第三話 神の威と、神の意と
ネットニュースの片隅に、小さな見出しが踊っていた。
『強制性交の疑いで逮捕の短大生、証拠不十分により釈放』
普段なら見過ごされるような短い記事だった。
だが今回は違った。
記事が投稿された数分後には、あるSNSの投稿が急速に拡散されていた。
『わたしは間違いなくこいつに犯されたのに証拠不十分ってなに?
警察に訴えても何もしてくれない。』
その投稿には、被害を訴える女性の顔写真、泣き腫らした目元、
そして投稿の背景に映る大学のロゴが見え隠れしていた。
瞬く間に炎上は加速し、ネットの“特定班”と呼ばれる匿名の集団が動き出す。
男性の名前、通っている大学、ゼミ、さらにはアルバイト先や自宅住所までが晒され、
彼のSNSには罵詈雑言が飛び交うようになった。
その夜——
男の家には、電話が鳴り止まなかった。
罵倒、怒号、時に意味の分からない怒りの言葉。
母親が震える手で電話線を引き抜いたのは、三本目の着信音が鳴った直後だった。
翌朝、玄関の前には張り紙が何枚も貼られていた。
『変態野郎』『レイプ魔』『地獄に落ちろ』
中にはスプレーで玄関ドアに書かれた言葉すらあった。
母と妹はソファにうずくまり、ただ静かに泣いていた。
「お兄ちゃんは何もやってないよね……?」
妹が母にしがみつく。
「大丈夫。無実よ。だから……信じて……頑張りましょう……」
男は、自室の布団の中で、震えていた。
息が詰まりそうな暗闇の中、彼は何度も同じ言葉を呟いていた。
「僕はやってない……僕は……やってない……」
ーーーーー
神の社──。
それは恨討人のメンバーしかアクセスできない、秘匿回線アプリ。
その夜、本田主哉の端末が小さく震え、画面に通知が浮かび上がる。
【神の目:百眼】よりグループ通話の招集がありました。
【接続しますか?】
主哉はイヤホンを耳に差し込むと、無言で〈接続〉をタップした。
すぐに、ハッカー隼人のくぐもった声が聞こえてくる。
「ちょっと見てほしい動画があるんだけどさ──」
次の瞬間、共有フォルダにひとつの映像ファイルが送られてきた。
タイトルはなぜか《御神前-3.mp4》──嫌な予感が胸をよぎる。
再生を始めると、神社の夜の境内が映し出された。
画面の中央には、賽銭箱。
そしてその前に立つのは、女子大生らしき女性たち。
三人組だ。制服ではないが、化粧やバッグの雰囲気でそれと分かる。
「わたしを犯した男にー、罰を与えてくださーい!」
ひとりがそう叫びながら、硬貨を数枚放り投げる。
残りのふたりはクスクスと笑いながら、
「神様、よろしくー」などとふざけた調子で手を合わせた。
「うわっ、何これ……」
最初に声を上げたのは、双子の姉・凛だった。
ドローン整備中だったらしく、手には工具が握られている。
「今ネットで炎上してる女子大生、知らない?」
隼人がすぐに解説を挟む。
「“男にレイプされた”って騒いでるやつ。
証拠不十分で釈放された加害者がいるだろ?
