Nスキルしか引けない代官補佐の記録帳 ~チート英雄が去った廃領地、立て直しは一日一枚ずつ~
朝の六時に目が覚める。前世からの癖で、鐘も鶏もないのに瞼が開く。
エルデン領の九月は朝だけ妙に冷える。毛布を肩に巻いたまま寝台を降り、部屋の隅の木箱の前に立つ。祭壇と呼ぶには粗末だけれど、神はこの箱越しに日に一度、私にスキルを授けてくれる。
今日のぶんを引く前に、昨日までに授かった札をひとつ呼ぶ。《呼吸を数える》。今日は人と話す日になる気がした。
それから箱に手をかざすと、淡い光が滲んで掌に一枚の札が現れた。
《日陰の記憶》
半日のあいだ、自分が見た日陰の位置を正確に思い出せる。それだけ。
無料で引けるガチャからはNランクしか出ない。三年で千枚以上引いて、一度も例外を見たことがない。
私は札を握り潰した。光が肌に染みて消える。授かった札は使うまで身の内に眠り、呼べば半日は効く。それから机に向かい、羊皮紙の端に日付と札の名を書き足した。三年ぶんの記録は、もう指二本の厚みになっている。
記録帳は五列。日付、札の名、効果、持続時間、そして使い道。最後の列はほとんど空白のまま。
《靴紐の結び目を覚える》。《雨粒が地面を打つ音を数える》。《左手の爪の伸びを知る》。こんなもので何をどうしろというのかと思った朝は数え切れない。
それでも捨てなかった。使い道が分かるまでの時間を、こちらで用意しておくだけ。
一枚では何もできない札も、千枚あれば列になる。列になれば、傾きが見える。
前世の私は制作進行だった。納期を握り、他人の遅れを謝って回り、深夜に進行表を引き直す仕事。倒れて目を覚ましたら十九歳の身体で、辺境の代官補佐という肩書きまで付いてきた。
今世の目標はひとつだけ。定時で上がって、温かいスープを飲んで寝る。そのためにこの土地を立て直す必要があるなら、立て直しましょう。やる気ではないの。ただの合理。
前世で一度だけ進行表を投げ出した。誰も責めなかった。責められなかったことのほうが長く残っている。だから今は止めない。
三年前、この領地には英雄が来た。
フィンレイ・ローエン。王都の神殿が呼び出した勇者だった。森の魔物を三日で殲滅し、涸れかけた鉱山を一週間で掘り当て、北のヴェルダ川を腕の一振りで西へ曲げた。領民は泣いて感謝した。私も泣いた。あのときは本当に、救われたと思ったのよ。
そして半年で飽きて、王都へ帰った。
残されたものを数えるのに二年かかった。狩り尽くされた森では鹿が増えすぎて若木が食われ、鉱山は四年ぶんの鉱脈を前借りして枯れた。西へ曲げられたヴェルダ川は、三つの村の脇を削りながら流れている。
誰もフィンレイを恨んでいない。それが一番厄介なのよね。彼は悪意でやったわけではなく、全力で善意を尽くして去った。だから後始末は誰の責任にもならず、宙に浮いたまま、この土地の上に落ちてくる。
「補佐どの」
執務室に入ると、オズワルド代官が窓辺に立っていた。七十を超えた老人で、私が来た日からずっと同じ姿勢で外を見ている。
「王都から使いが来る。徴税官だ」
「日取りは、いつでしょう」
「今日の昼だ」
炉に薪をくべ、手を温めながら三年ぶんの札を頭のなかで並べ直す。
「代官。今日の交渉、私に任せていただけませんか」
「言っても無駄だぞ。上は、この土地を豊かだと思っている」
「ええ。だからこそ、話が早いんですよ」
オズワルドは私を見た。何か言いかけて、やめた。諦めることに慣れすぎて、諦めない人間の顔をどう扱えばいいのか忘れている。
机の右端には、封を切っていない王都からの書簡が三通、埃をかぶって重なっている。読めば動かねばならなくなるから。
ヴァルター・ケーニヒと名乗った徴税官は、思ったより若かった。三十そこそこ、外套の裾に泥ひとつない。馬車で来て、一度も降りなかったのだろう。
館の前で出迎えたとき、街道の脇に村の子どもが三人しゃがんでいた。馬車を見に来たのだ。そのうちの一人、トビアスという男の子の手首は、親指と人差し指で輪を作れそうな太さだった。去年の秋はもう少しあった。
ヴァルターは子どもたちを見なかった。悪意ではない。王都にいれば、あの細さがどれだけ異常か比べる相手がいないだけ。
