られてきたのだ。私が触れていい人ではない』と」


 リーゼロッテは、膝の上で、羊皮紙を握りしめた。


「三年たてば、婚姻はなかったことになる。白い結婚のままなら、奥さまは、傷ひとつない身で、どこへでも行ける。お父上に、二度と売られることもなく。……旦那さまが考えたのは、それだけでございました」


「……それだけ」


「ええ。それだけ、だったはずなのですが」


 ゲオルグは、羊皮紙の線を、指で示した。


「三年は、長うございましたな」


               ◇


 リーゼロッテは、裏の畑に出た。


 香草が、秋の風に揺れていた。二年前に植えたローズマリーは、腰の高さまで伸びている。その向こうに、小さな木の門があった。


 夫が、毎晩くぐって帰ってきた門。


 畑のそばの、静かな門。


(……静かだから、じゃない)


 ここを通れば、畑の向こうの台所の窓が見える。夜遅くまで、帳簿をつけていた窓が。子どもたちに字を教えていた、台所の隅の灯りが。


 門の向こうで、蹄の音がした。


 速い音だった。土を跳ね上げて、坂を駆けのぼってくる。リーゼロッテが顔を上げると、泥だらけの馬が、門の前で止まった。


 ユリウスが、馬から降りた。


 外套にも、長靴にも、泥がはねていた。三日の見回りに出たはずの人が、昼前に戻ってきた。夜明け前に発って、砦にも着かずに、引き返してきたのだと分かった。


 ユリウスは、門の前で、足を止めた。


 リーゼロッテの手にある羊皮紙を見た。


 しばらく、どちらも、何も言わなかった。


「……もう、行ったかと思った」


 ユリウスが、先に口を開いた。三年前と同じ、低い声だった。けれど、平らではなかった。


「行こうと思っていました」


 リーゼロッテは、羊皮紙を広げて、線の引かれた名前を見せた。


「これを、書斎で見つけるまでは」


 ユリウスの目が、紙から逸れた。


「消したのは、私だ」


「存じています」


「消して、……書き直そうとした。君を自由にすると、約束したのだから。だが、ペンを持ったまま、朝になった」


 ユリウスは、泥のついた手袋を外した。指先が、インクで少し黒くなっていた。


「だから、砦に逃げようとした。君が出ていくところを、見なくて済むように。……峠の手前で、馬を返した。逃げるのも、違うと思った」


 風が、香草の匂いを運んできた。


「書き直せなかった。かといって、引き止める言葉も、持っていない。私は、三年前に、君に何と言ったか、覚えている」


「わたしも、覚えています」


「……ああ」


「ですから、旦那さま」


 リーゼロッテは、一歩、門のほうへ近づいた。


「決めるのは、わたしではありません。三年前に、あの言葉をおっしゃったのは、旦那さまです」


 ユリウスが、こちらを見た。


「取り消すのでしたら、旦那さまが、ご自分で取り消してください」


 長い沈黙があった。


 ユリウスは、何度か口を開きかけては、閉じた。国境の砦で、隣の国の使者と三日にらみ合っても、顔色ひとつ変えなかった人だと聞いている。その人が、畑の前で、言葉を探していた。


「……君を愛することはない、と言った」


 ようやく、声が出た。


「あれは、嘘になった。……いつから嘘になったのか、私にも分からない。気づいたら、毎晩、この門から帰っていた」


 リーゼロッテは、少しだけ笑った。


 笑ったつもりだったのに、目のふちが熱くなった。


「遠回りなのに」


「遠回りなのに、だ」


 ユリウスは、まじめな顔で答えた。


「台所の窓に、灯りがついているのを見ると、……帰ってきたと思えた。三年、ずっとそうだった」


「二年目の冬も、ですか」


 ユリウスが、ぴたりと黙った。


「暖炉の薪が、四十七晩、帳簿より多く減っていました。わたし、帳面に印をつけていたんです」


「……ゲオルグだ」


「ゲオルグは、夜中に二階まで上がれません。膝が悪いので」


 ユリウスは、しばらく空を見上げていた。それから、観念したように、小さく息を吐いた。


「熱が下がるまでと、思っていた。……下がってからも、やめどきが分からなかった」


「四十七晩も」


「数えていたのか」


「帳簿をつけるのが、わたしの仕事でしたから」


 ユリウスの口の端が、ほんのわずかに、ゆるんだ。三年で初めて見る顔だった。


               ◇


 その日の夕方、リーゼロッテは、トランクを開け直した。


 服を三着、衣装箪笥に戻した。母の櫛を、鏡の前に戻した。帳面を四冊、台所の棚に戻した。


 線の引かれた離縁状は、暖炉にくべようかと思って、やめた。


 書斎の、二段目の引き出しに、そっと戻した。


「捨てないのか」


 戸口で、ユリウスが聞いた。


「捨てません」


 リーゼロッテは、引き出しを閉めた。


「旦那さまが、三年で一度だけ、まっすぐな線を引けなかった日の記念ですから」


 ユリウスは、何か言い返そうとして、やめた。耳のあたりが、少し赤かった。


「それから、明日の朝は、正面の門から帰ってきてください」


「……なぜだ」


「わたしが、門まで迎えに出ますので。台所の窓からでは、遠すぎます」


 ユリウスは、しばらく黙ってから、小さく「ああ」と答えた。


 三年間、毎朝聞いてきた返事だった。


 けれど、その日の「ああ」は、少しだけ、違って聞こえた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「君を愛することはない」と言った人が、三年目の朝に、自分の名前に線を一本だけ引いてしまうお話でした。言葉の少ない旦那さまと、帳面を四冊ためた奥さまの、遠回りの三年です。


楽しんでいただけましたら、★評価やブックマークで教えていただけるとうれしいです。

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