たかが婚約者候補のひとりでしたから
あらすじをご確認ください。
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誤字を訂正いたしました。
誤字報告、ありがとうございます。
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ガヤガヤと賑わう食堂の一角の端、二人掛けのテーブル席が定位置。
店主に目で合図すれば、いつものセットが流れるように目の前に置かれた。
クズ野菜と肉の切れ端の煮込みと麦酒だ。料理の名前は貧弱だが侮ることなかれ。じっくりと煮込まれているのに具はゴロゴロだ。貴族用のレストランから譲られるクズ野菜と肉の切れ端は、庶民にとって立派なご馳走だ。
トロトロに煮込まれた熱々の煮込みを口に入れてハフハフと咀嚼し、存分に味わった口に冷えた麦酒を流し込む。
ゴクゴクと喉を鳴らして、プハッと息を吐き出して杯を置いた。
「旨……幸せ」
仕事は定時。残業は滅多にない。
職場の人間関係は、まあまあ良好。
仕事内容に危険もなく、難しいこともない。
賃金はそう高くはないが、一人で暮らす部屋を借り、年に何回かは服と靴を新調でき、仕事終わりの夕食に麦酒をつけることはできる。貯金は本当に少しずつだが塵も積もればだ。
いや、幸せだなぁ……と、しみじみ思う。
足るを知り、毎日が充実するとこんなに胸が温かいなんて、気付けたこと自体が幸せだ。
なんせずっと思考が停止して空回っていたからなぁ。
ホント、今から思えば考えられないし信じられない。視野狭窄のうえ奴隷根性だけはあるという特殊性癖を周囲に晒していたかと思うと、その辺をゴロゴロとのたうち回りたくなる。
二年前まで私は二つ隣の国の貴族の娘だった。
徹底した教育体制により、各学問をはじめ、家政、領地経営、更には王位継承権もあったがために、帝王学までも学ぶ羽目になった。もちろん、淑女としてのマナーレッスンは省かれない。
英才教育? 違うね。今だから言えるけれど、あれは虐待……いや、飼育だよ。疑問を持たないように洗脳され、家長に従うよう躾けられた家畜。父の決めた相手に嫁いで子を産み、いいように使われ、命を終える。
それを価値あることで誉れだと信じたままでいれば、それが幸せなのだろうけど。
民主主義の国で生きた人生を思い出しちゃったもんね。
気付いちゃうわな。私の人生、終わってるって。
まあ、前世も家畜ならぬ社畜として生きていたけどね。
始発から終電まで仕事するのは当たり前。名目上の休みはカレンダー通りだけど、終わらない仕事を前に出社するしかなく、当然サービス出勤。残業代は規定時間まで基本給に含まれて、書類上はその時間を越えた残業は無し。つまり、基本給しか出ない。ちなみに交通費も満額出ない。住宅手当もない。福利厚生は色々な制度だけはあるけど、使っている人は見たことはない。有給休暇なんて、勤務してるのに勝手に処理されて日数だけは取得したことになっていた。金銭にも時間にも気持ちにも余裕がないから皆ピリピリして人間関係が良いはずもなく。それでも働いていたのは、次の職を探す気力もなかったのと、『そこに自分の席がある』ことを手放したくなかっただけ。でも、もうダメだ、と退職を決意したところまでの記憶はある。……たぶん、退職まで身体が保たなかったんだろうな。その辺はもう朧気だ。
母ひとり子ひとりで育ち、高校卒業間近に母は病気であっという間に旅立った。ホントはずっと調子が悪かったのだろうけど、仕事を休むと給料が減るから我慢したのだろう。病院にかかった時には手の施しようがなかった。
悲しくて寂しくて何もできなかった自分が悔しくて、途方に暮れながらも卒業して就職して数年で私も旅立ったことになる。
私の前世って……。まあ、過労死する自分を母に見せなくて済んだから、人生、何が幸いするか分からないな。