あれの当事者っぽい。……この子が、本人」
映像を止め、彼は別タブでネット記事とSNSのスクショを並べて見せた。
主哉は黙ったまま画面を凝視する。
「そんな目に遭っててさ、こんな軽そうな態度で神様に祈れるのかよ……」
ぼそりと呟いたのは主哉だった。
声に含まれるのは、苛立ちとも困惑ともつかない複雑な感情だった。
「知ってる? 今ネットで都市伝説になってるらしいよ」
隼人が苦笑混じりに続ける。
「あの神社の賽銭箱に56円入れて祈ると、呪いがかけられる、って。
……それで動画撮ってるやつ、結構いる。悪ノリで」
「時代が変わったんだな」
マサが、たこ焼きをひとつ口に放り込みながら言う。
「昔なら……女はショックで引きこもるか、身投げしたもんだ。
今は動画で呪いか。……便利な世の中だ」
その瞬間、通話に別の声が割り込んできた。落ち着いた低音──神主だ。
「……賽銭箱に五六銭が投じられた以上、
我々としては“神威”に値するかどうか、調べる義務があります」
一拍の沈黙の後、黒江が吐息まじりに言う。
「なんか胡散臭い話だけど、調査の価値はあるわね……」
主哉は静かに画面を閉じた。
闇に紛れるような囁き声で、こう呟く。
「……恨みが冗談で済むなら、それに越したことはねぇんだがな」
だが、彼の心にはもう、一つの可能性が浮かんでいた。
この動画は──『本物』かもしれない。
冗談を装った、本気の祈り。
神威──神の名を借りて執行される、恨みの刃。
それが今、再び静かに動き始めようとしていた。
ーーーーー
翌日の深夜──。
スマホが、再び震えた。
神の社:画面に現れたのは、神の目・隼人からのグループトーク招集。
主哉はため息混じりに承認し、椅子にもたれかかる。
「調べれば調べるほど……胡散臭いね」
通話の冒頭、隼人の声が低く響いた。
彼の背後では、キーボードを打つ音が途切れず鳴り続けている。
「こっちもそんな感じよ」
クラブのママにして“神の耳”である黒江が答える。
声には、どこか呆れにも似た響きがあった。
「俺もだ」
主哉が目を細めながら話し始める。
「例の事件、警察の調書を少しだけ覗いてみた。
どうも女の供述に一貫性がない。
言ってることが時間ごとに微妙にズレてるんだ」
一瞬、通話の中に静寂が流れた。
「で、男の方にはアリバイがある」
主哉は続ける。
「事件当時、別の場所で目撃されてる。
それで『証拠不十分』ってことで釈放された。
だが、女はいまだに『やられた』って言い張ってる。
……精神的に不安定、もしくは……疾患の可能性も示唆されてた」
「それなんだけど」
黒江が声を挟む。
「事件の少し前に、男と女が大学内で口論してたって情報があるの。
かなり激しい言い争い。目撃者も複数いるらしい。まさかとは思うけど
──復讐目的のでっち上げ、なんて線も考えなきゃいけないかもね」
「否定はできないよ」
モニター越しに隼人がつぶやく。
モニターに照らされたその表情は、いつになく沈んでいる。
「最近増えてるからね、こういう『逆手に取った訴え』。
冤罪って言葉も形骸化してる。性犯罪の場合は特に……
『疑われた側』が圧倒的に不利なんだ。
訴えた者に有利な構造が、社会にも法律にも染み付いてる」
「無実の証明は、有罪の証明より何倍も難しいからな」
主哉がぽつりと同意する。
そのとき、背筋が伸びるような凛とした声が通話に割り込んだ。
神主だった。
「──我々は、男が無実であるという前提で動きましょう」
その一言に、誰も反論しなかった。
「もし訴えが虚偽であったなら、それは『神を騙る』冒涜。
……その罪に相応しい『神罰』を与えねばなりません」
誰もが、言葉を飲んだ。
「了解。引き続き裏を取る」
隼人が静かに言う。
「私も、もう少し動いてみるわ。
女の交友関係、過去のトラブル
……掘れば何か出るかもしれない」
「影打、現場に足を運べますか?」
神主の問いに、主哉は無言で頷いた。
「明日、大学の周辺と、女の自宅……
できれば本人にも接触してみる。
こっちの直感も、少し濁ってきた」
通話はそのまま、静かに終了した。
この時点ではまだ、誰もが“女が仕掛けた虚偽”の可能性を考えていた。
しかし同時に、誰もが確信できずにいた。
嘘か、真か。虚構か、真実か。
そしてその境界を越えた時、また誰かの“命”が裁かれる。
それが、恨討人の流儀だった。
ーーーーー
同じ頃──。
繁華街の外れ、人通りのない裏路地の先に、その教会はあった。
