服を着るほどはしたない世界に転生しましたが、王子様は私の服に一目惚れしたようです
この世界で、最初に私を困らせたものは、魔法でも、貴族制度でも、見知らぬ言葉でもなかった。
服だった。
前世の私は、日本で生まれ、日本で育った。会社に通い、電車に揺られ、誰かの迷惑にならないように生きて、疲れたらコンビニで甘いものを買って帰る。そんな、ごく普通の女だった。
けれど、ある冬の夜、残業帰りの横断歩道で強い光を見た。
そして次に目を覚ました時、私はリディア・アルフォートという伯爵令嬢になっていた。
金色がかった栗色の髪。淡い緑の瞳。十九歳の身体。白い石造りの屋敷。魔法灯の明かり。侍女。家庭教師。貴族名鑑。王宮から届く招待状。
そこまでは、まだよかった。
問題は、鏡の前に立った時だった。
「お嬢様。本日の礼装はこちらでございます」
侍女のミナが差し出してきたのは、私の感覚では、ドレスというより水着に近かった。
もちろん、美しい。
真珠のような光沢があり、薄い青の刺繍が施されていて、宝石も散りばめられている。高価なものだと分かる。
けれど、布地が少ない。
肩も腕も、脚も、かなり日差しに触れる作りになっている。
「……これを着るのですか?」
「はい。本日は王宮の春陽会ですので、伯爵令嬢としては少し控えめなくらいかと」
控えめ。
この水着のような服が控えめ。
私はその言葉を聞いて、めまいがした。
この世界では、肌を見せることは恥ではない。
むしろ、肌を日差しにさらすことは、健康と清潔と身分の証だった。
この世界の空には、魔力を帯びた大気層がある。さらに、空の上層にある青い膜――前世でいうところのオゾン層に近いもの――は、戦争や産業によって傷つけられた歴史がない。
そのため、地上に届く紫外線は極端に弱い。
日差しそのものは暖かい。
光はまぶしい。
けれど、人の骨や血を健やかに保つために必要な光は、地上ではとても薄い。
だから、この世界の人々は、意識して日光を浴びる。
特に貴族はそうだ。
清浄魔法で保たれた庭園。澄んだ水。香油で整えられた肌。虫も泥も病も遠ざけられた環境。
肌を出せることは、汚れから身を守る必要がないこと。
布で覆わなくてもよいことは、安全な場所に生きていること。
日差しを受けられることは、健康を維持できる身分にあること。
だから、貴族であればあるほど、礼装は軽やかになる。
反対に、不衛生な地域では服が厚くなる。
泥、粉塵、虫、病、腐った水、瘴気に似た悪臭。そういうものから肌を守るためには、布が必要になる。料理人や医師が清潔を保つために布を使うのも当然だし、鍛冶師や兵士が怪我を避けるために厚い装備を身につけるのも、誰も笑わない。
布をまとうこと自体は、悪ではない。
ただし、理由が必要だった。
衛生。
防寒。
防護。
職務。
病。
危険。
そうした合理的な理由があるなら、どれほど厚い服でも恥ではない。
だが、清潔で暖かな王宮の庭園で、必要もないのに腕や首や脚を覆うことは、この世界では、はしたない行為とされる。
なぜ、隠す必要のないものを――むしろ、健康にいきるためには、日の光を浴びなければならないのに、わざわざ隠すのか。
それは人の視線を意識しすぎているからではないか。
それは見ないでほしいと言いながら、かえって想像を誘っているのではないか。
それは、貴族らしい健康と清潔を拒む、妙に意味深な自己演出ではないか。
そう受け取られる。
つまり、私が前世の感覚で「普通」だと思う服は、この世界では、かなり大胆で、奇妙で、はしたないものだった。
「ミナ」
「はい、お嬢様」
「長袖のドレスを作れますか?」
その瞬間、ミナは手にしていた髪飾りを落とした。
「な、長袖……ですか?」
「ええ。首元も、少し高めに。スカートは膝より下まであってほしいのです」
ミナはしばらく私を見つめていた。
そして、みるみるうちに顔を赤くした。
「お嬢様……それは、あまりにも……」
「変ですか?」
「変というより……その、はしたないです」
「長袖が?」
「はい」
「胸元を隠すのも?」
「とても」
「膝下のスカートは?」
「王宮では、かなり強い意味を持ちます」
私は額を押さえた。
意味が分からない。
いや、説明は分かる。
前世の記憶を思い出したとは、いえ、この世界で生きてきた記憶もあるので、理屈も、文化も、ある程度は理解できる。
でも、身体がついてこなかった。
私は前世で、肌を隠す服に安心していた。長袖のブラウスも、襟つきのワンピースも、足元まで揺れるスカートも、どれも私にとっては普通だった。
誰かを誘惑するためではない。
誰かの視線を集めるためでもない。
ただ、それが落ち着くから着ていた。
それなのに、この世界では、それが「はしたない」とされる。
私はしばらく黙ったあと、ミナに言った。
「それでも、作ってください」
「お嬢様……」
「私は、この世界の習慣を軽んじたいわけではありません。日差しが健康に必要なことも、貴族が肌を出す理由も分かっています。けれど、せめて私自身の身体にまとうものくらい、私が決めたいのです」
ミナは泣きそうな顔をした。
「王宮で笑われてしまいます」
「笑われてもいいです」
「嫌味を言われます」
「それは嫌ですが、耐えます」
「殿方にいやら……妙な目で見られるかもしれません」
「それは、もっと嫌です」
思わず正直に言うと、ミナは少しだけ笑った。
けれど、すぐに真面目な顔に戻る。
「お嬢様。布を纏うには、理由が必要なのです」
「なら、理由はあります」
「どのような?」
私は鏡の中の自分を見た。
前世の私ではない顔。けれど、前世の記憶を宿した私。
「私が、私でいるためです」
ミナは何も言わなかった。
ただ深く頭を下げ、それから小さく答えた。
「……承知いたしました」
◇ ◇ ◇
王宮の春陽会は、白い庭園で開かれた。
王宮の庭園は、まるで神話の中にあるように美しかった。
白石の回廊。銀色の噴水。淡い金の花。清浄魔法によって澄みきった空気。陽光はやわらかく、肌に落ちても痛みはなく、ただ温かな羽のように触れてくる。
貴族たちは皆、日差しを浴びるための軽やかな礼装をまとっていた。
宝石、金鎖、香油、花飾り。
布ではなく、光と装飾で身分を示す世界。
その中へ、私は長袖のドレスで足を踏み入れた。
襟は高い。
袖は手首まである。
スカートは膝を越え、歩くたびに淡く揺れる。
前世の私なら、何の問題もない外出着だった。
けれど、この世界の王宮では違う。
庭園の空気が、ぴたりと止まった。
「見て……」
「アルフォート伯爵令嬢よね?」
「あれほど布を……?」
「王宮の空気が不潔だとでも言いたいのかしら」
