第十話 向けられた刃のありか〜神威の止まり木〜
夜更け。蛍光灯の青白い光の中、工具と基板が散乱している。
凛が半田ごてを握り、咲はモニターに映る回路図をチェックしていた。
「ねぇ、凛。もう三時だよ。さすがに今日は寝よ」
「あとちょっと、GPSの遅延さえ詰められれば完成なんだって!」
パソコンの冷却ファンが唸りを上げる。
凛の目の下にはうっすらクマができていた。
咲は大きなあくびをして、リビングへ。
「小腹すいた。なんか食べよっか」
「うん。あ、冷凍たこ焼きあったはず」
二人で電子レンジを回しながら、なんとなくテレビをつける。
深夜番組――『朝まで生討論!特集:高齢者ドライバーと免許返納問題』
「……またこれか」
凛が画面を見ながら呟く。
年配のコメンテーターが声を荒げている。
> 『高齢者にだって自由がある! 免許を取り上げるのは人権侵害だ!』
『でも実際、75歳以上のドライバーが引き起こす死亡事故は若年層の2倍ですよ!』
「若年層の2倍……って、マジ?」
咲がスマホを手に取り、検索しながら言う。
「ほんとだ。警察庁の統計……75歳以上の死亡事故率、他の世代の2.5倍」
「うわ、それで“自由”とか言われてもなぁ」
凛が生温かいたこ焼きを頬張りながらぼそっと言う。
「でも、もし自分のおじいちゃんがそうだったら……返せって言える?」
「……うーん」
二人の間に沈黙が落ちる。
テレビでは“責任能力”という言葉が繰り返されていた。
> 『認知症と診断された運転者は“責任を問えない”。つまり刑事処分の対象外なんです』
「責任を問えない……って、誰が裁くんだろ」
「誰も、だよ。だから“恨み”が残るんだよ」
凛のその言葉に、画面の中で“恨み”という単語が反響した気がした。
その瞬間、二人のスマホが同時に震える。
> 『神の社:新着依頼』
たこ焼きが、テーブルの上でゆっくりと湯気を失っていく。
冬の夜が、静かに次の“神威”の幕開けを告げていた。
ーーーーー
翌朝。
占見野神社の境内には、まだ冬の朝靄が立ちこめていた。
主哉、凛、咲、黒江が揃って社務所に集まる。
勇次とセナは、それぞれの仕事先からスマホでリモート参加していた。
卓上には温められた湯呑みと、昨夜からの疲れが残る空気。
神主が静かに口を開いた。
「――夜明け前に、依頼者が五六銭を賽銭箱に納められました」
全員の視線が一斉に神主へと向かう。
隼人がノートパソコンを操作し、防犯カメラの映像を再生した。
夜明け前の神社。
賽銭箱の前に一人の男が立っていた。中年、やつれた顔。
両手を合わせる代わりに、硬貨を五枚と十円玉を六枚、ゆっくりと落とす。
「これがその時の映像です」
無言のまま、全員が画面を見つめていた。
凛が口を開いた。
「この人……見たことある。ニュースで出てた。
“高齢者ドライバーによる死亡事故の遺族”……って」
その言葉に、皆が顔を見合わせる。
あぁ――と頷く声がいくつも重なった。
映像の中の男は、カメラを見上げるようにして口を開く。
嗄れた声が、スピーカー越しに流れた。
「あの人は悪気なんかなかったんだ。けど……俺の娘はもう帰ってこない」
その一言で、空気が一瞬にして重くなった。
男は深く頭を下げ、そのまま画面の外へと消える。
神主が小さく息を吸い、説明を続けた。
「――亡くなられたのは、二十八歳の女性。
通勤途中、横断歩道で信号待ちをしていたところを、
認知症の疑いがある八十六歳の男性が運転する車に撥ねられ、即死。
加害者は重度の記憶障害を理由に不起訴処分……
遺族は裁判で闘うことも叶わず、今日、ここに来られたようです」
凛が小さく呟く。
「……責任能力なし、ってやつね」
咲が唇を噛んだ。
「誰も裁かない。誰も責任を取らない。
でも“殺された”事実だけは、残るんだよね」
主哉は黙って腕を組んだまま、映像の止まった画面を見つめていた。
無言の瞳の奥に、煙のような感情が揺れる。