昼間でも暗い石畳の階段を上がると、
荘厳とはほど遠い、小さな礼拝堂がぽつねんと建っている。
木造の壁にはシミが浮かび、十字架は錆びた鎖で吊るされていた。
中へ入ると、蝋燭の灯だけが揺れていた。
ステンドグラスのない教会──まるで、神の目を遮ろうとしているかのように。
堂内の奥、古びたカーテンの奥に『それ』はあった。
懺悔室──罪人の告白を受け入れる小部屋。
ギィ……と音を立てて片方の扉が開く。
少女が、恐る恐る足を踏み入れた。
英子。
──あの夜、神社で「神様、よろしく〜」とふざけていた女子大生の一人だ。
彼女は震える指で扉を閉めると、板一枚隔てた向こうに声を投げた。
「……あの、いますか?」
しばしの沈黙のあと、静かに、しかし重々しい声が返ってきた。
「──迷える子羊よ。
なんじの罪を、ここに告白しなさい」
その声には、慰めも、非難もなかった。
ただ事務的に、淡々と──まるで、『儀式』の一部であるかのように響いていた。
英子は唇を噛みしめ、吐き出すように言った。
「……友達が、男に乱暴されました。
……でも、その男は……罪を認めようとしません。
警察も、証拠が足りないとか……信じてくれなくて……」
震える声。けれど、その奥にあるのは怒りか、それとも……。
「私は……どうすればいいんでしょうか……」
懺悔室の向こうから、ゆっくりとした呼吸音が聞こえたあと
──神父の声が、低く響いた。
「安心しなさい。神はすべてを見ておられます。
──罪を犯した者には、必ず神罰が下るでしょう」
そして、板戸の隙間から、銀のトレイがすっと差し出された。
「では、こちらに……献金を」
英子はハッと我に返ったようにバッグを探り、
くしゃくしゃになった千円札を一枚──ためらいがちに置いた。
カタン、とわずかな音を立てて、トレイは引っ込んでいく。
英子はその場をすぐには動けなかった。
視線を伏せたまま、何かに縋るように、唇をかすかに動かしていた。
その夜──
教会の外では、誰かのスマホが『例の都市伝説』について囁いていた。
──「神社だけじゃなくてさ、あの教会でも呪えるらしいよ。
献金すれば、神父が代わりに呪ってくれるんだってさ」
『呪い』が祈りにすり替わる街。
善と悪の境界は、誰にも見えないまま、静かに浸食されていく。
ーーーーー
翌朝のニュース番組。
BGMもなく、静かな口調で女性アナウンサーが読み上げていた。
「次のニュースです。
都内の解体工事中のビルから、男性の遺体が発見されました。
遺体は、先日『強制性交』の容疑で逮捕されるも、
証拠不十分で釈放された短大生の男と見られています」
画面には、廃ビルの外観と、警察官が現場に入っていく様子が映されている。
「この男性は昨日から行方が分からず、家族が警察に捜索願を出していました。
発見された状況から、警察は“自殺”の可能性が高く、事件性はないとしています」
朝食をとりながらリビングのテレビ画面に映るその映像を、
二人の女子高生が無言で見つめていた。
沈黙を破ったのは、妹の咲だった。
「……社会からの風当たりに、耐えられなかったのかな」
咲の声は、かすかに震えていた。
どこまでも優しい彼女の心には、この死が『罪なき者の最期』に思えたのだろう。
不意にスマホが震えた。
神の社アプリからのコール。
恨討人、誰もが──その報道を完全に信じてはいなかった。
「それなんだけどさ」
隼人の声が通信端末から響いた。すぐに一つのファイルが転送されてくる。
「これ、見てよ。男の昨日の足取りを追ってたんだけど──」
モニターに映し出されたのは、町の商店街を歩く短大生の姿。
複数の防犯カメラ映像を時系列で並べ、隼人が説明を続ける。
「なんか、動きが変なんだよね。
ふらついてるっていうか、意志がない感じっていうか……」
「……催眠?」
クラブのママ、黒江が唸るように言う。
「誘導されてるって感じ。自分で歩いてるけど、
どこかに『連れていかれてる』ようにも見えるねぇ。
よく言う『術にかかった人間』の動きに近いよ、これは」
「わたしじゃないですよ?」
すぐさまセナ──恨討人の『神の矛』である現役アイドルが手を上げて否定した。
最近は変装しての単独行動も多いだけに、
疑われることもあるが、誰も本気で責めたりはしない。
「……そもそも、自殺ってのは家の中か、職場って相場が決まってんだ」
主哉がぼそりと呟いた。
「人間ってのは、死んだ後も『見つけてほしい』んだよ。
わざわざ工事中の廃ビルまで行って死ぬかね?
