第四話 一閃、裁きの雨に罪は裂かれ
深夜の住宅街。
静寂に包まれた路地に、一台の黒いバンが音もなく止まる。
ギィ……。
スライドドアが開き、覆面を被った男たちが次々に降り立つ。
黒づくめの三人組。手にはそれぞれバール。
狙いは一軒家。SNSで情報は掴んでいた。
《老女の一人暮らし。今日は北海道旅行中。帰宅は明後日。》
――空き巣日和ってやつだ。
男たちは手慣れた手つきで窓ガラスにガムテープを貼り、バールを突き立てた。
パキン――小さな音が夜に吸い込まれる。
窓を開けて、次々に家の中へ。
リビング、キッチン、寝室……引き出しを荒らし、金目の物を手当たり次第に掴んでいく。
だが、彼らは知らなかった。
旅行先の悪天候で飛行機が欠航となり、予定を切り上げたことを。
住人の女性は、もう帰ってきていたのだ。
――ギシ……ギシ……
階段をゆっくりと降りてくる足音。
「……誰?」
女の声がした瞬間、リビングにいた男たちが振り返った。
「……っ! ババア、帰ってきてたのかよ!」
「誰かーっ! 泥棒よーっ!!」
その叫び声に反射的に動いた一人の男。
手に持ったバールが、振り下ろされる。
ゴッ――
鈍い音が響く。
女の身体が崩れ落ちた。
「……な、なんで旅行行ってるんじゃねぇのかよ……!」
「知らねぇよ! やべえ、ずらかんぞ!」
バンが再び走り去る。闇に紛れるように。
翌日――
「旅行のお土産、持ってくね」と連絡をもらっていた息子が、約束の時間を過ぎても連絡が取れず、不安になって家を訪れる。
玄関を開けた瞬間、鼻を突く血の匂いと荒らされた部屋。
そして――リビングの床に倒れた母親の姿を見つけた。
その日、またひとつ、
――深き恨みの火が灯った。
ーーーーー
ジュウゥゥ……と鉄板の上でソースが焦げる香ばしい音。
屋台の脇には、いつもの赤提灯。
その下で、マサが広げた新聞の社会面に目を落としている。
「まただぜ、『闇バイト強盗事件』。今度は横浜らしい。最近じゃ週イチのペースだ」
対面に座る主哉は、熱いたこ焼きをふうふうしながら頬張っていた。
口にソースをつけたまま、ぼそりと呟く。
「最近は、ガキどもがバイト感覚で犯罪やりやがる。
命かけるつもりなんて、毛頭ないんだろうな」
マサが鼻で笑う。
「捕まったらどうなるかも理解してねえ。
自分が悪いことしてるって自覚があるぶん、その辺の悪ガキどもの方がまだマシだ」
主哉が頷く。
「下手すりゃ中学生、高校生……少年法を犯罪の免罪符かなんかと勘違いしてやがる。
今はまだ暴行や強盗ばっかだが、殺しに手を染めるのも時間の問題だろうな……」
その時、主哉のスマホが震えた。
彼はすばやく胸ポケットから取り出し、画面を確認するとすぐに応答する。
「はい、本田です……はい……えっ!?……わかりました。すぐに向かいます」
通話を切った主哉の顔がわずかに強張る。
マサがたこ焼きをひっくり返しながら尋ねた。
「どうしたんだい、旦那」
主哉はゆっくり立ち上がりながら答える。
「強盗殺人だとよ……ついに殺しが起きちまったのかもしれねぇ」
マサの手が止まる。鉄板の音だけが虚しく響いていた。
ーーーーー
夕焼け色に染まる住宅街に、パトカーの赤色灯が不気味に揺れていた。
現場にはすでに規制線が張られ、鑑識班が慌ただしく動き回っている。
その光景の中、主哉はひときわ目立つ黄色いテープの下を屈んでくぐる。
足を止め、あたりを見渡すと――見慣れた顔があった。
「……山根さん」
刑事課のベテラン、山根がこちらに気づいて振り返った。
「本田か。ご苦労だな、生活安全課まで駆り出されたのかよ」
「ええ。仕事が少ないもので。たまには現場の空気も吸いたくなりまして」
冗談めかした主哉の口ぶりに、山根が小さく笑う。
だがすぐに顔を引き締め、目線を現場に戻す。
「どう思う?」
主哉もそれに倣い、散らかった玄関、荒らされたリビング、血の染みた床を見据えた。
「素人の犯行ですね」
「わかるか?」
