第十一話 恨みの社、灯る
見晴らしの良いその丘は、地元の人々から地蔵丘と呼ばれている。
長年、この土地を所有していた地主の一族が、丘にある地蔵と先祖代々の墓を守ってきたが――
ある事件をきっかけに、その土地は人の手に渡り、いまは管理する者もいない。
毎年、お盆が近づくころ。
勇次は必ずその丘を訪れ、墓の周りの草を刈り、墓石を洗い、線香をあげる。
それが自分の役目だと、疑いもなく思っている。
漂う線香の煙を眺めながら、コンビニ袋からカップ酒を二本取り出す。
一本を墓に供え、もう一本を静かに開けて口をつけた。
「年一回しか来れなくてすまねぇな。なんせ忙しい身の上なもんで」
丘から見下ろす村の風景は、昔と何一つ変わらない。
勇次はその景色を胸に刻みながら呟く。
「……やっぱり、この場所は変えちゃいけねぇよな」
墓石には “神代家代々之墓” の文字。
指でなぞりながら、勇次は苦く笑った。
「もう三十年か……あの夜、お前が俺の代わりに手を汚してくれた」
カップ酒を空に掲げる。
風が頬をかすめ、煙がゆらりと揺れた。
「あの神社は、今でもあんたを覚えてるぜ」
勇次は小さく呟いた。
ーーーーー
蝉の声がまだ残る、晩夏の午後だった。
村の奥に構える神代家は、瓦屋根の大きな屋敷で、昔からこの辺り一帯を治めてきた旧家だった。
その息子、一馬とは子どもの頃からの腐れ縁。
山を駆け、川に飛び込み、教師を困らせるのが日課だった。
高校がない村を出て、別々の高校へ進んだが、卒業して戻ってみれば相変わらずの悪友同士だった。
ただひとつ違っていたのは、一馬が“家を継ぐ”という宿命を背負っていたこと。
その日、勇次は一馬の家に遊びに行った。
庭を抜け、はなれの方へ足を向けると、障子の向こうから笛の音が聞こえた。
風鈴の音に重なるように、鈴のような舞の音。
そっと覗くと、陽光に照らされた畳の上で、一馬の姉「楓」が舞っていた。
白い襦袢の袖が流れ、髪が光をはね返す。
その所作はまるで水の流れのようで、見る者の呼吸を奪うほどに静謐だった。
勇次はただ立ち尽くし、息をすることさえ忘れていた。
「……あら、勇次くん。来てたのね」
ふいに顔を上げた楓が微笑む。
心臓が跳ねる。慌てて頭を下げたが、手足が言うことをきかない。
「見惚れちゃった?」
からかうような声。勇次は真っ赤になってうつむく。
楓は扇を閉じ、軽く手招きした。
「どう? 一緒にやってみる?」
その瞬間のことを、勇次は今でも鮮明に覚えている。
扇を渡された手の震え。畳の匂い。夏の光。
そして、楓の柔らかな笑顔。
――それが、勇次と“舞踊”との出会いだった。
ーーーーー
その日、神代家の門をくぐったのは見慣れない黒塗りの車だった。
車から降りてきたのは、地元選出の代議士・橘、村長、それにスーツ姿の男たち。
時代はバブルの真っ只中――どの顔にも、欲と自信の油が光っていた。
応接間に通された一行は、上等な羊羹を土産に差し出しながら口を開いた。
「この村に、リゾートホテルを建てたいと思いましてね」
橘の言葉に、当主の神代は眉をひそめた。
「リゾート、ですか……」
「ええ。都会の喧騒を離れ、静かに心を休めたい富裕層を呼び込む。
山があり、森があり、滝があり、少し離れますが温泉もある。これほどの環境はそうありません」
地図を広げ、男のひとりが指で円を描いた。
それは神代家の所有する“地蔵の丘”一帯――古くから祀りの場として知られる土地だった。
「ここの地盤が理想的なんです。県も、文化庁も協力的でして」
「なるほど。しかし、その土地は代々うちの墓所を兼ねております。簡単には……」
「もちろん! 無理は申しません。ただ、ご相談をと思いまして」
橘は笑顔を崩さず、封筒を卓上に置いた。
白い封筒の角が、わずかに金色の光を反射した。
――札束の匂いが、茶の間に満ちる。
神代は黙ったまま封筒を押し返した。
「まずは村の者たちとも話し合わねばなりません」
「もちろんです。前向きなお返事をお待ちしていますよ」
男たちは丁寧に頭を下げ、黒塗りの車へと戻っていった。
その背を縁側から見送る楓は、唇をかみしめていた。
「……あの人たち、もう決めてる顔をしてたわ」
勇次は何も言えず、ただ風に揺れる杉の梢を見上げた。
ざわめきが、遠く雷鳴のように胸を鳴らしていた。
――そしてその数日後。
この静かな村で、初めての殺人事件が起きた。
ーーーーー
薄曇りの昼下がり。
公園のベンチで、主哉は缶コーヒーを片手にため息をついていた。
缶の飲み口から出る湯気が、白く揺れて消える。
いつもなら隣にたこ焼き屋のマサがいるはずの場所に、今日は誰もいない。
風が吹き抜け、屋台のスペースにはひとつだけ落ちた紅葉が転がっていた。
「なんてタイミングだよ……」
つぶやいて、缶を傾ける。
裏の仕事をひとつ片付けたあとで、ようやくひと息つけると思ったのに。
神社に五六銭が投げ込まれたのは良かった。
だが肝心のメンバーが揃っていない。
タケシは不在、勇次は里帰り、マサは私用で街を離れ、黒江は店の連中と慰安旅行中。
凛と咲はテスト期間で「ごめん、今週ムリ〜」のメッセージ。
「……ほんとに誰もいやしねぇ」
空を仰ぐと、曇り空の隙間から一筋の陽が射していた。
そのとき、背後から軽い足音がした。
「ここ、空いてる?」
振り向くと志乃が立っていた。
いつもの制服ではない。
黒のパンツスーツに白のブラウス。
髪はまとめ上げ、メイクも控えめだが、いつもより年相応に見える。
「珍しいな。仕事帰りか?」
「たまにはこんな日もあるのよ」
そう言って、自販機からペットボトルのお茶を購入する。
「ふうっ……見張りもいない現場は久しぶりだったぜ」
「でも、隼人くんの裏取りとカメラのバックアップはあるんでしょ?」
「ああ。あいつのことだから、もう俺の位置も割れてるさ」
缶を足元のゴミ箱に投げ入れ、主哉は背もたれに体を預けた。
「……昔はな、そういうのも全部自分でやってた」
「へぇ、原始的ね」
「ハッカーもドローンもいねぇ時代だったからな」
志乃が笑う。
「そういえばあなた、恨みの神社の初期メンバーの一人なんですってね」
「ああ、勇次や黒江もそうだ。まぁ、まったくの偶然で集まった面子だった」
「話……聞いてもいい?」
「いいが、面白くもなんともない昔話だぜ」
「いいのよ、暇つぶしくらいにはなるでしょ」
主哉は小さく笑い、目を細めた。
遠くで子どもの笑い声が聞こえる。
その音を背に、彼はぽつりと語り始めた。
「……俺が勇次と最初に出会ったのはな。
殺人事件が起きたっていう村に派遣されたときだった。
まだ刑事課に配属されたばかりの、駆け出しの頃だ」
缶コーヒーの残り香が風に流れる。
そして、空気がゆっくりと色を変え――
場面は再び、三十年前の山村へと沈んでいった。
ーーーーー
川沿いの小屋の前に、パトカーが一台止まっていた。
山から吹き下ろす風に、黄色い規制線がはためいている。
「ここが現場ですか」
車を降りた主哉が言うと、駐在が慌てて帽子に手をやり、頭を下げた。
「ええ、刑事さん。もう鑑識が入っております」
小屋の前には長靴の足跡がいくつも残り、土の上に鑑識の番号札が並んでいた。
農具や古びたスコップが立てかけられ、雨上がりのぬかるみが靴底にまとわりつく。
「被害者の身元は?」
主哉の問いに、駐在が手帳を見ながら答える。
「この村の農家の息子で、Aという青年です。昨日の夜、村の寄り合いがあって、そのあと姿を見た人間はいません。殺されたのは会合の後から朝方の間かと。第一発見者はこの小屋の持ち主でして、朝畑に出る前に農具を取りに来たときに見つけたそうです」
「……で、凶器は?」
「包丁です。後ろからひと突き」
主哉はしゃがみこみ、血の跡を見た。
乾きかけた赤黒い染みが、地面に影のように広がっている。
「でもこの狭い村ですからね」
駐在が苦笑混じりに言った。
「包丁の持ち主なんて、すぐ分かりますよ。奥さん連中に見せりゃ、どの家のもんか一発です」
その言葉に、主哉もつられて軽く笑った。
初任事件に意気込んでいた彼は、このときまだ――この事件がどれほど根の深いものかを知らなかった。
「……案外、簡単に終わるかもしれませんね」
「そうだといいんですがねぇ」
駐在の声がどこか曇って聞こえた。
だが、簡単にはいかなかった。
村のどの家にも、包丁のなくなった報告はない。
凶器に指紋も残されておらず、夜に外を出歩く者など誰もいない。
村人たちは口を閉ざし、夜は早く戸を閉めるようになった。
やがて、警察の聞き込みも行き詰まり、事件は“迷宮入り寸前”と呼ばれるようになった。
その静けさの裏で――勇次が、主哉の前に現れるのはもう少し先のことだった。
ーーーーー
「リゾート計画、ですか」
主哉は湯呑を手にしながら、ゆっくりと問い返した。
村長宅の座敷。古びた柱時計の音だけが、やけに響く。
「ええ、寄り合いというのもその件でしてな」
村長は茶をすすりながら頷いた。
「この村にリゾートホテルを建てたいという話がありましてね。都会の喧騒を離れ、静かに休みたい富裕層を呼び込むとかで」
「で、その寄り合いがもめて殺人事件に?」
主哉がメモ帳を開きながら聞くと、村長は首を振った。
「いいえ。皆、賛成でしたよ。
こんな田舎です。若者の数も減る一方で、農家を継ぐ者もおらん。
リゾートができて収入が増えれば、この村も少しは良くなるんじゃないかと。
反対の声なんて、一つも出ませんでした」
主哉は湯呑を置き、眉をひそめる。
「全員賛成……それで誰かが殺される理由が、ですか」
「それは、わかりませんな」
村長は少し笑い、障子の向こうに目をやった。
外では、どこかで子どもの笑い声が聞こえる。
「ただね、刑事さん」
村長は茶を飲み干し、湯呑を置いた。
「この狭い田舎で暮らしていると、みんな気心が知れてるように見えるでしょう。
けれどな、そんなのは表向きだけですよ。
裏で何を抱えてるかなんて、都会の人間以上に分からんもんです」
主哉は軽く笑って応じた。
「……田舎の闇、ってやつですか」
「ええ。都会には金の闇、田舎には情の闇がある」
村長の言葉が妙に耳に残った。
その帰り道、主哉は車のハンドルを握りながら、ぼんやりと呟いた。
「……こりゃ、迷宮入りするかもしれんな」
村と隣町とを隔てる一本の山道を、パトカーがゆっくりと下っていく。
舗装はされているが、日の入り前の山は暗く、木々の影がヘッドライトに伸びては消える。
そのとき、反対車線から轟音が響いた。
――ブォォォン!