それも、わざわざ夜に、人気のない場所で。……腑に落ちねぇ」
「おや、普段はサボってばっかりでも……さすがは元刑事だねぇ」
マサがたこ焼きを頬張りながら皮肉を言う。
主哉は無言で睨み返しただけだった。
そのとき、画面の端から、黒衣の男、神主がゆっくりと現れた。
「……別の組織が関わっている可能性がありますね」
場の空気が一瞬で引き締まった。
「どこかで、別の『神』が動いている。
──我々とは異なる信仰、異なる正義を掲げて」
「……『神の罰』を、他所で執行されたってことか」
主哉の声は低く、苦い。
それは、『自分たち』の仕事を誰かに横取りされたことを意味していた。
だがそれ以上に──冤罪の可能性が高い男が、
誰かの『正義』のもとで処刑されたとすれば、それはもう、単なる復讐ではない。
それは、『暴走』だ。
画面の中で、現場検証を終えた警察官が静かに歩いていた。
死者の名はまだ報じられない。
だが、恨討人たちにはすでに『次の調査対象』が決まっていた。
ーーーーー
――深夜、聖堂の奥。
古びたステンドグラスから月光が射し込む静寂の礼拝堂。
その奥、厚い石造りの壁に囲まれた小部屋に、蝋燭の炎だけが揺らめいていた。
教会。そこは、表向きは信仰の場。
だが裏では、神の意志を借りた「裁き」を下す、もう一つの影の組織が存在していた。
神威ではなく、**神意**による断罪。
その名も――聖列。
執行者たちは、神の代理人として正義を選び取り、
善悪の境界を超えて「意義ある死」を執り行う。
蝋燭の灯りの前に立つ神父が、来訪者を見据える。
「……異教の神に仕える者が、このような夜更けに教会を訪れるとは、さて」
ゆったりと現れたのは、一人の神主だった。
袴の裾を静かに揺らし、静かに一礼する。
「先日、我々のもとに『神の罰』を求めてきた者がいました」
「それが?」
「だが、対象となる男には、罪そのものが存在していなかった」
短い間が空いた。蝋燭の火がゆらりと揺れる。
「我ら『恨討人』は、神の目を通してその虚偽を見抜き、
依頼者にこそ罰を下すべく動いておりました。だが――」
神主の声がわずかに低くなる。
「その男が、何者かの手によって殺されました。……無実のままに」
沈黙が落ちる。
「問います。貴方がた『教会』は、真実を見据えて、その命を断ったのですか?
もしそれが『疑わしきは罰せよ』の思想に基づくものだとしたら
――我々とて看過できぬ」
蝋燭の灯火が揺れ、神父の目が細められた。
「セラフィム」
「はい」
応じた声とともに、奥の扉が音もなく開く。
現れたのは、銀糸のような髪を持つ女。
白銀の和装に身を包み、その立ち姿はまるで雪の中に舞い降りた天使。
だが、その瞳には冷たい執行者の色があった。
「すぐに調べなさい。詳細を」
「承知しました」
一礼し、女が静かにその場を去る。
神父は椅子に深く腰掛けながら、手を組んだ。
「……確かに、神の名を語る者同士である以上、
無用な争いは避けたいものです。我らも調査を行いましょう。
後ほど、使者をそちらへ向かわせます」
神主は一礼し、静かに踵を返した。
「了解しました。では、今宵はこれにて」
教会の扉が音を立てて閉まる。
神父は炎の揺らめきを見つめたまま、呟く。
「……本当に、異なるのは神なのか。それとも――赦しの定義か」
ーーーーー
――深夜、教会地下の石室
灯りの少ない地下の一室。
重厚な石壁に囲まれた空間の中央に、二人の女が対峙していた。
ひとりは銀糸の髪を背に流し、薄布の羽衣を思わせる装いに身を包んだ、
冷たい静謐をまとった女――セラフィム。
そして、もうひとりは闇に溶けるような黒髪のロングヘアーを前髪で顔まで覆い、
まるで和製ホラーの悪霊のような佇まいの女――セイレーン。
「申し訳ございません、セラフィム様」
セイレーンは静かに頭を垂れる。
彼女は聖列の中でも優れた“思考誘導”の技術の使い手だった。
セラフィムの声は冷えた刃のように響く。
「なぜあなたは、罪なき人間を死へと導いたのです」
「私は『殺めて』はおりません」
セイレーンの声は感情の薄い、まるで深海の底から響くようなものだった。
「確かに、男をひとり廃ビルへと誘導はしました。しかし、それはDからの直接の依頼。
わたしはそれを神の意志と信じて受け取ったまでのことです。
……死の宣告を下したのは、Dでございます」
セラフィムの眉が静かに寄る。
「やってくれましたね、あの殺人狂が……」
低く呟かれた“D”という名。
それは、神から“名”を授かることもなく、未だ下位の存在に過ぎぬ異端者ということ。
だがその実態は、処刑を快楽と見なし、『神罰』を免罪符にして
殺人を繰り返す、制御不能の怪物。
