「勝った世界で」
太陽暦2685年、元号に直して捷暁五年。かつて戦争叢書、つまりは対墨戦争を記録した書物にすら取り上げられ、明治帝から数えて大正、昭和、上皇、今上の五代の天皇陛下に仕えた偉人が没した。その死は、誰もが嘆き国葬とすべきと満場一致となったが、故人の意向や遺族の意思もあって国葬は取りやめとなった。
曰く、天皇陛下を差し置いて自分が神格化されるのは恐れ多く、さらには一人の英傑に頼る組織は健全ではないので自分は例外的な処理をして欲しい、と。
だが、その代わりと言うべきか、結果的に「今太閤」とも讃えられた彼は帝国で初めて臣下の身だというのに祝祭日に登録されることとなる。尤も、その日は偶然にも古代、ある人物が一個人に勅語を与えたきっかけとなった月であると同時に第二次世界大戦が開始された日であるが故に戦勝記念日も兼ねたものであったのだが、その「第二次世界大戦」には大日本帝国は直接関わっていない――とはいえ、派兵を行ったことは間違いないので大規模に介入せず、戦勝側、つまりはドイツ側に優位な講和条約を締結したことによる名誉戦勝国入りをしたことによる、事実上の戦勝宣言である――ため、戦勝記念日はもっぱら、太平洋戦争こと大正二十二、二十五年戦役の後の東京講和会議である日付が採用されている。何せ、第二次世界大戦の講和会議記念日である十二月八日は「愛国記念日」であり、「戦勝記念日」はもちろんのこと、合衆国本土を焼け野原にして勝利した太平洋戦争の講和会議が調印された日が指定されていた。では、その日はいつかというと、合衆国への嫌がらせのためにわざわざ七月四日を指定した日であった。以後、七月四日とは合衆国の独立記念日であると同時に合衆国の滅亡記念日として著名である。
そしてその講和会議は、今なお桑港県から市俄古県を経て紐育県への戦勝パレード、まあつまりは太平洋戦争で帝国陸海軍が進軍した形跡を追って行われる年間行事が予定されており、捷暁五年もその偉人は参加したのだが、その当時はまだ壮健としており、十二月八日の急死はあるいは毒殺だったのではないかと今なお疑われている。尤も、誰が毒を盛ったのかまでは判明できないため、一応は病死乃至は老衰とされているのだが。
……さて、今まで名前を伏せたその「偉人」、すなわち核兵器の開発を一手に担い朝鮮半島のウラニウム鉱石をどうやって核兵器にするかという術式を書き上げて実用化し、さらには希代の大富豪、鈴木商店をも下部組織に飲み込むことに成功した、その世界財閥にしてその勲もあり華族にも列せられた、その人物は――。