カーブの向こうから、2台のバイクが勢いよく飛び出してくる。
どちらもノーヘル。若者らしい体格で、黒いシャツをなびかせ、笑い声を残して山を駆け抜けていった。
「……あの村のガキどもか?」
ハンドルを握りながら、主哉は小さく呟く。
だがブレーキには触れなかった。
追いかけようと思えば、すぐにでもできた。
けれど、しなかった。
(取り締まりなんざ交通課の仕事だ。他人に迷惑をかけてねぇなら、若気の至りってやつだろ)
主哉は窓を少し開け、山の冷気を吸い込んだ。
木々の匂い、湿った風、そしてどこか遠くで鳴くフクロウの声。
「……面倒くせぇだけだ」
笑って自嘲する。
正義感と無関心のあいだを、曖昧に生きる――
それが若き日の本田主哉という男だった。
山の稜線の向こう、夕暮れが村を赤く染めていた。
その美しさが、逆に不気味に見えた。
ーーーーー
場所は変わって、銀座。
夜のネオンが雨に滲み、車のヘッドライトが光の帯を引く。
バブルの香りが街を満たしていた時代――銀座で成功した女は「女帝」と呼ばれた。
そのひとりが、黒江。
彼女の店「黒薔薇」は、重厚な扉と赤い絨毯が敷かれた、夜の城だった。
「ママ、来たよ」
入り口のベルが鳴り、スーツ姿の男たちが現れた。
先頭には代議士の橘、続いてリゾート会社「共三」の社長、その傘下「三芳建設」部長、そして――村の有力者の顔もあった。
「あら先生、いらっしゃい。また来てくれたの?」
黒江は微笑み、金色のグラスを磨きながら言った。
「今日はどうしたの? 偉い人たちが集まって……悪巧みかしら」
男たちは笑って手を振る。
「いやいやママ、そんな物騒な話じゃないさ」
「そう? なら大事な話の前に、軽く一杯どうぞ」
グラスに注がれたウイスキーの音が、氷を転がした。
「ごゆっくり」と言い残して、黒江はカウンターに戻る。
そしてそっと、左耳に小さなイヤホンを押し込んだ。
個室の天井には、彼女が独自に仕掛けた集音マイクがある。
スピーカーから流れる、男たちの低い声。
黒江は眉ひとつ動かさず、グラスを拭き続けた。
ただ唇の端に、わずかな笑みを浮かべる。
「……あら、本当に悪巧みだったのね」
この街で、黒江の耳に届かない話はないと言われていた。
彼女が銀座でのし上がったのは、美貌でも、男運でもなく――情報だった。
“黒薔薇のママは、聞くだけで人を殺せる”とまで噂された。
後に彼女は「神の耳」と呼ばれるようになる。
だが、その異名の片鱗は――この夜すでに、静かに花開いていた。
ーーーーー
夜のビルの屋上で、何かがキラリと光った。
冷たい風がネオンの明滅をゆらし、その中で月光を返す一眼レフのレンズ。
フリーライターの荒木はファインダー越しに街を覗いていた。
狙うは、リゾート開発会社と代議士・橘の黒い繋がり。
ここ数ヶ月、政治献金の裏を追っていたが、なかなか尻尾が掴めなかった。
その夜、銀座のとある店に橘の黒塗りの車が滑り込む。
店の看板には銀の文字で「黒薔薇」。
“夜の女帝”と呼ばれるママの店――裏業界でも噂の場所だ。
「……やっぱりここに来たか」
橘が店を出ると、リゾート会社の社長と部長がそれを見送る。
互いに笑顔で握手を交わし、まるで“仕事の成功”を祝うように。
その横に、もうひとり。
荒木はファインダーを覗き込み、眉をひそめた。
「……あいつは誰だ?」
スーツ姿の中年、見覚えのない顔。
今まで追ってきた中に、そんな人物はいなかった。
カシャ――。
静かなシャッター音が夜に溶ける。
フィルムを巻きながら、荒木はポケットのメモ帳に一言だけ書き込んだ。
『銀座・黒薔薇前 22:18 立花/社長/部長/不明男1名』
「……少し、調べてみるか」
レンズキャップをはめ、荒木は屋上をあとにした。
ビルの谷間に吹く夜風が、どこか不吉に冷たかった。
ーーーーー
数日後。
村の道端に、見慣れぬ作業服の男たちの姿があった。
測量業者だという。リゾート開発予定地の図面を片手に、土地の境界を確認して回っている。
「ご苦労なこったな」
主哉は川べりの石垣に腰を下ろし、缶コーヒーを開けた。
微かに錆びたプルタブの音が、静かな山あいに響く。
事件は行き詰まっていた。
鑑識の結果も、包丁の出所も、何一つ掴めない。
上からの指示は「動きがあるまで単独で様子を見ろ」。
要は“無駄に人員を使うな”ということだ。
「まあ、そういうこったな」
正確には、もう一人この村に派遣されていたが、そいつはインフルエンザでダウン中だった。
主哉に言わせりゃ、
風邪なんて唐揚げとレモンと焼酎があれば治るものだ。
「病は気から」――そう信じて疑わない。
その時だった。
背後から足音が近づき、声がかかった。
「刑事さん、何か事件の手がかりは見つかりましたか」
振り向くと、グレーのジャケットを着た男が立っていた。
細身で眼光が鋭い。歳は三十前後か。
「なんだお前は」
「これは失礼」
男は軽く頭を下げ、名刺を差し出した。
荒木 周介 / フリーライター
「フリーライター、ねぇ……。で、そのフリーな人が、こんな田舎で何を?」
「橘という名前、聞いたことありますか? この村出身の代議士なんですがね。
リゾート開発会社の共三との黒い噂がありまして。それを追ってたら、こんなものが撮れたんですよ」
荒木はジャケットの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。
銀塩プリントの匂いが、ほのかに立ち上る。
そこに写っていたのは、橘と、共三の社長、三芳建設部長、そして――見覚えのある顔。
「……こいつは確か、井上って言ったか」
主哉は眉を上げた。
「この村でもかなりの農地を持っててな、いい家に住んでやがる。
うまくやれば農家も儲かるんだなと思ってたぜ」
荒木が軽く笑う。
「実は橘と井上、昔は不良と舎弟みたいな関係だったらしいですよ。
今でも橘は井上を財布扱いしてるとか」
「それは初耳だ。どこの情報筋だ?」
「ライターにはライターの網ってやつがあるんですよ。
ただ、これ以上は現地に来なきゃ分からないと思って、足を運んだんですけどね……
見事に畑と虫の声しかない」
主哉は笑った。
「まったくだ。殺人事件とは縁もなさそうな土地だ。
ま、何か他に掴んだら教えてくれ」
「ただで情報渡してたら、フリーライターは食ってけませんよ」
「事件が片付いたら、飯くらい奢ってやる」
「楽しみにしてます」
そう言って荒木は立ち去った。
足取りは軽く、しかしその背に漂う空気はどこか記者特有の執念を孕んでいた。
主哉が空になった缶を握り潰す。
金属の音が小さく鳴った。
その光景を、少し離れた場所から一人の青年が見つめていた。
神代一馬――この村の大地主の息子。
「……面白くねぇな」
その目は、何かを知っているように暗く光っていた。
自分はけっして優秀なわけじゃない。むしろ不良と呼ばれる部類に入ると自覚はしている。
ゆえに、橘の不良時代の話はよく知っていたし、橘と井上の間柄も理解している。
橘と井上が持ってきたリゾート開発の話...。
この村でおきた初めての殺人事件...。
見るからに頼りにならなそうな刑事...。
「…やっぱり面白くねぇ」
一馬は跨るバイクのアクセルをふかし、どこかへと走っていった。
ーーーーー
神代家の蔵は、昔から独特の匂いがした。
古い木材と埃、そして紙の乾いた匂い。
幼いころから一馬は、その匂いが嫌いではなかった。
数代前の当主が書物の収集家だったという。
和綴じの史料、明治の新聞、軍記物や地誌。
貴重な書物の多くはすでに村や市、あるいは大学に寄贈され、残ったのは価値のない雑多なものばかりだった。
だが、その“ガラクタ”の中に、一冊だけ妙に気を惹れるものがあった。
黄ばんだ表紙には『○○郷記』と墨で書かれていた。
ページをめくると、この村の過去が綴られており、その一節に目が止まる。
――この地の洞窟に、幾つかの千両箱が持ち込まれた。
――地蔵丘の麓、川筋の奥にて封じられし、とある。
一馬は無意識に笑っていた。
「……マジかよ」
心が躍った。
宝探しのような話。けれど、自分だけがその“手がかり”を知っているという優越感が、血を熱くした。
早速その場所へ向かった。
地蔵丘の麓。昔は村の子どもが肝試しに行ったという洞窟。
だが今は、がけ崩れの土砂で入口が塞がれていた。
「……まぁ、現実なんてこんなもんだ」
そのまま帰ろうとしたが、足を止めて振り返る。
このことを知る者は、おそらく自分だけ。
わざわざ掘り返す必要もないし、百年前の話だ。
もし本当に何もなかったら――笑い者だ。
「……まあ、将来困ったときに神頼み的に掘るってのもアリか」
ここは神代家の所有地。
誰に取られるわけでもない。
そう思いながら、ふと脳裏に浮かんだのは井上家の立派な屋敷だった。
(まさか……な)
まさか、井上の奴らがもう掘り当てたんじゃないだろうな?
そんな考えが、ほんの一瞬、頭をよぎった。
だが確証はない。
「確証のねぇ話に首突っ込んでも、しょうがねぇ」
そう言い聞かせながらも、胸の中のざらつきは消えなかった。
だが――数週間後。
突然のリゾート開発の話。
開発予定地の中に“地蔵丘”の名を見つけたとき、一馬の頭の中で何かが繋がった。
「……偶然、ねぇ」
井上の名がそこにある。
橘が関わっている。
そしてあの、意味ありげな測量。
(やっぱり……あの話、ただの伝説じゃねぇのか?)
