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第九話 夢想花は夜に咲く《後編》

夜の神社には、湿った土と木々の匂いが漂っていた。

凛と咲、それに志乃が石段を上りきると、拝殿の明かりに照らされた二つの影が目に入る。


白い布に包まれた赤ん坊を抱く菊花。そしてその傍らに立つ神主。


「……アクロバティックさらさら」


咲が小さくつぶやいた。

凛も目を見開き、かつて屋上で見た女の姿と重ねる。あの時、確かに追手を一瞬で始末していた。

だがそれは、ただの逃走劇ではなかったのだと理解する。


神主は二人の視線を受け、静かに口を開いた。


「そうです……実のところ、今この神社はとんでもなく厄介な事に巻き込まれています。彼女…菊花ジュイファーと、この赤子もです……」


志乃は眉をひそめ、菊花に一歩近づいた。

短く言葉を交わすと、彼女は無言でスマホを取り出し、どこかへ電話をかける。


数秒後、受話口から応答があり、志乃の表情がきりりと変わった。


「……分かりました。手配をお願いします」


通話を終えると、彼女は振り返り、皆に告げた。


「この赤ん坊は外務省の保護を受けることになったわ。もし何かあれば裏の国際問題に発展する。逆に、うまく事が進めば、この国に莫大な利益をもたらす……それほどの存在よ」


言葉の重さに、凛と咲は息をのんだ。

ただの依頼者の子供ではなく、国家の未来に関わる存在――。


志乃は胸元の定規をそっと握りしめ、真剣な瞳で告げる。

「この仕事……恨討人としてだけじゃない。国家公務員としても受けさせてもらいます。何としても、この二人を国に送り届けなければならない」


その言葉には、一切の揺らぎがなかった。


夜の神社に漂う冷気の中で、志乃の決意だけが鮮やかに燃えていた。


ーーーーー


街外れの廃ビル。


割れた窓から吹き込む夜風に、酒と煙草の臭いが淀んでいた。鉄骨むき出しの一角をたまり場にした半グレたちは、投げられた札束に一斉に目を輝かせる。


「帯付きの百万だ……マジかよ」

「やるしかねえな」


札束を放ったのは、異国の言葉を話す男だった。鋭い眼光で集団を見回し、低い声で命じる。


「女はどうでもいい。殺しても構わん。だが……赤ん坊だけは生け捕りにしろ」


さらに懐から一枚の写真を取り出し、半グレリーダーの胸元へ突きつける。


それはスーツ姿で写る男――本田主哉の顔だった。


「女と赤ん坊は、この男が匿っている可能性が高い」


無表情な声に、半グレたちはざわつく。


「刑事じゃねえのか、こいつ……?」


すると、その中の一人が不意に「本田のおっさんじゃねえか」と。


「知っているのか?」という問いに


「はい、この辺の不良たちの間じゃ、面倒見が良い刑事ってことで顔も知られてます。あんまり真面目な刑事じゃないんで、よくたこ焼き屋とか神社でサボってるのを見ますけど」