「神の名を汚しただけでなく、信仰の正義すらも歪めたか……」
セラフィムは振り返り、空間に向かって声を投げる。
「ジャスティス、いますね」
「――あいよ」
軽快な声とともに、奥の扉から登場したのは、
デニムジャケットにスキニーパンツという現代的な装いの女性。
その目には冴えた探偵のような光が宿っていた。
「神社へ遣いを。今回の件は、我々の下位構成員による暴走。
本来ならこちらで裁くべきですが――命を喪った者たちへの償いとして、
裁きの権利を彼らに譲渡しましょう。
Dの情報も渡しなさい」
「了解。じゃ、派手なのお願いしとくよ」
ーーーーー
――翌朝、神社
空気はまだ朝の冷たさを残していた。
神社の境内には、ほのかに霧が立ちこめ、鈴の音が澄んだ空を裂いた。
神主の前に現れたのは、上下デニムにショートボブ、ブーツ姿の若い女性。
一見ただの私立探偵のようにも見えるが、その名を名乗った時、空気が変わった。
「……“ジャスティス”と申します。教会よりの遣いです」
神主は一礼で返す。
「この度は、ご迷惑をおかけしました」
ジャスティスは一枚の封筒を差し出した。
「こちらが、Dに関する現時点での全情報です。
本来ならば、我々の手で始末すべき案件ですが――
貴方がたもまた、納得がいかないでしょうから」
神主は封筒を受け取りながら、目を細めた。
「承知しました」
そこへ、鳥居の下からひとりの少女が境内に上がってきた。
まだ小さな体を震わせながら、賽銭箱へと向かう。
手のひらの中から、小さな硬貨が落ちた。
五十円玉と一円玉が六枚――合計五十六円。
それは、世の中では呪いをかけるための『都市伝説の金額』として
知られつつある数字だった。
少女は両手を合わせ、泣きながら願いを捧げる。
「お兄ちゃんは……何もやっていません。
どうか……お兄ちゃんを……自殺に追い込んだ人に、
天罰を……ください……」
声を詰まらせながら、少女は静かに一礼し、境内を去っていった。
ジャスティスと神主は、言葉もなく、その小さな背中を見送る。
やがて神主が、賽銭箱の中から五十六円をそっと取り出した。
その金属の感触は、あの女がふざけて投げ入れた五六円の、
何倍も、何十倍も、重く感じられた。
神主はそのまま言った。
「……聞きましたか。これが――貴方がたがしたことの結果です」
ジャスティスは一瞬目を伏せ、深く頷く。
「……神の断罪に間違いがあってはならない。
今回の件、我々にも責任があることは認めます。
Dは、“神罰”を“殺しの免罪符”としか思っていなかった。
……どうか、あの男に、本物の神罰を」
神主は封筒を懐にしまい、静かに口を開いた。
「ご安心を。今しがた、我らの“仕事”が入りましたので」
そして――彼は胸の内で、深く、強く、静かに誓った。
しっかりと、かたをつけさせていただきます。
ーーーーー
――神の社:チャット画面
神主の穏やかな声が、結界内に響く。
まるで社そのものが語りかけてくるような錯覚すらある、神聖な対話空間だった。
神主「――というのが、今回の一件の真相のようです」
神主は一呼吸おいて、言葉を続けた。
神主「……ただ、このような事態が起きた背景には、
我々の存在――この神社の神威が“軽んじられた”という事実も無視できません」
神主の声がわずかに硬くなる。
神主「人を呪わば穴二つ――その覚悟もなく軽々しく神罰を求める者たちに、
神社が“二度と利用されぬよう”叩き込まねばなりません。徹底的に。情けは不要です」
それに応えたのは、いつも明るく天真爛漫なセナだった。
セナ「だったら、わたしが適任ですね」
口元に不敵な笑みを浮かべながらも、その瞳には冷たい光が宿る。
セナ「一生、悪巧みなんてできないくらいの悪夢、たっぷり見せてあげますよ」
主哉も静かに口を開く。
主哉「……Dってやつは俺がやる。見過ごすわけにはいかねぇ」
神主は満足げに頷き、目を閉じた。
神主「……では、ここに神威を発動します――」
音もなく、結界が揺れる。
神罰の幕が、いま、下りた。
ーーーーー
――その夜・繁華街近くのビル街
咲と凛の双子の姉妹は、神の目として作戦に参加していた。
咲が操作するドローンは、小型ながら高精度カメラと赤外線センサーを搭載しており、
目標周辺を上空から常時監視している。
静かな住宅街の上空。ドローンの映像がリアルタイムでモニターに映し出される。
「こちら天眼、上空から周辺監視中。異常なし。
通行人一人だって見逃しません、安心して仕事して下さい」
凛の声がインカムから流れる。
今回の仕事に対する凛の意気込みは、これまでになく強かった。
(まさか……狐花の正体が、私の憧れのアイドル、水島セナだったなんて……!)