刑事に話すべきか迷った。
まだ確証はない。
だが放っておけば、きっとこの村は汚される。
「……面白くねぇな」
口の中で小さく呟く。
それは苛立ちとも、決意ともつかぬ声だった。
次の瞬間、ガレージに置かれたバイクのエンジンが唸りを上げる。
山あいの空気を切り裂くように、ノーヘルのバイクが夜道を駆け抜けた。
そのヘッドライトの光は、まるでひとりの若者の正義を照らしているようだった。
ーーーーー
その日、山間の村に奇妙な音が響いた。
ブォォォン、という甲高い金属音。
2サイクルエンジン特有の匂いが、風に乗って田畑を包み込む。
「何ですか、これは」
主哉が目を細めて空を見上げると、
小さなヘリコプターのようなものが畑の上を飛んでいた。
「東京の何だかって会社の人が来ててな」
隣にいた老人が麦わら帽子を上げて笑う。
「農薬を撒くラジコンのヘリコプターを売り込みに来たんだと」
「へぇ……ラジコンで農薬をねぇ。時代の流れですかね」
「ただ、うるさくてかなわんな。あれじゃ牛も落ち着かん」
「エンジン草刈機と大して変わらない音ですね」
「はっはっ、確かに違いねぇわ」
笑い合う二人の背後を、黒い車が一台通り抜けていった。
艶やかな塗装に、見慣れぬ社名〈三共〉のロゴ。
「……あれが、例のリゾート開発会社の車か」
主哉は缶コーヒーを傾けながら目で追った。
「この道の先は神代家だな。ま、せいぜいご苦労なこった」
エンジン音と虫の声が混じり合う夏の午後。
その何気ない風景の中で、確実に“何か”が動き始めていた。
ーーーーー
神代家の客間。
畳の上に広げられた地図の上に、赤い線が走る。
その中央には「リゾート開発予定地」と記されていた。
「先日、実際に土地の広さを測らせていただきましてね」
営業スマイルを浮かべる男が言う。
「この範囲を買い上げたいと思っております」
神代家当主――一馬の父は、静かに地図に目を落とした。
「そうですな……出来ればこの“地蔵丘”のあたりは手元に残しておきたいと思っております」
指先が地図の一点をなぞる。
「この丘は先祖代々守ってきた場所。ここだけはどうか」
男たちは目を見合わせた。
「なるほど……では一度、会社のほうで検討させてもらいましょう」
「よろしくお願い致します」
応接間を後にする男たち。
ドアが閉まると、静寂が戻った。
外に出た彼らは車に乗り込み、ゆっくりと村を後にした。
エアコンの風が吹き出し、運転席の男が苦笑する。
「……あの丘のあたり、手に入れるのは難しいかもしれませんね」
「なに、方法はあるさ」
後部座席の代議士・橘が、唇の端を吊り上げる。
「どうしてもの時には――なぁ」
助手席の男が笑った。
「……そうですね」
車はカーブを抜け、村の灯を背に走り去っていく。
誰も気づかなかった。
その車の底に、拳ほどの小さな機械が貼りついていることに。
その機械……盗聴器のパイロットランプが、夜の闇の中で静かに点滅していた。
ーーーーー
その夜、街の静寂を破るように、甲高い防犯ベルが鳴り響いた。
オフィス街の一角、リゾート開発会社〈三共〉のビル。
赤い警報灯が回転し、廊下を走る警備員たちの怒声が飛び交う。
だが、その騒ぎの中心にいるはずの侵入者は、すでに姿を消していた。
「……ちっ、最後にしくじっちまったか」
男は下水道の中を走っていた。
全身黒のタイツに身を包み、背中には汗と泥が張り付いている。
腰には小さなポーチひとつと、金属製のケース。
ケースを開けると、中には十センチ四方ほどのフロッピーディスクが、ぎっしりと詰められていた。
「時間がなかったから、適当に突っ込んだが……さて、金目の情報は入ってるかね」
下水道の天井から、微かに水滴が落ちる。
男は笑いながらそれを拭い、ゆっくりと息を整えた。
まだ“インターネット”という言葉すら一般には知られていない時代。
データを盗むには、会社に忍び込み、直接パソコンの中身を抜き取るしかない。
彼はそんな時代を生きる、いわば“最初期のハッカー”だった。
いや、本人に言わせれば――「情報泥棒」だ。
伝説の怪盗の三代目が主人公の漫画に憧れ、タイプ音とカセットテープの巻き戻し音の中で青春を送った男。
時代が生んだ、デジタル黎明期の影の職人。
彼の名は、誰も知らない。
だが、後に“神の目”の礎を築く者として、
闇の歴史にその名を刻むことになる。
ーーーーー
そんな泥棒の一部始終を、
天井の空調ダクトの中から、
一台のラジコンカーに取り付けられたカメラがじっと見つめていた。
薄暗いダクトの奥。
送風音とモーターの微かな唸り。
レンズの奥では、赤い録画ランプがかすかに点滅している。
操縦しているのは、離れて路駐する車内に潜むひとりの青年。
古びたモニターに映る映像を食い入るように見つめながら、少年は小さく息を吐いた。
「……本当に、入った」
自作の無線送信機が、時おりノイズを挟む。
映像の中では黒ずくめの男がフロッピーディスクを詰め込み、そのまま闇の中へ消えていく。
青年は操作レバーを戻し、薄く笑った。
「すげぇ……あれが“生きたデータ泥棒”ってやつか」
誰も知らない。
その映像が、後に“神の社”の原点記録として残ることを。
そして――そのラジコンを操っていた青年が、後に《神の目》と呼ばれる存在の最初の一人になることを。
ーーーーー
彼の昼間の顔は、業務用ラジコンメーカーの営業マンだった。
取引先を回り、農薬散布機や工事用無線車両のデモを見せ、「これからは無人化の時代ですよ」と笑う、ごく普通の男。
――だが、夜になると違った。
オフィス街の片隅。
ネオンが消え、サラリーマンが去った後のビル群の中で、彼は静かに機材を並べた。
空調ダクトやパイプシャフトを走る、特製のラジコンカー。
赤外線カメラ、小型マイク、無線送信機。
その先に映るのは、リアルなオフィスラブ、深夜の密会――
ただれた関係を覗き見ること、それが彼の密かな悦びだった。
動機は下らない。
けれど、頭は切れる。
技術も本物だった。
彼は日々、ラジコンの小型化・消音化・駆動時間の延長に没頭した。
電波法ギリギリを攻める独自回路。
時には攻めすぎてラジコンが行動不能になり、
その回収のための“救出専用ラジコン”まで作ってしまうほど。
――その夜も、彼はいつも通りの“覗き”をしていた。
とある開発会社の空調ダクトの中に、自作のラジコンを潜り込ませていたのだ。
だが、モニター越しに映ったのは、男女の密会ではなく――黒ずくめの泥棒だった。
男が金属ケースにフロッピーディスクを詰め込み、警報が鳴る前に下水道へ消える一部始終。
「……マジかよ」
息を呑んだ。
それは偶然だった。
けれど、彼の心臓は高鳴った。
彼もまた“怪盗三代目”のファンだった。
怪盗にガンマンと侍の相棒がいたように、
――自分も、あの男の相棒になれるかもしれない。
「……面白ぇ」
彼はモニターのダイヤルを回し、泥棒が消えた先の下水道へと別のラジコンを走らせた。
薄暗い映像の中、モーター音が遠ざかる。
そのレンズが捉えたものを、このとき誰も知らなかった。
それが――後に「神の目」と呼ばれる者たちの、最初の記録となることを。
ーーーーー
店のネオンが消え、銀座の通りが静けさを取り戻す。
最後の客を送り出した後、黒江は店の鍵を閉め、夜気を吸い込んだ。
湿ったアスファルトの匂い。タクシーのエンジン音が遠ざかる。
そのとき、通りの向こうに人影があった。
スーツの襟を立て、煙草も吸わずにただ立っている男。
「……なにか御用ですか?」
黒江の声は低く、張りがあった。
「私に用があるなら、店の方にいらっしゃってくれればよかったのに。それとも――別な御用ですか?
変質者さん」
男は苦笑して両手を軽く上げた。
「さすがにこの身なりで、その店に入る勇気はありませんよ」
そう言って差し出された名刺を、黒江は受け取る。
荒木 周介 / フリーライター
「荒木さん……ね。で、そんな方が私に何の御用でしょう。
“銀座で成功した女”の取材なら、お断りしてますけど」
荒木はポケットから何かを取り出した。
折れたフィルムケースだった。
そして、淡々と一言だけ告げた。
「――橘を追っている」
その言葉で、黒江の瞳がわずかに揺れた。
無駄な説明はいらない。
何を求められているのか、もう分かっていた。
「……なるほど」
黒江は背を向け、再び店の扉へと向かう。
鍵を外し、振り返らずに言った。
「店の中へどうぞ。
――ここでは、できない話なのでしょう?」
荒木は小さく頷き、後に続いた。
扉の向こうには、夜の銀座で最も危険な女と、
最も無謀な男の密談の舞台が待っていた。
ーーーーー
薄暗い灯がカウンターを照らしていた。
黒江と荒木が、向かい合って座る。
氷の溶ける音と、グラスに注がれるビールの泡の音だけが響いた。
黒江は手酌でグラスを満たし、泡に唇を寄せた。
「それで――何が聞きたいのかしら」
荒木は無言で鞄から数枚の写真を取り出す。
カウンターの上に、静かに並べられた。
一枚はビルの屋上から撮られたこの店の前の写真。
映っているのは、橘、共三の社長と三芳建設の部長、そして村の井上。
他の写真には、彼らと肩を並べる暴力団関係者、さらには某大臣の姿まであった。
「以前から橘には黒い噂がありましてね」
荒木は低く言った。
「それを追ってるうちに――更に“大物”まで釣れてきたようでして」
グラスを傾け、ひと息にビールを飲み干す。
そして、軽く笑った。
「その中で、ある噂を聞いたんです」
「黒薔薇の黒江ママは――銀座の夜のネオン街の会話を、すべて知っている」
黒江は微笑を崩さない。
「それはまた……寝耳に水のような話ね」
「ただね……」
荒木はカセットレコーダーを取り出した。
古びた機体の再生ボタンを押すと、低いノイズ混じりの声が流れ始めた。
『あの土地を手に入れるのは難しいかもしれませんね』
『なに、開発許可は通してある。後は神代のハンコだけだ』
『それは仕事がお早い』
『金で動くさ。どこの田舎も同じだ。それでも、どうにもならない時には⋯なぁ』
『分かっていますよ。鉄砲玉、用意しときます』
録音が終わり、静寂が戻る。
「顔が映っていない、声だけなんで証拠能力は乏しいんですが……この会話、何か心当たりは?」
黒江はグラスの縁を指でなぞった。
「……それは、ジャーナリストの正義感というやつなのかしら」
「いえ、そんな立派なものじゃありません。
ただ――この世に“日の当たらない場所”があるのが、許せないだけです」
黒江はふっと笑った。
氷がカランと音を立てる。
「私、正義の味方は嫌いなの」
「そうですか」
「でも――あなたとなら、気が合いそう」
黒江の声は、まるで夜そのもののように艶やかだった。
彼女はグラスを置き、目を細めて言う。
「……あの人たちはね、もう少しで“地蔵丘”を掘り返すつもりよ。
表の名目はリゾート開発。けれど本当の狙いは、もっと深い場所にある物」
荒木の目が細く光った。
「深い場所にある物?