「その神社が怪しいんじゃねえか?」

「へっ、上等じゃねえか。俺らで狩ってやる」


笑い混じりの返事がいくつも返り、半グレは夜の街に散っていった。


その夜、占見野神社を包む静寂は、不意に破られた。


境内の奥から響く嬰児の泣き声を合図にしたかのように、複数の影が鳥居を飛び越えてなだれ込んでくる。


「チッ……来やがったな!」

主哉が即座に身を翻し、背に隠した警棒を抜く。

マサは鉄串を逆手に構え、志乃は定規を指の間に滑らせる。


神主は姉妹を促し、菊花と赤ん坊を本殿奥へと避難させる。

「急げ、奥へ!」


襲いかかる半グレは十数人。粗暴だが数で押してくる。

主哉は一撃で二人をなぎ倒しながらも、歯噛みした。


「殺せば早えんだがな……。仕事以外じゃ殺せねぇし、こいつらガキじゃねぇか」


マサも同意するように叫ぶ。

「ああ、いくら悪ガキでもカタギを殺るわけにはいかねぇよな!」


だが、数は圧倒的。次第に押し込まれ、拝殿前に追い詰められる。


その時――。


乾いた靴音が、石段を踏みしめながら近づいてきた。

境内に姿を現したのは、長身の男。

鋭い目を細め、口元に不敵な笑みを浮かべていた。


「……久しぶりだな。間が悪いのは相変わらずか?」


主哉の目が見開かれる。

「タケシ……!」


「なんだテメェは、あいつらと一緒にかられてぇのか!」

二人の半グレが鉄パイプを手にタケシに殴りかかろうとするが、裏拳によって瞬殺される。


「なんだコイツら、まとめてやっちまってもいいのか?」

「ああ、ただし殺すなよ」

「大丈夫だって、加減はするからよ」


そのセリフを聞いた半グレたちは、互いに顔を見合わせると、嘲り笑いを一瞬で引っ込めた。

ざわめきは動揺へと変わり、次の瞬間には蜘蛛の子を散らすように退いていく。


半グレの影が消え、静まり返った境内に、夜風が再び吹き抜けた。

遅れて聞こえる赤ん坊の泣き声が、かえってこの場の緊張を際立たせていた。


ーーーーー


主哉は大きく息を吐き、目の前に立つ男を睨むように見上げる。


「……相変わらずナイスなタイミングで戻ってきやがる」

そう言って、軽く肩を小突いた。


タケシは肩を竦め、口元に笑みを浮かべる。

「お前に言われたくはねぇな」


「で、あの後どうしてたんだよ」

主哉の問いに、タケシは一瞬空を仰ぎ、静かに語り出した。


「現地で昔の傭兵仲間を訪ねたんだ。そこで人数を揃えて、神威の対象になってた組織を壊滅させるのに、ちょっと手こずってな……」

淡々とした口調の裏に、幾つもの修羅場をくぐり抜けた重さが滲む。


「それから日本に戻ろうとして、タイからベトナム、そして香港へ抜けたんだが……そこで厄介事に巻き込まれた。その過程で、“老龍”と呼ばれる男と知り合った」


主哉の眉が動く。

「老龍?」


「ああ。香港の裏社会じゃ知らぬ者はいない古狸だ。その男から頼まれた――日本にいる孫娘が狙われている、と。孫娘を守ってほしいとな」

タケシの目がわずかに険しくなる。

「それで急ぎ日本へ戻ってきた」


主哉は苦笑し、視線を境内の奥にやる。

「それはちょうど良かったな。……その“絡み”のトラブルに、俺たちも巻き込まれてたところだ」


二人は本殿の奥へ足を向ける。

扉を開けると、そこには菊花と、布に包まれた赤ん坊が身を寄せ合うように隠れていた。


主哉が指し示す。

「この赤ん坊が、お前に守るよう頼まれた孫娘の子。そして、彼女――菊花がその護衛だそうだ」


タケシの目が大きく見開かれる。

「……ってことは……肝心の孫娘本人は?」


「分からん。ただ、現場に死体があったという話は聞いてない。逃げて潜伏してるか、あるいは捕まったか……」


タケシは奥歯を噛み、拳を握った。

「どちらにしても、俺はもうこの件に関わっちまった。恨討人の外で動かせてもらうぜ」


その時、奥から神主が現れた。

厳かな声が、静かな本殿に響く。

「その件ですが――本社から返答がありました。この依頼、受けるようにと」


一瞬の沈黙の後、神主はさらに言葉を重ねた。

「……恨討人を、全員を招集いたします」


その宣言は、神社の闇を震わせる鐘の音のように響いた。


ーーーーー


廃ビルに戻った半グレたちは、血走った目で外国人組織の前に立ち塞がった。


リーダー格の男が、憤怒を押し殺した声で吐き捨てる。


「あんな用心棒がいるなんて聞いてねえぞ!」


冷ややかに見下ろす中国人リーダーは、肩をすくめただけだった。

「……予想外のこともある」


「ふざけんな! だったら最初からテメェらでやりゃ良かったんじゃねえのか!」

怒声と共に胸ぐらを掴みにかかる半グレリーダー。


しかし次の瞬間、鈍い音と共に冷たい銃口が胸元に押し当てられた。


パン、と乾いた銃声。

リーダーの身体が大きく仰け反り、力なく床に崩れ落ちる。


「っ……!」

仲間たちの叫びが、ビルの埃っぽい空気を震わせた。


中国人リーダーの部下たちも一斉に拳銃を抜き、容赦なく引き金を絞る。

銃火と火薬の匂いが瞬く間に広がり、半グレの数人が血を吐いて倒れ込んだ。


「あの男、やはりただ者ではなかったか…」

中国人リーダーは拳銃を懐にしまう。


「金はあの世でも必要だろう。そのまま持って行け」

吐き捨てるように言い残し、異国の一団はためらいもなく廃ビルを後にした。


やがて静けさが戻ると、呻き声を上げながら、数人の半グレが這い出すように立ち上がった。

「や、やべえ……あいつら躊躇なく撃ちやがった……」

「何人殺されたんだ?…生き残ったのは俺達だけかよ」

「ちくしょう……あの百万は山分けだ。しばらく姿をくらまそうぜ」


恐怖と欲の入り混じった声が交錯する。


その時――。

ビルの外から、低く唸るようなバイクのエンジン音が近づいてきた。

割れた窓の隙間から覗くと、街灯に照らされた黒い影が見える。


白いライダースジャケット。そして、ヘルメットに貼られたエンブレム。

「……あれは……ミラージュの……じゃねえか」


生き残りの一人が顔を青ざめさせた。

「誰だ、誰が着てやがる……」


「おい、いいから行こうぜ!」

「いや……過去の亡霊が出やがった……」


「お前の単車を貸せ!」

その男は血走った目で叫んだ。


「やばいって! もし俺らが生きてること、あいつらにバレたら……!」

「バレたら何だ? どうせ俺はもう終わりなんだよ。あのミラージュの亡霊を何とかしなきゃな!」


呻き声とともに立ち上がった男の足は、銃弾がかすめて血を流している。

それでも彼は狂気じみた目で言い放った。


「いいから貸せ! あの亡霊、またあの世に送ってやる!」


「……まさか。三年前、シルエットミラージュのリーダーが事故って死んだっていう、あれ……お前が?」


バイクの鍵を半ば奪うように受け取ると、男は血を引きずりながら出口へ向かった。

錆びた鉄扉が軋む音と共に閉じ、夜の廃ビルには再びエンジン音だけが響き渡った。


ーーーーー


さっきから、ずっと後ろに一台のバイクがついてきている。

こずえはバックミラーを覗き込み、口の端をわずかに上げた。


「……やっと釣れた?」


試すようにスロットルをひねる。エンジンが咆哮し、加速した。

それでも、背後のバイクは食らいつくように追ってくる。


「間違いない。釣れた」


幹線道路を突っ走り、やがてたどり着いたのは大垂水峠。

パーキングにバイクを停めると、追ってきた影もよろめきながら止まった。


息は荒く、ズボンには血が滲んでいる。

それでも追ってきた執念に、こずえは一瞬だけ感心した。

「こんな状態で……それほど、この“ミラージュ”の姿に執着してるのか」


男はふらつきながらも歩み寄り、声を荒げた。

「お前は一体誰だ! 何でそんな格好をしてやがる!」


こずえはゆっくりとヘルメットを外す。

夜気に晒された長い髪が肩に流れ落ちた。


男の目が大きく見開かれる。

「……お前、ミラージュのリーダーの女……!」


こずえの瞳が細められる。

「そういうあんたは誰さ」


男も震える手でヘルメットを外した。

そこに現れた顔を見て、こずえの声が低く響く。

「あんた……“悪鬼”のリーダー。確か、恭司」


「……ッ!」

恭司の声が怒りに震える。

「何を考えてこんな真似をしてやがる! ミラージュの亡霊ごっこか!」


こずえは静かに首を振る。

「違うよ。――釣りをしてたんだ」


驚く恭司に、こずえは胸のエンブレムとジャケットを軽く叩いた。

「この峠でリーダーを殺した犯人を釣り上げるためにね。餌はこれ。で……あんたは見事に釣り上げられたってわけさ」


「て、テメェ……!」

恭司は懐から折り畳みナイフを引き抜いた。


だが、こずえはわずかに冷笑を浮かべる。

「やめときな。そんなボロボロなあなたじゃ、私を殺れやしない。それより……走り屋は走り屋らしく、これで勝負をつけようじゃないか」


彼女の手が愛機のタンクに触れる。

「場所と時間はあんたに任せる。私に勝てると思ったら使いをよこしな。私は逃げも隠れもしないから」


そう言い残すと、ヘルメットをかぶり直し、峠を滑るように下っていった。


「ふざけやがって……!」

怒声を上げようとした恭司だったが、急に視界が揺れ、足元が崩れる。

力尽きた身体はその場に倒れ込み、意識は闇に沈んだ。


翌日。

病院のベッドで目を覚ました恭司は、酸素マスクを乱暴に引き剥がすと、ふらつく身体を引きずりながら廊下を歩き出した。

行き先は一つ――再び峠で待つ“亡霊”の女だった。


ーーーーー


昼時の探偵事務所。

木製のドアを押し開けた主哉は、中にいた二人の気配に足を止めた。


ソファに腰掛けていたのは、ライダースジャケットの女性。

その鋭い眼差しは火を宿していて、ただ者ではない雰囲気を漂わせていた。


「……すまんな、取り込み中だったかい」

主哉が軽く会釈をする。


カウンターにいた最上ルナが首を振り、穏やかに笑った。

「大丈夫、今ちょうど終わったところだよ」


女性は短く一礼すると、何も言わずに事務所を後にした。

だが、すれ違いざまに感じた気配に、主哉は眉をひそめる。