さて、そして今の私。
今の私の人格……は、意思を持たないように教育されたおかげで個人としての性格が曖昧で、感情に乏しい。花を見て美しいと思っても、美しいのはただの共通の価値観の一つだと認識しているだけで、心が動いての感嘆ではない。好ましい、という感情も湧かない。それが必要か必要でないかで判断する。万事がそうだった。
というわけで、前世を思い出した今、私は私だけど、教育によって言うことを聞くだけの感情のない無個性な人格はあっと言う間に溶けて無くなり、今世の記憶はしっかりあるが、前世の人格が『私』を占めている状態だ。教育のおかげで大抵のことは何でもできるハイスペックはそのままに、しかしながら前世の記憶から貴族としての意識はほぼ無し。庶民万歳だし人権意識高め、感情の起伏激しめのただの町娘として生きている。
二年前、本当に前世を思い出して良かったと心から思う。思い出していなかったら……と思うとゾッとする。いや、ゾッとするのは今の私で、当時の私のままだったら何とも思わずに淡々と過ごしていたんだろうけど。あーホントに思い出して良かった。
三歳から始まった厳しい教育は十六歳の貴族学校入学まで休むことなく続いた。熟しちゃう能力があったのが仇となった形だと思う。
公爵である父も、王家から嫁いできた母も、嫡男の兄も、兄を補助する双子の弟たちも、私には無関心だった。食事を共にすればいい方で、話をするどころか、まる一日顔を合わせないこともザラだった。
母は前王陛下の歳の離れた異母妹で、現王陛下から見たら同い年だが叔母にあたる。その母の子である私は現王陛下の血の繋がった従妹だ。現王陛下の子である王太子殿下から見たら私は年下の従妹叔母になり、王位継承権も一桁台である。
王位継承権があるので教育は受けるけど、公爵家なので王家としての公務はない。なので、私は王太子殿下とはほとんど関わったことがない。兄と弟たちは頻繁に会っていたようだけど、私は夜会などで家族と一緒に挨拶をする程度だ。個人として言葉を交わしたことはなかった。
現王陛下には現在御子が二人いて、王太子殿下と姉君の王女殿下だ。王女殿下は王太子殿下と入れ違いで貴族学校を卒業され、婚約者である隣国の王に輿入れする準備中である。
翌年、私も貴族学校に入学したのだが、女性の王族が在籍していないので、最も身分が高い女性は公爵令嬢の私であり、社交界の縮図でもある学校内の女性たちの統率を求められることになった。
まあ、自分の立ち位置については分かっていたことだったから、特に困難もなく学校生活を送っていたのだけど、二年生になって歯車が狂いだした。
入学してからもボツ交渉だった王太子殿下が生徒会長になる際に私が副会長になり、それだけではなく、唐突に王太子殿下の婚約者候補となったのだ。前触れもなく決定事項として父から伝えられたそれに、眉間に皺を寄せないようにするのが精一杯だった。
候補ってなんだ。
しかも候補は私を入れて三人いた。
私に対する教育が熾烈だったのは、いずれ王太子殿下と婚約し、王太子妃、ひいては王妃となるためのものだと理解していた。私の身分と血がこの国にとって一番納まる配役だから、時が来れば役が与えられるだけ。そこに感情など必要なく、殿下と交流を持つ必要も感じていなかったし、政略結婚とはそういうものだと教わってもいた。確かに、誰に言われたこともなかったが、そう決まっているものだと私は思っていたのだ。
私はこの時に気付くべきだったのだけれども、言われたことは熟せても自分で考える能力には乏しかったから考えに至らなかった。
王太子殿下との交流が無かった意味と、もし、その配役が望まれているならば、父がとっくに婚約させていただろうことを。
その上、色々あったが簡単に言うと、私はやり過ぎた。
学業も。