――まさか埋蔵金か何かが埋まっているとか?」
黒江は答えなかった。
ただ、口元に浮かんだ笑みがすべてを物語っていた。
銀座の夜に、二つの“影の正義”が結びついた瞬間だった。
ーーーーー
パソコンにフロッピーディスクが吸い込まれると、古びたドライブが懐かしい「カチッ」という音を立てた。CRTモニタの青白い光が男の顔を薄く照らし、カーソルがチカチカと点滅する。部屋にはインスタントコーヒーの匂いと、ねじ切れそうなタバコの煙が漂っている。
「どれどれ……おいしい情報、入っててくれよ」
男はキーボードを軽く叩き、ディレクトリを覗き込む。ファイル名がずらりと並び、拡張子は当時の常識を物語る三文字ばかりだ。ひとつ、ふたつとファイルを開くと、画面に次々と文字列と表計算の表が現れた。
「リゾート開発計画……完全赤字見込み、だと? 採算無視って、何が目的だよ…」
表の裏に隠された数字、資金の流れ、受取人名の断片。スクロールしていくと、あるフォルダの中に「裏帳簿」「献金」「接待費」といった生々しい語句が見つかる。
次に見つかったのは、暴力団の口座名、やり取りのメモ、あの代議士と井上の名前が絡む裏取引の記録。さらに細かく掘れば、いくつものフロッピーに分散して保存された「地蔵丘」に関するメモ。地図の断片と、古い書類のデジタル化ファイル。これが事実なら――埋蔵金どころではなく、政治と暴力と利権が生々しく結び付いている。
男は思わず笑った。いや、笑いをこらえたのかもしれない。画面の光が強くなって、顔の皺が深く見える。
「こいつはやり方さえ間違えなきゃ、大金になりそうだぜ」
だが同時に、胸の奥に冷たいものがふっと落ちる。こんなデータは撒けば撒くほど危険だ。売り先を誤れば、命を狙われる。買い手は検察や新聞社だけじゃない。裏世界も嗅ぎつけるだろうし、金に目がくらんだ者は自分を裏切るかもしれない。十年前の怪盗漫画のように軽やかに事が進むはずもない。
男はコピーコマンドを叩き、フロッピーの内容を別の磁気ディスクに複製し始めた。読み取りヘッドのカリカリという音が、小さな心臓の鼓動のように聞こえる。複製が終わると、元のフロッピーを別の封筒に入れ、さらにそれを布地のポーチに隠した。原本は捨てない。捨てれば逆に足がつくかもしれない──消したつもりの跡が、もっと深く彼を追うだろう。
画面をしばらく眺めたのち、男は椅子から立ち上がり、窓際の古い電話機に向かって小声で番号を押した。だがダイヤルを回す指先で思いとどまり、受話器を置く。誰に連絡するか。それが問題だ。
週刊誌の記者にでも売るか──しかし記者は暴かれた真実と交換に自分を守ってくれる保証はない。
情報屋に流せば、あいつは情報を“料理”し、それをどう扱うか心得ぐらいあるかもしれない。
それとも敵対する組にでも売り込むか。だが金はすぐ手に入るだろうがが代償は大きい。情報の出どころが俺だとわかれば命はないだろうな。
結局、男はまたフロッピーディスクを手に取り、机の引き出しにしまいこんだ。明日の朝まで、誰にも見せない。まずは情報の相場を探り、買い手を慎重に選ぶ。
動くなら明日だ。動いて、都合よく裏の稼業を回すのは、漫画の怪盗のようにいくものでもない――と自分に言い聞かせると、男はいつもの癖で革ジャンのポケットに手を入れ、古い懐中時計の蓋を開けた。針は午前二時を指している。
窓の外、ビルの谷間に夜が溶けていた。男は一度だけ外を見やり、低く呟いた。
「よし……様子見だ。売るにしても、売り方を考えねぇとな」
ーーーーー
夕暮れの山里に、赤い光が差していた。
勇次が神代家を訪ねると、出迎えたのは楓だった。
「一馬? この何日か、家に戻ってこないのよ」
心配と苛立ちが混ざった声だった。
「本当に……どこ遊び歩いているのかしら」
「そうですか……」
勇次は苦笑しながら頭を下げた。
「一馬はいないけど、上がっていく?」
楓の誘いに甘えて、勇次は玄関をくぐった。
畳の香りと、どこか懐かしい煎茶の匂い。
居間では楓が稽古着に着替え、扇子を手に取っていた。
「じゃあ、せっかくだから少し踊ってみる?」
床の間の前、畳の上で、静かな舞が始まった。
勇次はその動きを見よう見まねで真似る。
しなやかな手の動き、腰の返し、足運び。
「勇次くんは筋がいいわね。すぐに私より上手になるわ」
「い、いや……そんな」
「本気で舞踊を始めてみたら? その気があるなら、紹介状を書いてあげる」
楓の微笑みに、勇次の胸がざわめいた。
(楓さんと一緒にいたいから、教わってるだけなんだ)
そう言いたかったが、声にはできなかった。
「……そろそろ暗くなってきたし、帰ります」
勇次は稽古を終え、深く頭を下げた。
外に出ると、夕陽が沈みかけていた。
オレンジ色の光が山の稜線を染め、虫の声が遠くから響く。
近道の農道をバイクで走っていると、
ふと、草むらの中で何かが光った。
ブレーキをかけ、バイクを止める。
夕陽に反射する金属の光。
「……なんだ?」
草をかき分けて近づくと、そこにあったのは――見覚えのあるバイクだった。
「これは……一馬のバイク?」
エンジンは冷えきっており、転倒した形跡もない。
事故を起こしたわけでもなさそうだ。
しかし、周囲に一馬の姿はなかった。
「……なんで、こんなところに」
胸の奥で、嫌な予感が膨らむ。
夕暮れの静寂が、まるで村全体の息を止めたようだった。
勇次はエンジンをかけ直し、
「……あの刑事、今日も来てるだろうか」と呟いた。
だが、村を探し回っても、主哉の姿は見当たらなかった。
陽は落ち、夜の帳がゆっくりと村を包み込んでいく。
その暗がりの中で、草むらに残されたバイクのミラーが、最後の夕日を小さく反射していた。
ーーーーー
何度交渉しても、神代家は頑として譲らなかった。
地蔵丘――それだけは売らない。
その一点が、橘の計画を止めていた。
焦りを隠せぬ橘は、ある日の午後、永田町の高層ビルにいた。
総務大臣の私室。
防音された重い扉の向こう、灰皿の上に細く煙が揺れている。
「何か、いい手はないでしょうか」
橘は頭を下げた。
総務大臣・武蔵は、ゆっくりと葉巻の煙を吐き出す。
「あの件か……まだ首を縦に振らんのか。出す金額が少なすぎるんじゃないのか?」
「いえ。代々の墓があるそうで、どうしても譲らんと」
大臣は小さく笑った。
「なら簡単だ。公共事業にすり替えればいい」
「公共……事業、ですか?」
「そうだ」
葉巻の先を灰皿に押しつける。
「リゾート開発の計画書に“自然公園整備事業”をかませる。
公共の利益に資するという名目を立てれば、土地収用法で一帯の土地を“合法的に”収用できる」
橘の目が細く光る。
「……なるほど。土地を“買う”必要もなくなる」
「そういうことだ」
大臣はグラスのウイスキーをひと口含んだ。
「あとは地元の理解をどう取り付けるかだな。まあ、それも君ならうまくやるだろう」
橘は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。ではお礼は、いつもの通り――献金として、例の企業から」
「ふふ、政治家とは面倒な職業だ」
大臣は鼻で笑った。
「金のやり取りにも、こうして“遠回しな道”を通らねばならん。ただ君の方でも保険をかけておきたまえよ」
「承知しております。鉄砲玉もすでに用意済みで」
部屋に笑い声が響く。
だが、彼らは知らなかった。
その笑いを、天井裏の空調ダクトの中で聞いている者がいることを。
全身黒タイツの男が、イヤホン越しにその会話を聞きながら、ニヤリと口角を上げた。
「……面白ぇな」
オレンジ色のボタンが押された古いカセットレコーダーが、ゆっくりとテープを回し、確実にその音声を記録していく。
「権力とカネの密談か……こいつは高く売れそうだ」
その表情には、
単なる興味本位ではない何か――
獲物を見つけた獣のような確信が浮かんでいた。
ーーーーー
近くのビルの屋上で、荒木はファインダーを覗いていた。
望遠レンズの先に映るのは、総務大臣の私室。
カーテンの隙間から、スーツ姿の男たちが葉巻をくゆらせる姿が見える。
橘の黒い噂を追い続けて数か月。
その背後に、総務大臣の影があることまでは掴んだ。
リゾート開発会社――共三。
暴力団系の三芳建設。
地方議員の立花。
そして、総務大臣。
四つの名前が線で繋がった。
だが、例の村の殺人事件との関係は、まだ裏が取れない。
(きっと、何かある……この線は地蔵丘へ続いてる)
決定的な証拠さえあれば――そう思った瞬間だった。
「荒木さん、ですか?」
背後から声。
振り向くと、いつの間にか一人の男が立っていた。
黒いシャツに黄色いネクタイ、緑のジャケット。
スラリとした体躯、そしてどこか芝居がかった笑み。
まるで、あの漫画に出てくる“怪盗三代目”そのものだった。
「……あんた、誰だ」
男は軽く肩をすくめ、口元を歪める。
「実はね、あなたに“買って”ほしい情報がありまして」
そう言って差し出したのは、プリントアウトされた一枚の紙だった。
荒木が受け取り、視線を落とす。
――息を呑む。
そこに印字されていたのは、立花・共三・三芳建設の三者間で交わされた裏取引の一部記録。
