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第一話 正義、届かぬ夜に

制服姿の少女が、暗闇の中を必死に逃げていた。


夜の住宅街のはずれ。

街灯の光が届かない細い路地は、まるで世界から切り離された箱庭のように静まり返っている。その静寂を破るのは、少女の荒い息と、アスファルトを打つローファーの足音だけだった。


「やめて! 誰か…たすけ…!」


震えた声が、夜気に吸い込まれていく。返事はない。

代わりに、背後から近づいてくる男の笑い混じりの吐息だけが、じわじわと距離を詰めてきた。


「逃げんなよ。せっかく二人きりになれたんだしさ」


肩を掴まれ、少女の体が乱暴に壁へ押しつけられる。冷たいコンクリートが背中に食い込んだ。

指先が震え、鞄を振り回そうとするが、簡単に奪われて地面に転がる。


「いやっ、やめて、やだっ!」


悲鳴は誰にも届かない。男の手が制服の胸元を掴み、布が裂ける嫌な音がした。

冷たい夜風がむき出しの肌を撫でる。


少女は必死に叫び、泣き、もがいた。足を蹴り上げ、腕を振るい、爪を立てる。それでも、体格差という絶望的な現実は変わらない。

拘束された両手が頭上で押さえつけられ、脚を絡め取られる。


やがて、その声は夜の闇に溶けていった。


――翌日。


黄色と黒のバリケードテープが、人気のない空き地をぐるりと囲んでいた。

ひしゃげたフェンスの向こう、ブルーシートの隙間から、制服のスカートの裾がわずかに覗いている。


パトカーの赤色灯が回転し、野次馬のざわめきが遠巻きに渦を巻く。


『本日、女子高校生が遺体で発見されました。警察によると、容疑者の男は目撃証言などから逮捕されましたが――』


現場から少し離れた場所に停められたワゴン車。その中で、モニターに映るアナウンサーの声が続ける。


『精神状態が不安定なため、精神鑑定が行われる見込みです』


数ヶ月後、灰色の壁に閉ざされた法廷。


「主文。被告人は心神喪失状態であったと判断され……不起訴とする」


木槌が乾いた音を響かせた。


『容疑者・東条慎太郎(23)、責任能力なしと判断。不起訴とする』


同じニュースが、昼の情報番組でも繰り返される。


裁判所の正面玄関から出てきた東条は、マスクもせずに笑っていた。

スーツの襟をつまみながら伸びをし、ポケットからスマホを取り出す。


「――おう。終わったわ。楽勝、楽勝。だから言ったろ? 何とかなるって」


楽しげな声で通話しながら、記者たちのマイクを鬱陶しそうに手で払う。


その姿を、階段の下から一人の女が睨みつけていた。


由紀子。被害者となった少女の母親だ。


頬はこけ、目の下には深い隈。

喪服もすでによれ、手に握り締めたハンカチは汗と涙でくしゃくしゃになっている。


東条の笑い声が耳に刺さるたび、喉の奥から何かがこみ上げてきた。

それでも、彼女は声を出せない。ただ、爪が食い込むほどに指を握り締めた。


少し離れた場所で、その光景を見つめている男がいた。


生活安全課の刑事、本田主哉(ほんだしゅうや)


くたびれたスーツ姿に、どこか締まりのない表情。一見すれば、どこにでもいる中年刑事だ。

だがその目だけが、冷えた水面のように静かに、東条と由紀子を交互に見つめていた。


胸の奥に、鈍い痛みが生まれる。


(……また、こういう終わり方かよ)


ため息を飲み込みながら、主哉はゆっくりとその場を離れた。


ーーーーー


晴れた日曜の午後。住宅街の真ん中にある小さな公園は、休日の喧騒に包まれていた。


ブランコに乗る子供、ボールを追いかける少年たち。芝生にはレジャーシートが広げられ、若い夫婦がコンビニ弁当を広げている。どこにでもある平和な日常の風景だ。


その一角に、鉄板からうもうとした湯気を上げる、たこ焼き屋台があった。


香ばしい匂いが風に乗り、公園中に広がっていく。

銀色の鉄板の前で、鉢巻を巻いた中年男が、手際よくたこ焼きをひっくり返していた。


誰も本名を知らない。だが、誰もが彼をこう呼ぶ。


たこ焼き屋のマサ、と。


「へい、いらっしゃい! 今日のアタリ焼き出来てるぜ」


陽気な声で客を捌きながら、マサはふと視線を入口側へと向けた。


スーツ姿の男が、公園に入ってくる。ネクタイを少し緩め、ポケットに片手を突っ込んだ、いかにも仕事帰りといった風情の中年だ。


本田主哉(ほんだしゅうや)