「これでも長くこの仕事やってますんでね。……単独じゃない。足跡の分布、散らかし方のバラつきから見て、多くても3、4人ってとこでしょう」
山根がうなずく。
「俺もそう見てる。さすがだな。今からでも刑事課に戻ってこないか?」
「いえ、自分は窓際が性に合ってますんで」
軽く笑って返す主哉。その笑みに、山根は少しの寂しさをにじませる。
「……そうか。残念だ」
数秒の沈黙のあと、山根が現実に引き戻すように声を落とす。
「ちなみにこの辺に、やりそうな奴はいるか?」
「このあたりの悪ガキたちなら顔は知ってますが、やってもせいぜい喧嘩と恐喝。
悪さはしても……あいつらなりに『境界線』はあるようで」
「ってことは……やっぱり“外部”からか。半グレか、トクリュウってやつか」
「その線が濃いですね。ネットでバイト募集して、数日で仕事と称して送り込む。
……そういう流れになってきてる」
山根のインカムが小さく鳴る。
応答する彼の表情が、わずかに動いた。
「……ああ、わかった。そっちで照合進めておいてくれ」
通話を切ったあと、山根が主哉に向き直る。
「近くの商店の防犯カメラに、犯行直前に止まった白いバンが映ってた。
ナンバーが読み取れて、すぐに照会かけたんだが――案の定、盗難車だったよ」
「中は?」
「少し離れた川沿いに乗り捨てられてた。車内には手袋と、使い捨てのコンビニ袋。
ついでに、座席の下から食いかけのスナック菓子が出てきた。指紋は期待できねえが、DNAは採れるかもしれん」
「犯行直後、逃走ルートの途中に設置されたカメラにも映ってるかもしれませんね」
「ああ。今、別働隊が足で追ってる。
防犯映像の顔認証と、過去の補導歴・バイトアプリの情報で、数人に当たりがついた。……若いのばっかりだ」
「闇バイトですね」
「そうだろうな。……3人組。うち1人は今、地元のネカフェで確保した。
残り二人は、逃げたままだ」
主哉がゆっくりと目を伏せる。
そしてぽつりと、独り言のように呟いた。
「“闇バイト”で駆り出されたガキが、命を奪う……。
情報を流したやつは、後ろで高みの見物ってわけだ」
山根が唸るように言った。
「……これが、今の“トクリュウ”ってやつだ。
“犯罪の手順”までネットで流通してやがる。
本物の地獄だよ、こいつぁ」
「ついに“境界線”を越えちまったか……」
ーーーーー
翌日の午後、まだ見つからない残り二人の関係先への家宅捜索が始まっていた。
主哉は捜索令状を片手に、とある古びた木造の門をくぐる。
日本舞踊の看板。磨かれた廊下の奥から、微かに足音。
そして――
「……勇次」
そこにいたのは、どこか懐かしい顔だった。
着流し姿に端正な顔立ち。無駄のない所作。
昔と何一つ変わらない、かつての《矛》――勇次。
「これは……本田の旦那。お久しぶりですな。今日は一体どういったご用件で?」
主哉は一言、「外で話そう」と手招きし、屋敷の裏手へ回る。
静かな風の中、主哉が切り出した。
「勇次……お前の弟子がな、殺しをやったかもしれねぇ」
「……えっ?」
「斎藤雅史。名前に覚えがあるだろ」
勇次の表情がこわばる。
「……確かに、雅史はうちの門下生です。けど、殺しなんて……」
「詳しい話は後でしてやる。黒江の店、まだ覚えてるな。
――今夜、来い」
ーーーーー
その夜。
港町の裏通りにある、知る人ぞ知るバー《Kuroe》。
個室の奥に、主哉、勇次、そして神の耳――黒江ママがいた。
ウイスキーの氷がカランと鳴る。
「ってことは、うちの雅史が『闇バイト』に加担してたってことですかい」
勇次が、どこか信じたくないという表情で言う。
主哉は黙って一口ウイスキーを煽ったあと、低い声で語り出す。
「それはもう、ほぼ間違いねぇんだ。
現場付近の防犯カメラに映ってたバンの車内から、やつの通学用バッグが出てきた。
中には舞踊の道具と、アプリの『バイト応募』の履歴。
指示はSNS経由、典型的なトクリュウの手口だ」
黒江がタバコに火をつけ、細く吐き出した。