しかも総務大臣の名まで記されている。
「……こいつは、どこで」
男は唇の端を上げた。
「ご挨拶代わりですよ。もし興味がおありなら
――もっと“上質な商品”もご用意できます」
軽く笑いながら、荒木の反応を観察するその目は、
獲物を値踏みする商人のようでもあり、
警察にも裏社会にも属さない異質な者のそれでもあった。
荒木は一瞬考え、ポケットから名刺を取り出した。
「ここでこれ以上の話はやめておきましょう。もしよかったら、今夜――この店に」
差し出された名刺には、“黒薔薇 黒江”の文字。
男はそれを見ると、軽く笑い、
「……いいでしょう。では今夜、二十五時に」
とだけ言って、屋上の出入口へ向かった。
「待て、名前は?」
足を止めた男が振り向き、片手を上げる。
「――イースト」
その名を残し、ビルの影へと消えた。
荒木の頭に、その名がこだまする。
イースト――それは、怪盗三代目が物語中で名乗った偽名のひとつだった。
「格好まで真似てたってことは……」
風が吹き抜ける屋上で、荒木はカメラを下ろした。
レンズの向こう、総務大臣の部屋のカーテンが静かに閉じられた。
ーーーーー
深夜一時、黒薔薇のカウンターはいつになく静かだった。店のネオンが消え、外の喧騒が遠ざかるころ、四つの影だけがそこに集まっていた。
黒薔薇のママ――黒江。
フリーライターの荒木。
情報泥棒を名乗る男――イースト。
そして、昼は業務用ラジコンの営業、夜は覗き屋をやるという佐々木。
「……あんたの顔、どこかで見た気がする。あの村でラジコンヘリのデモをやってた奴だろ」
荒木が淡々と切り出すと、イーストは肩をすくめた。
「悪い、俺がしくじった。共三のビルで仕事してるところを見られちまってな。接触されてた」
少し間を置いて、男は自己紹介めいた口を開く。
「俺は佐々木。怪盗三代目が大好きでね。あの奴にはガンマンとサムライの相棒がいただろ? 俺はどっちでもないが、自分なりの方法で怪盗の“相棒”になりたいだけなんだ」
「しかし、ここに集まった面子。盗聴に、覗きに、泥棒か⋯ひどいな」
イーストの軽い嘆息に、黒江は冷たい笑みを返す。
「さてイーストさん。あんたの情報を買う前に情報のすり合わせをしようか」と荒木。
グラスのビールを飲み干すと、淡々と話し始める。
「まず事の起こりは代議士立花が舎弟である井上から埋蔵金の話を聞いたことに始まる。
金が欲しい立花はなんとしてもその埋蔵金を手に入れたいが、埋蔵金のあるはずの洞窟の入り口はがけ崩れで埋まっていて入れない。
下手に重機でも持ち込めばバレてしまう。
そこで橘と繋がりのある三芳建設と、共三からリゾート開発の話を持ちかけた。
そうすれば重機で穴を掘ったところで怪しまれもしない。
埋蔵金がどのくらいあるかは分からないが、仮に千両箱一つでもあればその価値は1億円以上。
さっそく土地の買収を行うが途中で問題が起こり殺人事件が発生。
ってのが今の段階で俺が掴んでる情報だ、まあ一部想像も入ってるが」
イーストが一枚のプリントをカウンターに並べる。
荒木が視線を落とすと、喉から手が出るほど欲しかった、裏付けに必要な断片がそこにあった。
橘、共三、三芳建設――裏取引の痕跡。総務大臣の名はまだだが、つながりははっきりしている。
「そこまでわかってるならこの情報、思ってたほどの金額にはなりそうもねぇな」
イーストは指先で紙を弾くように動かし、続けた。
「赤字確定のリゾート計画。それでも工事をやるってことは、元が取れる以上の“何か”があるってことよ。埋蔵金か、あるいは掘ったあとにこの土地には問題があることが分かったから中断すると言うつもりなのか。どっちにせよ、普通の金じゃ説明つかない」
イーストはにやりと笑い、ポケットから小さなテープレコーダーを取り出して再生ボタンを押した。薄いノイズの中、先刻盗んだというあの会話が流れる――公共事業にすり替え、土地収用法で一帯を押さえる、という台詞が。
テープが止まる。黒江の表情が引き締まる。
「最低ね」
唇を噛むように、黒江が言った。
「こんな汚い金が、私の店にも落ちてるかと思うと身の毛がよだつわ」
「俺は潰すぜ、こんな話」
イーストの声には、怒りと期待が混ざっている。
「知っちまったからにはな。泥棒にも矜持ってもんがある。俺は泥棒だ。だが、汚え奴らの金は許せねえ。奪って、使って、綺麗な金に変えてやるよ」
「手伝いますよ」
佐々木(=ラジコンの男)が前のめりに言う。技術と機動力は確かな武器になる。
荒木が割って入る。
「俺が週刊誌でぶち上げる。記事になれば向こうが火消しに必死になって、こっちに手が回らなくなるはずだ。リスクは高いが、うまくいけば隙が生まれる」
黒江はしばらくグラスの縁を見つめていたが、やがて小さく頷く。計画は即決ではなく、慎重な段取りが必要だと知っている。情報を撒くタイミング、相手の狼狽、そして“盗む”ための隙――すべては呼吸を合わせねばならない。
「決まりね」
黒江が言うと、場の空気が静かに引き締まった。
「イースト、動くのは記事が載った週刊誌が発売されるまで待ってくれ」
荒木の言葉に、イーストは笑って肩越しに答える。
「分かったよ。向こうがあたふたしてりゃ、俺が盗みに入る隙も生まれるってもんだ。じゃ、記事の露出を楽しみにしてるぜ」
四人はそれぞれの役割を胸に、夜の銀座のカウンターで杯を傾けた。表向きは人影の薄い店の片隅だが、そこに生まれた連携はやがて村の運命を大きく揺り動かすことになる──まだ誰も知らぬままに。
ーーーーー
朝の書店はまだ人がまばらだった。
週刊誌の新刊が並ぶラックの前で、荒木は目当ての誌名を探す。
『――ない。』
指先が空を切る。
背表紙を一冊ずつ確かめても、自分の記事が載ったはずの号はどこにもない。
「……おかしいな」
荒木はすぐに公衆電話へ走った。
ダイヤルを回し、編集部に繋ぐ。
「荒木です。おい、どういうことだ。あの記事――載ってねえぞ」
受話器の向こうで、慌てたような声が返る。
「あっ、荒木さんですか。えっと……あの記事、実は上から……」
「上?」
「ここだけの話、社長の指示で……急に差し替えになったんですよ」
短い沈黙。
それを破ったのは、受話器のカチリという音。
「……クソッ」
荒木は壁を殴った。
大臣か、橘か。あるいは共三、三芳建設。
どいつなのか分からんが、奴らの手が、こんなところにまで回ってやがる。
そのとき、背後から声がした。
「あんたが荒木さんか?」
反射的に振り返る。
だが、その瞬間にはもう、腹の奥に熱い何かが突き刺さっていた。
「……っ!」
喉の奥から息が漏れる。
見ると、胸元から真紅の雫がこぼれ落ちている。
「あなたは――知りすぎちまったんだよ」
低く笑う声。
荒木の視界がぐらりと傾き、通りのざわめきが遠くなる。
どこからともなく悲鳴。
人々が集まり始める気配。
崩れ落ちた荒木の前に、ひとりの男が駆け寄った。
「おい、大丈夫か!」
本田主哉――。
偶然その場を通りかかった刑事だった。
「……刑事さん、ですか。ちょうど、よかった」
荒木は震える手で、ポケットからフロッピーディスクを取り出した。
「これを……頼みます」
「なんだ、これは」
「事件の真相が、そこに。俺をやったのは……きっと橘か……三芳の連中です……口封じ……です……」
「しゃべるな! おい、救急車はまだか!」
主哉の声が響く。
だが、荒木の口元からこぼれたのは、血と微笑だった。
「……俺は、もう……駄目だ。あとは……頼みましたよ……刑事さん……」
最後の言葉とともに、手が力なく落ちる。
主哉は握っていたフロッピーを見下ろした。
指先に伝わるのは、血のぬくもり。
そのディスクこそ――
のちに「神の意」を生む原罪であった。
ーーーーー
――テレビのアナウンサーの声が、乾いた部屋に響いた。
主哉は手にしたカップ酒を止め、無言で画面を見つめる。
「続いてのニュースです。静かで平和な村で痛ましい事件が発生しました。
遺体はこの家に住む神代隆さんと妻の君枝さん、長女の楓さんとみられており、現在、身元の確認が進められています。
遺体には鋭利な刃物による複数の刺し傷があり、警察は殺人事件として捜査を開始しました。
また、この家の長男と連絡が取れなくなっており、警察では何らかの事情を知っているものとして行方を追っています。」
アナウンサーの声が淡々と続く。
主哉の指先が、小さく震えていた。
――神代。
あの村の、あの屋敷。
テレビの中の映像に、無数のカメラのフラッシュが走る。
白いシートで覆われた担架。
泣き崩れる村人。
それらが主哉の網膜を焼き付けた。
「……まさか橘か。荒木だけじゃない。土地を手に入れるために一家皆殺しかよ」
胸の奥で何かが軋む。
荒木が命を懸けて託したあのフロッピー。
そこに記されていた“地蔵丘”という名が、主哉の脳裏に浮かぶ。
偶然ではない。
これは――仕組まれた殺人。
橘たちは、計画の障害となるものを、まるごと消した。
主哉はゆっくりと立ち上がり、机の引き出しを開けた。
そこには、荒木の血が乾いたフロッピーが一枚。
主哉はそれを見つめながら、低く呟いた。
「……おい、神様よ。あんた、本当に見てるのか?