彼は迷うことなく、まっすぐマサの屋台へと歩いてきた。


「…アタリって、何が入ってるんだ」


「運命だよ。イイことがあるかもしれんし、腹壊すかもしれん」


「いいから、普通のやつをくれ」


マサはにやりと笑い、手際よく舟皿にたこ焼きを盛りつけた。ソースをたっぷり、マヨネーズを格子状にかけ、青のりと鰹節を乗せて竹串を二本差し込む。


主哉はそれを受け取り、屋台の横にあるベンチへと移動した。腰を下ろし、湯気の立つたこ焼きを一つつまむ。


「本当は…俺達がこんな、リアルでの繋がりを持っちゃいけないんだがな」


ぽつりとこぼした言葉に、マサが片眉を上げる。


「ん? 何の話だい」


「警察官が、頻繁に同じたこ焼き屋に通ってるってのは、不自然だって話だ」


「別に、リストラされた中年サラリーマンが就活もしないでサボってるようにしか見えねえよ」


主哉は苦笑し、熱々のたこ焼きを口に放り込む。


「…しかしお前さんのたこ焼き、ちょっと中毒性あるな。薬でも仕込んでないだろうな」


「うちの秘伝はな、粉にあるんだよ。あとは焼き加減とたっぷりの愛情だ」


「…愛情にしては、殺意のある温度だな」


「それ、旦那が猫舌なだけだ」


軽口が行き交う中、すぐそばの広場では、高い電子音が鳴り響いた。


「すっげー! 何このドローン! 映画みたーい!」


小学生たちが、空を見上げて歓声を上げている。その頭上を、一機のドローンが滑るように旋回していた。小型のカメラとLEDライトを搭載した、いかにも高性能そうな機体だ。


操縦しているのは、双子の女子高生だった。


ショートカットで勝ち気な目つきの姉、凛。ロングヘアにヘッドホンを首に下げた妹、咲。


「これはね、障害物自動回避型。量産タイプだけどカスタム済みなんだよ」


凛が得意げに胸を張る。


「今んとこバッテリーの持ちは3時間。上空での静止性能は…7.5秒ズレるね」


咲はスマホをいじりながら、数字だけを淡々と告げた。


主哉とマサは、ちらりとそちらに目をやる。


「…世も末だな」


「…ある意味、末期だな」


マサは肩をすくめ、しかし口元にはうっすらと笑みを浮かべた。


「けど…面白い奴らだ。俺ら全員、誰が誰か知らないまま組んでるってのが」


「そのほうが都合がいい…素性を知れば守るべきものが増える」


「…守ったら躊躇が生まれる、か?」


「…そうだな」


マサは作り置きのたこ焼きにソースを塗りながら、片手で新聞を広げた。その隅に、小さな記事が目に入る。


「例の事件、不起訴になったのか」


「ああ、相手の弁護士と医者がやり手でな。絵に書いたようなボンボンだ。

どんだけ金を積んだんだか知らねえが、母親の顔…憔悴しきって、見てられなかったぜ…」


「…やりきれねぇな…...本当に」


主哉は、舟皿の中の最後の一個まで食べ終えると、竹串をまとめてゴミ箱に放り込んだ。立ち上がり、軽く手を振る。


「またな」


その背を、マサはしばし無言で見送る。


「…けったいな刑事だな、まったく」


空には、先ほどの双子のドローンが、一台、遠くへと飛び去っていった。


ーーーーー


悪いことをすればお巡りさんが捕まえるーーそれが世の中の道理だ。


けどな、中にはその道理をくぐり抜けて、笑ってる奴らもいる。


やられた方は、泣き寝入りするしかないのか?


…いや、そうとも限らねぇ。


今も昔も裁かれぬ悪、許されぬ恨みをーー天に代わって始末する連中がいる。


本気で許さねぇ奴がいるなら、あいつらに頼んでみな。


だが忘れるなよ?