テーブルの上に湯気の立つコーヒーを並べると、ルナは本題に入った。

「で、わざわざ呼び出しって……要件はなんだい。こっちも中々忙しくてね」


彼女が差し出したのは、一枚の写真。

「この女性を探しているんだけど、何か心当たりある?」


写真を覗き込んだ主哉の目が鋭くなる。

「こいつ……菊花ジュイファーじゃねぇか。どこでこの写真を?」


「ある女性に頼まれてね。今、その女性の子供を預かっているはずの、この人を探しているんだ」


「なら心配いらねぇ。赤ん坊も一緒に、こっちで保護してる。……ってことは、そっちには老龍の孫娘がいるのか」


ルナの口元に意味深な笑みが浮かぶ。

「へぇー、そこまで知ってるんだ。だったら話は早いね」


彼女はさらに三枚の写真を並べた。

そのうちの一枚に視線を落とした主哉の顔が固まる。

「……こいつは……」


「その男は老龍の組織の幹部の一人、“ロン”って呼ばれてる。孫娘…って、こっちが保護してる人を探しに日本へ来たらしいよ」


「はぁ? 冗談じゃねえ。こいつ、この菊花を殺そうとしてやがったんだぞ。孫娘を探しに来たってのに、何でその護衛を狙う必要がある」


「そこがわからないんだよね」

ルナは静かに肩を竦めた。


「残り二人は清朝復権を企む組織の幹部と、日本に潜入している秘密警察のリーダー。……三つ巴の勢力ってわけさ」


「俺たちは、この二つの事はともかく、龍って奴の組織が老龍を狙ってる勢力だと睨んでたんだがな」


「それに関しては私たちも把握しきれてはいないの。ただ、本国経由でウチの司祭に《護衛の女》と《子供》の保護依頼が届いたのは確かだよ」


「……なるほどな。俺たちもその護衛の女から、赤ん坊の両親の捜索と、二人の護衛依頼を受けている。筋は通ってるな」


「そうなると、老龍側がなぜ孫娘の護衛を殺そうとしてるのか……それが見えてくるまでは、二人を会わせない方がいいかもね」


「ああ。俺たちの方でも探りを入れてみる。

……そうだ、赤ん坊は外務省の保護を受けることになった。近々迎えが来るらしい。時間がはっきりしたら、母親も一緒に保護してもらった方がいいかもしれんな」


ルナの表情に陰りが差した。

「それって……大丈夫かな」


「どういう意味だ」


「そんな動きになっているなら、清朝復権も秘密警察も、なりふり構わず力づくで来る可能性があるってこと」


「冗談じゃねえ……」

主哉は舌打ちしつつも、真剣に頷いた。

「だが心には留めておくぜ。

それよりさっきの女……死ぬ覚悟を決めた人間の気配がしてやがった…」


「……やっとかたきが見つかったから、今晩ケリをつけるんだって」

独り言のように呟くルナに、主哉が軽く肩をすくめた。

「まあ、放っておくつもりはないんだろ?」


ルナはコーヒーを口に含み、淡々と告げた。

「大丈夫。――最初から見捨てるつもりなんてないよ」


探偵事務所を後にした主哉は、日の光を鬱陶しく感じながら歩いていた。

その前に、影が立ちふさがる。


背の高い男。鋭い眼差しと威圧感を隠そうともしない。

ロンだった。


「――女と子供を、大人しく渡せ」

開口一番、低く響く声。


主哉は眉をひそめ、相手を値踏みするように見つめ返した。

「何で老龍の身内が、孫娘の護衛を殺ろうとする?」


「それを聞いてどうする」


「筋が通らねぇ話には、乗らねぇ主義なんでね」


龍はため息を一つつくと、仕方なさげに呟く。

「……あの女は、清朝復活を企む組織の人間だ」


「は?」

主哉は思わず声を荒げる。

「わけがわからんぜ。何でそんな奴が孫娘の護衛をしてるんだ」


龍の目がわずかに揺れた。

「こっちが聞きたいくらいだ。はじめからお嬢様に近づくのが目的だったのか……それとも、どちらにしても我々は子供を取り戻さねばならん」


主哉は肩を竦め、苦笑を漏らした。

「どっちにしても、今は渡せねぇな。あまりにも互いの話に筋が通ってねぇ」


龍の声が低く唸る。

「どうしてもと言うなら、力づくで奪うことになるぞ」


主哉はゆっくりと腰に手をやり、警棒を引き抜いた。 ガチャリ、と音が鳴り、仕込みの刃が飛び出す。

日の光を遮るような冷気が2人を包んだかのように思えた。


主哉は言う、

「こっちは仕事柄、一方の主張だけを聞いて物事を判断しねぇようにしてんのさ。――それが、表でも裏でもな」


火花を散らすように睨み合う二人。

しかし、やがて龍は視線を外し、短く吐き捨てる。


「……やめておこう。お互い、無事では済まなそうだ」

背を向けながら続けた。


「ひとまず子供はお前たちに預けておく。だが判断するなら早めにしろ。他の組織が二人に居場所に気付くのも時間の問題だ……もう猶予はないぞ」


その背中が闇に消えるのを見届け、主哉は額に手をやった。

「勘弁してくれよ……」


ポケットからスマホを取り出し、志乃に電話をかける。

「今、敵さんから接触があった。お偉方に言っといてくれ。お迎えは早めにした方がいい。……もしかすると、近々来客があるかもしれねぇ」


通話を切り、主哉は神社へと足を向ける。

夜風に吹かれながら、小さく呟いた。

「とにかく話を聞かんと始まらんな。……さっぱり筋妻が合わねぇ」


ーーーーー


恭司から指定のあった場所へ、こずえはバイクを走らせた。

夜の街道を抜け、人気のない空き地へ入る。


そこにはすでに、一台のバイクが待っていた。

艶やかな漆黒の車体――《ブラックロータス》。

その上に跨り、静かにこちらを見据える女。最上ルナだった。


「……私を止めに来たんですか?」

こずえの声は、風に溶けるように淡々としていた。


ルナは首を横に振り、微笑を浮かべる。

「止めないよ。復讐は誰もが持ってる正当な権利だからね」


「それじゃあ……何で」

問いかけに、ルナはゆっくりと口を開く。


「今からあんたがやろうとしていることは、ただの人殺しだよ。それはわかってる?」


こずえの瞳が揺れ、だがすぐに力強さを取り戻す。

「……わかっています。それでも、長年追ってきた敵をようやく見つけたんです。恨みを晴らせる今、もう止められません」


「だから、復讐を止めるつもりはないよって」

ルナは軽く肩を竦める。


「相手は仲間を集めてるかもしれないよ。一人で行くことがどんなに危険なことか分かってるよね」

「覚悟の上です」


「それで、なんだけどさ、一つ提案があるんだけど……聞いてくれる?」


その言葉と同時に、ルナの背後に複数の影が現れる。

セラフィム、セイレーン、他――聖列の面々だ。


彼女たちは一歩前に進み、静かに告げる。

「私たちはね、神の意思のもとに、法の裁きを逃れた悪党に正当な神罰を下す正義の剣。……わかりやすく言うと、復讐の代理人かな」


「復讐の……代理人?」

こずえが眉をひそめる。


ルナは真っ直ぐにこずえを見据え、問いかけた。

「ねえ、あなた、私たちの仲間にならない?」


「……私が? それは人殺しの仲間になれってことですか」


「そういうことじゃない」

ルナは首を振る。

「敵を討つって行為は、人の心を縛る鎖になるの。

個人の恨みに縛られるより“神の意の下に”って考えた方が……少しは気が楽にならない?」


こずえは首を横に振った。

「なりません。この恨みの感情は私のもの。他の誰にも奪わせないし、共有するつもりもない」


ルナは溜息をつき、だが微笑を崩さない。

「でもね、実を言うと――三年前にあなたの仲間から、もう仕事として“あれの始末”を受けてるんだ。だから私たちとしてはケリをつけなきゃならない。……あなたにあれを殺させるわけにはいかないのよ」


こずえの目が細まる。

「私があなたたちの仲間になれば……あなた達は仕事にケリをつけられて、私も復讐を果たせる。そういうことですか」


「そう。お互いにWin-Winじゃない?」


夜風が二人の間を吹き抜ける。

こずえは長い沈黙の後、静かに口を開いた。

「あいつは……恭司は、私が殺ります」


ルナは頷いた。

「大丈夫。止めないし、邪魔もしない。……誰にも邪魔はさせない」


こずえは視線を落とし、ヘルメットを抱きしめるようにして言った。

「……わかりました。その条件、飲みましょう。ただ――一夜限りです」


ルナの背後で、聖列の面々が頷いた。

こうして、聖列に一夜限りの正義の剣が加わった。


ーーーーー


大垂水峠の夜。

月明かりに照らされた山道の頂上で、二台のバイクがエンジンを震わせていた。


こずえの愛機はアールエス。

黒光りする車体が月光を反射し、まるで獲物を狩る獣のように息づいていた。

隣で、恭司のマシンも低く唸りを上げる。


「勝負は単純。頂上からふもとまで、先に着いた方が勝ち」

こずえの声は冷たく澄んでいた。


「ハッ……いいぜ。その代わり、負けた方は命を置いてけよ!」

恭司の笑みは狂気に染まっていた。


二台は同時に飛び出した。


山道を駆け下りる。

カーブごとにタイヤが悲鳴をあげ、ブレーキの焦げた匂いが夜風に溶ける。

ヘッドライトの光が闇を切り裂き、谷底へと流れていく。


その先の道端では、恭司の仲間がガソリン缶を抱え、路面に油をまこうと待ち構えていた。


「バイクが事故ったあとに火をつけりゃ、証拠も残らねえ……あの時みたいにな」


「……三年前も、そうやって殺したわけですね」


闇から現れたセラフィムがタロットカードを放つ。

刃のような光が走り、一人の首筋を切り裂いた。


もう一人が慌ててナイフを抜くが、突如耳を押さえてもがき苦しみだした。

セイレーンの喉が生み出す、人の可聴域をはるかに超えた超音波。それが脳に揺さぶりをかける。

その男は泡を吹いてその場に崩れ落ちた。


「舞台は整いましたね」

セラフィムが冷ややかに言い、セイレーンが静かに胸をなで下ろす。

「後は二人の決着を見届けるだけですね」


繰り返すカーブに、恭司とこずえの差はどんどん広がっていく。


(何でだ、何で差が埋まらねぇ。俺のマシンだって性能じゃ負けてねぇはずだ)


ふと、こずえの背中を押す何かの姿が見えた気がした。


(お前も、俺の邪魔をするのか…おれはミラージュの亡霊なんかに負けやしねぇ!)