生徒会の仕事も。
婚約者候補としての王家の公務も。
将来の王妃としての社交界の統率も。
公爵領の領地経営も。
屋敷内の家政も。
寝る間も惜しみ、私は持てる力を駆使して、やり過ぎた。
人間関係の機微に疎い私は、所詮人間は感情で動く動物であることを真に理解していなかったのだ。
王太子殿下の卒業を控えたある日。
私は食事をとる間もなく書類仕事をしていた。生徒会の仕事と、いつの間にか担うようになっていた王家の書類だ。
処理が終わり、殿下に確認のサインをもらうために一人で生徒会室に向かった。次の生徒会長は私だが、卒業をもって引き継がれるため、未だ殿下が会長だった。
入学当初は公爵家の私に付き従う者たちがぞろぞろとついてきて移動するにも団体だったが、最近は共に行動する者もいない。
生徒会室は一階にあり、広い中庭に面していた。生徒たちがいつでも集えるように開放されており、窓が開いていた。
笑い声とともに聞こえてきた言葉に足が止まった。
「ヴァルター様もお人が悪い。いつまでも『候補』でしかない高貴な方にあれだけの量の仕事をさせて。王宮の文官が数人がかりで行うものですよ」
「王太子妃になるのを夢見ながら仕事を頑張っているのではないですか? 隠し切れていないクマが哀れですね」
「ヴァルター様の婚約はとうに決まっていて、まもなく発表されるというのに。お可哀想な方」
「……仕方がない。その能力を世間に知らしめるためには公爵令嬢ではなく準王族である婚約者でないと」
「婚約者候補、ですわよね。いい気味……。いつも自分が正しくて他人が間違っているという顔をして、こんなこともできないのですか、なら私がやります、って。では全部自分がやれば良いのよ。独りでね、一生!」
声は、婚約者候補の侯爵家の令嬢と隣国の王家の姫を祖母に持つ伯爵家の令嬢、側近候補の侯爵家令息と伯爵家令息、そして王太子殿下。
頭が真っ白になったのは一瞬。
蛇口を捻ったかのように流れ出る記憶たちが頭の中に溢れた。
この国じゃない。この世界じゃない。私じゃない。でも、私の記憶。
踵を返して生徒会室から離れる。
やばい。
やばいやばいやばい。
これやばいって……!!
私、生まれ変わっている……!?
そして、全方位に嫌われている……!!
家族からも、友人たちからも(そもそも友人の定義って)、一緒に仕事をする文官や侍女、護衛たちからも、領民たちからも。
私は、嫌われている。
前世を思い出して自分のことを『嫌われ者』だと認識するって、どんな罰だよ、嫌だぁ……!!
涙が滲んでしまうが、幸い誰ともすれ違うことなく与えられている執務室に到着し、滑り込んで扉を閉め、鍵をかけたところで力が抜けて座り込んでしまった。淑女が床に座るなど、人に見られたらそれだけで醜聞だ。
そもそも生徒会の仕事なのに、生徒会室を使わせてもらえていない。
一人で仕事をして、定期的に終わった書類を取りに来る侍従がいるだけ。
机に積み上がった未処理の書類に目を向ける。
生徒会の仕事の他に公爵家の陳情書や予算書……王太子の婚約者候補としての仕事にまぎれて王妃の分掌事務まである。
生徒会副会長の仕事じゃない上に、生徒会の仕事も一人で行う量じゃない。
文句も言わずにさばいていくから、どんどん周りが仕事しなくなっていった。
……いや、文句じゃないけど、文句みたいなこと言っていたわ。そうしたら周りから人がいなくなっていったのだ。
『同じ失敗を繰り返すとは、どうやらあなたは自分の職務に対する責任を軽く考えているようね』
『何を訴えたいのか分からない書類は手に持つ価値すらありません』
『こんなことが指示なくできないようでは、あなたのご両親もさぞ肩を落とされていることでしょう』
『あなたの意見は私に必要ありません』
『その処理速度ではやる気がないと公言しているも同然です』
悪っ……私、性格悪!!