「いえ、違うわ。あれはきっと、わざとよ」
「なんて、はしたない……」
水着のような美しい服を着た令嬢達が囁く。
ささやきは、花の間を飛ぶ虫のように耳元をかすめる。
私は背筋を伸ばした。
怖くないわけではなかった。
誰かに笑われるのは、前世でも苦手だった。
目立つのも嫌いだった。
浮かないように、間違えないように、人の機嫌を損ねないように、ずっと自分を小さくして生きてきた。
だから本当は、今すぐ馬車に戻りたい。
でも、ここで逃げたら、私はまた同じになる。
誰かの常識に合わせて、自分を消すだけの人間に。
「ごきげんよう」
私は微笑んだ。
たぶん、少し引きつっていた。
それでも礼は崩さなかった。
その時だった。
庭園の奥、噴水の近くに立っていた一人の青年が、こちらを見た。
黒に近い深い金髪。静かな青い瞳。陽光を受ける王族の礼装。
彼の上半身には布がなかった。けれど、この世界ではそれが王族男性の正式な装いだった。胸元には王家の紋章を刻んだ金鎖がかかり、肩には青い宝石飾り、腕には魔力循環を助ける銀の腕輪が光っている。腰から下には白と金の礼装布が幾重にも重ねられ、立ち姿には少しの乱れもなかった。
アルヴィン・レグナート第二王子。
王太子ではない。けれど、王族として民の前に立ち、外交や祭礼を任される立場にある方だと聞いていた。
前世の感覚を持つ私には、一瞬だけ目のやり場に困る姿だった。けれど、周囲の令嬢たちは誰一人として動揺していない。むしろ、日差しを受けて堂々と立つ王子の姿は、清潔で、健康で、高貴なものとして受け止められていた。
だから私も、慌てて視線をそらすわけにはいかなかった。
この世界では、彼の姿こそが正しい。
そして、長袖の私こそが異端なのだ。
王子はそんな私を見て、完全に動きを止めていた。
しかし、他の貴族たちのような嘲笑ではない。
困惑でもない。
蔑みでもない。
まるで、ずっと探していたものを、突然目の前に見つけたような顔だった。
私が視線に気づくと、王子は少しだけ息を呑んだ。
そして、ゆっくりと私の方へ歩いてくる。
周囲がざわめいた。
「アルフォート嬢」
「はい、殿下」
「その装いは……あなたが選ばれたのですか?」
声は穏やかだった。
責めているようには聞こえない。
「はい。私が着たいと思いました」
王子の瞳が、かすかに揺れた。
「恐ろしくはありませんか」
「恐ろしいです」
私は正直に答えた。
彼は少し驚いたようだった。
「ですが、着たいと思ったのです」
「なぜ?」
私は少しだけ考えた。
王子に前世のことは言えない。
私は別の世界の記憶があります、などと言っても信じてもらえないだろう。
だから、言える範囲で答えた。
「私には、これが自然だからです」
王子は黙った。
その沈黙が、なぜかとても深く感じられた。
彼は私の袖を見て、襟元を見て、最後に私の目を見た。
「自然……」
「はい」
「そう言えるあなたは、強い方だ」
「強くはありません。今も手が震えています」
そう言うと、王子はほんの少し笑った。
「では、震えながらも逃げない方だ」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
この世界に来てから、私の服はずっと否定されていた。
はしたない。
おかしい。
貴族らしくない。
不衛生な場所にいる者のようだ。
でも、彼は違った。
彼は、私の服そのものではなく、それを着て立っている私を見てくれた気がした。
その日から、王子は私に声をかけるようになった。
◇ ◇ ◇
アルヴィン王子は、不思議な人だった。
王子としては完璧だった。
所作は美しく、言葉は丁寧で、誰に対しても公平。春陽会でも、貴族たちの間を穏やかに渡り歩き、困っている者がいればさりげなく助ける。
けれど、私と二人で話す時だけ、少し違った。
王宮図書室の奥。
人の少ない温室。
白い回廊の影。
彼は、私の服について聞きたがった。
「その袖は、動きにくくありませんか?」
「少し。でも慣れています」
「前腕を覆うと、日差しが足りなくなるのでは?」
「特に支障はありません」
「首元を隠すことに、意味があるのですか?」
「私の……家では、落ち着いた装いとされます」
嘘ではない。
前世の話はできないから、少し言葉を濁しただけだ。
王子はいつも、私の答えを真剣に聞いた。
からかうことも、嫌味を言うこともない。
だから私は、少しずつ彼に心を許していった。
けれど同時に、不思議でもあった。
なぜ、この人はこんなに私の服に興味を持つのだろう。
ある日、温室で二人きりになった時、私は思い切って尋ねた。
「殿下は、私の服を変だとは思わないのですか?」
王子は、花に触れていた指を止めた。
「変ではあります」
「そこは否定してくださらないのですね」
「この国の基準では、変です」
「そうですよね」
「だが、美しいと思います」
私は息を止めた。
王子の顔は、少し赤かった。
この世界では、必要もなく布をまとう服を美しいと言うことは、相当に危うい言葉なのだろう。
彼は視線をそらし、花の影を見つめた。
「私は幼いころから、古い絵を見るのが好きでした」
「古い絵?」
「今よりも魔力大気の濃度が不安定だった時代の絵です。その頃は、地域によって日差しや衛生環境が大きく違ったため、王侯貴族でも布の多い礼装を着ていた記録が残っています。長い袖、高い襟、足元まで流れる布……」
王子の声は、静かだった。
「私は、それを美しいと思った」
それは告白に近い声だった。
「けれど、言えなかった。王族がそのようなものに惹かれるなど、品位を疑われる。布の多い服は、今では貧困、不衛生、あるいは過剰な自己演出と結びついていますから」
「……だから、誰にも言わなかったのですか?」
「はい」
王子は苦笑した。
「王子というものは、意外と不自由です。美しいと思うものすら、勝手には言えない」
私はその言葉を聞いて、胸が痛くなった。
私もそうだった。
前世で、私は好きなものをよく隠した。
無難じゃないと言われたくなくて。
面倒な人だと思われたくなくて。
場の空気を乱したくなくて。
この世界でも、王子は王子であるがゆえに、自分の美意識すら隠していた。
「では、私の服を見て、驚かれたのですね」
「驚きました」
王子は私を見た。
「そして、一目で心を奪われました」
温室の空気が、甘く揺れた気がした。
私は何も言えなくなった。
王子は、しまったという顔をした。
「失礼。今のは、その……」
「いえ」
私は首を振った。
頬が熱かった。