だが無情にもその差はさらに広がっていく。


峠を抜け、その先に町の灯りが見える直線。


背中に何か温かいものを感じながら走り切ったこずえは、「ありがとう、リーダー」そう呟いた。


でも勝負はここで終わり。

...…ここからは、復讐の時間だ。


こずえはゴールの手前で、突然バイクをターンさせ、恭司が来る方へ正面を向けた。


カーブの先から照らすライトの明かりが見えるのを合図にスロットルを回す。


加速するこずえのアールエス。

それを見て、恭司は、

「チキンレースか……! 面白ぇ!!」

恭司が叫び、二台のマシンは正面から突進する。


衝突寸前――こずえは鋭くハンドルを切り、恭司の脇を抜けざまにヘルメットに向けて拳を振り抜いた。

グローブに包まれた拳が恭司の顔面を直撃する。


恭司の身体はバイクを離れ宙を舞い、地面に叩きつけられた。

無人のバイクは道路脇へ衝突。次の瞬間、マシンのタンクが破裂し、炎が夜空を赤く染めた。


炎上するバイクを背に、こずえは低く呟いた。

「……これで、敵はとったよ」


エンジンを唸らせ、こずえのアールエスは峠を下っていった。

炎の熱気を背に、その姿は闇に溶けて消えていく。


残された峠。

炎の前で、倒れた恭司の身体が微かに動いた。

口元から血を吐きながら、指先がわずかに震える。


「……っ……」

かすかな呻き声。


その様子を見ていたジャスティスが目を細めた。

「すごいね。これでまだ生きてるんだ」


彼女はゆっくりと歩み寄り、銃を抜いた。

「でも――負けたほうが命を置いていけ。そう言ったのは、あなただよ」


パシュッ――。

サイレンサー越しの乾いた音が、夜の峠に微かに響いた。


「でも、バイクですれ違いざまにグーパンとか……私でもやらないよ。すごいね、あの子」


炎の揺らめきだけを残し、全てが静まり返った。


ーーーーー


峠での仕事を終え、最上ルナはバイクを走らせていた。


夜の街、交差点で赤信号に止まる。

その横を、黒塗りの車が数台、静かに通り過ぎていった。


「……ああ、多分これが主哉が言ってた外務省のお迎えか」


ヘルメットの中で小さく呟く。

子供が無事に保護されれば、母親の方も引き渡して一件落着――。

そう思った矢先だった。


青信号が灯り、ルナがスロットルを回そうとしたその瞬間。

横から、猛スピードでワゴン車が三台、信号を無視して突っ切っていった。


「危ないな……」

小さく舌打ちしながら視線を向けた次の瞬間。


ルナの瞳に映ったのは、窓越しに覗く黒ずくめの男たち。そして――銃口。


胸の奥に冷たいものが走った。

「……嫌な予感がする」


ルナは一気にスロットルをひねった。

ブラックロータスが咆哮を上げ、闇夜の道路を駆け抜ける。


左手でハンドルを抑え込みながら、ヘルメットの中で小型通信機を起動する。

「セラフィム、聞こえる? やばいかも。武装した団体客が……多分、神社に向かってる!」


返答を待つ間もなく、エンジンの轟音がビルの谷間に響き渡った。

黒いワゴンのテールランプを射抜くように、ルナの視線は獲物を追い続ける。


ーーーーー


神社の奥。

静かに揺れる灯火の下で、主哉は鋭い視線を菊花に向けていた。


「……ひとつ聞かせてもらう。お前は何者だ。そして、なぜあの子を守る」


菊花はしばし口をつぐみ、赤子を抱く腕に力を込めた。

やがて決意を固めたように顔を上げる。


「……わたしの国は、経済発展が著しい半面、いまだ多くの貧困層を抱えています。

地方の農村や都市の二割はスラム街。そこでは、お金もなく教育も受けられない子供たちが多く暮らしているのです」


その声は淡々としていたが、深い憂いがにじんでいた。


「奥様は、そんな子供たちに手を差し伸べておられました。わたし自身、かつてその活動に救われた一人です」


主哉は黙って耳を傾ける。


「わたしの一族は、そんな貧しい村にありながらも古くから権力者に仕え、裏から身を守る“影の一族”でした。

ですが今ではその掟も形骸化し、政権に飼いならされたただの犬に成り下がっている」


菊花の目に怒りと恥じらいが交錯する。


「そんな中で奥様の優しさに触れ、わたしは決意したのです。この方を主とし、一生を終えると」


一瞬、声が震えた。

だがすぐに、再び冷静な調子に戻る。


「しかし運命のいたずらか、奥様が選んだ相手は清朝の正当な後継者。現政権などではない、我が一族が本来仕えるべき存在でした」


その言葉に主哉の目が鋭さを増す。

菊花はかぶりを振った。


「確かに清朝復興は一族の悲願であり、現政権に不満を持つ貧困層を中心に、多くの支持者がいます。

ですが、わたしにとって奥様から受けた恩は、その悲願を捨てるほどの価値がある。

たとえ同志を斬ることになろうとも、奥様を裏切ることなど絶対にあり得ない」


その声には一切の迷いがなかった。


主哉は鋭い眼差しを向け、低く問う。

「誓えるか」


菊花は赤子を抱いたまま、深々と頭を下げた。

「――この命に代えても」


その瞳は静かな炎を宿していた。


ーーーーー


神社の境内。

周辺を警戒していた隼人の声が、通信機から響いた。


『黒塗りの車が何台かこっちに向かってきたよ。多分、お迎えだ』


主哉は頷き、短く返す。

「よし……これでひとまず大丈夫だろ。母親の方も無事だった、近いうちに合流させられる」


安堵の吐息をつき、神主と共に外へ出ようとした、その時――。


『ちょっと待って!』

鋭い声が飛び込んできた。凛からの通信だ。


『黒塗りの車の後ろから……ワゴン車が猛スピードで! それに……誰か窓から身を乗り出して……銃、撃った!』


直後、外から銃声が響き渡った。

空気が一瞬にして凍りつく。


「……やべえな。どんな奴だか見えるか?」

主哉が問い返す。


『黒ずくめの格好した奴らが……たくさん!』

凛の声は震えていた。


主哉は低く吐き捨てる。

「……そりゃきっと秘密警察の連中だ。どっから嗅ぎつけやがった……」


咲が息を呑む。

「きっとここまで来るわね……どうするの、殺るの?」


主哉は警棒を握り直し、目を細めた。

「その覚悟で殺らないと……こっちが殺られちまう」


夜の神社に緊張が走る。

外務省の車列と、それを襲う秘密警察。

境内に集う恨討人たちは、迫りくる修羅場に備えて、それぞれ武器を構えた。


ーーーーー


銃声が夜を裂いた。

鳥居の外、外務省の車列を盾に取った黒服の精鋭たちが、武装した秘密警察と撃ち合っている。


「……何だあいつら。戦い慣れてやがる」

主哉が唸る。


志乃が淡々と説明した。

「海外の公館を警備する部隊よ。テロリストの襲撃を想定してるから、あのくらいの精鋭じゃないと務まらないの」


「なるほどな……」

主哉は警棒を握り直す。

「だが数は向こうが上。こっちにも回ってくるか」


その言葉に応えるように、番傘を背負った勇次がにやりと笑った。

「来たら斬るまでだ」


「来るよ!」

凛の声が響く。ドローンのカメラ映像が境内に迫る黒ずくめの男たちを捉えていた。


次の瞬間、凛の操縦するドローンが急降下。

熊撃退スプレーを正確に噴射し、複数の敵が目と喉を押さえて悶絶した。


さらに咲の自動制御ドローンが唸りを上げる。

AIが敵の顔を認識し、レーザーポインターと高閃光フラッシュを連射。

視界を焼かれた男たちは足を止め、仲間にぶつかって混乱した。


それでも銃を構え、境内へ突進してきた数人。

だがその銃口に、鋭い光が次々と飛び込む。

マサの千枚通しと、黒江の飛針だ。


金属を打つ乾いた音。

銃の引き金を引いた瞬間、暴発した銃が男たちの手を焼き、悲鳴があがる。


「今だ!」

凛の声と同時に、残りのドローンが煙幕を展開。

白い靄が一気に広がり、視界を奪った。


「銃は同士討ちになるぞ! 白兵戦の用意だ!」

 秘密警察のリーダーが叫ぶと、黒ずくめの男たちは一斉に刃物を抜き放った。


刹那――その中で最初に影を走らせたのは志乃だった。


細い指に挟まれた三角定規が、刃物のように閃く。

「――ッ!」

喉を掻き切られた男が鮮血を吹き、煙の中に崩れ落ちた。


続いて飛び込んだ勇次が番傘を翻し、仕込みの刀を抜き放つ。

刃は閃光のように舞い、次々と男たちを斬り倒していく。

その姿は、まるで侍と忍者の共闘を思わせた。


賽銭箱の前では主哉が立ちはだかっていた。

煙を突き破って現れる敵を、一人、また一人と仕込み警棒で的確に仕留めていく。


その横を通り過ぎようとした黒ずくめの男が、不意に宙へ吊り上げられた。

タケシのワイヤーが首に絡みついていた。

苦悶の声が煙の中に溶けて消える。


――パシュッ。

乾いた銃声。倒れ込む男。


「助太刀に来たよ!」

煙の向こうからジャスティスが姿を現す。銃口を下ろしながら、片目を細めて笑った。


そこへもうひとつ、重低音のエンジンが境内を震わせた。

アールエスを駆るこずえ。その後ろに跨るのはセラフィム。


セラフィムの手から投げ放たれたステンレス製のタロットカードが、鋭い光を残して飛び、敵の首筋を裂いた。

断末魔が一瞬だけ響き、すぐに煙に呑まれる。


やがて、風が吹き込み、煙幕が薄れていく。

白い靄の中に、崩れ落ちた黒ずくめの男たちの死骸が浮かび上がった。


「……取り敢えず、全員始末したか?」

主哉が低く呟く。


境内を見渡す。

倒れた敵の中に、動いている人影は一つもなかった。


静寂だけが戻ってきた。


その時、境内の外から通信が入った。

『下の方も片付いたみたいだよ。何人かはケガしたみたいだけど……さすがは精鋭、死人は出てないね』