「背後の指示役は未特定だけど、どうせ組織の使い捨てよ。あんたの子弟もコマにされたのね」
主哉が続ける。
「問題は、バールで婆さんを殴った『実行犯』が誰かってことだ。
今、捕まってるのは一人。そいつが言うには――
『みんな覆面してて顔も名前も知らなかった。やることだけ指示されてた』ってな」
勇次が、拳を握りしめてうつむいた。
「雅史は……心の優しい奴なんです。うちの門下でも真面目で、思いやりがあって。
けしてこんな事件を起こすような人間じゃ……」
「心の優しい奴だからって、悪いことをしないとは限らねぇ」
主哉の声が静かに響く。
「お前だって、そういう奴らを何人も見てきたろう……お前が足を洗って、もう二十年か」
「……そうだ。俺はあの頃、そういう『善人』を何人も斬ってきた。
けど……雅史が……もうすぐ名取りだったんですよ。やっと、俺の後を継げる器になったってのに……」
「まだ『殺しをした』って決まったわけじゃねぇ。
だけど、このまま逃げたままじゃ、何も分からねぇ。――捕まえねぇと、始まらねぇ」
勇次は、深く長いため息を吐いた。
「……そう、ですね。今は……それしかない」
主哉がグラスを持ち上げ、無言で一口。
――神の矛だった男たちの静かな夜が、再び刃を交える兆しに揺れていた。
ーーーーー
あの夜の事件から、数日が経った。
逃亡した二人の足取りは、未だ掴めていない。
風が冷たくなりはじめた夕暮れの境内。
蝉の声がやむ頃、静かな足音が石畳を踏む。
占見野神社。
その本殿の前に、一人の男が立っていた。
スーツ姿。
目の下に深い隈。
手には封筒。
男の名は、佐原祐樹。
数日前に殺された女性――佐原澄江の一人息子だった。
祐樹はゆっくりと賽銭箱の前に進み、手を合わせた。
口を開きかけて、しばし言葉が出ない。
そして――
かすれた声で、ぽつりと呟く。
「……これから、やっと親孝行しようと思ってたんです。
女手一つで俺を育ててくれて…今の仕事につくときも背中を押してくれて……
一緒に住める家を買おうと思って貯めていた……その頭金でした」
彼は封筒を取り出し、賽銭箱の中に入れる。
金額、56万円。
その数字には意味がある。
《この神社に『56ー殺ー』の数字を捧げれば、悪人に神の罰が下る》
噂だった。ネットの隅で囁かれる都市伝説。
だが、祐樹にとっては、わらにもすがる思いだった。
「母を……あんな目に遭わせた奴らに。
どうか、罰を……神様。お願いします……」
深く頭を下げると、彼は静かに境内を後にした。
風が吹く。
木の葉が舞う。
そして――
夜。
本殿の奥、誰もいないはずの社務所の棚が、小さく震えた。
コーン……
古びた木札が、ひとりでに動く。
その奥。
御神鏡の裏に仕込まれた、黒いスマートフォンの画面が点いた。
【神の社】
依頼通知:新規
――恨みの炎が、また一つ、社に灯った。
ーーーーー
「あーっ、ぜーんっぜん見つからない」
椅子にふんぞり返り、キーボードを叩く指を止めずに、隼人がぼやいた。
彼のディスプレイには、盗難車が発見された河川敷を中心に半径数キロ内の無数の監視カメラ映像が並んでいる。
AIによる顔認識プログラムが常に処理を回しているが、それらしい影すら映らない。
「駅、交差点、駐車場……片っ端からカメラをハックしてんのに、まったく痕跡なし」
それだけではない。
携帯会社、銀行、クレジットカード会社――民間サーバーにも裏口からアクセスし、通信・決済履歴の“揺れ”を監視していた。
それでも、ノイズひとつ検出されない。
「念のため、コンビニやスーパーのPOSレジも常時モニタ中。
ジュース一本買ったってログ残るはずなんだけどな……」
「私のところもダメさ」
通信越しに答えたのは凛。双子のドローン使い姉妹の姉だ。
彼女は空からの映像を、複数のAIで解析していた。
上空を旋回する自律ドローンの映像をリアルタイムで隼人のPCと同期させ、すべての『動く影』を追跡している。
「念のため連携もしてるけどさ……GPSも出ないんでしょ?