彼は長机に書類の束を置き、一枚を私たちの側へ滑らせた。
「来期より、エルデン領の納税額を現行の三倍とする。王都の決定です」
炉の火が爆ぜた。オズワルドが息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。
「三倍」
「妥当な数字です。貴領は三年前、勇者フィンレイ卿の功績により飛躍的な生産力の向上を得た。にもかかわらず納税額は据え置かれてきた。追徴すべきという声すらありました」
私は書類を手に取り、数字の並びを目で追った。
前世で、こういう表を何百枚も見た。実績の表と見込みの表は見れば分かる。実績には端数が出る。現実は割り切れないから。見込みには出ない。頭のなかで作った数字は、必ずどこかで丸められる。
この表の数字は、全部きりのいい数で終わっていた。
指先が冷たくなった。怒りではない。この土地の帳簿を誰かが読んでくれる日を三年待って、その誰かが今、読まずに書いた紙を持って座っている。待っていた相手が来た、という感触だけ。
「ケーニヒ様。この算定の根拠を、伺ってもよろしいでしょうか」
「フィンレイ卿が王都に提出された功績報告書です」
そこで彼の喉が、わずかに動いた。
胸の内で、今朝呼んだ札を静かに切る。《呼吸を数える》。相手の呼吸の間隔を数えられる。それだけのスキル。当然、嘘を見抜く力などない。
ただ、人は言い慣れていない言葉を口にするとき、その直前に息を短く継ぐ。三年ぶんの記録を取っていれば、それくらいは分かる。
ヴァルターは、報告書という単語の前で息を継いだ。
「素晴らしい報告書だと伺っております」
私は微笑んだ。ここで反論してはいけない。前世で嫌というほど覚えた。相手の前提を否定した瞬間に、交渉は終わる。
「フィンレイ卿には領民一同、今も感謝しております。あの方がいらっしゃらなければ、私たちは三年前に滅んでおりました」
「結構。では――」
「ですので、卿の報告に嘘はひとつもございません」
ヴァルターの手が止まった。
「……当然でしょう」
「ええ。ただ、あの報告書が書かれたのは、卿がこの地を発たれる前のはずです。つまりそこに記されているのは、卿がご覧になった時点での見込み。三年間の実績ではありません」
私はオズワルドに目で合図した。老人は震える手で、机の下から布に包んだものを取り出す。
紙は三枚だけにした。
前世で学んだことだ。相手を殴りたいときほど資料を厚くしてはいけない。厚い束は読まれない。読まれない資料は、存在しないのと同じ。
一枚目を滑らせる。
「ヴェルダ川の水位記録です。三年前の秋から、百二十日ぶん」
「……これを、誰が」
「私が。あの札が出た日だけ、朝いちばんに」
《水位を五分だけ覚える》。見た水面の高さを五分だけ誤差なく記憶できる。過ぎれば忘れるから、堤から走って戻る五分で書き留める。三年で百二十回しか引けなかった札の、その回数ぶんの数字。
「西へ移された流路は、ミルデ村の手前で急に曲がります。増水のたび、曲がった外側に水が乗り上げます。堤の上まであと一歩という日が、一年目は一日もありませんでした。去年は九日。今年はもう十四日。このままなら、来年の雪解けで越えます」
ヴァルターの視線が数字の列を上下した。彼は端数を見ている。きりの悪い数だけが並ぶ表を。
二枚目を出す。
「農地の日照記録です」
「日照」
「防風林が消えて、北風が直接畑に入ります。それと、鉱山から出た捨て石の山が東の斜面に積まれたまま。あの影が、午前中いっぱい麦畑の三割を覆います」
《日陰の記憶》。半日ぶんの日陰の位置を思い出せるだけの札。それを九十七回引いた。九十七日ぶんの影を重ねれば、畑のどこが何時間陽を浴びていないかが出る。
「報告書にある収量は、日照が三年前と同じであれば達成できる数字です。前提が変わりました」
「……前提が」
「三枚目を、ご覧いただけますか」
最後の一枚は、ただの名簿だった。
「昨年の冬に亡くなった領民の一覧です。三十一名。死因の欄をご覧ください。二十四名が栄養失調に伴う病死です」
執務室が静まった。炉の火だけが鳴っていた。