息の荒い声とともに、外務省の部隊の状況が報告される。

どうやら動ける者たちは、まだ息のある襲撃者を拘束しているらしい。


だが――。

銃撃戦の中にあった車両は、どれも銃痕だらけ。

フロントガラスは蜘蛛の巣のようにひび割れ、ドアパネルには無数の穴が穿たれていた。


「とてもじゃないが……もう使えそうにねぇな」

主哉は深く息を吐き、夜空を仰いだ。


ーーーーー


静寂を破ったのは、突如響いたガラスの割れる音だった。

全員が振り返る。神社の裏手から、数人の男たちが闇にまぎれ、飛び込んで行くのが見えた。


「……しまった!」


神主が蒼白な顔で駆け込んでくる。

「皆さん、敵襲です!」


裏手の本殿。


主哉たちが駆けつけると、そこでは菊花が必死に敵と刃を交えていた。


だが次の瞬間、彼女の動きが固まった。

敵の中の一人、その顔を見た瞬間――。


「……兄者……!?」


驚愕に目を見開いた菊花の隙を突き、別の男が凛へと刃を振り下ろす。

咄嗟に菊花は身体を投げ出した。

「危ないッ!」

鋭い閃きが彼女の背を裂き、鮮血が飛び散る。


「ちぃっ!」

志乃の飛ばした三角定規がその男の左目を貫くが、次の瞬間、子供を抱え、他の男達とともに闇へと消えた。


それに向かって咲が何かを投げる動作を見せる。


「菊花!」

主哉が駆け寄る。


その傍らでは、顔や手から血を流しながら倒れ込む凛と咲。


「まずい、早く医者を呼べ」

仲間たちに振り返り叫ぶ主哉に、志乃はスマホ片手に、すぐにヘリを呼ぶからと返す。


必死に立ち上がろうとしながら、菊花が主哉を見上げる。

「……お願いです、あの子を取り戻して……!」


咲は苦しげに笑い、震える手を上げた。

「ただじゃ……やられてないよ。あいつらの頭の上に、自動追尾ドローンを付けてある……GPSで追えるはず……」


主哉が息を呑む。

「隼人は……?」


視線をコンピュータールームに向ける。

そこは、開かずの金庫を開ける番組ですら開けられないような鉄の扉で閉ざされていた。


次の瞬間、通信が入る。隼人の声だ。

『万が一の時のシェルター緊急閉鎖システムが作動したみたい。……安心して、僕も奴らのスマホをハックしてる。GPSは追えてるから、このまま追跡するよ』


ジャスティスが口角を上げ、感心したように言う。

「ただじゃやられない……優秀な狩人だね」


そこへ、足を引きずりながら神主も姿を現した。

「……万が一のことを考えて、総本社に根回ししておいて良かった。今――恨討人一の追跡の名手が後を追っています」


主哉が目を見開く。

「神の影……来てたのかよ」


神主は静かに頷いた。

「もしもの時のために、本社から人を送ると連絡を受けていました。……ギリギリ間に合った。うまくいけば子供も取り返してくれるでしょう」


だが、主哉は眉をひそめる。

「それより……あいつらは何者だ。秘密警察には見えなかったが」


菊花が顔を上げ、唇を震わせた。

「……あれは……清朝復興のためにクーデターを企む組織の人間たち……それと、私の兄です」


声はかすれていたが、その意味は重い。

「このままでは……あの子は、組織の旗代わりに使われてしまう……」


血に濡れた菊花は震える手を伸ばす。

その掌には、血に染まった五六銭があった。


「凛と咲から聞きました……あなたたちに仕事を頼むのには……本当は……これがいるのでしょう?」


五千円札1枚と6枚の百円玉。


「あの子を母親のもとへ…頼みます……ついでに私のかたきも……うっておいてくれると……うれしい、です」


声はか細く、意識は遠のいていく。


「しっかりしろ!」

主哉はその手を握り、額を寄せた。

胸の奥が怒りで煮えたぎる。

だが同時に、それを押し殺すように低く吐き捨てた。


「……五六銭、確かに受け取った。

だが、この仕事をお前の仇討ちになんかさせんじゃねぇぞ……!」


その瞳には決意の炎が宿っていた。


「まだ死ぬんじゃねぇぞ。子供を母親に返すんだろ!」


血に染まった五六銭を握りしめ、主哉は立ち上がる。


「もうすぐヘリが来るわ。この下の広場にヘリを降ろすから、そこまで早く菊花を運ばないと」


任せろと、タケシが菊花を抱え、参道を降りていった。

「あなた達もひどい怪我よ、手当してもらうから一緒にヘリに乗りなさい」

そう凛と咲に言う志乃に咲が、

「お姉ちゃんだけお願いします。私はここに残るから」と。

確かに咲に比べ、凛の怪我の方が見た目にひどい。

「私も恨討人です。いつかこうなることは覚悟してました。私は残って、今やらなくちゃいけないことをします」

そんな咲を見て主哉は思う。

(遊び半分でやってるかと思ったら、ちゃんと覚悟はしてやがった。今さら釘を刺す必要もねぇな)と。


境内を吹き抜ける夜風が、戦いの余韻を掻き消しながら、さらに大きな嵐の予兆が漂よわせている。


「私たちは――子供の後を追う」

ジャスティスが短く告げ、ブラックロータスに跨がった。

エンジンが唸りを上げ、夜を切り裂くような音を響かせる。


その横で、セラフィムが口を開いた。

「……とんだ失態でしたね」

だがすぐに続ける。

「けれど、あなたたちにはいくつか借りがありますし……それに、母親を悲しませるわけにもいきませんので」


彼女はこずえのアールエスの後ろに軽やかに跨った。

ジャスティスがちらりと視線を投げる。

「いいの? 付き合ってもらっちゃって」


ヘルメット越しにこずえが答える。

「――私は“一夜限り”と言った。夜はまだ明けてないよ」


その言葉に、ジャスティスの口元が愉快そうに歪んだ。


「私も行く」

志乃が一歩踏み出したが、主哉が手で制した。

「お前は下で役人のお相手をしていてくれ。……さすがに俺たちじゃ国家公務員の相手はできん。それに病院への付き添いはどうする」

悔しげに唇を噛む志乃。


「付き添いは私が行くよ」黒江が手を挙げた。


咲が端末を抱えて駆け寄ってきた。

「これで……私のドローンが付けたGPS追跡できます!」


メットの中の通信機に、隼人の声が重なった。

『僕のPCでも、奴らのスマホをハックしてGPS追ってる。現場は任せるけど、後方から全力でサポートするよ』


「旦那、行くんだろ?準備できたぜ!」


タケシが悪天使(アポストール)の描かれた自慢の愛車を持ってくる。

その後ろに跨ると主哉は、

「みんな頼んだぜ、いい加減この仕事にもケリをつけてぇ」

その言葉にセラフィムは軽くうなずき、ジャスティスは拳を握り、親指を立てて応えた。


その頃――。


街道を疾走する一台のワゴン車。

その数十メートル後方を、あり得ない速度で追いすがる影があった。


全身を黒のラバースーツで包み、肘や膝にはプロテクター。

その足のインラインスケートがアスファルトを蹴るたびに火花を散らし、驚異的な脚力で車を追跡していく。


彼こそが、総本社が抱える恨討人の一人――

「神の影」と呼ばれる存在だった。


ーーーーー


横浜港に近い廃ホテル。

海風に晒されたコンクリートはひび割れ、窓は黒く空洞をさらしている。


そこへ、子供をさらったワゴン車が滑り込んでいった。

直後、駐車場入り口のシャッターが無情に閉じ下ろされる。


その光景を遠目から見ていた影が一つ。

漆黒のラバースーツに身を包み、プロテクターを装着した男――「神の影」。


彼は滑るように移動しながら、建物を取り巻く環境を観察した。


上層階に灯りはない。

出入りの痕跡もない。

さっきの駐車場入口にはタイヤ痕だけが残り、人の足跡は一切見当たらない。


スコープ越しに覗いた電気メーターも、針は動いていなかった。


「……地下か」


彼は即座にスマートフォンを取り出し、データベースにアクセスする。

そこには過去の恨討人たちが血と汗で積み上げてきた情報の集大成がある。


数秒後、古い設計図が画面に表示された。

――ホテルは地下鉄駅直結の工事途中で廃業。地下通路は未完成のまま放置。


「なるほど……奴ら、これを利用しているか」


彼の視線が周辺の地図を走る。

そして指が止まった。


小さな掲示板サイトに書かれた一文。


――最近、知らない外国人が出入りしてる


場所は、この近くの雑居ビル。

地下通路の延長線上に、確かにそれはあった。


「こっちが本命か……」


無駄のない判断。

次の瞬間、神の影はアスファルトを蹴った。

驚異的な脚力で加速し、夜の街を切り裂くように雑居ビルへと駆けていった。


その頃、隼人の声が通信に割り込んだ。

『……GPSが消失した!?』


「何だと?」

主哉の眉が跳ねる。


『分からない。……多分、地下に潜ったのかも。今、反応が途絶えた地点の防犯カメラを片っ端からハックして探してる』


焦りの滲む声が途切れた、その時......主哉はふと、視線の先に気づいた。


夜の交差点を、黒い影が音もなく横切る、人の形をした異様な速さの塊。


「……隼人、大丈夫だ」

主哉は低く呟き、目を細める。

「ちょうどいい目印を見つけた」


黒い影――神の影が駆け抜けていく。

その背を追うように、三台のバイクがエンジンを轟かせた。


先頭はブラックロータスに跨るジャスティス。

続いて、SRを駆るこずえと、その後ろに腰掛けるセラフィム。

そして最後に、タケシのマシン、アポストールが咆哮を上げる。


闇夜に響く三台のエキゾーストが、まるで一斉に牙を剥いた獣のように街路を駆け抜けていった。


ーーーーー


夜の街を切り裂く三台のバイク。

だが、その先を駆け抜ける黒い影に追いつけない。


アスファルトを蹴る音が軽やかに響く。