どんなに相手が地獄に落ちるべき外道でも、殺せばこっちも外道だ。


頼んだ奴も、殺った奴も、同じ穴のムジナってことさ。


…それでも涙が止まらねぇってんなら、仕方ない。


お前の流した涙、怒り、恨み。


それが金に染み込んでるならーーその重さであいつらは動く。


金額の問題じゃねぇ。


問われるのは…その“恨み”の重さだ。


ーーーーー


本田主哉(ほんだしゅうや)は、どちらかといえば窓際族の部類に入る。


昇進に縁があるわけでもなく、誉れ高い武勲があるわけでもない。派手な事件を追いかけるより、地味な見回りと事務仕事を淡々とこなす後方要員。


このまま平穏な日々が続けば、あと数年で定年退職。時代が時代なら、昼行灯と呼ばれていてもおかしくない男だ。


だからこそ、無理に取り締まって自分から仕事を増やすようなことは、極力さけていた。


今夜も、いつものように夜間の見回りだ。


(はーっ、そろそろおでんに日本酒が飲みたい季節になってきたな)


吐く息が白くなるのを眺めながら、主哉は心の中でぼやく。


だが、勤務中に酒はまずい。いかに自分が役立たずで通していても、その線だけは越えないほうがいい。


(せめておでんでも買って、温まりながら見回りしようかね)


そう思いながら立ち寄ったコンビニの駐車場には、案の定というべきか、数人の不良たちがたむろしていた。バイクを止め、缶コーヒーやスナックを片手に、寒空の下で意味もなく時間を潰している。


「おっ、本田のおっさんじゃねえか。こんな時間までご苦労さん」


片耳にピアスを光らせた少年が、ひらひらと手を振る。


「お前らがちゃんと家に帰っていれば、俺はこんな事しなくてもいいんだよ。寒くなってきたし、帰って風呂でも入れよ。あと酒もタバコも俺以外の前でやんなよ、警察の世話になっちまうぞ」


「おっさんだって警察じゃないのかよ」


「俺はいいんだよ。お前ら補導したって面倒くさい書類仕事が増えるだけで良いことがねぇ。だったら何もしないほうがお互いにとってもいいことだらけだろ」


少年たちは顔を見合わせ、苦笑混じりに肩をすくめる。


その時――。


「相変わらずだな、旦那」


コンビニの陰から、バイク用のライダースーツに身を包んだ男が現れた。手にはホットコーヒーの紙カップ。フルフェイスヘルメットのフェイスガードを上げ、にやりと笑う。


「お巡りさんに迷惑かけるんじゃねぇぞ、坊主たち」


「おう、戻ってたのか」


主哉が気安く声をかける。


男の名はタケシ。主哉の古い知り合いであり、かつて同じ「仕事」に関わった仲間でもあった。


「先週な。古巣の空気が恋しくなってよ」


「おっさん、このカッケーバイクの人と知り合いなの?」


少年たちが目を輝かせる。


「昔ちょっとな。こいつ元傭兵なんだぜ」


「まじかよ、かっけぇ」


タケシは紙カップを一口飲み、わざとらしく空を見上げた。


「戦場で何百人殺したか分からんが、忘れた奴の顔だけが夢に出る。……なんてな、冗談だよ」


「冗談かよ、一瞬びっくりしたぜ。それよりおっさん、あのバイクのシートのイラスト、イカしてんな」


「ああ、あれはなアポストールってんだ。右手に聖剣、左手に魔剣を持ち、正義の為に悪に落ち、悪に落ちてもなお正義の為に刃を振るう、悲しき漆黒の悪天使ってな」


「悪に落ちたら悪じゃねぇのかよ。悪天使ってわけわかんね」


「お前らがもう少し大人になればわかるかもな。その為にはきちんと学校行って勉強しろよ」


そう言ってタケシはヘルメットをかぶり直し、バイクにまたがる。


「それじゃ旦那、しばらくはこの町にいるつもりだから、なんかあったら声かけてくれ」


エンジンが唸りを上げ、ヘッドライトの光が暗闇を切り裂いた。


その背中を見送りながら、主哉は胸の内でひとつ頷いた。


(……一人、戦力が戻ったってわけだ)


ーーーーー


夜の繁華街。


ネオンの光に彩られた通りを、東条慎太郎が笑いながら歩いていた。

高級ブランドのコートを肩にかけ、手にはコンビニ袋。すれ違う女を上から下まで舐め回すように見ては、下卑た笑いを漏らす。


その数メートル後ろを、少し距離を空けてついてくる女がいた。


由紀子。


コートのポケットの中で拳を握り締め、視線は東条の背中から離れない。怯えと憎悪が入り混じった目。手に提げたスーパーの袋には、数本の野菜と一緒に、汚れた紙袋が入っていた。


紙袋の中には、調理用のナイフ。


事件のあと、由紀子はSNSやニュースサイトをあさり、東条の行動を必死に追っていた。

飲みに行く店、よく立ち寄るコンビニ。笑いながら写る写真の数々が、彼女の心に新しい傷を刻み続ける。


(いつか……いつか、あいつに……)