「……裁けねぇ罪ってのは、いつだって厄介だ」
彼の声に、誰も言葉を返せなかった。
冷たい冬の光が、賽銭箱をかすかに照らしていた。
ーーーーー
昼下がりの神社。
社務所の一角に設けられた「神の目」用のモニタールームで、隼人が椅子を回転させながらキーボードを叩いていた。
無数のウィンドウが画面上を駆け抜け、文字列が雨のように流れていく。
「警察庁のデータベース、侵入完了。……事故記録、出た」
隼人の指先が止まる。
モニターに並ぶ文字列の中に、何度も繰り返される「接触事故」「物損」「人身なし」の文字。
「これは......“偶然”じゃないね」
隼人は新しいウィンドウを開く。そこには整備工場の修理履歴。
フロントバンパー、ドアパネル、サイドミラー......小さな修理の履歴が十数件。
年月の経過とともに間隔は短くなり、直近半年では三件。
「......軽微な事故、繰り返してた。
でも警察には報告なし。多分、家族が庇ってるんだろうね......」
咲が眉をひそめる。
「庇うって、黙ってたってこと?」
「そう。修理だけして、“転んだ”“ぶつけられた”で済ませてた。
......で、これ」
隼人が次に出したのは、自治体の介護申請データ。
妻は介護疲れによるうつ病。
息子は数年前に免許返納を迫り、絶縁。
そして、近隣住民からの匿名通報記録。
『危ないと思っていた。けど、本人が怒鳴るので何も言えなかった』
凛が椅子にもたれ、天井を仰いだ。
「……このケース、誰が本当の加害者なんだろ」
咲が静かに答える。
「おじいさん? それとも止められなかった家族? 何も言わなかった周り?」
「もしかして……社会全体、かもね」
その言葉に、隼人は無言で頷いた。
マウスを握る手が止まり、モニターには高齢ドライバー事故のグラフが映し出される。
棒グラフの上に数字が並ぶ。
“75歳以上運転者による死亡事故率:他年齢層の約2.5倍”
“操作ミス・ブレーキ踏み間違い:全体の47%”
「……データは残酷だよな」
隼人の声が低く響く。
咲がふと呟く。
「責任能力のない老人を殺すことが、“正義”なのかな」
凛が視線を落とし、小さく言った。
「殺しても、誰も幸せにはならない。
でも……何もしなかったら、また誰かが死ぬ」
その言葉が部屋に沈んだまま、
モニターの冷たい光が彼らの顔を照らしていた。
ーーーーー
昼下がりの公園。
冬枯れの木々の間を抜ける風が、たこ焼き屋の暖簾を揺らしていた。
鉄板の上では油がじゅうじゅうと音を立て、ソースの甘い匂いが漂っている。
主哉は紙舟を受け取り、たこ焼きを一つ口に放り込んだ。
「……アクセルとブレーキの踏み間違い自体は、若者でもやるらしいぜ」
熱々を頬張りながら、ゆっくり言葉を続ける。
「でもそれが事故につながらないのは、“間違いに気づいてリカバリーできるかどうか”の違いらしい」
マサが千枚通しを置き、眉をしかめた。
「確かにな。ブレーキ踏んだつもりでアクセル踏んで、エンジンがフケたらびっくりするかもな」
主哉が頷く。
「それで“間違えた”と気づくのが若者。
年寄りは――ブレーキを踏んでる“つもり”のまま、エンジンの音だけが上がっていく。
『ブレーキが壊れた!』って、思い込むらしい」
マサは静かに鉄板の火を弱めた。
「......年寄りにハンドル持たせる社会の方が罪じゃねぇのか?」
主哉は空を仰ぎ、煙草代わりのハッカ棒をくわえた。
「かといって、誰も引導を渡せねぇ......家族も、国も、逃げた結果がこれだ」
マサは黙って頷くと、ソースを刷毛で塗りながら呟いた。
「......結局、誰も悪者になりたくねぇんだな」
風が吹き、湯気とソースの香りが空へと溶けていく。
二人の言葉は交わらないまま、
けれどその沈黙が――まるで『神威の矛先』を決めかねているかのようだった。
ーーーーー
長谷川源蔵、八十六歳。
かつては町工場の社長として名を馳せた男だった。