まるで風そのものが人の形を取ったかのように、神の影は前へ、前へと距離を広げていく。


「……あいつ、本当に人間なの?」

セラフィムが思わず呟いた。


背後から主哉の声が返る。

「噂だがな......時速100キロで走るらしいぜ」


「まさか……」

こずえの眉がわずかに動く。


ジャスティスが低く笑った。

「スピードは分からねえ。だが一度、あいつがジャンプして三階の窓枠に手をかけるのを見たことがある」


言葉を失う一同。

闇の中を駆ける黒い影が、ひときわ不気味に見えた。


「……やっぱ、人間じゃないよね」

誰ともなく漏れた言葉が、バイクの轟音に溶けて消えていった。


なんとか神の影を追い、主哉たちは目的の雑居ビルの近くまでたどり着いた。

だが、その頃には――黒い影はすでに隣のビルの非常階段の中階あたりで、窓からの侵入を試みようとしていた。


雑居ビルの入口には数台の防犯カメラ。

遠目には気づきにくいが、よく見れば複数のチンピラ風の男たちが周囲を徘徊している。おそらく見張りだろう。


「……あいつ、どうやってあそこまでたどり着きやがった」

主哉は小さく舌打ちする。

「やっぱりあいつは人間離れしてやがる。……だが、こっちは正面から突っ込むわけにもいかねぇ。どうする……」


考え込んだその時......背後にふっと気配を感じ、振り返った。


「……!」


そこに立っていたのは《(ロン)》だった。

鋭い眼差しでこちらを見据え、低く告げる。


「こっちだ。ついてこい」


五人は互いに顔を見合わせる。

疑念も警戒もあった。だが、この場で立ち止まる余裕はない。

彼らは無言で頷き、龍の背に続くことを決めた。


龍に案内されたのは、すぐ近くの古びたゲームセンターだった。

電源の落ちた筐体が並び、薄暗いロビーの片隅。

テーブルの上に広げられた地図を囲むように数名の男たちが集まっている。

地図の上には、例の雑居ビルと、その地下に伸びる一本の線。

手書きで追加された細い線が、ゲームセンターの地下へと繋がっていた。


「この通路は、奴らが別のアジトと行き来するために造った“裏の道”だ」

龍が指先で図面を叩いた。

「俺たちは、そこに横から介入できるルートを確保している......お前たちの神社からさらった子供は、この通路を通って今、ビルの方へ向かってるはずだ」


主哉は黙って地図を見つめ、拳を握った。

龍が続ける。

「ボスはビルの6階だ。エレベーターは止まっている。上がれるのは階段だけだ。俺たちは地下から通路経由で陽動をかける。お前たちは正面から突入しろ」


主哉は頷き、短く言った。

「……なら、俺もそっちに同行する。子供をさらわれたのは俺たちの責任だ。てめぇのケツは、てめぇで拭くぜ」

そう言って、隣にいたタケシへ視線を向ける。

「タケシ、五六銭の仕事はお前に任せる」

タケシは静かに拳を突き出し、「了解だ」とだけ言って主哉の拳とぶつけた。


セラフィムが立ち上がる。

「では、私も地下通路へ同行します」

その声に、主哉は小さく頷いた。


「私はビルの方をやる。荒事になるだろうから、こずえは外で待っていな」

とジャスティスが言うと、こずえは軽く頷いた。


龍が全員を見回し、腕時計を確かめた。

「時間がない。動くぞ」


一同が立ち上がると、ゲームセンター奥の扉を開けて地下へと向かう。

湿った空気が流れ出し、階段の先に、無骨なコンクリートの壁が崩された跡があった。

そこには配管とケーブルが張り巡らされたインフラ用の狭いトンネルが延びている。

土の匂いと錆の臭気が鼻を突く。


しばらく進むと、壁に取り付けられた鉄のドアが現れた。

錠前はすでにこじ開けられ、ドアノブが不自然に曲がっている。

龍の部下が小さくうなずいた。

「解錠済みです。準備は整いました」


銃や刃物を構える男たち。

龍が静かに手を上げる。

「行くぞ」


ドアが開かれた瞬間、湿った空気とともに暗い通路が広がる。

打ちっぱなしのコンクリート壁、かすかに点滅する通路誘導灯。

確かにこれは、工事途中で放棄された地下通路だった。

それなりの広さがあり、数人並んで進むこともできる。


通路の先に、人影が見えた。

龍が低く言う。

「まずは子供の確保が最優先だ。発砲は控えろ」


男たちが頷いた、その直後だった。

「……止まれ!」

先頭の部下が叫ぶと同時に、向こう側から閃光が走る。

乾いた銃声が通路に反響し、壁面に弾痕が刻まれた。


「伏せろ!」


龍の怒声が響く中、セラフィムが一歩前へ。

両腕で頭をガードしながら、銀の髪を靡かせて突っ込む。

タロットカードの刃が光を放ち、敵の銃を弾き、二人を瞬時に沈黙させる。

「本当の戦場に比べれば、遊びですね......」

彼女は冷静にカードを翻した。


主哉は舌打ちをし、龍の隣で構える。

「これじゃ、正面から突っ込んだ方がマシだったんじゃねぇか。防弾チョッキくらい着てくるんだったぜ」

「防弾チョッキを着てても、頭を撃たれりゃ終わりだ。普段しないことは、しない方がいい」

龍の返しに「確かに。ジジイには動きが鈍る」と主哉が苦笑を浮かべる。


だが龍は、その笑みの奥に潜む“戦場の眼”を見逃さなかった。

その瞳には、ただの殺しではない、何かを“守る覚悟”が宿っていた。


(……ただのジジイが、そんな目をするものか)

龍は内心でそう呟き、ふっと笑った。

「あの時、敵に回さなくてよかったと思うよ」


ーーーーー


 「……地下の連中、動いたね」

ジャスティスが耳につけた通信機から、わずかに混線した銃声を拾った。

入口を見張っていた連中が慌てて建物の中に駆け込んでいく。

主哉たちのチームが戦闘を開始したのだ。


「そろそろ俺たちも行こうぜ」

見張りの居なくなった入り口は二人を簡単に通した。


雑居ビルの中を、タケシたちは階を一つずつ制圧しながら進んでいく。

薄暗い廊下には、かつての店の看板やポスターが色褪せたまま貼られ、床には割れたガラスと灰皿の破片。

息を潜めながら、2人は上階を目指す。


途中のフロアには、数人の見張りがいた。

だが彼らの動きは、戦闘の訓練を受けた者には到底及ばない。

タケシのワイヤーが喉を絡め取り、ジャスティスのサイレンサー付きの銃が低く唸って確実に仕留めていく。

撃たれた弾丸が壁に跳ね返り、粉塵が舞うたびに、ビル全体が呼吸を止めているようだった。


5階の監視室を制圧した時、モニターのひとつに映っていた。

暗い地下通路で、主哉が警棒を構え、仲間とともに前進している。

その奥には、まだ見ぬ影......菊花の兄らしき男の姿が一瞬、映った気がした。

「……下も修羅場みたいだね」

ジャスティスが呟く。

「なら、上は地獄だろう」

タケシが答える。


階段を駆け上がり、6階の扉の前に立つ。

ここだけが、異様に静かだった。

古びた扉の隙間から、淡いオレンジの光が漏れている。


ジャスティスが手信号を出す。

(突入の合図で同時に行く……いい?)

タケシが頷き、こずえが呼吸を整えた。


3、2、1――。


蹴り破られた扉が、鈍い音を立てて開く。

室内は、外見のボロさとは対照的に豪奢だった。

深紅の絨毯、重厚な木製の机、壁には古い清王朝の肖像画。

まるで時代錯誤の“玉座”だった。


その中央に立っていたのは、一人の男。

老龍の孫娘の夫――子供の父親。

白いスーツを纏い、グラスを手に微笑んでいた。


「……清国へようこそ、日本の殺し屋たち。歓迎するよ」


ジャスティスの指が引き金にかかる。

タケシがナイフを構え、こずえは無言で距離を詰める。


だが男は、まるで何も恐れていないようだった。

その背後には、もう誰の姿もない。


タケシが低く言う。

「……用心棒がいないようだが?」

男は軽くグラスを傾けた。

「彼なら、こちらに向かっているよ。彼と、もうすぐ来る頃だろう」


その言葉に、ジャスティスの眉が動く。

「……“彼”?」

「君たちが呼ぶ名で言うなら――“本田主哉”。」


空気が、一瞬で張り詰めた。


タケシの拳がきつく握られる。

ジャスティスが目を見開き、息を呑む。

男は、まるで芝居を楽しむように微笑んだ。

「もうすぐ来る。彼は、この国の正義を、我らの清復の“土台”として迎えることになるだろう」


「……黙れ」

ジャスティスの声が低く唸り、銃口がまっすぐ男に向く。


だが――引き金が引かれるより先に、

床下から轟音と爆風が響いた。


床がわずかに揺れ、照明が点滅する。

タケシは一瞬で悟った。

「……下(地下)で、始まったな」


彼らの視線の先で、男は静かにグラスを机に置き、微笑んだ。


「始めから目当ては、老龍の力だ。孫娘に近づいたのも、そのためだ。運よく子もできた。俺と華僑の大ボスの血を合わせた血統──正統の後継者としてこれほどの存在はない」


その言葉に、部屋の空気がさらに冷たくなる。男の目には確信と得意げな冷酷さが宿っていた。


「お前たち二人も、俺の配下になれ。栄光を味わわせてやる」


タケシはグッと歯を噛み、吐き捨てるように言った。 「冗談じゃねえ」


ジャスティスもすかさず続け、低く、しかし断固として答える。 「NOだ」


男は肩をすくめ、残念そうに笑った。 「残念だね」


その瞬間、部屋の死角から影が動いた。拳銃が構えられ、三人めがけて火を向ける。


だが反応はタケシの方が上だった。

タケシとジャスティスが同時に飛び出す。タケシのナイフが一人の喉元を正確に突き刺し、ジャスティスは無駄のない動きで二発を正確に撃ち込む。彼らは持っていた武器さえ制御できぬまま、次々と倒れていった。銃口が短く光り、静かに血の匂いが混じる。