もしかしてさ、もう首吊って死んでんじゃない?」
「その可能性も考えてる」
妹の咲も、別ルートで無人偵察ドローン30機を林の中や廃屋、下水道に飛ばしている。
「でも見つかるのはネズミとホームレスばっか。あー、もう最悪。ドローンに臭いつきそう」
「私の耳にも何の音も届かないわ」
黒江ママも、夜の街で動く情報屋たちの声に耳を澄ませていたが、手がかりはゼロ。
「誰かが匿ってるなら、裏社会のことでも…...私の『耳』に入らないなんてこと、滅多にないのよね」
「ちなみに、《指示役》のほうは?」と黒江。
「そっちもさっぱりだね」
隼人がモニターを切り替えながら言う。
「今、プロバイダのルートサーバーに潜ってログ調べてるけど、
指示があった闇バイトの連絡アプリは、相当秘匿性が高いやつだ。
VPNどころか、最初から『消えるチャット』仕様。……国内じゃなく、海外ルートの可能性もあるよ」
ディスプレイの明滅が、部屋を青く照らす。
ーーーーー
そのころ、主哉は夜の街を歩いていた。
「――刑事は足で稼げ」
若い頃、先輩刑事に叩き込まれた基本中の基本。
今も信じている。だが……
「……隼人たちのやり方見てると、俺のは時代遅れってやつかね……」
アスファルトの硬さが、足の裏に響く。
膝も痛い。腰も重い。
「この程度歩いて棒になってるようじゃ……そろそろロートルか……」
ふと目に入ったコンビニ。
「……おでんでも食って、一服するか」
店に入ると、奥のイートインにいつもの不良たちの姿。
「よう、本田のおっさん。随分疲れてんじゃねえか?」
「くたびれ刑事の哀愁ってやつよ。……で、お前らは何か見てないか?」
不良のひとりが、思い出したように言った。
「あーそういや夕方な、ちょっと変な奴見かけたわ。
この近くの公園にフラフラ歩いてきてよ、声かけても返事しねぇ。
そのまま、すべり台の中に入って寝ちまった。
この辺のホームレスは大体顔見知りだけど、そいつは知らねぇ顔だった」
主哉の目が細くなった。
「……そいつ、当たりかもしれんぞ」
「当たりなら感謝状くれよな。あれでも俺ら、世のため人のためになってんだぜ?」
「不良が感謝状なんて、カッコがつかねぇだろ」
「だったら飯でも奢れよ」
「よし、今度な。高い牛丼を奢ってやるよ」
不良たちの情報を頼りに、主哉はその足で近くの公園へと向かった。
夜の静寂。
遊具の影に、ぐったりと横たわる男の姿。
そっと近づき、スマホで手配写真と照合する。
――確かに、逃亡していたうちの一人。
だが、勇次の弟子の方ではない。
「……まあ、いい。捕まえて聞いてみりゃ、わかることだ」
主哉は胸元の無線機を握り、淡々と告げた。
『こちら本田。〇〇公園にて手配中の容疑者1名発見。
至急、応援をお願いします』
夜風が吹き抜けるその瞬間。
【神の社】に、ひとつのメッセージが届く。
> 《殺しをやったのは――勇次の弟子》
ーーーーー
「……間違い、ねぇんですかい……」
勇次の声は震えていた。
その顔には、信じたくない現実と、かすかな希望が入り混じる。
占見野神社――
社務所奥の集会室に、主哉、黒江、マサ、そして勇次が集まっていた。
空気は重く、誰も無駄な言葉を挟まない。
そんな中、口を開いたのは主哉だった。
「お前に来てもらったのは、仕事をする前に一言、断りを入れておくためだ」
主哉はまっすぐ勇次を見た。
「神社に『五六銭』が納められた以上、俺たちに例外はねぇ。
ただ……お前さんはこっちの事情もよく知ってる。だから一応、話しておこうと思ってな」
黒江が苦笑を浮かべて言う。
「いきなり“遺体が見つかりました”って知らせじゃ、あんたもやりきれないだろうしね」
主哉がうなずいた。
「問題は、どこに隠れてるかってことなんだが……