鉄の削り粉にまみれ、昼夜問わず旋盤を回し続けた日々。
自分の手で金属を削り、形を与えることに誇りを持っていた。
だが数年前、工場は閉じた。
取引先の廃業と、機械の更新に追いつけなかったことが原因だった。
それでも源蔵は最後まで、社員を一人も解雇せず、退職金を全額払って工場をたたんだ。
“職人の意地”――その一言が、彼の生涯を支えてきた。
それだけに、老いが忍び寄ることを、何よりも恐れた。
物忘れが増え、道を間違え、工具の名前すら出てこなくなる。
医者には“認知症の初期段階”と診断されたが、彼は耳を貸さなかった。
車だけは手放さなかった。
毎朝エンジンをかける音が、彼の“生きている証”だった。
町の誰もが「もう危ない」と知りながらも、誰も止められなかった。
妻は介護疲れで心身を壊し、息子は免許返納を迫って絶縁。
それでも源蔵は、ハンドルを握るたびに“自分を取り戻す”気がしていた。
記憶が薄れていく。名前を忘れる。昨日の飯も思い出せない。
けれど、クラッチの感覚だけは――まだ身体が覚えている。
“機械は裏切らない”と信じて生きてきた彼にとって、車は最後の友だった。
そしてその日も、いつものようにエンジンをかけた。
違ったのは――ブレーキとアクセルの踏み間違い。
ほんの一瞬の錯覚が、少女の命を奪った。
源蔵の記憶の中では、今もなお――
「ブレーキが壊れた」
その一点だけが、繰り返し再生され続けている。
ーーーーー
夜明け前の冷気がまだ残る時分、占見野神社の土間に小さな輪ができていた。
神主の額には疲労の影。壁際には神具が無造作に置かれ、蛍光灯の白が冷たく空間を照らす。
「神は罪を問わぬ者にも罰を与えるのでしょうか」
神主の声は、問いかけでもあり祈りでもあった。空気が重くなる。
主哉はじっと神主を見返し、短く吐き捨てるように言った。
「てめぇで責任を取れねぇなら、生きていてもしょうがねぇだろうが」
その言葉の余韻を切るように、志乃が前へ出る。表情は強いが、声には抑えた悲しみが混じっていた。
「確かにあの老人はもう“人としての機能”を失っている……だからといって、殺すより救う方が罪深いかもしれない」
空気が二つに割れる。誰もが答えを持たず、ただ角度の違う痛みだけ抱えていた。
「――刃を向けるべきは“人”なのか、それとも“制度”なのかな」
咲が小声で呟く。言葉は鋭く、しかし誰も即答はできなかった。
主哉が険しい顔で提案した。
「本人を一度見てみようぜ。それで神威を実行するか否か決める。いいよな、元締め」
神主はしばらく沈黙し、やがて頷いた。
「まずは“見る”。私が許可します。恨討人の仕事は、神の前で決めること。姿を見ずに裁くことを、神は望まないでしょう」
主哉がハッカ棒を口に咥えた。
ーーーーー
訪れたのは市街外れの小さな介護付き住宅だった。
薄い朝霧が建物の廊下を湿らせ、窓の向こうでは駐車場に古いシルバーカーと、年季の入った車がポツンと停まっているのが見えた。
源蔵は室内の窓際、夕陽のように退色した革張りの椅子に腰掛けていた。
手元にはサイズの合わない軍手と、小さなアルバム。
廊下を足音立てずに進み、主哉たちは部屋の前で立ち止まる。
志乃がそっとノックすると、かすかな返事。扉がゆっくり開き、そこに座る老人の顔が現れた。
白髪、深い皺、だが眼の奥にはまだ火が残っている。
源蔵――長谷川源蔵、八十二歳。彼はゆっくりと立ち上がり、ぎこちなくも礼をして見せた。
「いらっしゃい」声は紙の上を擦るように掠れていた。
だが、誰に対しても失礼のない、昔の社長の口調がわずかに滲んでいる。
志乃が本題に入る。やわらかく、しかし芯のある声で言った。
「長谷川さん……私たちは、あの時のことを知りたくて来ました。あなたに問いたいことがあるんです」