そんな目をしていたのを、主哉は法廷の前で見ていた。だから、完全に放っておくことはできなかった。


頻繁に、というほどではないが、彼は折に触れて彼女の様子を気にかけていた。

職務としてではなく、個人的な勘として。


ビルの陰。由紀子が、紙袋の中のナイフに指を伸ばした、その瞬間。


「…その手では、切れるものも切れませんよ。

それに、そんな事をしても娘さん喜ばないと思います」


背後から落ち着いた声がした。


由紀子は、ハッとして振り向く。そこには、コートの襟を立てた主哉が立っていた。

街灯の光が、静かな眼差しを照らし出す。


手から紙袋が滑り落ち、ナイフがアスファルトの上でカランと音を立てた。


「このままじゃ私のほうがおかしくなりそうなんです…。あの子は、何もしてないのに…。あいつは何も罰を受けていない…。誰があの子の無念を晴らしてくれるっていうのよ…」


吐き出すような声。目尻には乾ききらない涙の跡。


「罰ってのはな、他人が勝手に与えちゃいけないことになってる。でも、気持ちは分かります。俺も、そういう場面を何度も見てきた」


由紀子は視線を落とした。肩が小刻みに震えている。


「少しだけ、話を聞かせてくれませんか? お嬢さんの仏壇にも手を合わせたい」


静かな誘いに、由紀子はしばし迷ったあと、こくりと小さく頷いた。


ーーーーー


質素なアパートの一室。六畳間の端に置かれた仏壇には、まだ若い少女の遺影が飾られていた。

制服姿で笑う写真。その前には花と線香が供えられ、淡い煙が天井に向かってまっすぐ昇っていく。


主哉は正座して、静かに手を合わせていた。その表情は、いつものだらしなさを消し去った、どこか祈りに似たものだった。


手を下ろすと、湯呑みのお茶を一口、口に運ぶ。


「……あの子、小さい頃から歌が好きでね。卒業式でもピアノ伴奏やったんですよ。もうすぐ音大の推薦試験だったのに…」


由紀子の声は、途中でかすかに揺れた。


部屋には、少女が描いたと思しき音符の落書きや、合唱コンクールの賞状が飾られている。

どれも、「ここに居たはずの未来」の名残だった。


少しの沈黙が、二人の間に落ちる。


やがて、主哉が口を開いた。


「…こんな言い方しかできなくてすみません。でも、その胸の中、少しだけ神様にも聞いてもらいませんか」


「……え?」


怪訝そうな視線が向けられる。


「怨みの神社ってご存知ですか。このまちの外れにある古い神社なんですがね。本当に、正当な怨みであれば、そこの神様が罰を与えてくれるそうです」


馬鹿げている、と一言で切り捨てることもできた。だが由紀子は、そうしなかった。

ただ、じっと主哉の顔を見つめる。


「恨みを抱えたまま一人でいるのは、辛いです。でも、誰かに聞いてもらうだけでも、少し楽になることもありますよ。神様になら、全部さらけ出しても大丈夫じゃないですか?」


嘘か真か。信じるか信じないか。


それはもう、この女の問題だった。


翌日。


由紀子は、主哉の言っていた神社を訪れた。


ーーーーー


薄暗く、湿った空気が漂う小さな社――占見野神社(うらみのじんじゃ)


町外れの小高い丘の上。石段は苔に覆われ、ところどころ欠け落ちている。

鳥居の朱もすっかり褪せ、狛犬の片方は鼻先が欠けていた。


境内は荒れ放題だ。落ち葉が積もり、草は伸び、手入れの行き届いた神社とは程遠い。だが、不思議と人の気配だけは絶えていなかった。


その先に、一基の古びた石碑が立っている。


雨風にさらされ、文字はほとんど削れかけていたが、よく目を凝らせば、まだ読み取れる一文が残っていた。


――「五六銭を投げし者、神威により裁かれるべし」


由紀子が石碑を見上げていると、社の横でバケツを持っていた神主が、こちらに気づいて微笑んだ。年の頃は四十代前半。作務衣姿に白い袴。手には、絵馬や藁人形をまとめた束を抱えている。


「びっくりしたでしょ。こんなのばかりなんですよ、この神社」


神主はそう言って、由紀子の前で最後の絵馬を置いた。


そこに書かれた文字が目に入る。


「○○を殺して下さい」「あいつを地獄に」


生々しい怨嗟の言葉が、板切れ一枚ずつに刻まれていた。


神主は祝詞をあげ、用意していた焚き場に火を放った。


パチパチと音を立て、絵馬と藁人形が次々と炎に飲まれていく。燃え上がる炎の色は、どこか普通の焚き火よりも濃く見えた。


「すごいですよね、これほどの恨みが世の中には溢れかえっているんです。……昔は『絆の神様』として信仰されていたんですよ、この神社。でもね、絆を踏みにじる者には神罰が落ちるとも言われていました。だからいつからか“恨みの神社”なんて呼ばれるようになったんですよ」