裏でも表でも、ありとあらゆるルートを使って探してる。
それでも一向に尻尾が掴めねぇ。……まさかとは思うが――」
「お前さんが匿ってる、なんてことはないよな?」とマサが口を挟む。
「……当たり前だろ」
勇次の返答は、静かだが重かった。
「俺はな、お天道様に顔向けできねぇような真似をする奴は、絶対に許せねぇ。
たとえそれが血の繋がった家族だったとしても……な」
「だったら、どこにいるんだろうねえ……」
黒江の呟きが、湿った空気に溶けたそのとき――
「反応出たッ!!」
神社の奥から、隼人の叫び声が響いた。
同時に、勇次のスマホが震える。
表示されたのは、弟子・雅史の名。
震える指で通話ボタンを押す。
「……雅史か」
「…………」
「今、どこにいるんでぇ」
しばしの沈黙ののち、わずかに濁った声が返る。
「……師匠、俺……とんでもないことを……」
その瞬間、通話は唐突に切れた。
隼人の声が飛ぶ。
「バッテリー切れたみたいだけど、GPSは拾えた! こいつ、まだ生きてる!」
「すぐ座標を送って」
凛が即座に反応する。
「ドローン急行させる。逃げ場なんて与えないよ」
咲もすでに出撃準備に入っていた。
主哉がゆっくりと勇次に向き直る。
「……で、お前さんはどうする?」
その問いに、勇次が言葉を選ぶ前に、静かに襖が開いた。
白装束をまとい、どこか中性的な雰囲気を漂わせた青年が入ってくる。
神主――現代の『元締め』。
「初めまして、勇次さん」
神主は深々と一礼し、続ける。
「今代の『元締め』を務めております。
勇次さんが《元・神の矛》だったことは、私も承知しています。
しかし今のあなたは一般人。この世界には、これ以上関わらせるわけにはいきません」
勇次は、その言葉に目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
「弟子の不始末は、師匠の責任。
この仕事……俺が務めさせていただきます」
神主の声が少し低くなる。
「それは――再び、『神に仕える者』になるということで、よろしいのですか」
「……わかりません。今宵限りか、死ぬまでか……
ただひとつ、墓まで持っていく覚悟だけはあります。
――再び、その誓、立てやしょうや」
しばしの沈黙。
やがて、神主がうなずく。
「……分かりました。では、主哉さん」
「……ああ。見届人だな。
元とはいえ、ブランクがある。
現役でやれるかどうか――この目で、しっかり見極めてやる」
その瞬間、ぽつり、と空から雫が落ちた。
ひとつ、またひとつと、境内を雨が濡らし始める。
夜の帳と雨の音。
すべての準備は、静かに整っていく。
ーーーーー
雨の夜。
街灯の淡い光に照らされ、濡れた石畳の上を一つの影が進む。
きらめく番傘。
歩みは静かで、凛として、そして美しい。
「ドローン、上空待機。対象をロックオン中」
凛の声が通信に響く。
「誘導用に、自律ドローン一機回します」
凛が即座に続ける。
「周辺の監視カメラも制御下にあるよ。……人目がなくて、助かるね」
隼人の声は、どこか静かな祈りのようだった。
――勇次。
日本舞踊の師範にして、かつての神の矛。
その名は、『かまいたちの勇次』。
仕込みの刀を忍ばせた番傘を手に、静かに、確かに、歩を進める。
その前方、雨の中。
立ち尽くす影――生気を失い、ただ濡れるだけの若者。
斎藤雅史。
神威の執行対象にして、勇次の弟子。
「……師匠、来てくれたんですね」
青年は、ぎこちなく笑った。
「俺……もう、どうしたらいいか、わからなくなって……」
勇次は、足を止めずにゆっくりと近づいた。
「……なんで、すぐに自首しなかったんだい」
「それは……なんか……動揺して……怖くなって……」