この世界で「服をまとった姿が好きだ」と言われることが、どれほど強い意味を持つのか、私はまだ完全には分かっていない。
でも、彼の声が軽いものではないことだけは分かった。
それから私たちは、さらに近づいた。
王子は私に、王宮の古い衣装画を見せてくれた。
私は彼に、前世の記憶をぼかしながら、布のある服の形を話した。
襟の角度。
袖口の飾り。
スカートの重なり。
歩いた時の揺れ方。
布に守られている安心感。
彼はそれを、宝物の話を聞くように聞いてくれた。
私は嬉しかった。
この世界で、初めて自分の服を否定されなかったから。
この人なら、分かってくれるかもしれない。
私が私のまま立つことを、許してくれるかもしれない。
そう思い始めていた。
だからこそ、その言葉は、深く刺さった。
◇ ◇ ◇
雨の日だった。
この世界の雨は、細い銀の糸のように降る。
王宮図書室の窓辺で、私はアルヴィン王子と古い婚礼衣装の図録を見ていた。
そこには、かつて北方の王女がまとったという、袖の長い白い礼装が描かれていた。
王女の生まれは、寒い国だという。
前世のウェディングドレスに少し似ている。
そう思った瞬間、胸が懐かしさでいっぱいになった。
「綺麗ですね」
私が呟くと、王子は絵ではなく、私を見ていた。
「あなたに似合うと思います」
その声があまりに優しくて、私は顔を上げられなかった。
しばらく沈黙が落ちた。
雨音だけが、図書室に響いている。
そして、王子が言った。
「リディア」
「はい」
「私の前だけで、服をきてほしい」
時間が止まった。
その言葉は、きっと王子にとっては精一杯の告白だったのだと思う。
誰にも言えなかった好み。
隠してきた美意識。
私にだけ見せた弱さ。
だから、私にも秘密を分けてほしいという願い。
分かる。
分かるのに。
胸の奥が、すっと冷えた。
『私の前だけで』
私はその部分を、心の中で繰り返した。
私の前だけで、服を着てほしい。
つまり、人前では着るなということだろうか。
王子の品位に関わるから。
王家の評判に傷がつくから。
私の装いは公には認められないから。
だから、秘密の場所でだけ、自分の好みに合わせてほしいということだろうか。
私は袖口を握った。
この服は、殿下を喜ばせるために着ているのではない。
私が私でいるために選んだ服だ。
周りに笑われても、陰口を言われても、それでも手放したくなかったものだ。
なのに、好きになりかけた人から「私の前だけで」と言われた瞬間、それが誰かの所有物にされたように感じた。
「……殿下」
声が少し震えた。
「それは、人前では着るなという意味ですか?」
王子は目を見開いた。
「違う。私は、そういう意味で言ったのではありません」
「では、どういう意味ですか?」
「私はただ……あなたのことが心配で……」
王子は言葉を探していた。
けれど、私はそれを待てなかった。
待てば、きっと彼を許したくなる。
彼の不器用さを、こちらが汲み取ってしまう。
前世の私がそうだったように。
誰かの言葉の足りなさを、自分が我慢して埋める。
誰かの無神経さを、自分の理解でなかったことにする。
それを続けて、私はいつも自分を小さくしてきた。
もう、それはしたくなかった。
「私は、この服を殿下のためだけに着ているわけではありません」
王子の顔が、痛みに歪んだ。
「分かっています」
「いいえ。分かっておられません」
言ってしまってから、胸が痛んだ。
でも、止まれなかった。
「この国で、私の服は笑われます。はしたないと言われます。貴族らしくない、不衛生な地域の者のようだと陰口を言われます。それでも私は、私の身体に何をまとうかを、自分で決めたかったのです」
「リディア……」
「殿下の前だけで着るなら、それは私の選択ではなくなります」
私は図録を閉じた。
「失礼いたします」
王子は私を止めなかった。
止めなかったことが、余計につらかった。
図書室を出て、回廊を歩いた。
雨の音が遠くなる。
長い袖が、歩くたびに手首に触れる。
この布が、前世の私を思い出させた。
満員電車の中で、自分を守るようにカーディガンの袖を握っていたこと。
会社の休憩室で、浮かない服を選んで安心していたこと。
誰にも見せない本当の気持ちを、心の奥にしまい込んでいたこと。
私は、また誰かの秘密になるのだろうか。
この世界でも、誰かの都合に合わせて、自分を折りたたんで生きるのだろうか。
それは嫌だった。
たとえ相手が、好きな人でも。
◇ ◇ ◇
アルヴィン王子からの招待は、しばらく途絶えた。
王宮では、私についての噂だけが増えていった。
「アルフォート令嬢は王子にまで布の装いを見せつけたらしい」
「殿下がお気の毒だわ」
「でも、殿下は彼女を気に入っているのでは?」
「まさか。王族があのような趣味を公にするはずがない」
噂は、刃物よりも細く、肌の下に入り込む。
私は屋敷の庭で日光を浴びながら、ぼんやりと空を見上げた。
この世界の光は優しい。
紫外線が弱いから、肌を刺すような痛みはない。
けれど、その分、身体は光を求める。医師からも、私はよく注意された。布の多い服を着るなら、その分、朝夕にきちんと日差しを浴びるように、と。
私はこの世界の合理性を否定しているわけではない。
日差しが必要なら浴びる。
不衛生な場所では布で守る。
清潔を保つための規則も守る。
けれど、王宮の貴族たちは、合理性と身分意識を混ぜすぎているように感じる。
肌を出せる者が高貴。
布をまとう者は不浄に近い。
理由のない布は、はしたない。
本当にそうなのだろうか……。
◇ ◇ ◇
その答えは、思ったよりも早く、そして容赦のない形で私の前に差し出された。
日陽祭まで、あと一月。
その朝、私は寝台から起き上がろうとして、視界が大きく揺れた。
「……っ」
思わず枕元の柱に手を伸ばす。
指先に力が入らなかった。
身体が重い。
頭の奥に薄い霧がかかったようで、胸のあたりが冷えている。
風邪ではない。熱もない。けれど、身体の芯から何かが抜け落ちているような感覚があった。
「お嬢様! 今すぐ、お医者様をお呼びします」
起こしに来たミナが、血相を変えて主治医を呼んだ。
やって来たのは、アルフォート家に長く仕える女医、セラフィス先生だった。
銀縁の眼鏡をかけた、落ち着いた声の女性だ。私が前世の記憶を取り戻してから、何かと体調を診てくれている。必要以上に詮索はせず、けれど小さな変化も見逃さない、信頼できる人だった。
「お嬢様。失礼いたします」
セラフィス先生は私の手首を取り、脈を診た。
次に、透明な水晶板を私の掌に乗せる。水晶板の中には淡い光が宿り、細い糸のような紋様が浮かび上がった。