――人の恨みが、どこまで深いかを」
部屋の外では、蝉の声が遠くに響いていた。
ーーーーー
白い花に囲まれた祭壇の前で、香の煙が細く立ちのぼる。
荒木の遺影は穏やかに笑っていた。
その笑顔が、なぜか主哉の胸を刺した。
――「えっ、捜査から手を引け?」
今朝、上司にそう告げられた。
突然だった。理由の説明もなく、ただ一言。
「もうこの件からは外れろ」
あまりにもタイミングが良すぎる。
荒木が殺された直後。
そのうえ、神代家が一家皆殺し。
偶然なんかじゃない。
荒木が言った通りだ――「口封じ」。
だが、橘一人にそんなことができるわけがない。
警察の上層部にまで手を回せる何者かがいる。
この事件は、もっと深いところで繋がっている。
香典袋を差し出しながら、主哉は目を閉じる。
心の奥で、ひとつの決意が固まっていた。
(あのフロッピーの中に、事件の真相がある。
それを見てしまったら、もう俺も戻れねぇ)
葬儀を終えて外に出ると、雨が降っていた。
灰色の空の下、主哉は傘をささずに歩く。
雨粒が頬を叩くたび、何かが少しずつ削れていく気がした。
「……覚悟、決めるか」
そして苦く笑う。
「あぁ、面倒くせぇな」
ーーーーー
【同夜:主哉の部屋】
部屋にはカップ酒の空き缶と煙草の煙だけが漂っていた。
主哉は無言で、机の上のフロッピーディスクを手に取る。
あの日、荒木が血の中で差し出したもの。
“事件の真相がそこにある”――その声が、耳の奥で反響した。
古いデスクトップの電源を入れると、低いモーター音が唸り出す。
蛍光灯の白い光が、疲れた男の顔を照らした。
「……これが、俺の平凡な生活との別れか」
モニターの画面が明るくなり、
カーソルがチカチカと点滅を始める。
主哉はゆっくりと、フロッピーを差し込んだ。
ーーーーー
窓を叩く強い音で、勇次は寝間着のままカーテンを引いた。夜風に乗って泥の匂いが入ってくる。外に立っていたのは一馬で、顔は血に汚れていた。唇に人差し指を当て、小声で合図する。
「――黙って、今すぐ中に入れろ」
驚きと先端の冷たさが胸に走る。勇次が合図に従って窓を開けると、一馬は部屋の中に飛び込み息を切らしたように背を壁にもたせかけ、短く息を吐いた。
「お前、いったい――」
「今、お前ん家、大変なことになってる」
言葉を飲み込み、勇次は震える手でランプの紐を引いた。裸電球の下で、一馬の顔が不気味に見える。血の匂いと土の匂いが混ざっている。
「……ああ、知ってる。みんな、殺された。俺も――井上に捕まって殺されかけたが、なんとか逃げてここまで来た」
勇次の喉が詰まる。楓の笑顔、柔らかな手の感触。記憶が一気に押し寄せる。
「黒幕は井上と橘だ。このまま生かしておけねえ。勇次、有り金全部貸せ」
一馬は風呂敷から古びた和綴じの一冊を取り出した。表紙は擦り切れ、墨の文字はかすれている。達筆過ぎて判読しにくい行が続くが、ページの真ん中に、かすかな一節が残っていた。
『…恨みの賽銭、五六銭を怨みの涙に濡らして賽銭箱に納むれば、神代わりに恨みを討つべし…』
勇次はその一節を指で辿る。意味が頭に入るたび、体中に鳥肌が立った。
「何これ……」
「ある神社の古文書だ。神社を隠れ蓑にして、恨みを晴らす――っていう伝承の類だ」
一馬の声が低く震えた。
「前に確かめに行ったことがある。神社は実在した。境内の石碑にも、同じ文が刻んであった」
「だからって……本物だって証明にはならないだろ?」
「保険だよ」一馬は苛立ち混じりに笑った。
「もし本物じゃなかったら――俺が奴らをぶっ殺してやる。それで終わりだ」
勇次の胸に、楓への思いが熱く込み上げる。言葉が震え、唇が割れそうになる。
「俺も行くよ。一馬。俺も楓さんの敵を討ちたい……好きだったんだ」
その告白に、一馬は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに顔を崩して小さく笑った。
「……知ってたよ」
夜の居間に、二人の決意が静かに落ち着いていった。畳の縁がザラリと足の裏に当たる感触。外では虫の声が厳かに響き、東の空にはまだ暗い星が残っている。
二台のバイクがエンジンを唸らせ、闇の道へ飛び出した。ヘッドライトが夜の田舎道を白く切り裂き、ふたりの影が後ろへと引き伸ばされる。灯りのない村の闇に、彼らの目的だけが鈍くきらめいて消えていった。
ーーーーー
主哉は物思いにふけりながら神社への石段を登っていた。
大物がいるとは思っていたが、まさかの大臣かよ。
吐いたため息が白く曇って宙に消える。
「こんな面倒くさい仕事押し付けやがって。
ったく、恨むぜ。荒木さんよ」
早朝の神社は、冬のように冷えていた。
境内の灯りはひとつもなく、差し掛けの白い陽光だけが参道を照らしている。
その静寂を破ったのは、怒声だった。
「いい加減にしろッ! 金は賽銭箱に入れたんだ、さっさと“仕事”しろよ神主!」
一馬の荒い声が境内に響く。
賽銭箱の前で神主の胸ぐらを掴み、詰め寄っていた。
「落ち着きなさい、神に意を問うのです。どんなことにも順序というものがある」
「そんな悠長なこと言ってられるかッ!」
後ろから、その間に主哉が割って入った。
「――一体、どういうことだ」
朝日に照らされたその顔は疲れ切っているが、目だけは研ぎ澄まされていた。
「本田刑事……なんでこの神社に?」という勇次。
ブレーキのかからない一馬が更に叫ぶ。
「この神社はな、頼み人の恨みを晴らす“闇神社”なんだよ」
一馬が古文書を投げつける。
パサリと落ちた紙束を拾い上げた主哉が、眉を寄せる。
「……また随分と年期の入った古文書だねぇ」
その背後から、ひらりと何かが飛んできた影が主哉の手の中の古文書を奪った。
「面白そうな話だねぇ、俺にも聞かせてくれねぇか」
イーストが宙に溶け込むように現れ、古文書を読みながら薄く笑った。
「お前……」
主哉が警戒すると、イーストは肩をすくめる。
「荒木の知り合いさ。
あいつがあんたに託した“魂”、どう扱うのか……見届けようと思ってね。ちょいと尾けさせてもらった」
そのとき、神主が静かに口を開いた。
「皆さん、中へどうぞ。お話はすべて伺いましょう」
ーーーーー
「そうでしたか、そんな事が...」
事件のあらましを聞く神主が、静かに目を閉じる。
そして何かの声を聞いたかのように立ち上がると、部屋の奥の襖を開いた。
そこには別世界が広がっていた。
古い祭壇。
松明の光に照らされて並ぶ、数々の“三方”。
「……これは」
主哉が思わず声を漏らした。
「定規、けん玉、コマ、かんざし……三味線のバチまであるのかよ」
イーストがひとつひとつを拾い上げては苦笑する。
神主は深く頷いた。
「これらは、過去の“恨みの代理人”が仕事中に命を落とした際の形見――
彼らの魂を神の御本へと導く為、この神社に祀っております」
「恨みの……代理人……?」
「人が社会を作って数百年。
時に名を変え、姿を変え、制度を変え――
“恨み”を背負って悪に挑む者たちは、いつの時代も裏に存在し続けました」
神主は寂しそうに笑った。
「中には心半ばに命を落とす者も少なくなく、ここには今も多くの意思が宿っております。
ですがご覧の通り、いまここには誰もおりません。
恨みを受けても、晴らす者がいないのです」
その言葉に、主哉が祭壇へと歩み寄る。
「何かに呼ばれた気がするぜ」
手を伸ばすと、ひとつの物が吸い寄せられるように掌に収まった。
――警棒。
振った瞬間、“ジャキン” と伸びる音。
だがグリップを捻ると、後部から鋭い刃が飛び出した。
神主が語る。
「それはかつて、一人の刑事が使っていた“処刑具”です。
法律の届かぬ悪人を、神の意の下で断罪した――」
主哉がゆっくりと警棒を握りしめた。
「あの世も地獄、この世も地獄。
人間ってのは、生まれてから死ぬまで一度も悪サしねぇ奴なんていやしねぇ。
だから“線”を引いた。それが法律だ。
……でもよ。
その線を踏み越えても裁かれねぇ悪党がいる」
照りつけるような眼光で神主を見据える。
「俺はそいつらが許せねぇ。
神様が“裁け”と言うなら――
……手伝ってやるよ、俺は」
一馬も立ち上がる。
「俺もだ。家族を殺した奴ら、野放しにできねぇ」
勇次も拳を固める。
「俺も……楓さんの恨みを討ちたい」
イーストは楽しげに手を叩いた。
「お祭りかい? じゃあ俺にも一枚噛ませてくれよ。泥棒にも泥棒の矜持ってやつがあるんでね」
そこへ、草履の音がして――黒江が現れた。
「それが荒木から託された魂への答えなんだね? 刑事さん」
主哉は頷いた。
「ああ」
「なら、そのお祭り。あたしも混ぜてもらおうかね」
主哉が制止する。
「やめとけ。銀座のママができる仕事じゃねぇ」
黒江は微笑むと、手首の動きも見えない速さで――
“シュッ”
飛針が柱に突き刺さった。
「レディース時代、“キラービー”と呼ばれた私の腕だよ。まだ文句あるかい?」
全員が息を呑む。
次の瞬間――誰ともなく笑った。
そして六人が向かい合ったその場で、眠っていた力が再び動き出す。
恨みの神社……
久方ぶりにその名を取り戻し、“恨討人”――ここに復活す。
ーーーーー
カセットレコーダーがカチリと鳴り、
薄いノイズのあと、男たちの会話が流れ始める。
『本当に埋蔵金なんてあるのかね』
『間違いねぇ。俺の曾祖父さんが洞窟から千両箱ひとつ持ってきたって話だ。古文書も地図もある』
『その肝心の洞窟はがけ崩れで土砂の下』
『ふさがれたのは入り口だけだ。中は無事なはずだ。それに――まだ千両箱が十箱以上残ってる。となりゃ、かなりの金額になる』
『……頼むぞ。選挙活動も、ただじゃないんだ』
場の空気が重く沈む。
黒江はテーブルに肘をつき、吐息とともに吐き捨てるように言った。
「――これが、そもそもの動機ってわけさ」
ゆっくりと視線を上げ、主哉と一馬、勇次、イーストの顔を順に見渡す。
「埋蔵金欲しさに、選挙資金のために……
合法的に重機を使えるよう、リゾート会社と建設会社まで巻き込んだ。
村の未来なんてどうでもよくて、自分たちの腹を満たすために」
黒江の声には、銀座の表と裏を見ている女だけが持つ
“諦め”と“怒り”が同時に乗っていた。
「……まったく、笑えない茶番だよ」
黒江はカセットのストップボタンを指で軽く叩く。
「リゾート計画なんてただの隠れ蓑。
本命は埋蔵金。
そのために村ひとつ壊して、人のひとりやふたり、殺すことなんて、あの連中にとっちゃ誤差みたいなもんなんだ」
そして、主哉の目を真っすぐに見据えて言う。
「――だからこそ、潰す価値があるんだよ。刑事さん」
静かな空気が流れる中、主哉がゆっくりと口を開いた。
「……神代家を殺ったのは、おそらく三芳建設だろう」
顔を上げた一馬と勇次に、主哉は続ける。
「三芳は高須本系の暴力団企業だ。
橘の汚れ仕事を引き受けるとすればそこしかねぇ。
工事が絡むってなら、なおさらだ」
黒江が静かに頷く。
「ってことは、的にするのは――」
「……神代家を殺した実行班」
「三芳建設の部長」
「共三の社長」
「代議士の橘」
黒江が目を細め、最後に口にした。
「そして――総務大臣・武蔵ね」
一瞬、場の空気が凍った。
政治家、それも大臣。
もはや村の事件どころではない。国家レベルの闇だ。
主哉が警棒を握り直し、低く呟く。
「……デカい仕事になりそうだな。やれるか?」
勇次も一馬も、迷いなく頷いた。
「やるよ」
「やらなきゃ、家族に顔向けできねぇ」
黒江は、艶のある声で微笑む。
「銀座で育った娘を舐めてもらっちゃ困るね。
やりようはいくらでもあるさ」
そこでイーストが立ち上がった。
緑のジャケットの裾が、ライトを受けて揺れる。
「じゃあ、“探り”は俺がやってやるよ」
唇にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「三芳、共三、橘、武蔵……四者の動きは全部追って、繋がった瞬間に連絡する。
そしたら――舞台の幕が開くってわけだ」
そう言うと、イーストはまるで煙のようにスッとその場から消えた。
黒江が肩をすくめる。
「相変わらず、派手に現れて派手に消える男だねぇ」
神社の奥に、静かに灯が揺れた。
――恨みの社が再び動き始めた瞬間だった。
ーーーーー
「こうなったら、なりふり構ってる場合じゃねぇ。
さっさと掘って、さっさと撤収するぞ」
夕暮れ間近の地蔵丘に数台の重機が唸りを上げる。
三芳建設の部長と作業員、井上、そして代議士・橘。
すでに薄暗い山の中に、重機の灯りが怪しく揺れていた。
「ここを掘れば、すぐに洞窟が顔を出すはずだ」
井上が興奮して笑った、その背後――。
ザシュッ。
井上の腹から、ゆっくりと刀身が突き出した。
「……な、に……?」
血が地面に落ちるより早く、井上は前のめりに崩れた。
振り抜いた刀を握る男――一馬。
蔵から持ち出し、研ぎ澄まして磨き上げた日本刀。
刃には、夜の光を吸ったような鈍い光が宿っている。
「自分の欲のために……俺の家族を……許せねぇんだよ!!」
一馬が闇雲に叫び、刀を橘へ向けて突進する。
「襲撃だ! やっちまえ!!」
三芳の男たちが一斉に飛びかかるが、その前に立ったのは――勇次。
パァンッ!