炎の向こうで、神主が穏やかに笑う。


「無実を救うのが法律、有罪を裁くのがシステム。で、システムから漏れた奴らは神様の罰に任せましょう」


それが、この神社の、そしてこの男たちの正義の「前説」だった。


由紀子は、しばらく黙って炎を見つめていた。やがて、ゆっくりと財布を取り出す。


なけなしの一万円札が、指の間に挟まれる。


彼女はそれを賽銭箱へと納めると、固く目をつぶり、震える手を合わせた。


「私と娘との絆を奪ったやつに、どうか罰をお願いします…神様…」


その願いが聞き届けられたかのように――。


神社のどこかで、風鈴が「チリーン」と一度だけ鳴った。


ーーーーー


どこかの薄暗い部屋。その一角で、スマホの画面がふっと光を放った。


通知音は鳴らない。だが、画面には確かに文字が流れてくる。


――(神の社:五六銭が収められた。依頼者は娘を殺された母、由紀子。神の目と耳によって真実を見極めよ)


「了解だよ」


画面を覗き込みながら、猫背気味に椅子に座る青年が呟いた。


隼人(はやと)


通称『神の目、百眼』。情報収集能力に特化した天才ハッカーである。


彼の前には、複数台のモニターと、塔のように積み上げられたPCが並んでいた。コードの束が床を這い、ファンの回転音が途切れることなく響いている。


隼人は手早くキーボードを叩き、いくつものウィンドウを開く。


まずは東条慎太郎のクレジットカードの使用履歴。キャッシュカードの入出金記録。銀行、カード会社、ありとあらゆるサーバーに侵入し、必要なデータだけを抜き取っていく。


次に、過去の通院履歴や犯罪歴を洗い出す。病院のカルテデータベース、警察内部の記録。表に出ない情報が、いくつも画面上に浮かび上がった。


それらを整理し、暗号化して『神の耳』宛てに送信する。


さらに携帯会社のサーバーにアクセスし、事件前後のGPS履歴を入手した。行動範囲内にある防犯カメラを片っ端からハックし、当日の実際の足取りを再生していく。


コンビニ前、繁華街、雑居ビルの出入り――。


そして最後に、クラウド経由で東条のスマホの中へ侵入した。写真、動画、メッセージ。フォルダをひとつずつ開き、必要なデータを片っ端から解析していく。


作業開始から数時間後。


隼人はキーボードの手を止め、鼻で笑った。


「やっぱ真っ黒、こいつ三人目じゃん」


ーーーーー


夜の街の片隅にある、小さなクラブ。


黒江(くろえ)は、カウンターの中でグラスを磨いていた。壁には酒瓶がずらりと並び、低く流れるジャズが店内に煙のように漂っている。


彼女は繁華街の古参だ。自らが「働き蜂」と呼ぶ情報提供者を幾人も囲い、夜の街のことで彼女の耳に入らぬことはないと言われる情報屋でもある。


スマホに届いた隼人からのデータを、黒江は指でスクロールしながらざっと目を通した。東条の素性、交友関係、よく出入りする店。


自分の記憶と照らし合わせて、整合性を確認していく。


やがて、彼女は親指で画面を軽く弾いた。


(神の社:神の耳から確認事項、ターゲットは一人でいいのよね?)


すぐさま、画面に別の通知が重なる。


(神の社:神の目からコール。グループトーク申請)