タケシは眉を上げ、苦い笑みを浮かべた。床に倒れる彼らを見下ろし、冷たく宣告する。

「お前を始末してこの仕事を終わらせるつもりだったが、気が変わった。お前らは華僑の連中に引き渡す。せいぜい地獄の苦しみを味わえ」


その言葉が鋭く響く間もなく、タケシが一歩詰め寄った。素手かと思えるほどの静かな動きで、彼の拳が男の顎を打ち据える。男はグラリと崩れ、床に無造作に倒れ込んだ。グラスの中の酒が床に零れ、絨毯に赤い筋を描く。


ジャスティスは素早く男の手首を縛り上げ、タケシは冷ややかに男の顔を踏みつけるように見下ろした。 「これで終わりだ。お前の計画も、ここで止まる」


男の呼吸は荒い。だが完全に失神はしておらず、薄れゆく意識の中で微かに笑っていた......何かをまだ諦めていないような、不気味な余韻を残して。


ーーーーー


地下通路は膠着していた。

土の匂いと、弾丸が壁に当たる乾いた音だけが支配する。通路誘導灯の明かりはちらつき、誰もが次の一手を探して固唾を呑んでいた。


「これじゃ、近づけねえ…」

主哉かが呟く。

銃口越しに見える敵の指は軽やかに引き金を弾き、時折火花が飛ぶ。弾幕が前に壁を作り、少人数での突進をも許さない。


主哉は龍と目を合わせ、短く頷いた。だがそのとき、闇を切り裂くように一つの黒い影が飛び込んできた。

あの神の影だ。漆黒のシルエットが弾丸の間を縫うように奔り、男たちの渦中に躍り込むと、掴んでいた小さな身体を抱えて跳躍した。


「子供を確保した」

......影は低く告げると、次の瞬間には驚異的な脚力で消え去っていった。足音すら残らない。


消えゆく影が主哉の耳元をかすめる時......わずかな風圧とともに、冷たい声が届いた。

「あんたは、いつまで昼行燈ごっこをやっている」


......ったく、面倒くせえな。


主哉は舌打ちをひとつし、近くにいた龍の仲間の一本の剣を「こいつを貸せ!」と奪い取ると、柄を確かめた。刃は長く、幅広い。

「マチェットか……日本刀じゃねぇが、まあいいか」

ぶつぶつ呟きながら、主哉は剣を肩に担ぎ、ゆっくりと男たちの前に歩み出した。


男の怒号がどこか遠くに聞こえた気がしたが、主哉は気にも留めない。通路の空気が彼に触れる度、男たちの指先が引き金に触れ、銃声が連鎖する。だが──。


弾丸は、まるで主哉を避けて飛んでいるかのように彼の周りをすり抜けた。細い光の筋が皮膚をかすめるが、衣服の繊維を弾く程度で本体に届かない。主哉は淡々と歩を進める。


「弾丸なんて、真っ直ぐにしか飛ばねえ物が当たるかよ。銃口の向きと視線、指の動きさえ見えてりゃあ、突きと大して変わらんよ」

言い捨てると、彼はそのまま懐に飛び込み、剣を振るった。


刃が人肉を切る鈍い音が響く。男たちの悲鳴が断続的に上がり、土煙が舞う。主哉の剣は豪快に振り下ろされ、刃が血を弾き飛ばしてゆく。数人が倒れ、残る者は後退するしかなかった。


やがて、残る一人の影――菊花の兄が、血にまみれて立っていた。

目は充血し、表情は理想に染まっている。主哉は息を切らせず、剣の先を彼に向けた。


「今頃お前のボスも、俺の仲間が片付けてる。これ以上、奴らと手を組む必要はないだろう。大人しく引いてくれねぇか」

主哉の声は冷たい。だが菊花の兄は額の汗を拭い、震える声で言い放った。


「無理だ。皇帝に仕え、守り抜くのが我が一族の役目、最後の一人になっても、皇帝に仇なす者はこの手で斬り伏せねばならぬ」


主哉は軽く鼻を鳴らした。目の奥に浮かぶものは侮蔑にも似た静かな諦観だ。

「救えねえやつだな。妹の方がまだ頭が柔らけえわ」


二人は自然と間合いを取る。コンクリート剥き出しの通路に光と影が踊る中、呼吸を合わせる音だけが増幅される。互いの腰の動き、刃先の角度、体重の掛け方......すべてが瞬時に読み合われる。


菊花の兄が一瞬の隙を突いて刃を振るった。刃先は閃光のように走り、空気が裂ける。だが主哉は先を取り、刃をかわして反撃を打ち込む。剣先が兄の腹を捉え、沈黙が落ちる。菊花の兄は膝をつき、絞り出すように息を吐いた。