夜気を裂く金属音。
勇次の持つ鉄扇が大きく開き、鋭利に研がれた天の黒光りする刃が三芳の男たちを切り裂いた。
舞うような身のこなし。
だが、その刃は狂気の鋭さで肉を断ち、血を散らす。
「……これが、俺の舞いだ」
静かに呟く勇次の目は、涙とも雨ともつかぬ濡れ光を帯びていた。
「最後は……お前だッ!! 死ねぇッ!!」
橘へと刀を振り下ろす一馬。
その刃を止めたのは――井上だった。
胸から血を流し、半死半生のまま立ち上がり、手にした鎌で一馬の背を刺し貫いていた。
「……あ……?」
一馬の身体が大きく揺れ、血が口元から溢れた。
次の瞬間には勇次の鉄扇が閃き、井上の首を跳ねた。
井上は最後の力で鎌を引き抜き、崩れ落ちる。
逃げ出す橘。
勇次は走りながら鉄扇を投げた。
シュッ――!
刃が飛び、橘のふくらはぎの腱を切り裂いた。
「ぎゃあああああ!!」
地面に転げ落ちる橘へ、一馬がよろめきながら歩く。
「逃げ……られると思うな……」
血に濡れながらも、刀を構えた。
橘が悲鳴を上げる。
「や、やめろ……! 私は……!」
「なんか、面白くねぇんだよ……
だからよ……閻魔様の前で、もう一発殴ることにするわ……」
橘の胸に、刀が深く沈んだ。
橘は絶命した。
次の瞬間、一馬の身体が崩れ落ちた。
「一馬!!」
勇次が駆け寄る。
一馬の腹からは血が止めどなく流れ、瞳が揺れていた。
「……勇次……お前は、逃げろ……
家族を殺された復讐で……俺が殺ったでケリがつく……
だから……お前は道連れにはしねぇ……」
「黙ってろ! 今すぐ救急車を――!」
「……無駄だよ……分かるさ……自分の命の終わりくらい……」
勇次の目が滲む。
一馬は少し笑った。
「……なあ勇次……もしお前が将来死んで……
あの世で姉さんに会ったら……言っといてくれ……」
「…………」
「一馬は地獄に行った……
一緒の場所に行けなくて……ごめんって……」
勇次はその手を強く握る。
「そんな優しい奴が……地獄なんか行けるかよ……」
その言葉を聞き、一馬は微笑んだまま――息絶えた。
空が震えるような音を立て、冷たい雨を勇次の頭上に落とし始めた。
勇次は振り返らず、ただ前を向いて歩いた。
浴びる雨が、血の匂いをゆっくりと洗い流していくのがわかる。
だが、心の中の血だけは......一滴たりとも薄まらなかった。
ーーーーー
黒江。
銀座の頂点に立つ女にして、かつて“キラービー”と恐れられたレディースの総長。
彼女の築いた情報網は今もなお、夜の街全体に根を張り続けている。
彼女はそれを、こう呼ぶ。
──「働き蜂」
夜のホステス、スナックの女将、タクシー運転手、宅配便の兄ちゃん、
挨拶ひとつするだけで情報を落としていく常連客たち。
その誰もが、彼女の“蜜”に惹かれ、自然と情報の運び手になっていた。
「総長……はっきり聞きました。あの3人が神代家を襲ったやつらです。
あれ、高須本組の下っ端っす」
黒江は静かに頷いた。
「そうかい。……ありがとうね。
もう帰りな、これ以上は関わるんじゃないよ」
「いえ、総長の指示があれば私だって――」
黒江は微笑んだ。
それは慈母のようでいて、同時に刃のように冷たい微笑み。
「それをやっちまったら、私は人間失格さ。
さあ、帰りな。……生きる道を間違えないようにね」
その娘は頭を下げて去っていった。
黒江はいつもの華やかな着物ではない。
夜の影に溶ける黒のパンツスーツ。
風に揺れるロングの黒髪。
その眼差しは“銀座のママ”ではなく、
かつて“キラービー”と恐れられた族社会の捕食者 のそれだった。
「さて……仕事といこうかね」
月明かりの下の繁華街を、3人の男の後をつける。
いくほどもなく、3人は人通りのない裏路地へと曲がった。
それを狙って黒江の手首が、わずかにしなる。
シュッ……!
3本の飛針がほとんど音もなく放たれ、男たちの首筋、肩、背に的確に刺さった。
「……いってぇ、虫かよ」
「刺しやがった蚊か!?」
「気のせいだろ、行くぞ」
男たちは歩き去る。
誰ひとり、背後で黒江が糸を引いて針を回収したことに気づいていない。
彼らが知らないのは――
その針の先端に、ごく少量の遅効性毒が塗られていること。
明日の朝、彼らは全員ベッドの上で静かに息絶える。
急性心不全。
表向きは綺麗な“自然死”。
けれどそれは、かつて暴走族の時代に“キラービー”=殺人蜂と呼ばれた女の
敵対するチームは潰して通る、無慈悲で正確な殺し技だった。
黒江はひらり、とスーツの袖を直し、
「……任務完了」
そう呟いた声は夜風に消えた。
ーーーーー
共三本社──最上階の社長室。
重厚な革張りの椅子に、ひとりの男が落ち着かない様子で座っていた。
「どうなっている……?
三芳とも橘とも連絡がつかん。井上も……まさか……?」
額から汗が滴る。
沈黙した電話。
返ってこないメッセージ。
焦りはすでに恐怖に変わっていた。
そのときだった。
すっ──。
背後に現れた気配が、次の瞬間には男の口を冷たい手で塞いただ。
「……お静かに」
囁き声は驚くほど穏やかで、
まるで恋人に耳元で囁かれたかのような柔らかさすらあった。
「先日、夜中にお邪魔した者です。覚えてますかねぇ……“泥棒”です」
社長の目が大きく見開かれた。
忘れようにも忘れられない。
防犯ベルが鳴り響いたあの夜。
誰も姿を確認できなかった“影”。
イーストは社長の耳元で静かに続けた。
「ひとつ……忘れ物をしてしまってね」
冷たい金属が首筋に触れた。
「あなたの命、もらって行きます」
プシュッ──
サイレンサーの絹を裂くような、何とも言えない“静かな音”。
銃声とは思えぬほど小さく、控えめで、しかし確実に致命的な音。
社長の身体が、椅子にもたれかかるように沈んだ。
イーストはすぐに手を離し、まるで帳簿でも閉じるかのような淡々とした仕草で、拳銃をコートの内側にしまう。
「……これで貸し一つ。
あーあ。俺は泥棒であって、人殺しじゃねぇっての」
ポケットから煙草を取り出すが、火をつける前に握りしめ、そっとしまう。
「──人の血で手を汚すのは、これっきりにしてほしいねぇ。
聞いてるかい? 神様よ」
独り言のように呟くと、イーストは窓際に歩み寄り、外を見下ろした。
都会の深夜。
ネオンの海。
誰も見ていない闇。
次の瞬間、彼の姿はまるで最初からそこにいなかったかのように、ひっそりと消え失せた。
社長室の窓の外──
地上へと伸びる排気ダクトの縁に、黒い影が滑るように落ちていった。
イーストは再び、下水道へと帰っていく。
あの夜と同じように。
泥棒の矜持を胸に抱いたまま。
ーーーーー
正午の大型ビジョンから流れるのは、サングラス姿がトレードマークの司会者が仕切る国民的お昼のバラエティ番組。
お茶の間も、街ゆく人も、いつもの“昼”の空気に浸っていた。
──そのとき。
画面が突然ブラックアウトした。
音が消え、司会者の声も、観客の笑い声も途切れる。
ざわ…
街に不穏な空気が流れる。
次の瞬間。
荒木が撮った写真が映し出された。
・立花と三芳建設幹部
・総務大臣・武蔵と暴力団
・共三社長との密会
・封印されていた帳簿の一部
そしてその写真の背後に流れる音声は──
絶対にテレビで放送されることなどあり得ない、
彼らの“闇の会話”。
『あの件か……まだ首を縦に振らんのか。出す金額が少なすぎるんじゃないのか?』
『いえ。代々の墓があるそうで、どうしても譲らんと』
『なら簡単だ。公共事業にすり替えればいい』
『公共……事業、ですか?』
『そうだ』
『リゾート開発の計画書に“自然公園整備事業”をかませる。
公共の利益に資するという名目を立てれば、土地収用法で一帯の土地を“合法的に”収用できる』
『……なるほど。土地を“買う”必要もなくなる』
『そういうことだ』
『あとは地元の理解をどう取り付けるかだな。まあ、それも君ならうまくやるだろう』
『ありがとうございます。ではお礼は、いつもの通り――献金として、例の企業から』
『ふふ、政治家とは面倒な職業だ。金のやり取りにも、こうして“遠回しな道”を通らねばならん。ただ君の方でも保険をかけておきたまえよ』
『承知しております。鉄砲玉もすでに用意済みで』
モニターの音声が新宿の大音量スピーカーに乗り響き渡った。
「なにこれ……ドラマ?」
「いや、本物じゃねぇか……?」
「大臣の声じゃねえか!!」
新宿は一瞬で沸騰した。
世論は秒で炎上し、永田町には各局のマスコミが雪崩れ込んだ。
ーーーーー
永田町の高級マンション。
武蔵大臣は、カーテンの隙間から集まるマスコミを睨みつけ、震える手で電話をかける。
「……私はしばらく姿を隠す。
ああ、いつもの別宅だ。準備して裏口に車を回しておけ……今すぐだ!」
コートを掴み、乱れた息のまま部屋を飛び出す。
階段を下り──
地下への通路を抜け──
逃走用の裏口へ向かったその先に。
ひとりの男が立っていた。
黒いコートと、冷めた目。
「武蔵大臣ですね。こういう者です」
主哉は淡々と手帳を見せた。
「……刑事か。
今忙しい、話なら後日に──」
「いえ、すぐ済みます。大事な伝言を預かってまして」
主哉がゆっくりポケットに手を入れる。
大臣の背筋が一瞬だけ震えた。
「なにを──」
ガシャッ!!