画面をタップすると、複数人のトークルームが開いた。


「で、なんか分かったのか?」


主哉――仕事中の名は『影打かげうち』が問いかける。


「真っ黒だったよ。前科もあり、確定だね。かなりの猟奇的思考の持ち主だよ。今四人目のターゲット探してる」


隼人――『百眼』が淡々と告げる。


「それなんだけど、ターゲットは本当に一人でいいのよね」


黒江――『百識ひゃくしき』が問いかけた。


「どういうことです?」


神社の奥、社務所の一室。『元締め』である神主が、同じトーク画面を見ながら問い返す。


「あの事件の日、犯行前の時間には仲間と3人でいたみたいなんだけど」


「それ僕も気になってた。防犯カメラの映像に3人で歩く姿が写ってた」


「その仲間二人の身元は分かっていますか?」


「ターゲットの高校からの悪友みたい。東条と違って浪人せずに現役合格、今は大学生」


「了解ちょっとまって、今その二人も探ってみるよ」


隼人の指が再び踊りだす。


「頼むぜ、疑わしきは罰せないってのが掟だからな」


マサ――仕事中の名は『鋭針えいしん』が、屋台の裏でスマホを片手に呟いた。


数分後。


「今、クラウド経由で仲間二人のスマホに侵入してるんだけどさ。仲間の一人のスマホの中に当日の犯行中の動画が残ってる。殺害の瞬間までは流石に写ってないけど、行為中の映像と、三人の顔まではっきり」


「どうする元締め。俺は二人も同罪だと思うぜ」


「でも依頼は一人なんでしょ?」


黒江が、あえて釘を刺すように言う。


神主は目を閉じ、しばし沈黙した。


「神に意を問いてみた結果、神託がありました。対象は東条慎太郎他、仲間二人。ここに神威を発動します」


「いや元締め、待ってくれ。さすがに俺と主哉で三人はきつい」


「そういや、タのやつが戻ってきてるんだ。あいつに助っ人頼もう」


「スマホの動画は僕の方で削除しとくよ、母親の目に入れさせるわけにはいかないし。他に画像とかも残ってないかどうか身辺探ってみる。娘さんを二度目の死に追いやるわけにもいかないからね。ネットに流出してないかどうかも確認してみる」