しかし、その光はすぐに弱々しく揺らぎ、霧のように散ってしまった。
先生の眉が、わずかに動いた。
「……やはり」
「やはり、とは?」
「日照不足だけではありません。魔力循環も落ちています」
私は息を止めた。
「魔力循環……?」
「はい。お嬢様の身体は、かなり弱っています。眩暈、冷え、倦怠感、指先の震え。最近、魔法灯に触れた時、反応が鈍かったことはありませんか?」
思い当たることがあった。
夜、部屋の魔法灯を灯そうとして、いつもより明かりがつくまでに時間がかかった。疲れているだけだと思っていた。
「あります」
「それは、身体に巡る魔力が不足している証です」
セラフィス先生は、私の長袖の寝間着を見た。
責めるような目ではなかった。
ただ、医師として、原因を確かめる目だった。
「お嬢様。この世界の人間は、食事と睡眠だけで生きているわけではありません」
「日差しが必要なことは、分かっています」
「日差しだけではありません」
先生は窓の外を見た。
朝の庭には、淡い光と、花を揺らす風が満ちている。
「肌を日差しにさらすこと。そして、新鮮な空気にさらすこと。その二つによって、人は外界の魔力を取り込みます」
「空気から、魔力を……?」
「はい。肺で息を吸うのとは別です。肌には、目に見えないほど小さな魔力の孔があります。私たちはそれを魔孔と呼びます。そこから日差しに含まれる微細な光素と、風に流れる魔力を取り込んでいるのです」
私は、自分の袖口を見た。
手首まで覆う布。
安心するはずの布が、その時だけ、少し重く見えた。
「布で覆うと、それが妨げられるのですか?」
「完全に遮られるわけではありません。布の素材にもよります。ただ、お嬢様が好んでお召しになっている厚手の布は、光素も風の魔力も通しにくい。短時間なら問題はありません。ですが、長く続けば、身体に影響が出ます」
セラフィス先生の声は、穏やかだった。
けれど、逃げ道のない声でもあった。
「お嬢様。私は、装いの好みに口を出すつもりはありません。ですが医師として申し上げます。今のままでは、健康を損ないます」
その言葉は、私の胸に静かに落ちた。
今のままでは、健康を損なう。
誰かが私を笑ったからではない。
貴族社会が私を否定したからでもない。
この世界の価値観に屈しろと言われているのでもない。
ただ、私の身体が、この世界の理に合っていなかった。
「……私は、ただのわがままを言っていたのでしょうか」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
セラフィス先生は、すぐには答えなかった。
しばらく私を見つめてから、静かに言う。
「わがままとは申しません。でも、身体を壊しているのなら、医師として、諌めなければなりません」
セラフィス先生は、私の手を取り続ける。
「お嬢様が、ご自身の装いを選びたいと願うことは、わがままではありません。ですが、この世界の身体で生きている以上、この世界の身体が必要とするものを無視することはできないのです」
その言葉は、優しかった。
だからこそ、痛かった。
「自分を大切にすることと、自分の好みを守ることは、本来、敵ではありません」
「……両立できるでしょうか」
「考えるべきは、そこです」
セラフィス先生は水晶板を片づけた。
「まずは今日、庭園で日差しと風を浴びてください。できれば、肌を覆うものはすべて外して。もちろん、人目のない場所で構いません」
私は小さく頷いた。
けれど、胸の奥は重かった。
この世界の人々が肌を出す理由を、私は知識としては理解していた。
でも、どこかで軽く見ていたのかもしれない。
貴族の見栄。
身分の誇示。
布をまとう者への偏見。
そういうものばかりに目を向けていた。
けれど、その下には、確かに生きるための理があった。
この世界で、服を着ないことには、意味がある。
それは、見せびらかすためではない。
誰かに媚びるためでもない。
健康でいるため。
魔力を巡らせるため。
この世界の光と風を、自分の身体に受け入れるため。
私は、それを軽んじていた。
◇ ◇ ◇
昼前、私は屋敷の奥にある小さな庭園へ向かった。
そこは家族以外ほとんど立ち入らない、壁に囲まれた静かな庭だった。白い石畳の中央に浅い水盤があり、その周りを淡い花が囲んでいる。風は柔らかく、空には薄い雲が流れていた。
ミナには、入口で待っていてもらった。
「本当に、お一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫です。誰も入れないでください」
「はい。わかりました」
庭園に一人になると、急に静けさが深くなった。
私は、胸元の留め具に手をかけた。
指が少し震える。
この世界では、肌を出すことは恥ではない。
むしろ自然で、健康的で、清潔な行為だ。
けれど、前世の記憶を持つ私にとって、人のいない庭とはいえ、外で服を脱ぐことには、どうしても抵抗があった。
私はゆっくり息を吐いた。
「これは、私の身体のため」
小さく呟く。
ひとつずつ、留め具を外した。
長い袖を抜き、重い布を肩から落とす。
一つ、一つ、布を地面に落としていく。
そうして、生まれたての姿で、空を見上げた。
肌に、風が触れた。
思っていたより、冷たくなかった。
むしろ、やさしかった。
庭園の風は、花の匂いを含んで、私の腕を、肩を、首筋を撫でていく。日差しは柔らかく、肌の表面に薄い金色の膜を広げるように降り注いだ。
恥ずかしい、と思った。
でも同時に、気持ちいい、とも思った。
その感覚に、私は驚いた。
「みんな、こんな感覚なのね……」
風が肌を通り抜けるようだった。
日差しが身体の奥に染み込んでいくようだった。
冷えていた胸のあたりが、少しずつ温かくなる。
指先の震えが、ゆっくりとほどけていく。
水盤のそばに立ち、目を閉じる。
空気の中に、確かに何かがあった。
前世では感じたことのない、細かくきらめく粒子のようなもの。
それが肌に触れ、吸い込まれ、血の流れに混ざっていくような感覚。
これが、この世界に満ちる魔力。
「なんて、優しいのかしら」
この世界の人々が、当たり前のように受け取っているもの。
私は今まで、それを布で遮っていたのだ。
何も知らずに。
知ろうともせずに。
「……気持ちいい」
小さく言葉がこぼれた。
認めたくなかった。
でも、気持ちよかった。
日差しを浴びることが。
風に触れられることが。
この世界の空気を、肌で受け取ることが。
身体が喜んでいる。
私は、水盤の縁に腰を下ろした。
裸の肌に風が当たるたび、少しだけ心細くなる。けれど、その心細さの向こうに、身体の奥から戻ってくる力がある。