この一枚だけは書くのに三日かかった。名前を写すたび顔が浮かんで手が止まったから。数字にすれば軽くなると思ったのに、逆だった。三十一という数は、三十一回思い出さないと書けない。
ヴァルターの呼吸を数えていた。間隔が乱れている。自分が持ってきた紙の数字が、この名簿と同じ土地に載っていると理解しはじめている。
「ケーニヒ様。私は卿の報告書が誤りだと申し上げているのではありません。あれは正確です。三年前の時点では」
「……何が言いたい」
取り立てを押し通すだけなら、書面一枚で足りる。それをこの人は、わざわざ辺境まで馬車で来ている。確かめに来たのだ。自分が書いた数字を。
「王都の査定表を作られたのは、あなたです」
彼の呼吸が、止まった。
「三年前の見込みを、そのまま実績として写された。現地を見ずに。――責めているのではありません。辺境の帳簿など誰も読みませんし、勇者の報告を疑う理由もない」
私は声を落とした。ここからは追い詰めてはいけない。追い詰められた相手は、自分を守るために全部を否定する。逃げ道を作るのが交渉。
「ですから、あなたが今なさるべきことは、訂正ではありません。再査定の要請です」
ヴァルターが顔を上げた。
「……再査定」
「新しい情報が現地から上がったため、再査定を要する。それだけです。むしろ、王都の徴税官が三年前の数字の誤りを自ら発見したことになります」
彼は長いあいだ黙っていた。私は待った。前世で身についた唯一の特技は、黙って待てること。急かされた相手は、必ず自分に都合のいい結論を出す。
やがてヴァルターは三枚の紙を揃え、自分の書類の束の上に載せた。
「……水位の記録は、写しを取らせていただく」
「原本をお持ちくださいませ。写しはこちらに残しておりますので」
「用意がいい」
「三年も、ありましたから」
彼は初めて、笑ったような顔をした。それから口を開いた。
「ハルトマン補佐。水位の記録は、来年も続けていただけますか」
「続けますが、なぜ」
「三年前の査定表には、私の署名があります」
弁解でも謝罪でもない。署名した人間が現地を見に来る。それだけのことを、この人は自分で決めたらしい。
「来春の測量には私が同行します。徴税官の職掌ではありませんが、志願は通します」
馬車に乗り込む前、ヴァルターは街道の脇で足を止めた。子どもたちはまだそこにいた。彼は何も言わず、トビアスの手首を一度だけ見た。目を逸らすまでに、ずいぶん間があった。
日が暮れる前に馬車は発った。
納税額は据え置き、来春に王都から測量官が入る。堤防の改修は国費で行われる見込みだという。書面はまだ何もない。だが、動き出した。
来春、あの人はまた来る。それまでに、雪解けの水がどこまで上がるか数字で出しておかなければ。
オズワルドが窓辺で、まだ外を見ていた。夕日が斜めに入り、彼の白髪の輪郭だけが赤く光っていた。
「補佐どの。なぜフィンレイ卿を責めなかった」
「責めたところで、堤防は直りませんもの」
それに、と続けかけてやめた。責める言葉を用意するには、こちらにも三年ぶんの怒りが要る。私はその三年を、数字を書き留めるのに使ってしまった。
老人は少し笑った。三年でその顔を見たのは初めてだった。彼は机の右端に手を伸ばし、埃をかぶった封筒の一通を、ようやく指で引き寄せた。
執務室の火を落とし、羊皮紙の束を棚に戻した。指二本ぶんの厚み。ただ数字を書き写しただけの、誰も読まないはずだった紙の山。
弱い札しか引けない人間は、並べることと、捨てないことを覚える。強い札を一枚引けてしまった人間は、たぶん、それを覚える必要がない。
だからフィンレイは、去るしかなかったのだと思う。
宿舎に戻ると、鍋の底にスープが残っていた。豆と塩漬けの肉が少し。温め直して椅子に座り、両手で椀を包んだ。
外はもう暗い。誰かが井戸の水を汲む音がする。
明日も六時に目が覚める。木箱に手をかざして、たぶんまたNが出る。それを書き留めて、記録を一日ぶん厚くする。
定時で上がって、温かいものを飲んで寝る。今日はそれができた。
明日もできるようにしておくのが、私の仕事なのだから。