心の中で叫びながら、凛はディスプレイに映るセナの姿を目を潤ませながら見つめていた。
推しが逮捕なんて、絶対にさせない──そう決めた。
「ありがとう。頼りにしてるよ」
セナの静かな声が返ってくる。
(きゃーっ、推しから“頼りにしてる”って言われちゃった~!)
凛はヘッドセットを握りしめ、顔を真っ赤にして悶えていた。
その背中を見ていた妹の咲は、ふうっとため息をつく。
「……はいはい、推し事、推し事」
どこかあきれ顔で呟きながらも、咲もまた手元のモニターから目を離さず、
全方位の監視に集中していた。
完全に仕事モードの姉の背中を、後ろからちらりと覗いた咲は、ため息まじりに呟く。
「……また始まった。推しのためなら戦車でも撃ち落としそうな勢いだな、姉ちゃん」
言葉とは裏腹に、咲もまた姉の仕事ぶりに絶大な信頼を寄せている。
ーーーーー
女子大生たちを含む男女数人のグループが、騒がしく笑いながら歩いていた。
「まじうけるー」
「あの神社の呪い、本物じゃんww」
「てか、あんなので死ぬとか弱すぎじゃね」
無神経な笑い声が夜風に乗って拡散される。
だが、その風に混ざって、不自然に甘ったるいアロマの香りが漂ってきた。
「……なんか、変な匂いしない?」
一人がそう呟いた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
次に目を覚ましたとき、彼女たちは見知らぬ高層ビルの屋上に立っていた。
「え、なにここ……」
「ちょっと、なんで私たち、こんなとこに……?」
混乱しながら辺りを見回す。全員無傷だが、明らかに異常な状況だった。
するとその中の一人――長髪の女が、突然震えながら、宙を見上げて立ち尽くした。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
繰り返し呟きながら、恐怖に引きつった顔で、何もない空間を睨んでいた。
「おい、どうしたんだよ」
その時だった。
彼女は突如として、叫び出した。
「神様……ごめんなさいッ! 許してッ! 殺さないでッ!! うあああああ!!」
そう絶叫すると、屋上の縁へ走り出し――そのまま飛び降りた。
「……っっ!?」「嘘だろ……!」
残された者たちは、彼女の消えた縁を呆然と見つめていた。
誰も止めることすらできなかった。
「ま、まじで……祟り……?」
その時、不気味な低音が、空間全体に響き渡った。
《お前たちも――同罪か?》
声はどこからともなく、頭の内側に直接響いてくるようだった。
《今、お前たちを『殺す』かどうか”迷っている》
《だがお前たちが追い込んだ男に、心から謝罪するというなら――今回は見逃そう》
《その証として、虚偽で男を自殺に追い込んだ事実を、警察に自白せよ。
猶予は――夜明けまでだ》
数秒の沈黙。
そして、一斉に――彼女たちは屋上の階段を争うように駆け下りていった。
誰ひとり、振り返ることなく。
――屋上に、静寂が戻る。
やがて、その片隅の物陰から、ふたりの人物が現れる。
ひとりは、額に「神罰」の刺繍が入ったレスラーマスクをかぶった男。
ネットで人気を誇る覆面系U−tuber『覆面君』。
そしてもうひとりは、黒系のジャケットを羽織り、
長い髪を靡かせた人気アイドル、『狐花』ことセナ。
覆面は肩をすくめて呟く。
「……全員、始末しなくてよかったの?」
セナは無言で頷いた。
「わたしたちは、快楽殺人犯じゃないから。
神の威を正しく下すだけ」
セナはにっこりと微笑んで、空を見上げる。
「ねえ、覆面くん……いつも後ろから見守ってくれてありがと」
「へへ……それほどでもねぇよ」
照れくさそうにマスクの後ろをぽりぽり掻く覆面。
セナはいたずらっぽく彼を見つめ、そっと近寄った。
そして、まるでキスでもねだるように唇を尖らせ、上目遣いで言う。
「……それともうひとつ。前からずっと言いたかったことがあるの」