この世界で、肌を出すことは大切なことなのだ。
それは分かった。
分かってしまった。
なら、私はどうすればいいのだろう。
前世の私にとって、服を着ることは安心だった。
自分を守る形だった。
自分の輪郭を保つための、ささやかな砦だった。
でも、この世界の私にとって、服を着続けることは、身体を弱らせることでもある。
私の価値観だけを押し通せば、それはただのわがままだ。
「殿下は、私の体を心配してくれていたのね……」
この世界の人々を、浅い文化だと決めつけていたのは、私の方だったのかもしれない。
肌を出せる者が高貴。
布をまとう者は不浄に近い。
理由のない布は、はしたない。
その考え方のすべてを肯定することはできない。布をまとう人を、不浄だと見下すのは間違っている。
理由のない布を、すぐにはしたないと決めつけるのも間違っている。
自分の身体に何をまとうかを、他人が決めるべきではない。
けれど。
この世界で肌を出すことには、ちゃんと意味がある。
光を受けること。
風を受けること。
魔力を取り込むこと。
健康でいること。
それを無視して、ただ「私は前世ではこうだったから」と言い張るだけなら、私はこの世界を見ていない。
私は、目を開けた。
白い花が揺れている。
風は、私を責めない。
日差しも、私を笑わない。
ただそこにあって、私の肌に触れてくる。
この世界の光と、前世の私の記憶。
どちらかを捨てる必要はないのかもしれない。
私は、布をまとうことをやめたいわけではない。
けれど、光と風を拒みたいわけでもない。
ならば、考えるべきは、どちらを選ぶかではない。
どう両立させるかだ。
日差しを通す布。
風を遮らない織り方。
袖を外せる仕立て。
人目のない時間には肌を休ませる習慣。
社交の場では、自分の安心を守りながら、身体に必要な光も受け入れられる礼装。
ただ長く覆うだけの服では駄目だ。
ただ肌を出すだけの服でも、私には苦しい。
私のための服が必要なのだ。
この世界の身体で生きる私と、前世の記憶を持つ私。
その両方を裏切らない服が。
私はもう一度、深く息を吸った。
風が肌に触れる。
日差しが身体の奥を温める。
魔力が、薄く、けれど確かに巡り始める。
「……私は、この世界で生きている」
呟くと、不思議と胸が軽くなった。
服を着ることは、私の自由。
でも、服を脱ぐこともまた、この世界で生きるための大切な営み。
どちらか一方だけでは、私は私を守れない。
だから、私は選び直す。
誰かの常識に従うためではなく。
前世の記憶にしがみつくためでもなく。
今ここにいる私の身体と心のために。
しばらくして、私は服を身につけ直した。
同じ長袖のドレスなのに、先ほどより少し重く感じた。
けれど、それは嫌な重さではなかった。
課題の重さだ。
私はミナを呼んだ。
「ミナ」
「はい、お嬢様!」
入口から心配そうに顔を出したミナは、私の顔を見るなり、ほっとしたように息をついた。
「お顔の色が、少し戻られました」
「ええ。先生の言う通りでした」
「では、これからは普通の礼装を?」
私は首を横に振った。
「いいえ」
ミナが目を丸くする。
「この世界の光と風が大切なことは分かりました。でも、私にとって布も大切です」
「お嬢様……」
「だから、新しいドレスを作ります」
「新しいドレス、ですか?」
「日差しを通す布で。風を遮らない織り方で。袖は取り外せるようにして、庭園では肌を休ませられるように。けれど、私が私でいられる形は残します」
言葉にしていくほど、心が定まっていく。
「私は、この世界の理屈を否定しません。でも、私の心も否定しません」
ミナはしばらく私を見つめていた。
やがて、少し泣きそうな顔で笑った。
「それは、とてもお嬢様らしいです」
「職人には、無理を言うことになりますね」
「大丈夫です。アルフォート家の仕立て職人は、無理難題には慣れております」
私は思わず笑った。
「ふふふ、そうだったわね」
庭園の向こうから、やわらかな風が吹く。
その風は、袖の布を揺らし、ほんの少しだけ肌に触れた。
私はその感覚を、今度は拒まなかった。
この世界で生きること。
前世の私を失わないこと。
その二つは、きっと敵ではない。
私は日陽祭で、その答えを着ていく。
◇ ◇ ◇
庭園で日差しと風を浴びた翌日、私はセラフィス先生と仕立て職人を屋敷へ呼んだ。
アルフォート家の専属仕立て師、オルガ・ファレン。
四十代半ばの男性で、髪をきっちり結い上げ、背筋の伸びた人だった。貴族の礼装を何百着も仕立ててきた名職人だと聞いている。
けれど、そのオルガでさえ、私の注文を聞いた瞬間、沈黙した。
「……お嬢様。つまり、布は多くしたい。しかし、日差しと風は遮りたくない、と」
「はい」
「袖も欲しい」
「はい」
「ですが、風と光は妨げてはならない」
「はい」
「首元や脚も、ある程度は覆いたい」
「はい」
「しかし、セラフィス先生の診断上、魔孔を塞ぎすぎてはいけない」
「はい。その通りです」
オルガは、しばらく私を見つめた。
その顔は、怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
「お嬢様」
「はい」
「それは、服ではなく難問です」
ミナが横で小さく肩を揺らした。
笑ったのだと思う。
私は少しだけ恥ずかしくなったが、引かなかった。
「無理でしょうか」
「無理と申し上げるのは簡単です」
オルガは、私の前に置かれた古い長袖のドレスを見た。
それは、私が最初に仕立てさせたものだった。厚手の布で、手首まで覆い、首元も高い。前世の私には安心できる形だったが、この世界の身体には重すぎる服。
オルガは袖口を指でつまみ、布を光に透かした。
「この布は、無理ですな」
「やはり、魔力を通しませんか?」
「これは、本来工房などの服につかう布。風も、光素も、かなり遮っています。これを長時間着れば、セラフィス先生がおっしゃった通り、身体が冷え、魔力循環も落ちます」
部屋の隅に立っていた主治医のセラフィス先生が頷いた。
「やはり問題は、素材と覆い方です」
「覆い方……」
「魔孔は身体のいたるところにありますが、特に首筋、肩、前腕、背中、膝裏あたりは外界の魔力を取り込みやすい。そこを厚い布で長時間塞ぎ続けると、影響が出やすいのです」
私は思わず自分の腕を見た。
この世界の身体は、前世の身体と似ているようで、決定的に違う。
息を吸うように、肌もまた魔力を吸っている。
その事実は、まだ少し不思議で、少し怖かった。
「では、袖は諦めるべきでしょうか」