「それほどの腕があるなら、なぜ……」

兄は震える声で訊ねる。


主哉はゆっくりと剣を収め、泥に塗れた顔を上げた。疲れたように肩をすくめて、ふっと笑ったような気配を漂わせる。

「面倒くせえ事は嫌いなんだよ。仕事サボってたこ焼き食ってるくらいのが、俺の性に合ってるのさ」


その言葉の後、主哉は五六銭を取り出して兄の掌にそっと置いた。


「三途の河原の渡り賃の代わりだ、とっとけよ」

血と埃の混じった掌が震え、菊花の顔が脳裏をよぎる。

兄の目に一瞬、後悔の色が揺れたが、次の瞬間には虚ろになっていった。

主哉は地面に膝をつかせた菊花の兄を最後に確かめると、剣を持ち主に戻し、地上の方へと歩き出した。


濁ったコンクリートの光の中、血の匂いが静かに漂っていた。

主哉の背は相変わらず大きく、だがどこか抜けたように見えた。


......彼は本当に、ただの昼行燈でいたいのかもしれない。


ーーーーー


夜風が熱気を冷ますように吹き抜けた。

地下からの階段を抜けて外へ出た主哉は、血の臭いの交ざらない空気を一息に吸い込んだ。


次の瞬間、ポケットの中でスマホがかすかに震えた。


取り出すと、画面には「神の社」の通知。

暗闇の中で白い文字がゆっくりと浮かび上がる。


> 『菊花は一命を取り留めた。ほか、みんな無事』


志乃か......主哉は小さく息を吐き、胸を撫で下ろした。


重石のように張り詰めていた心が、わずかに緩む。

「……そうか。よかったな」

独り言のように呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。


そのとき、向こうの薄暗い路地から足音が近づいてきた。

タケシが、気絶した男を片手で引きずりながら歩いてくる。

後ろにはジャスティスが続き、その影からこずえが出迎えに現れた。

彼女のバイクのライトが、彼らの姿を淡く照らす。


「ずいぶん手こずったみたいだな」

主哉が笑うと、タケシが肩をすくめた。

「ま、久々の運動にはちょうど良かったぜ」

「そっちは?」

「片付いた。……兄貴もな」

「そう」

ジャスティスは頷き、遠くで鳴るサイレンの音に目を細めた。


主哉はスマホをもう一度見下ろす。

画面には、いまだ淡く光る「神の社」の通知ウィンドウ。

彼は指を滑らせ、短くメッセージを打ち込んだ。


> 『こちら影打、仕事完了。』


送信ボタンを押した瞬間、通知音が小さく鳴った。

その音が、まるで戦いの終わりを告げる鐘のように、夜の静寂へと溶けていった。


遅れて、地下通路から龍が上がってきた。

煤に汚れた顔のまま、肩を鳴らしながら主哉たちの背へ歩み寄る。


「土産だ。好きにしてくれ」

タケシが無造作に、意識を失った男を龍へ突き出す。

腕を掴まれた男は、ずるりと地面に崩れ落ちた。


龍が眉をひそめる。

「こいつは?」

「孫娘に近づいたのも、最初から計画だったそうだ。思惑通りに華僑の有力者の血を手に入れ、子供を旗に清国復興の足がかりにするつもりだったらしいぜ」

タケシの声は淡々としていたが、その奥にわずかな怒気が潜んでいる。


「とんでもねぇ野郎だな」

主哉は半分あきれ顔で吐き捨てる。

龍は無言で男を見下ろし、その眼差しに冷ややかな決意を宿した。


主哉は軽く息を吐き、背を向けた。

「こいつの処分は任せる......俺たちはもう疲れた」


龍を振り返ることもなく、片手をひらりと後ろに振る。

その仕草はまるで、闇に生きる者同士の無言の別れの挨拶だった。


タケシがバイクに跨り、エンジンをかける。

「帰るぞ」

主哉が言うと、続いてジャスティスとセラフィムもマシンに跨り、次々にエンジンが唸りを上げた。


三台のバイクが、夜明け前の港通りを走り抜けていく。

海風が血と硝煙の匂いを流し、遠くの水平線が淡く白み始めていた。


こずえのSRの後ろ、銀髪を風になびかせながらセラフィムは静かに目を閉じる。

思い浮かぶのは、薄暗い地下で剣を振るう本田主哉の姿。

......あれほどの腕を持ちながら、表の世界では無名であり続けようとする男。

世の影に潜み、恨みの代行者として人知れず刃を振るう彼にこそ、真の「矜持」があるのだと。


「本田主哉……あなたは、現代に生きる最後の侍だ」


その言葉は声にはならず、風の中に溶けていった。

夜が明ける。

彼らは、再び沈黙の闇へと帰っていった。


ーーーーー


白いカーテンが揺れるたび、微かな陽光が差し込む。

消毒液の匂いと心電計の電子音が静かに響く中、主哉と黒江が病室へ入ってきた。

黒江の胸には、小さな子供がすやすやと眠っている。


ベッドの上では、菊花が上体を起こしていた。

顔色はまだ青白いものの、唇には確かな笑みが宿っている。

包帯の隙間から覗く肌が、まだ生の温もりを保っていることが、何よりの証だった。


「預かりものだ、返すぜ」

主哉が短く言い、黒江が子供をそっと抱きかかえたまま、ベッドの脇に近づく。

菊花は震える指で子供を受け取ると、胸にぎゅっと抱きしめた。


「……ありがとう」

その言葉はかすれていたが、確かに微笑んでいた。


主哉はただ黙って頷く。

仕事の成果を報告するような無表情の中に、わずかに安堵の色が浮かぶ。


そこへノックの音。

遅れて、ジャスティスが病室に入ってきた。

だが、その後ろにもう一人――柔らかなコートを羽織った女性の姿。


菊花の瞳が大きく見開かれる。

「……奥様……ご無事で……」

言葉が震え、視界が滲む。


女性は静かに歩み寄り、ベッドの傍に膝をついた。

「話は聞きました。あなたには大変な苦労をかけてしまったようですね」

その声は、慈愛と痛みを併せ持つ母の声だった。


「とんでもありません……まだ奥様から受けた御恩、返しきれておりませんから」

菊花はそう言って涙を拭い、両腕で包んでいた子供をそっと差し出した。


「預かっていたお子……やっと、お返しできます」


女性は静かにその子を受け取る。

腕の中に戻ってきた温もりを確かめるように、頬を寄せる。

目尻に溜まっていた涙が、ゆっくりと頬を伝い落ちた。


「ありがとう……ほんとうに、ありがとう」


その瞬間、部屋の外の窓から春の風が吹き込み、白いカーテンを揺らした。

主哉は黙って窓の方へ視線をやり、

「……これでようやく終わりか」

と小さく呟いた。


ジャスティスが肩を並べ、冗談めかして返す。

「終わりって言葉、あんた何回使った?」

「さあな。……でも今回は、少しはマシな終わりかもな」


二人のやりとりに、黒江がくすりと笑う。

病室には、久しぶりに“穏やかな時間”が流れていた。


病室を出ると、夕暮れの光が病院のガラス越しに差し込んでいた。

廊下を抜け、外のベンチに腰を下ろした主哉は、胸ポケットから銀色の箱を取り出す。

一本をくわえたところで......背後から声。


「病院の敷地内は禁煙ですよ、刑事さん」

振り返ると、ジャスティスが腕を組んで立っていた。


主哉は肩をすくめ、口元のそれを軽く見せる。

「タバコじゃねぇよ......見ろ」

差し出された箱の中には、懐かしい駄菓子――“ハッカ棒”。


「……フェイクたばこ? 駄菓子屋のヤツじゃん」

ジャスティスが呆れたように笑う。


「ドローン姉妹がよこしやがった。

“哀愁漂う刑事にはタバコが似合うから、これくわえてろ”だとよ」


主哉は口の端で笑い、ハッカ棒を噛みながら遠くを眺める。

吐き出した息が白く溶け、ミントの香りが風に流れた。


「……確かに似合うわね」

ジャスティスが呟く。

その声には皮肉でも冗談でもない、どこか柔らかな響きがあった。


主哉は少しだけ目を細めて、空を見上げる。

「そういや、あいつら今日は学園祭だって言ってたな。

このごろバタバタしてたから……準備、間に合ったんだか」


「どうせ徹夜で仕上げたでしょ。あの二人、やるときはやるじゃない」

「そうだな」


二人の会話が途切れ、風が病院の植え込みを揺らす。

遠くから子供の笑い声が聞こえ、街のざわめきが戻ってくる。


主哉はハッカ棒を指でつまみ、苦笑する。

「まったく......命懸けのあとにこの駄菓子か。ギャップありすぎだろ」


「でも、それがあなたらしいよ」

ジャスティスの言葉に、主哉はほんの少しだけ口元をゆるめた。


淡い風が二人の間を抜け、どこかでチャイムが鳴った。

夕暮れの街は、何事もなかったかのように穏やかだった。


ーーーーー


夕暮れの公園。

焼き台の鉄板がじゅうじゅうと鳴り、ソースと鰹節の香りが風に流れる。


「……なんか、久しぶりに食った気がするぜ」

ベンチに腰を下ろした主哉が、たこ焼きを箸でつまみ、猫舌らしくやたらと“ふーふー”している。

マサが笑う。

「刑事さん、相変わらず食い方がじれったいねぇ」


そこへ、制服姿の志乃が現れた。

「マサ、ハバネロたこ焼きちょうだい」

「あいよ。今日も刺激が欲しいねぇ」


鉄板の上で赤いソースが香ばしく焦げる音。

志乃は焼き上がるのを待ちながら、主哉へ近況を報告するように話し出した。


「学園祭、すごかったよ。展示も大好評」

「へぇ、あの忙しい中でよく間に合わせたな」


志乃は笑う。

「首なしライダー、アクロバティックさらさら、コインロッカーベイビー……

都市伝説の背景と実際の事件の資料、ぜんぶ並べて。

あと、いつの間に撮ったのか、咲と凛が“フェイク映像の解説リポート”も作ってたんだよ」


主哉が吹き出す。

「動画まで? どこまで本気だ、あいつら」


「特に人気だったのは、“リモコンとBluetoothスイッチで起こすポルターガイスト”のやり方。

教室がちょっとした心霊ショーになってたよ」


マサがたこ焼きを返しながら笑った。

「いたずらも、そこまで行くと芸術だな」


「で、隣の教室のオカルト研究会が張り合ってて。

最後には意気投合して、合同展示になってました」

志乃は、焼き上がったハバネロたこ焼きを受け取り、ひとつ口に放り込む。


「見た目は若いつもりでも、リアルの若さの元気にはついていけないわね」

「おいおい、年寄りみたいなこと言うな」

「……言ってみたかっただけよ」


熱さと辛さで少し涙目になりながらも、志乃は笑う。

「やっぱり、これよね」

マサが小さく頷き、主哉が肩をすくめた。


「そういえば、菊花たち、帰国したわよ」

ハバネロたこ焼きを頬張りながら、志乃が思い出したように言った。


「老龍の孫娘ね。自分の影響力を、あらためて自覚したって。

今回のことは完全に自分の落ち度だったって、頭下げてたわよ。

護衛もつけないで歩くのは、しばらく自重するって。

……それと、菊花から主哉に伝言。

“ありがとう”って伝えてくれ、ってさ。」


志乃の言葉に、主哉はしばらく無言のまま、たこ焼きをひとつ口に放り込む。

湯気をふーふーしながら、視線を空に向けた。


青の残り香が漂う夕空。

遠くを飛ぶ旅客機の白い尾が、ゆっくりと溶けていく。


「……そうかよ。」


それだけを呟くと、主哉はハッカ棒を口にくわえたまま、ゆっくりと空を見上げた。

街灯が灯り始め、木々の影が伸びていく。


(――大事な人の手を、二度と離すんじゃねぇぞ)


心の中でそうつぶやく。

その声音には、願いとも、警告ともつかない静かな祈りがあった。


風が吹き、ソースの香りと笑い声が混ざる。

どこまでも、いつも通りの、公園の夕暮れだった。


「しかし、今回は働きすぎたぜ。もう、しばらくは依頼はいらねえな」

主哉は立ち上がり、空になったたこ焼きの器をくずかごへと放る。

カラン、と乾いた音が響く。


マサは焼き台の火を落とし、志乃はベンチの端で小さく伸びをした。

風が吹き抜け、木々の葉を揺らす。

日が沈みかけた公園に、しばし静寂が訪れた。


主哉の背中が、ゆっくりと夕日に染まる。

無言で歩き出すその姿には、

――この世から恨み言が絶えることなどない。

そんな現実を、どこかで悟っているような影があった。


その時。

ふと、三人のポケットの中で、同時にかすかな振動音が響いた。


ブル……ブル……


主哉、志乃、マサ、互いに目を合わせる。

そして、それぞれのスマホ画面に浮かび上がった通知。


> 『神の社:新着通知』


しばしの沈黙。

主哉はハッカ棒を口にくわえ、短く吐き捨てた。


「……ったく、神様は休ませてくれねぇな。」


夜の風が吹き、屋台の提灯がかすかに揺れた。

その灯が、再び始まる“神威”の夜を、静かに告げていた。

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