「……お前さんが殴った婆さんな……亡くなったよ」
その言葉に、雅史の目が見開かれる。
「……そんな……俺、一回……軽く当てただけで……
まさか死ぬなんて……そんなの、嘘だろ……?」
「……お前がすぐに自首して、罪を償ってたら……
違う道も、あったかもしれねぇ」
勇次の声は静かだった。
冷たく、重く、そして悲しみに満ちていた。
「だが――もう、何もかも、手遅れなんだよ」
番傘の柄――
勇次は左手をそっと中棒にかけ、右手にわずかに力を込めた。
カチリ。
かすかに響く機構音。
その瞬間、番傘から抜かれた一筋の鋼が、月光のように走った。
一閃――
斎藤雅史の喉元が、音もなく裂ける。
その場に崩れ落ちた青年が、血にまみれた手を伸ばす。
「……師匠……どうして……」
勇次は目を伏せたまま、ただ一言を返した。
「……もう、《生者の法》じゃ、お前を裁けねぇ。
……地獄の閻魔様に、裁いてもらいな」
しばしの沈黙。
そこへ、影から現れた男の足音が響く。
主哉だった。
「見事な仕事だったな」
雨に濡れながら、淡々とそれだけを告げる。
勇次は黙って空を仰ぎ――
「……雨が……こんなに冷てぇもんだったなんてよ……
――久しく、忘れてたぜ」
地に伏す弟子と、それを見下ろす師。
二人を濡らす雨は、空からではなく、勇次の心に降る涙のようだった。
神の矛の刃は、静かに正義を果たし、
またひとつ、恨みの火が浄化された。
ーーーーー
神威執行の報告から数日後――
占見野神社の社務所に、再びいつもの顔ぶれが集まっていた。
黒江が手元の端末を見ながら言う。
「で……最後の仕事、どうする?」
主哉が眉をひそめる。
「最後の仕事?」
黒江が唇の端をゆがめて笑った。
「『闇バイト』の元締めだよ。今回の事件を成立させた、真の黒幕」
「ああ……いたな、そんな奴。忘れてたわ」
主哉がたこ焼きをつまみながら呟く。
「場所は掴んだよ」
そう言って隼人が画面を切り替える。
「マレーシア。クアラルンプールの外れ、古いビルの一角に根を張ってる犯罪組織。
今回の《仕事》を流したのは、そいつらのサーバー。通信履歴からほぼ間違いない」
映し出されたのは、無機質なコンクリの外観。監視カメラと私兵の姿。
「内部にはそれなりの人数がいるっぽい。正面突破はちょっと骨だね」
「……うちの神様、海外出張まで対応するとはな」
主哉がぼやく。
「俺、英語しゃべれねえからパスな」
マサが笑いながらたこ焼きに青のりをふる。
そのやり取りを聞いていたタケシが、ぽつりと言った。
「じゃあ、俺が行ってくるよ」
一同が振り返る。
「五六銭が納められた以上――裁きは絶対なんだろ?」
誰よりも静かに、だが確信をもってそう言った彼は、風来坊。
元傭兵で、現“神の矛”のひとり。
「もともと俺は出張専門だからな。海外飛び回って傭兵やってたし、あの辺には古いツテもある」
マサが口を挟む。
「でもよ、お前……久々に日本戻ってきたばっかだろ。もう少し休んでけよ」
タケシは笑って、頭をかいた。
「ま、古い顔も見れたし、また根無し草に戻るだけさ。
なに、さっさと仕事終わらせて戻ってくるって」
誰もそれ以上、何も言わなかった。
ただ静かに、彼の背を見送った。
ーーーーー
そして、三ヶ月後。
神の社に、一件の通知が届く。
【神威執行済】
ファイル名:MAL-TRK-0056
同時に、海外ニュースがネットを駆け巡った。
《マレーシアで犯罪組織が壊滅。拠点ごと謎の爆破、関係者は全員死亡》
報道では『事故』と処理されていたが――
真実は、ただ一つ。
五六銭が、届いたのだ。
その日、日本では初雪が降った。
占見野神社の石段に、白い雪が静かに積もっていく。
神威の跡を覆うように。
すべての罪を、洗い流すように。