私がそう言うと、オルガが即座に首を振った。
「いいえ」
意外な返事だった。
オルガは職人らしい鋭い目で、机の上に布見本を並べ始めた。
「袖が駄目なのではありません。駄目なのは、ただ覆うだけの袖です」
彼女は一枚の薄い布を持ち上げた。
白に近い淡い銀色の布だった。光を受けると、内側に細かな粒子がきらめく。まるで朝靄を糸にして織ったような布だ。
「これは、魔織布です。光を完全には遮りません。この布は本来、傷を覆うための医療用の回復衣に使われます」
「回復衣、ですか」
「はい。健康な方は、本来、布で身を守る必要などないのですから」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
私は必要でないのに布を纏おうとしている。
布が必要な者。
布を必要としない者。
肌を出せる者。
覆わなければならない者。
でも、今はそこで立ち止まっている場合ではなかった。
「その布なら、袖にできますか?」
「できます。ただし、風も取り入れるとなると形を工夫する必要があります」
オルガは紙を広げ、素早く線を引いた。
長い袖。
けれど、完全に閉じた筒ではない。
肩から手首まで流れる布の内側に、細かな風抜きの切れ込みがあり、腕の動きに合わせて開く。外から見れば長袖に近いが、風は肌に届く。
「袖は二重にします。外側はお嬢様の望まれる形を保つ布。内側は光素を通す魔織布。肘の内側と手首の近くは、風が抜けるように編み目を変えます」
「でも、肌が見えるのでは?」
「完全に見えないようにはできません」
オルガははっきり言った。
私は息を呑む。
彼女は厳しい目で、けれど誠実に続けた。
「お嬢様。完全に隠すことと、安心できることは、同じではありません。完全に隠せば、また身体を損ないます。ですが、見え方を制御することはできます」
「見え方を、制御する」
「はい。布を重ねる角度、光の透け方、風で揺れた時の開き方。肌をすべて隠すのではなく、視線が直接ぶつからないように流すのです」
その言葉に、私ははっとした。
隠すか、出すか。
私はずっと、その二つだけで考えていたのかもしれない。
けれど、服にはもっと多くの役割がある。
遮る。
通す。
和らげる。
導く。
守る。
受け入れる。
布は、壁だけではない。
風の通り道にもなる。
光をやわらげる膜にもなる。
「スカートはどうしますか?」
私は尋ねた。
「長さは残せます。ただし、裾を重くしてはいけません」
オルガは別の紙に、スカートの線を描いた。
「膝下までの丈にして、前面はお嬢様の望む落ち着いた形にします。ただし、歩いた時に左右から風が入るよう、内側に軽い切り替えを入れます。外から見れば長いスカート。しかし、身体には風が届く」
「そんなことができるのですか?」
「できます。難しいですが」
オルガの声に、かすかな熱がこもっていた。
最初は困惑していた彼の目が、今は違っている。
職人の目だ。
誰も作ったことのない服を、作ろうとしている目。
「首元は、完全に覆うのは避けた方がいいでしょう」
セラフィス先生が言った。
「首筋は魔力を取り込みやすい場所です。特に日陽祭のような長時間の式典では、開けておく必要があります」
私は少しだけ唇を噛んだ。
首元を覆う服は、私にとって安心の象徴だった。
前世の記憶の中で、襟のある服は落ち着いたものだった。首元が開きすぎていると、どうしても心細い。
それをミナは見逃さなかった。
「お嬢様。では、首飾りはいかがでしょう」
「首飾り?」
「布で覆うのではなく、宝石や金属細工で視線を受け止めるのです。貴族礼装では自然ですし、肌を塞ぎません」
オルガも頷いた。
「良い案です。首元を完全に隠す襟ではなく、鎖骨の上に沿う細い飾りを入れましょう。布の代わりに、視線の境界を作るのです」
「境界……」
「お嬢様が欲しいのは、布そのものだけではないのでは?」
オルガの問いに、私は言葉を失った。
私は何が欲しかったのだろう。
肌を一切見せないこと?
前世と同じ服を再現すること?
この世界の価値観に逆らうこと?
違う。
私が欲しかったのは、安心だった。
自分の身体が自分のものであると感じられること。
他人の視線に、心までさらわれないこと。
この世界に呑み込まれず、私として立つこと。
それは、必ずしも厚い布で全身を覆うことだけではないのかもしれない。
「……私は、境界が欲しかったのだと思います」
小さく言うと、部屋が静かになった。
「誰かに見られるためではなく、私が私でいるための境界です。でも、身体を壊したいわけではありません。この世界の光や風を拒みたいわけでもない」
私は机の上の布に触れた。
魔織布は、指先にひんやりとして、けれど少し温かかった。
「だから、壁ではなく、境界にしたいです」
オルガは、ゆっくりと笑った。
「承知しました」
その声は、初めて私の注文を面白がっている声だった。
「では、お嬢様のために、壁ではない服を作りましょう」
◇ ◇ ◇
それから数日、屋敷の一室は小さな工房になった。
机には布見本が山のように積まれ、魔力測定用の水晶板が並び、窓際には日差しの入り方を見るための鏡が置かれた。
オルガは何度も布を光にかざした。
セラフィス先生は、布越しに私の魔力循環を測った。
ミナは私の表情を見ながら、「これはお嬢様が落ち着かなさそうです」「これは少し安心されているようです」と、まるで私の心の通訳のように口を挟んだ。
最初の試作品は、見た目は美しかったが、風を通しすぎた。
袖が軽すぎて、私はどうしても心細くなった。
「これは……少し、頼りないです」
そう言うと、オルガはすぐに袖口の重さを調整した。
「では、外側にだけ細い縁取りを入れましょう。布の存在感は残し、内側は通気性を保ちます」
二つ目の試作品は、首元の飾りが重すぎた。
視線を受け止めるための宝石が、逆に私を飾り立てているように感じられた。
「これでは、少し目立ちすぎます」
「王宮では、この程度は控えめですが」
オルガがそう言うと、ミナが首を横に振った。
「お嬢様には、もう少し静かな方が似合います」
その言葉に、私は少し嬉しくなった。
ミナはもう、この世界の基準だけで私を見ていない。
私が何に安心し、何に疲れるのかを見てくれている。
三つ目の試作品で、ようやく形が見えた。
袖は長い。
けれど、手首までぴったり閉じるのではなく、風を含むように少し余裕がある。外側には淡い布が流れ、内側には光を通す魔織布が重ねられている。
動くと、布の隙間から肌に風が届く。
でも、正面から見た時には、腕全体がやわらかい布に包まれているように見える。