「一応そのデータ、匿名で警察にも送っといてくれ。表の世界でもきっちり罪を負わせてやらんとな。死で終わりにはさせねぇ」


「決まりましたね、各人神威の準備を」


「「「「「了解」」」」」


トークルームに、いくつもの既読マークが並んだ。


ーーーーー


「どうしたんだ旦那、突然の呼び出しなんて」


人気のない路地裏。街灯の下で、タケシがバイクにまたがったまま、ヘルメットのフェイスガードを上げた。

排気ガスと冷たい夜気が混ざり合う中、主哉はコートのポケットに手を突っ込んだまま、あっさり言う。


「仕事の手が足りない、助っ人を頼みてぇ」

「別に俺は構わないが、いいのかい? 突然こんな素性の知れない男をいれても」

「今更だろ。いくら身元不明でも、かつてのメンバーだ。もしもおまえが悪人なんだとしたら、今頃神の裁きで地獄に落ちてるだろうよ」

「この世界が、半分地獄のようなもんだけどな」


タケシが苦笑する。


その腕に巻かれたスマホが、ふっと震えた。


新しいアプリがインストールされている。黒い社のシルエットに「神のかみのやしろ」という文字。


「そのアプリな、先代が開発した、新しい時代に動く俺達の、新しい時代に対する武器だそうだ。絶対にスマホから消すんじゃねぇぞ」


主哉が言い終える前に、スマホの画面から声が聞こえた。


『ハイハーイ、新しいお仲間さんはじめまして。私は神の目・天眼だよ。いま上空からその周辺を現場監視中』


『はじめまして、真眼です。私の自立ドローン10機が、天眼と一緒に通行人を見張ってるよ』


『百眼です、周辺の防犯カメラは全てハッキング済み。でもドラレコは妨害できないからね、それだけは気をつけて』


『久しぶりだねタケシ。また一緒に仕事するなんて思ってなかったよ。今は仕事中、百識って名乗ってるの。名前で呼んじゃだめだよ』


「俺の事は仕事中は影打(かげうち)って呼んでくれ。で、お前の名前は闇糸(やみいと)だ、忘れんなよ」


『俺は鋭針(えいしん)だ。もっかたこ焼き屋台営業中だからよ。できればこっちに一人誘導してくれ』


『三人は現在、いい感じでヨッパライ中。鏡花って店なんだけど。百識、なんとかして店から追い出せる?』


『鏡花ね、了解。私の働き蜂一匹飛ばしてなんとかしてみる。後、誘導するのにも何匹か飛ばすね』


『闇糸さん。あなたの技、影打から聞いてるよ。仕事に使えそうな場所、近くに解体工事中の廃ビルがあるから誘導するね』


「これが新しい時代に合わせた仕事の仕方か。昔とだいぶ変わっちまったな。ま、足を引っ張らないように頑張るとしますか」


タケシは小さく笑い、バイクのエンジンを切った。


ーーーーー


繁華街のクラブ「鏡花」。早い時間帯から酒が入り、東条とその仲間二人はすっかり出来上がっていた。


そこへ、童顔の低身長女子高生がふらりと現れる。あどけない笑みでグラスを差し出し、とりとめもない話をしながら距離を縮めていく。


彼女もまた、黒江が買っている「働き蜂」の一匹だ。


やがて、店の外。


彼女はさりげなく三人を連れ出し、そこで待っていた清楚メガネのお嬢様と金髪ギャルが合流した。三人の女の子と三人の男。下心を刺激するには十分な組み合わせだ。


狭い路地と大通りの分かれ道で、女たちはさりげなく男たちを三方向へとバラけさせた。それぞれ、別々の「終点」へと誘導していく。


ーーーーー


――鋭針。


「こっちに美味しい屋台があるんだよ」


金髪ギャルに腕を引かれ、ふらふらとついてくる男が一人。酔いで足元は覚束ないが、顔は完全に緩み切っている。


「いまおすすめの美味しいの買ってくるからチョット待ってて。その後であなたのお部屋行こ」


ギャルはベンチの手前で男を座らせると、くるりと踵を返して屋台の方へ駆けていった。


そこは、公園の中のたこ焼き屋台。


マサは、金髪ギャルと男のやり取りを視界の端で捉えた。客へ声をかけるふりをしながら、さりげなく腰の後ろに手を伸ばす。


千枚通しの口金を緩め、たこ焼き鉄板のコンロで針部を炙る。金属が熱でわずかに赤く染まり、鈍い光を帯びる。


マサは息を整え、右手に持った千枚通しを逆手に構えた。


スナップを効かせた一撃。


持ち手を離れた針部は、わずかな回転を伴いながら夜気を切り裂き、一直線に男の首筋へと飛んだ。悲鳴を上げる暇すら与えず、皮膚を破り、頸動脈を正確に貫く。


男は目を見開いたまま、ぐらりと前のめりに倒れかける。だが、血はほとんど地面に滴らない。傷は小さく、外見からはただ酔いつぶれて眠り込んだようにしか見えなかった。


「どうしたんだいマサさん」


常連の一人が声をかける。


「いや〜、ハエがいたんで……追っ払ったら、千枚通しの先っぽ飛んでいっちまいやした。後で探しに行きますよ」


「何やってんだよマサさん」


常連客達の笑い声で、屋台が明るく満たされる。


マサのスマホが、ポケットの中で短く震えた。


――(神の矛:鋭針 仕事完了)


ーーーーー


――闇糸。


「私、経験ないんですけど、初めてはあなたのようなイケメンがいいです」


清楚系お嬢様の声に気を良くしたもう一人の男は、彼女と腕を組んで裏路地へと入り込んでいった。酔いと欲望が混ざり合い、足取りは軽い。


路地の奥、立入禁止の表示が貼られた解体工事中の廃ビルの前まで来ると、お嬢様はふいに手を離した。


「あれ〜、かくれんぼでもしてるのかな」


軽い調子で周囲を見回しながら、男は「立入禁止」のシートをひょいとめくり、中へと踏み込んでいく。


錆びた鉄骨と剥き出しのコンクリート。薄暗い内部は、足音が不気味に反響する。


その様子を、廃ビルの三階から見下ろしている男がいた。


タケシ――闇糸(やみいと)


腰に巻いたベルトの内側から、細いワイヤーを引き抜く。先端を器用に結び、小さな輪を作ると、それを男の行く先へと垂らした。


「どーこでーすかー、つかまえちゃいますよー」


お嬢様の声を真似た甲高い声が、闇の中に響く。男は鼻の下を伸ばしながら声のする方へ進み、知らず知らずのうちに首を輪の下へ滑り込ませた。


輪が首にかかった瞬間。


タケシは無言でワイヤーを引き上げた。


手元のワイヤーを、建物から突き出した鉄骨に一気に巻きつけ、反対側を握ったまま三階の縁から飛び降りる。


重力に引かれ、タケシの体が落下する。その勢いがワイヤーを強く引き、男の首が勢いよく締まった。


悲鳴を上げる暇もなく、男の体は宙吊りになる。足がわずかに痙攣し、やがて力なく垂れ下がった。


タケシは地面に軽やかに着地し、ワイヤーを手慣れた動きで巻き取る。


スマホの画面には、静かに通知が表示された。


――(神の矛:闇糸 仕事完了)


ーーーーー


――影打。


人気のない公園。


街灯に照らされた遊具の影が、地面に歪んだ模様を描いている。その間を、一人の少女が悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。


