第5話:記録の旅路と、失われた旋律
朝靄が帝都ルシエルの城壁を包んでいた。
瓦礫の修復音がかすかに響く中、黒羽真守は城門の前で荷を整えていた。
背中の剣と、エリシアが用意してくれた旅装束。
そして、胸の中央に静かに光る“記録の紋章”。
「異世界生活、五日目。いよいよ社畜勇者、出張編ですね」
冗談を言いながらも、どこか胸の奥がざわついていた。
ここを離れたら、もう後戻りはできない気がしていた。
見送りに現れたのは、白い外套に身を包んだセリア=ルシエル。
冷たい朝風の中でも、その姿はまるで光の化身のように凛としている。
「準備は整いましたか?」
「はい。一応、寝坊以外のトラブルは起きませんでした」
「……最後まで油断しないでくださいね」
真守は笑って敬礼する。
「了解です、姫上司殿」
「呼び方に悪意がありますね」
隣で、銀髪のエリシアが苦笑する。
「いつもの調子ですね。これなら大丈夫そう」
セリアは小さく息をつき、彼の手に小瓶を渡した。
中には淡い青の液体。
「“記録安定薬”。神紋の暴走を抑える試作薬です。必要になったら使ってください」
「……ありがとうございます」
真守はその小瓶を大切に腰にしまう。
ふと、セリアの表情が柔らかくなる。
「あなたは異界の人ですが……この世界に必要な“記録”です。どうか、失わないで」
言葉に答えられず、真守はただ笑って頷いた。
その笑顔の裏で、心のどこかが小さく痛む。
――失うのは、もう嫌なのに。
こうして二人は帝都を後にした。
目的地は《記録の裂け目》。
観測者たちが潜む、世界の最も古い断層。
◆◇◆
昼下がり。
道は草原を抜け、ゆるやかな丘陵へと続いていた。
空は高く、風が心地いい。
「……あれ? 異世界って、もっと魔物がウヨウヨしてるかと思ってたんですが」
「帝国領内は結界で守られています。ここから先が、本当の“外”です」
エリシアは風に揺れる髪を押さえながら言う。
「それにしても、あなたって本当に普通の人なんですね」
「いや、普通の人を召喚したのそっちですからね?」
二人の会話はどこか漫才じみていて、緊張感を和らげていた。
だが、真守の胸の奥ではずっと小さなざわめきが続いていた。
あの夜――“灰の男”に見せられた幻。
神殿で剣を振るう“自分と同じ顔の誰か”。
(あれが“初代勇者”……? それとも、俺の過去?)
考えれば考えるほど、記憶の隙間が痛んだ。
失われた妹の顔。その名すら思い出せない。
けれど――
その“空白”こそが、記録の神の代償であり、力の源なのだと、どこかで理解していた。
夕暮れ前。
森の入口に差しかかった時、不思議な音が風に混じった。
――笛のような、鈴のような。
耳を澄ませば、まるで誰かが祈るような旋律。
エリシアが立ち止まる。
「……魔力反応。近いわ」
「音楽系モンスターとかじゃないですよね?」
「そんな分類聞いたことありません」
冗談を言いながら、二人は音の方へ歩く。
木々の間、薄紫の光がゆらめいていた。
そこに、ひとりの少女が立っていた。
年の頃は十歳前後。
白いローブに裸足。
金色の髪が風に揺れ、瞳は深い湖のような青。
彼女は静かに口笛を止め、こちらを見上げた。
「……やっと、来た」
その声は、風のように儚く、それでいて確かな意志を持っていた。
「君、こんな森の中で何してるの?」真守が尋ねる。
「待ってたの。“記録の人”を」
「記録の……俺?」
「うん。神様が言ってたの。“黒い紋章の人に、渡して”って」
少女は両手を広げた。
掌の上に、金属の欠片が浮かんでいる。
淡い金色の光を放つ、それは――紋章の破片だった。
エリシアが息をのむ。
「この波動……“創造の神”の印よ」
「“創造”……?」
「三柱の神のひとつ。“記録”“創造”“破壊”。
あなたが持つのは記録。つまりこれは、もう一柱の欠片です」
少女は静かに頷いた。
「“記録の勇者”に渡せば、世界が思い出すって」
その瞬間、森の奥から黒い霧が立ち上った。
空間が歪み、幾つもの影が現れる。
仮面をつけた黒衣の存在――“観測体”。
《創造の欠片を回収する》
「……またお前らか!」
「戦闘パターン解析中」
無機質な声が響いた。
真守は剣を構え、エリシアが詠唱を始める。
「《雷裂槍》!」
稲妻が奔り、数体の観測体を貫く。
しかし残りは分裂し、数を増やしていく。
「おい増えたぞ!?」
「自己修復型……! 戦闘ログを共有してる!」
「AIボスかよ!」
真守が叫び、胸の紋章が光を放つ。
《再記録:斬風・灰穿槍・雷裂槍》
複数の術式が重なり合い、空気が震える。
剣を振るうと同時に、風と雷と灰が交錯する嵐が生まれた。
《上書きモード:起動》
「……“記録”を、削除する」
観測体たちは光の粒となって消え、霧が晴れていった。
静寂。
森に残るのは、風の音と、少女の笛の旋律だけ。
少女はゆっくりと真守に歩み寄る。
「あなたの中の記録、たくさん泣いてる。
忘れられた名前が、ずっと呼んでるの」
「……名前?」
「うん。あなたの“もう一つの記録”」
真守の胸が痛む。
妹の笑顔が、ぼやけた記憶の底で光る。
呼びかけようとしても、名前が出てこない。
「君、ミラって言ったね。どうしてそれを知ってる?」
「私は“記録”の中の人。創造の神の夢から生まれた、写し身」
そう言って、ミラは微笑む。
「この欠片を持って。あなたが、世界を思い出すために」
欠片が真守の胸に触れた瞬間、金の光が弾けた。
紋章が輝き、空気が震える。
《記録統合:創造の欠片を検出》
《新規断章――“楽園の記録”を開示します》
周囲の森が光に包まれ、空に幾千もの文字が浮かび上がる。
それは、かつて存在した“楽園”――神々が最初に創った世界の記録。
「……これが、“創造の神”の記録?」エリシアが呟く。
「たぶん。けど、これまだ断片みたいだ」
光が収束すると、ミラの姿も薄れていく。
「待って、君はどこへ――」
「私は記録。欠片が戻ったら、もう夢に帰るの」
消えゆく彼女が最後に微笑む。
「大丈夫。“彼女”も、きっとどこかで見てる。
あなたが思い出してくれるのを、待ってるから」
「彼女……?」
だが、もう答えは風に溶けていた。
夜。
焚き火の明かりの中、真守は金色に変わった紋章を見つめていた。
エリシアは隣で静かに薬草を煮ている。
「さっきの子……本当に、神の化身だったんでしょうか」
「かもね。もしかしたら、神々の“記録”は人の形をして現れるのかも」
炎の揺らめきが、二人の影を伸ばす。
真守は小瓶の青い薬を取り出し、光にかざした。
その中に、自分の記憶が映る気がした。
(俺がこの世界で、何を“記録”するのか。
それを決めるのは、きっと俺自身なんだ)
焚き火の向こう、星空が広がる。
その中央で、赤と金の月がゆっくりと重なっていた。
「……見ててくれよ。俺の“記録”を」
風が吹く。
炎が揺らめき、夜空に火の粉が舞った。
それはまるで、失われた旋律のように――
静かに、確かに、世界の“断章”に刻まれていった。