首元は高い襟ではなく、細い銀糸の装飾にした。
布で塞ぐのではなく、視線の境界を描くように、鎖骨の上をゆるやかになぞる。その中央には小さな白い石が一つだけある。派手ではない。けれど、そこに確かに「ここから先は私の内側です」と示すような静けさがあった。
スカートは膝下まである。
前から見ると落ち着いた長さだが、歩くと左右から風が入る。内側の布は軽く、日差しを受けると淡く透け、肌に必要な光素を届ける。
そして、背中には小さな工夫があった。
式典中は閉じているが、人目の少ない場所や休憩中には、肩甲骨のあたりの布を大きく開けられるようになっている。そこから風と光を取り込める。セラフィス先生の提案だった。
「これは、医療的にはかなり良いです」
先生は水晶板の光を見ながら言った。
水晶板の中で、私の魔力は以前よりも滑らかに流れている。
「完全な貴族礼装ほどではありませんが、以前の長袖に比べれば、魔力循環への負担は大幅に減っています」
「日陽祭に着ても大丈夫でしょうか」
「途中で休憩を取り、着脱式の袖を外し、背中の開放部から風を入れる時間を作れば問題ないでしょう。朝には庭園で肌を出して日差しを浴びること。式典後も同じです」
「分かりました」
私は頷いた。
以前なら、その指示を少し屈辱的に感じたかもしれない。
でも今は違う。
それは、この世界に負けたからではない。
この世界で生きる自分の身体を、大切にするためだ。
オルガが、完成に近づいたドレスを人形台にかけた。
窓から午後の光が入り、布をやわらかく照らす。
そのドレスは、前世の「普通の服」とは違っていた。
この世界の貴族礼装とも違っていた。
肌をすべて隠してはいない。
けれど、むき出しでもない。
布はある。
光もある。
風も通る。
私は思わず、その前に立ち尽くした。
「……不思議です」
自分の声が、少し震えていた。
「前のドレスより、肌は出るのに、前より怖くありません」
ミナが微笑んだ。
「お嬢様のために作った服だからです」
オルガが、針を指先で回しながら言う。
「服とは、本来そういうものです。身体に合わせるだけでは足りません。心にも合わせなければ」
「この世界では、あまりそう考えないのでは?」
「考えませんね」
オルガはあっさり言った。
「貴族礼装は、身分と健康と美徳を示すものです。個人の心など、後回しです」
「それを職人が言うのですか」
「職人だから言えるのです」
オルガは、まっすぐにドレスを見た。
「ですが、お嬢様の注文で思い出しました。服は、ただ社会に見せるためだけのものではありません。着る者が、その身体で生きていくためのものでもある」
私は、その言葉を胸の中で繰り返した。
着る者が、その身体で生きていくためのもの。
そうだ。
私は服で社会に勝ちたいわけではない。
この世界の常識を踏みにじりたいわけでもない。
私はただ、この身体で、この世界を生きていきたい。
前世の私を捨てずに。
今の私の身体も傷つけずに。
そのための服が、今、目の前にある。
「名前をつけますか?」
ミナが突然言った。
「名前?」
「はい。お嬢様の新しいドレスですから」
私は少し考えた。
名前をつけるなんて大げさだと思ったけれど、このドレスはただの衣装ではない気がした。
「光風のドレス……では、少しそのまますぎますね」
ミナが真剣に頷く。
「少し、医療器具のようです」
セラフィス先生がくすりと笑った。
オルガが布の端を整えながら言った。
「では、《リディア式礼装》でよろしいのでは?」
「それは恥ずかしいです」
「この世界で長袖を着ようとなさるお嬢様が、今さら何を」
私は返す言葉に詰まった。
部屋に小さな笑いが広がる。
その笑いは、私を責めるものではなかった。
私の無茶を、少し呆れながらも、受け入れてくれる笑いだった。
私はドレスにそっと触れた。
布は軽く、指先の下で光を含んでいる。
「名前は、まだいりません」
私は言った。
「日陽祭で、これを着て歩けたら。その時に考えます」
ミナが頷いた。
「きっと、歩けます」
オルガも言った。
「歩いていただかなくては困ります。これほど苦労したのですから」
セラフィス先生は水晶板を片づけながら、静かに微笑んだ。
「ただし、式典前の日光浴は忘れずに」
「はい、先生」
私は笑った。
日差しを浴びること。
風を受けること。
布をまとうこと。
自分の境界を持つこと。
そのどれもが、私に必要だった。
もう、どちらかを敵にしなくていい。
私はこのドレスを着て、日陽祭へ行く。
王宮の光の中へ。
人々の視線の中へ。
そして、たぶん、アルヴィン王子の前へ。
彼が何を思うかは分からない。
けれど、今度の私は、彼のためだけに服を着るのではない。
この世界に負けたから肌を出すのでもない。
私自身が選んだ形で、光と風の中に立つのだ。
人形台にかけられた新しいドレスは、午後の陽を受けて、静かに輝いていた。
それは、隠れるための服ではなかった。
見せつけるための服でもなかった。
私が、この世界で私として生きるための服だった。
◇ ◇ ◇
白陽庭園は、光で満ちていた。
王宮前に広がる大庭園は、年に一度の祭りのために開放されている。貴族たちだけでなく、選ばれた市民、各地の代表、職人、医師、農民、兵士たちも集まっていた。
日差しを浴びる祭りだからこそ、その服装は身分ごとにはっきり分かれる。
貴族は布の少ない礼装。
医師や料理人は清潔を示す白い布。
兵士は防護のための軽装甲。
地方の代表には、環境に合わせた厚い衣もある。
布には理由があり、理由は身分と暮らしを示す。
私は、その中に足を踏み入れた。
一瞬で、視線が集まった。
以前よりも大きなざわめきだった。
「あれは……アルフォート令嬢?」
「また布をまとっているわ」
「でも、日差しを受ける作りになっている」
「不衛生な装いではないな」
「では、何だ?」
「まさか、新しい礼装?」
戸惑いの声が広がっていく。
嘲笑もあった。
嫌悪もあった。
けれど、以前ほど単純ではなかった。
誰も、すぐには断じられない。
私は歩いた。
長い裾が白石の道をすべる。
薄布を通して、腕に日差しが落ちる。
肌と布、どちらか一つではない。
どちらも、私のものだった。
王族の壇上には、アルヴィン王子がいた。
彼は私を見ると、少しだけ息を呑んだ。
そして、壇上を降りた。
周囲が驚きで揺れた。
王族が祭礼の進行中に、招待客のもとへ歩み寄るなど、普通ではないのだろう。
けれど、彼は止まらなかった。
私の前に立つ。
以前よりも、少し痩せたように見えた。
それだけ悩んだのかもしれない。
私は礼をしようとした。