覆面が期待に胸を高鳴らせる。
セナは一呼吸おいて、笑顔で告げた。
「その『神罰』って刺繍入りのマスク――めっちゃダサいわよ」
覆面、硬直。
全身が固まり、呆然としたままその場に立ち尽くす。
セナはその背をスキップで通り過ぎ、夜の街へと消えていった。
その背中には、確かな満足と、次の『神威』へ向かう覚悟が滲んでいた。
――正義は、まだ終わらない。
ーーーーー
ビル街の路地を駆けるヒールの音が、夜の静寂に高鳴っていた。
蒸し暑いはずの深夜の風が、どこか肌寒く感じる。
「やばい……。マジで、あの神社の呪い、本物だったの……!?」
背後を振り返りながら、女――英子は荒い息を吐いた。
たかが噂話、ただの都市伝説だと笑っていた。
それが、本当に"呪い"なんか存在するだなんて。
一緒にいた仲間たちとも途中ではぐれた。連絡も取れない。
「だったら……あの噂も本当なの……?」
英子は呟く。
――『教会に懺悔すれば、憎い相手が呪われる』
ネットで囁かれる、もう一つの“呪い”の存在。
そのときだった。
細い路地の先、月明かりに照らされた先に――女が立っていた。
銀色の長髪。白を基調とした和装とも洋装ともつかぬ衣。
まるで雪女か、亡霊か。冷気のような気配を身にまとう、
その女は無言で英子を見据える。
手に握られているのは一枚のタロットカード。
それが金属製であることを、英子はその異様な光沢でようやく知った。
月の光が、その表面で冷たく反射する。
浮かび上がるのは――骸骨が鎌を振るう図。
“The Death”――死神のカード。
「……あ、あんた……まさか、教会の……呪い?」
返答の代わりに、銀髪の女が静かに告げる。
「神に偽りの懺悔をし、その名を汚した罪により――」
月明かりの下、タロットカードがふわりと宙を舞う。
まるで断罪の合図のように。
「あなたに、裁きを」
英子の悲鳴が響く前に、闇が赤に染まった。
跳ねた鮮血は舗装されたコンクリートを濡らし、
そして風に攫われ、闇に溶けていった。
夜は、再び静寂を取り戻す。
セラフィムは何事もなかったかのように踵を返すと、
銀髪をなびかせて歩き去った。
ーーーーー
夜の街、人気のない路地をほろ酔いでふらつく金髪の男がいた。
ミリタリーパーカーに無造作なピアス、D──元・外国の傭兵。
口元には酔いの笑みを浮かべながらも、
その瞳には常人には理解しがたい空虚が宿っていた。
「日本って国はいいな。戦場のにおいがしない……けど、人を殺す機会は案外あるもんだ」
その独り言に応えるように、路地の先に立つ男の姿。
影から現れたのは、本田主哉だった。
「……海の向こうの兵隊さんがよ。
戦場での“快感”を忘れられずにこの国で人殺し? 笑えねぇな」
主哉の目に怒りの色はない。
ただ冷ややかに、まるで事務的にDを見つめていた。
Dの酔いが一瞬で醒める。鋭く目を細め、懐のナイフへと手を伸ばす。
「キサマ……聖列の断罪者か……?」
だが、その問いに答える間もなく──主哉の体が音もなく懐へと滑り込んだ。
手にした警棒が、機械仕掛けのようにカチリと音を立て、
瞬時に仕込刃を露わにする。
閃いた銀の一線が、Dの胸を正確に貫いた。
「俺は『聖列』でも、『断罪者』でもねぇよ」
主哉は、もがくDの耳元に低く囁いた。
「この国の神様に仕える、『神罰の代行者』さ──」
血泡を吐きながら、Dの顔にようやく理解の色が浮かぶ。
「こ……の国……にも……断罪者が……いるのだな……」
その言葉を最後に、Dの体は崩れ落ちた。
酔いと血の匂いが混じり合い、夜風にふわりと溶けていく。
その沈黙を破ったのは、乾いた拍手の音だった。
「いやぁ……お見事でしたよ」
主哉が振り返ると、月明かりの中、デニムジャケットの女。
聖列の序列次席・ジャスティス。その微笑みは皮肉とも賞賛ともつかない。
「……なんのつもりだ」
「いえ、一応『事の顛末を見届けよ』って命じられてまして。
それと、影打さんでしたっけ?