源蔵はアルバムをそっと膝に置き、手が震えるまま頁をめくった。そこには、鉄にまみれた職人たちの写真、若き日の源蔵の笑顔、そして古びた工場の全景が並んでいた。指先は機械の写真で止まる。まるでその金属の匂いを探しているかのようだ。
「車はな……」彼の声が途切れ、目は遠くを見た。 「車を取られたら、俺は死んだも同然だ。工場がなくなった時に、もう何もかも失った気がした。だから……だから、手放せなかった」
主哉が距離を詰める。近くで見る源蔵の瞳は、戸惑いと恐怖と誇りが混じり合っている。直接的な悪意は感じられない。皮膚の下で、別の痛みが蠢いている。
「覚えてますか、あの日のことを?」主哉の声は低く、しかし押し付けるようではない。
源蔵はゆっくりと首を振った。唇が震える。
「覚えていない。ブレーキを踏んだつもりだった。いや、踏んだんだ。ブレーキが効かなかった。あの音だけが……植えつけられて離れねぇ」彼の声は途切れ、次の言葉が息の裏で消えた。
沈黙が深まる。主哉の額にうっすら汗がにじんだ。誰もが、加害の事実と被害者の怒りに挟まれている。
志乃は源蔵の手を取り、静かに言った。
「あなたが悪気を持ってやったとは、私には思えません。だけど、その結果で誰かの命が奪われたのは事実です。私たちは、それをどう扱うかを決めなければならない」
ーーーーー
再び神社で行われた話し合い。
主哉が鋭く言う。
「被害者の血は戻らない。だが、ただ“殺せば終わり”ってほど、ことは単純じゃないだろ」
「制度に責任はないのかな?」咲の問いは誰にでも向いていた。
介護システムの脆弱性、家族の逃避、地域の無関心——刃を向けるべきは個人か、社会か。
主哉は源蔵の顔を思い出し、ゆっくりと首を振った。
「ここで即断するやつは、だいたい二種類だ。感情任せに殺すやつ、もしくは紙の上で正義を語るやつ。
......俺はどっちも嫌いだぜ」
彼は警棒に手をかけ、指先を確かめるように滑らせる。
空気が張りつめたまま、神主が立ち上がる。
「我らは神に代わって裁く者。それだけに間違いは許されません。
まずは真実を掘ること。故に、私は命じる。――この男を、ただの“目撃”ではなく“証拠”として見よ。
記憶の薄れる者に、ただ憤るだけでは神の意に背きます」
その言葉に、皆がうなずいた。判断は急がぬ。まずは“見る”こと、そして“掘る”こと。
源蔵に対する報復を決めるのは、その後だ。
主哉は立ち上がり、低く一言。
「分かった。まずは証拠を固める。家族の扱い、行政の対応、全部洗い出す。
見せてもらおうぜ、制度の顔ってやつを。
......もしもそれが単なる事故で済ませられていたなら、俺たちの刃は別の矛先へ向く」
志乃は手をそっと握りしめ、目を見据えた。
「彼がどう生きてきたかは、私たちが判断するものではない。
だが、誰かが“守らなかった”事実に目を向ける責任は、私たち全員にある」
外の空がわずかに白み始めていた。決断の時間はまだ来ていない。だが、刃先の在りどころをめぐる議論は動き出した――個人の責任と制度の責任、情と正義のはざまで。
主哉は静かに息を吐き、仲間たちに向かって言った。
「いいか。まずは掘る。証拠を積み上げる。で、その先で神威を使うか決める。それが今回の流儀だ」
一行は部屋を出る。
誰のためでもない......自分のために。
そして、まだ何かを刻み続けるかのように。
廊下を出ると、志乃が主哉にだけ小声で囁く。
「もし神威を行使するなら……私たちが“誰を裁く”のか、自分たちで恥じない覚悟を持たないと」
主哉は黙ってうなずいた。答えはまだ出ない。だが、刃は動き出している──向ける先を探しながら。
ーーーーー
その夜――。
町の空は、曇りの切れ間から月がのぞいていた。
風のない、異様に静かな夜だった。
長谷川源蔵は、介護施設の裏口から外へ出た。
誰に止められるでもなく、ゆっくりと、しかし迷いなく歩いていく。
薄手の作業服の上着を羽織り、胸ポケットには折れたボールペンと、古いメモ帳。