けれど、王子の方が先に頭を下げた。
庭園中が静まり返った。
「リディア」
「殿下……」
「謝らせてほしい」
その声は、白陽庭園の隅まで届いた。
王族の声としてではなく、一人の人間の声として、まっすぐだった。
「私は以前、あなたに言った。私の前だけで、服をきてほしいと」
周囲が息を呑む。
私は目を見開いた。
ここで言うのか。
皆の前で。
王族としての評判も、品位も、噂も、全部傷つくかもしれないのに。
王子は逃げなかった。
「あれは、間違いだった」
静かな声だった。
「私は、あなたの装いが好きだった。長い袖も、高い襟も、揺れる裾も、私が幼いころから絵の中にだけ見ていた、美しいものそのものだった」
貴族たちがざわめく。
王子は続けた。
「だが、本当に心を奪われたのは、服そのものではない。その服を選び、誰に笑われても立っていた、あなた自身だ」
胸が熱くなった。
「私は、あなたを秘密にしたかったのではない」
王子の声が、少し震えた。
「いや、違う。正しく言えば、私は自分を守るために、あなたを秘密にしようとした。王子でありながら、この国の常識と違うものを美しいと思う自分を、私は恥じていた。その弱さを、あなたに背負わせようとした」
私は何も言えなかった。
王子は、まっすぐに私を見た。
「リディア。私の前だけで服を着てほしいのではない」
風が吹いた。
私の袖が揺れた。
この世界では、それだけで人目を集める。
けれど、王子は目を逸らさなかった。
「私の隣で、あなたが着たい服を着てほしい」
その言葉が、胸の奥に届いた。
「あなたの選んだ姿を、私に隠させないでほしい」
私は、泣きそうになった。
前世で、私はずっと人に合わせていた。
この世界に来ても、また合わせるしかないのだと思っていた。
貴族らしく。
清潔に。
健康的に。
はしたなくないように。
笑われないように。
でも、この人は今、私を隠すのではなく、隣に立つと言った。
私の服を、自分だけの秘密にするのではなく、公の光の下で認めると言った。
「殿下」
私はゆっくり息を吸った。
「私は、この国の習慣をすべて否定したいわけではありません」
「分かっている」
「日差しを浴びることが健康に必要なのも、衛生や仕事のために布が必要なことも、貴族の装いに意味があることも、分かっています」
「ああ」
「でも、私の身体に何をまとうかは、私が決めたいのです」
「そんなあなたが、好きだ」
あまりにもまっすぐな言葉だった。
私は困ってしまった。
怒る用意も、泣く用意もしていたのに、そんなふうに言われたら、全部ほどけてしまう。
「……私は、殿下のためだけにこの服を着るわけではありません」
「分かっている」
「これからも、好きな服を着ます」
「見せてほしい」
王子はそこで少し言葉を切った。
そして、言い直す。
「いや、違う。あなたが見せたいと思ってくれる時に、見せてほしい」
その不器用さに、私は少し笑った。
「努力されましたね」
「かなり」
「では、私も努力します」
「何を?」
「この世界の光を、もう少し信じる努力です」
王子は目を細めた。
私は手を差し出した。
王子はそれを、驚くほど大切そうに取った。
人々の前で。
王宮の庭園で。
日陽祭の光の中で。
私たちは並んで立った。
その時、庭園のどこかから、小さな拍手が聞こえた。
一人。
また一人。
少しずつ、拍手は広がっていく。
全員が認めたわけではないだろう。
眉をひそめる者もいた。
王族の品位を案じる者もいた。
私を危険な流行の始まりだと見る者もいた。
それでも、確かに拍手はあった。
そしてその中に、ミナの姿があった。
彼女は泣きながら、誰よりも強く手を叩いていた。
◇ ◇ ◇
その後、王宮では新しい言葉が生まれた。
自分を選ぶための服。
《光紗のドレス》
もちろん、すぐに世界が変わったわけではない。
私のドレスを真似する令嬢もいれば、笑う令嬢もいた。
王子は変わり者だと噂され、私は王子を惑わせた伯爵令嬢だと言われた。
王宮の礼法官たちは頭を抱え、医師たちは「日照時間だけは守るように」と真面目に注意書きを出した。
それでも、少しずつ変わった。
手首だけ薄布で覆う令嬢。
日差しを通す長いショールをまとう令嬢。
職務や衛生以外の理由で布を選ぶことを、初めて口にする女性たち。
布は、ただ隠すものではなくなった。
日差しを拒むものでも、貧しさの印でも、はしたなさだけを意味するものでもなくなった。
そして一年後。
私はアルヴィン王子との婚礼の日を迎えた。
王族の婚礼衣装は、本来、最も光を浴びる礼装だ。
けれど私の婚礼衣装には、袖があった。
白い長袖。
ただし、光を通す薄い魔織布で作られている。
首元には柔らかな空間を残し、胸元には日差しを受ける白銀の飾り。
裾は長く、けれど重くない。歩くたびに光を含み、まるで朝霧のように揺れる。
あの日、王子と共に古い図録で見た
北方の王女がまとったという、袖の長い白い礼装によく似ていた。
私は鏡の前に立った。
とても私らしかった。
「お嬢様……いえ、妃殿下。とてもお綺麗です」
ミナがそう言って、また泣いた。
「まだ妃ではありません」
「もうすぐです」
「そうですね」
私は笑った。
式場に入ると、アルヴィン王子が待っていた。
彼は私を見るなり、息を止めた。
その顔を見て、私は少し得意になった。
「殿下」
「リディア」
「今日の服は、どうですか?」
王子は真剣な顔で答えた。
「美しい」
「それだけですか?」
「言葉が足りない?」
「少し」
王子は苦笑した。
それから、私の手を取った。
「私の前だけで、ではなく、この国の前で、その服を着てくれてありがとう」
胸の奥が、静かに震えた。
「あなたのためだけではありません」
「分かっている」
「でも」
私は彼を見上げた。
「あなたが隣にいてくれるから、怖くありません」
王子は、泣きそうな顔で笑った。
「なら、これからも隣にいる」
誓いの鐘が鳴った。
日差しが、白い窓から降り注ぐ。
肌に触れる光。
袖を透かす光。
布の中に宿る温かさ。
どれも、私のものだった。
私はこの世界で、服を着る。
隠れるためではない。
誰かを誘うためでもない。
常識に逆らうためだけでもない。
私が、私のまま愛されるために。
私が、私の身体を自分のものとして生きるために。
王子は私の隣で、少し緊張した声で囁いた。
「リディア。今日のあなたも、美しい」
私は笑った。
「知っています」
彼も笑った。
そして私たちは、日差しの中へ歩き出した。
秘密ではなく。
恥ではなく。
誰かに許されたからでもなく。
自分で選んだ姿で。
この国の光の下へ。