「やめて! 誰か…たすけ…」


夜の空気を切り裂く声。だが、この時間、この場所で、それに応える人間はいない。


男の手が伸び、少女の服を掴んで引き裂く。布地が裂ける音が、妙に生々しく響いた。


少女は必死に叫び、泣き、逃げようとする。だが、すぐに捕まってしまった。


「さあ、いいことをしようか」


耳元で囁く声。東条の顔には、歪んだ笑みが浮かんでいる。


その後ろから、もう一人の男が、静かに近づいていった。


警邏帽を目深にかぶった、中年の警察官。


「お巡りさん助け…」


少女が縋りつこうとした瞬間、東条の拳が横から飛んだ。


「うるせえ」


少女は地面に叩きつけられ、口の端から血をにじませる。


「いや、違うんですよ、お巡りさん。これは俺の彼女で」


東条は笑いながら、いつもの嘘を口にした。


主哉は、深く、深くため息をついた。


「……そうやって、あの子も殺したんだな」


かすかな沈黙が流れる。


「人間には越えちゃならねぇ一線がある。それを越えるとな、同じことをしても満たされないで、さらに快楽を求めるようになる。

お前が殺したあの子で3人目だそうじゃねぇか。その上、ほとぼりも冷めないうちに4人目か」


主哉は腰に提げた警棒の柄を捻った。


カチリという小さな音とともに、柄の部分から細い刃が現れる。暗闇で鈍く光る、仕込み刃だ。


「いや、違うんだ。俺は何もやってな…」


言い訳は最後まで続かなかった。


短い刃が、一瞬で男の胸元に突き立てられたからだ。狙いは心臓。外側から見れば、胸を押されたようにしか見えない。だが刃は、確実にその鼓動を止める位置を貫いていた。


「言い訳は地獄で閻魔様にするんだな」


主哉は淡々と言い放ち、刃を引き抜いた。血はほとんど外へ出ない。

男の体はぐらりと揺れ、そのまま側の水路へと落ちていく。


翌朝。


近くの水路で浮いていた死体が発見され、「急性アルコール中毒で転倒死」の報道が流れた。


ーーーーー


数日後の朝。


由紀子のもとに、ポストが開く音が響いた。新聞を取りに出た彼女は、投函口から覗く白い封筒に気づく。


差出人不明の無記名封筒。


部屋に戻り、震える指で封を切る。中から出てきたのは、四千四百円と、墨で書かれた一枚の紙だった。


『神の威は下った。人の法では裁けぬ悪に、神の法を持って平等なる裁きを』


由紀子の指が、微かに震える。


彼女は深く頭を垂れ、封筒と紙を仏壇の前にそっと置いた。娘の遺影を見つめ、静かに手を合わせる。


涙は、もう以前のように溢れ出しはしなかった。ただ、胸の奥のどこかで、何かが少しだけほどけた気がした。


ーーーーー


その頃。


いつもの公園で、いつものように、主哉はたこ焼きを頬張っていた。昼下がりの柔らかな日差しが、ベンチに座る二人を照らす。


「今更ながらに思うと、五六銭ごろくせんって皮肉が効いてるなって」


主哉がぽつりと言う。


「皮肉?」


マサが聞き返すと、主哉は新聞をたたみながら口角をわずかに上げた。


「五六銭ってよ、コ・ロ・セって読めねぇか?」


「殺せ、か。昔の人にも随分と洒落のわかる奴がいたもんだな」


マサは笑いながら新聞を開いた。


そのページの片隅に、小さな記事が載っている。


――一人の医者の突然死。


講演中に突然倒れ、そのまま息を引き取ったという。死因は心筋梗塞。事件性はなし、と記事にはあった。


「医者が一人死んだらしいぜ。公演中に突然の心筋梗塞、事件性はなしだってよ」


「事件性はなしね…。そういえば昔、毒針で暗殺やってたな」


主哉の言葉に、マサは肩を竦めた。


ーーーーー


同じ頃、繁華街のクラブ。


自身の店のカウンターで、黒江は鼻歌を歌いながらご機嫌にグラスを磨いていた。その指先は、まるで何十年もこの仕事を続けてきたかのように滑らかだ。


カウンターの片隅には、何気なく針山が置かれている。裁縫道具にしか見えないそれだが、刺さっている針の何本かは、わずかに鈍い光を帯びていた。


かつて神の矛、毒蜂(どくばち)と呼ばれた女。


その腕は、いまだ健在である。


ーーーーー


裁けぬ悪を、天に代わって。


だがこれは、決して正義などではない。ただの人殺しだ。


ただ――止まらぬ涙がある限り、恨討人(うらうちびと)は現れる。


──次の“神威”を下すために。

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