あなたのような人材、どうです、我々の“聖列”に加わって、正義の執行者になってみませんか?」
主哉は即答だった。
「断るぜ。お前たちの流儀は、俺の流儀とは違いすぎる」
「そうですか……」
「この国の神様はな、序列ってやつが嫌いなんだよ。
それに──」
言いながら主哉は血に濡れた刃を静かに仕舞う。
「『神の罰の代行者』って言ったところで、所詮は人殺しさ。
人殺しが『正義』を名乗っちゃ、いけねぇんだよ」
それだけを残し、主哉は背を向けた。
夜の路地に足音だけを響かせ、すぐに闇に溶けていく。
その背中を見送りながら、ジャスティスはふと呟いた。
「人殺しは悪党……正義じゃない、か……」
月光に照らされたその横顔には、どこか迷いの色が浮かんでいた。
「あなたも……師匠と同じようなことを言うんですね……」
風が吹いた。
聖列の“正義”に、ひとつの影が落ちた。
ーーーーー
──《涙の母、誹謗中傷規制への訴え》
──《名誉毀損罪、被疑者死亡のまま書類送検》
──《冤罪事件、警察の責任を問う》
──《関係者謝罪、責任の所在はどこに》
新聞の一面に踊る見出しが、風に揺れながらたこ焼き屋の屋台に張り付いていた。
その新聞を片手に、たこ焼きを頬張る本田主哉が、ぽつりとつぶやく。
「……大騒ぎじゃねえか」
「いいんじゃない?」
隣で立ち食いしていた隼人が答える。
「SNSに流れる情報のどこまでが真実で、どこからが妄想か
──考えるきっかけにはなったよ。きっとさ」
鉄板の奥で湯気を上げるたこ焼き器から、焼きたての香りが立ち上る。
「しかし珍しいな、お前さんがこの屋台に来るなんて」と、
焼き台の向こうからマサが言う。
「ほら、あいよ。焼きたてだ。火傷すんなよ」
「たまにはね」
そう言って隼人が受け取った瞬間──
「気をつけろよ」
主哉の忠告が届く前に、隼人は熱々のたこ焼きを口に放り込み、盛大に吹き出した。
「……っっつ!! なにこれ、灼熱地獄かよ……!」
「こいつのたこ焼きには、たまに殺意がこもってるからな」
「お前らが猫舌なだけだっつの」
そんな三人の会話に割って入るように、背後から澄んだ女の声がした。
「おっちゃん、たこ焼きひとつちょうだい」
振り返ると、そこには黒髪を風になびかせる若い女──“ジャスティス”の姿。
「お前……ジャスティス?」と主哉。
「なんであんたがここにいるのよ?」とジャスティスが問い返す。
「警察官がたこ焼き食っちゃいけねぇって法律、あったか?」
「こんな昼間っからサボりじゃん」
「……あたり」と、隼人が苦笑い。
ジャスティスはたこ焼きを一つ頬張りながら、口角を上げた。
「私、表じゃ私立探偵やってんの。
なんなら、奥さんの浮気調査でも請け負ってあげよっか?」
「残念だけど、おじさんは万年独身なんでね」
隼人が肩をすくめる。
笑い声が風に溶けて消えたあと、ふと主哉が静かに口を開く。
「……もしも俺が捕まって、正体がバレたら─
─俺が殺し屋だったって、家族に知られたら、
残されたやつらはどうなるんだろうな」
その顔には、覚悟が刻まれていた。
正義と法律の隙間で、“神威”という名の裁きを背負い続ける男の、
生涯をかけた決意があった。
誰も言葉を返さなかった。
ただ、屋台の鉄板の上で、また新しいたこ焼きがジュウと音を立てていた。
──闇の中にしか咲かない正義もある。
それでも、誰かがその闇を歩かねばならない。
その日、街は静かに夜を迎えようとしていた。