「寝てる暇はない……明日までに納品しなきゃならんのだ……」
かすれた声が、暗い道に溶けていく。
足取りはふらついていたが、本人にとっては工場へ向かう“いつもの出勤”だった。
街灯の下で立ち止まり、しばし虚空を見上げる。
そこには、もう存在しない――かつての自分の工場があった。
鉄の匂い、機械油の音、部下たちの笑い声。
それらが幻のように蘇り、彼は思わず笑った。
「間に合う……まだ間に合うんだ……」
視線は焦点を結ばず、車のヘッドライトをただ白い光の帯としか捉えていなかった。
信号もない交差点を、源蔵は迷いなく横切る。
その瞬間――。
急ブレーキの音と、乾いた衝突音。
運転手の悲鳴が夜の静寂を切り裂いた。
源蔵の身体はわずかに跳ね、アスファルトの上に静かに倒れ込んだ。
彼の手から滑り落ちたのは、油染みのついた古いメモ帳。
そこには震える文字で、こう記されていた。
「納期 明日朝一 山崎金属」
彼は最後の最後まで、“仕事をしているつもり”だった。
老いた頭の中では、まだ旋盤の音が鳴っていたのかもしれない。
警察の報告には、“即死”とだけ記された。
眠るような穏やかな顔で、長谷川源蔵、八十六歳。
彼の“最後の納品”は、誰にも引き取られることはなかった。
ーーーーー
朝のニュースが流れるリビング。
トーストの香ばしい匂いと、薄暗いテレビの光が混じっていた。
凛と咲は、まだパジャマ姿のまま、並んでソファに腰を下ろしている。
『昨夜、〇〇市内の県道で八十六歳の男性が車にはねられ死亡しました。
男性は痴ほう症の症状があり、夜間の徘徊中だったと見られています……』
アナウンサーの声が淡々と続く。
画面の隅に映る、破損した眼鏡とメモ帳。
咲はスプーンを止めた。
「……神様が罰を与えたのかな?」
呟きは、湯気のように消えていく。
凛は少し間を置いて答えた。
「運命なのか、神罰なのか……生きている私たちには、どんなに考えてもわからないことだよ」
二人の間に、静かな沈黙が落ちた。
ニュースのテロップだけが、淡く揺れていた。
ーーーーー
依頼者の家。
朝刊を取りに出た男は、ポストに違和感を覚えた。
新聞の間に、茶封筒が一枚、無造作に差し込まれていた。
差出人のない封筒。
封を切ると、そこには短く、丁寧な筆致で一文。
『神威は見送られた』
中から転がり出たのは、五六銭。
あの夜、賽銭箱に入れたはずの硬貨だった。
男は一瞬、何が起きたのか理解できず、
次の瞬間、玄関先に崩れ落ちた。
涙が、何のために流れているのかも分からなかった。
怒りなのか、安堵なのか、あるいは神への感謝なのか――
ただ、胸の奥が熱く痛んだ。
ーーーーー
いつもの公園。
朝の陽が差し込み、ベンチの上に白い湯気。
鉄板の上では、マサがたこ焼きを返している。
「……今回は“殺さなかった”のか」
主哉が湯気の向こうから呟く。
マサは黙って手を止めた。
主哉は、たこ焼きをひとつ箸でつまみ、
少し冷ましてから口に放り込む。
「……神が殺させなかったんだろ」
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
風が吹き抜け、どこからか雪虫が一匹、白く漂っていく。
主哉の視線が、その小さな命を追った。
まるで誰かの魂が、静かに昇っていくようだった。
空は高く、冬の匂いが近づいていた。
例えば、75歳以上の運転者による死亡事故は令和元年には約401件、80歳以上では224件に上っている。
痴呆・認知症運転者が原因で“責任能力なし”として不起訴になった事故件数という形での全国統計は公開されていない。
しかし、認知症運転と刑事責任の判断が問題となった実例は、すでに複数報告されている。
つまり――認知症運転という一点において、すでに多くの“裁かれない事故”が起きているのだ。
その“恨み”が、次にどこへ刃を向けるのか。
私たちは、ただ見届けるしかないのかもしれない……。