音を立てて伸びる伸縮式警棒。
だがその後部から飛び出したのは、本来あるはずのない“刃”。
その刃が、寸分の狂いもなく武蔵の胸を突き刺した。
ドスッ。
武蔵の息が止まる。
主哉は耳元で静かに呟いた。
「橘からの伝言だ。
──『先に地獄で待ってる』とよ。早く行ってやんな」
武蔵の身体が崩れ落ちる。
床に倒れた大臣。
響くのは、遠くの記者たちの叫びだけ。
主哉は血の一滴も浴びず、
静かに背を向けた。
「……面倒くせぇ仕事だった」
そのままコートの襟を立て、誰にも気づかれぬよう昼間の群衆の中に溶けていった。
ーーーーー
都心の高架下。
夜風に煙草の煙が流れる。
主哉とイーストが並んで立ち、その足元には新聞の夕刊がひらひらと転がっていた。
主哉が新聞を拾い上げる。
『武蔵大臣死亡 階段踏み外し事故か 事件性なし』
『橘代議士と建設関係者死亡 一連の事件は単独犯行、神代家長男の復讐か』
主哉は乾いた笑いを漏らした。
「……全部、一馬が一家殺された復讐で殺ったことにして、綺麗サッパリ幕を下ろすつもりだな」
イーストはポケットからミントを口に入れながら、肩をすくめる。
「ああ。そうなるだろうぜ。
なんせ俺が“警視総監室”にメモ紙一枚置いてきたからな」
「お前……まさか」
「“次は大臣と警察幹部の密談テープも公開するぜ”って、伝言だけ残してきた。
あいつら、腰抜かしてたぜ?」
主哉は思わず笑ってしまった。
「お前の仕業だったのかよ。……助かるぜ」
イーストは軽くウインクする。
「まあな。なんせ正義の味方じゃなくて“大泥棒”だからよ。
落とし前の付け方は、任せろっての」
少し間を置いて、主哉がふと思い出したように言う。
「そういえば……あのお昼番組ジャックしたの、誰だ?」
イーストがニヤッと笑った。
「あれ? 佐々木だよ。
昼の12時きっかりに全国ネットを乗っ取るなんて芸当、あいつしかできねぇよ」
主哉は煙草を踏み消しながら呟く。
「……大泥棒の相棒には、ぴったりじゃねぇか」
「だろ?」
二人はしばらく黙って立ち尽くした。
風が吹き、夕刊の紙面が揺れる。
記者が求める真実でも、警察が発表する真実でもない。
この国が選んだ“落とし所の真実”は──全部、橘のせい。
それで世間は納得し、大臣も警察幹部も助かり、事件は“終わったこと”になる。
イーストが空を見上げた。
「……いいじゃねぇか。本当に悪い奴らは、地獄に送った」
主哉も空を仰ぐ。
「一馬も、きっと文句は言わねぇよ」
二人の視線は、夜の街に溶けていった。
ーーーーー
神主は祭壇に新たに二つの三方を置いた。
そこに置かれたカメラと日本刀。
神主が祈りを捧げる。
あなたの下へ二人の者が旅立ちました。
彼らは神の意に従った者たちです。
せめて奈落に落ちることのないようお導き下さい。
ーーーーー
舞台は、いつもの公園。
夕暮れの光がベンチの背もたれを染めている。
主哉が飲み終わった缶コーヒーを軽く放る。
カラン──
見事、くずかごのど真ん中。
「……それが、今の“恨みの神社”の始まりの話だ」
志乃はじっと主哉を見つめていた。
普段のクールな目ではなく、少しだけ翳りのある、
年相応の柔らかなまなざし。
「そうだったのね……
名を変え、システムを変え、人が社会を築いてから紡がれる恨みの系譜。
なんか……やりきれない話ね」
主哉はポケットに手を入れたまま、軽く首を振る。
「でも救いがないわけじゃねぇよ。
少なくとも──アイツらは、そう思ってるはずだぜ」
志乃は問わない。
主哉の“アイツら”が誰を指しているのか、もう分かっていたからだ。
主哉の脳裏に浮かぶのは──
カメラを握って死んだ荒木。
家族を守れず、でも最後まで兄として踏ん張った一馬。
時代の闇に消えた多くのメンバーたち。
そして今も、彼の周りに生きている仲間たち。
“世代を越えても人の恨みは消えることなく、恨討人もまた受け継がれる。”
主哉がふ、と息を吐いたその時だった。
ブォォォ──ン
公園の入り口から一台の車が入ってくる。
ド派手なキッチンカー。
側面に描かれた巨大な文字。
『たこ焼き屋 マサ』
「よっ、相棒! 見てくれよ!」
ドアを開け、満面の笑みのマサが顔を出す。
「知り合いが辞めるってんでよ、安く譲り受けてきたんだ!
これで“たこ焼き屋マサ”、今まで以上に出張サービスできるぜ!」
腕まくりしながら、さっそく鉄板に油を引く。
ジュワワァァァッ──!
油の弾ける懐かしい音。
ソースが焦げる匂い。
串で転がされる生地のリズム。
主哉と志乃は、その光景を眺めながら微笑む。
「……時代は変わるもんだな」
「ええ。変わらないものもあるけどね」
志乃がそう言った瞬間、主哉は思わず頬を緩めた。
油の香りの中で、主哉は静かに感じていた。
あの日の仲間たちから受け取った“恨みの灯”が、今も脈々と生き続けていることを。
マサが差し出した熱々のたこ焼きを受けとりながら、主哉は空を見上げた。
この世は地獄。
だが──それでも、守りたいものはある。
そして今日もまた、恨討人の物語は“明日”へと紡がれていくのだった。
ーーーーー
夕方の光が境内を斜めに照らす頃。
静寂を破るように、鳥居の下からひとりの男が歩いてきた。
黒のジャケットの裾が揺れ、足取りは軽いのに、どこか影をまとっている。
神主が手を合わせながら微笑んだ。
「──お久しぶりです。いつお戻りになられたのですか?」
男は片手をひらひらと振る。
「先週帰国したばかりだよ。
本社にシステムの定期メンテナンスをしにな。
今日は久しぶりに弟子の顔でも見にきたってわけさ」
その声を聞きつけ、神社の奥から顔を出した人物がいた。
「……なんだよ、師匠。今ごろインターポールに追われて海外逃亡中じゃなかったのかよ」
「俺を捕まえられる奴なんていねぇよ。なんせ俺は“大泥棒”だからな」
「赤いジャケットはやめたのかよ」
「知らねぇのか?今のトレンドは黒なんだぜ」
軽い調子で笑う男──イースト。
かつての “神の目” の初代統括。
アナログとデジタルの橋渡しをし、「神の社」アプリを生み出した功労者。
隼人は呆れ半分、尊敬半分の目を向ける。
「で……主哉も勇次もいねぇ、と。なんだよ全員留守って」
神主が穏やかに答えた。
「主哉さんは裏の仕事に向かわれました。勇次さんはは──里帰りです」
「里帰り?……ああ、あの村か。アイツも律儀な男だよ、まったく」
イーストは神社の奥へ進むと祭壇の前で両手を合わせ、懐かしむように目を細めた。
祭壇の三方の上に置かれたラジコンカー。
「俺の相棒になるって言ってた奴が、あの後あっさりと別な仕事で死にやがって」
そして
「──ま、たまにはこうやって、“歴史の始まりの場所”を見に戻るのも悪くねぇな」
ーーーーー
日が山に沈みかけ、丘の上をオレンジ色に染めている。
「……それじゃ、一馬。来年また来るぜ」
軽く笑ってみせたが、
目の奥に宿る色は優しさと痛みの混じったものだった。
勇次は墓の横にそっと腰を下ろした。
「楓さん。
あの世で会えたとき、好きだったってことを胸張って言えるよう──精一杯、生きるよ」
立ち上がり、供え物を片づけようとしたとき──
ふと、供えたカップ酒が、開けてもいないのに少し減っているような気がした。
勇次は苦笑した。
「一馬、お前……あの世に行かないでまだここで飲んでやがるのか。
それとも──閻魔様に追い返されたか?」
その瞬間。
ひゅう、と優しい風が丘を駆け抜けた。
草を揺らし、線香の煙をふわりと撫でる。
それはまるで一馬の返事のように......。
勇次は空を見上げる。
「……ああ、分かってるよ。ずっと見ててくれ」
そして、背を向けて歩き出した。
その背中は、大切なものを抱えたまま、新しい時代へと踏み出していった男の背中だった。