悪意はちっとも無いのは本人だから分かるけど、意地が悪い。言い方が悪い。言って相手がどう受け取るか想像力が無い。
私もこんな人と一緒に過ごすの嫌だぁ。
『ヴァルター様』
皆、王太子殿下を名前で呼んでいた。
私には許されていない、呼び方。
親戚なのに交流がなかったのは、下手に交流して私が実質上の婚約者になるのを避けるためか。
厳しい教育は、外交上、王家の人間を人質に差し出すような何らかの事態になった時、王太子殿下と王女殿下を守る駒が必要だから。王家に連なり、大切に教育を受けてきたという体の、身分は高いけれども、替えの利く立場で従順な者が。
気付けよな、有能なんだろ私!
でも、思い出す前なら、それが私の役目であればと、ホイホイ行った気がする。
色々思い出した今だからこそ、受けてきた教育と相まって自分を客観的に見れてしまう。
教育、……怖!!
私は公爵家にとって、生まれた瞬間から出荷が決まっている家畜。要らぬ情が移らないように、父も母も兄弟たちも、私の手を離したのだろう。私がどういう末路を辿っても、胸の痛みが少ないように。
そして、自分で言うけど、有能に育った私を都合の良いように使うため、『婚約者候補』にして準王族の枷をはめ、王家の公務をどんどんさせていった。他の二人の婚約者候補には、孤児院訪問など簡単な公務しか与えていないのも知っていたけれど、馬鹿な私は、できる者ができることをやれば良いと、文句も言わなかった。
いや、クズじゃん。王家も公爵家も、人でなしじゃん。
たとえ、最終的にはそういう役割を与えられるのだとしても、それまでは分け隔てなく接すればいいじゃんよ。自分たちの心が痛むからか知らないけど、そもそもそんな環境にいた人間が、国のために素直にその身を捧げると思っているんだろうか。
……思ってないから、私をこう教育したのか。
そして私は、教育の副産物である性格の悪さから独りになり、国は私を使えるだけ使ってから放り出すのだろう。
マジでやばいな。
このままだと、国に人質として使われて人生終わるよりも先に過労死するわ。なんかこのフワフワ感、前世でも覚えがあるもの。
前世の最後の方は、疲れすぎて食べ物も胃が受け付けなくなって、寝る時間も無いけれど、せっかく横になれる時間ができても身体が変に緊張して眠りにつけなくて、眠れないならとパソコンを起動してキーボードを叩き出し、気絶するように短時間眠った後、出勤すると仕事中はギンギンに目が冴え、でもフワフワして真っ直ぐ歩けなかった。
今まさに同じような生活と体調じゃん……。
末期だ。次の世への扉が開きかけている。
とりあえず部屋を見渡すと、テーブルに焼き菓子と水差しが見えた。
のろのろと立ち上がろうとしたけれど、トスンと尻餅をついてしまった。自覚したからか、疲れ切った身体に力が入らない。
助け起こしてくれる人もいない独りの部屋。手をついて這いながらソファによじ登り座り、水を含んだ。
込み上げてくる胃液を目を閉じてやり過ごしてから、いつ置かれたか分からない固いクッキーを砕いて小さな欠片を口に入れた。吐いても良いから腹に入れる。たとえ吐き戻しても、身体に少しでも水分と栄養分が残れば良い。
腹はぐるぐると暴れたが、しばらくすると吐くことなく落ち着いた。
少し頭が回り出す。
王太子殿下の婚約が正式に決まり、近々発表されると言っていた。声音から、婚約者候補のあの二人は自分が選ばれたと自信を持っているようだった。ということは、どちらが選ばれたか二人はまだ知らないのだ。もし知っていたら、選ばれなかった方が穏やかでいるはずがない。
近々……おそらく、陛下もご臨席される学校の卒業パーティーで発表するのだろう。
そして、私の出荷先も同時に。
今、可能性として最も高いのは帝国の後宮だろうな。
隣国を挟んだ先にある帝国は、周辺のいくつもの国を併合して成り立つ軍事国家だ。この国は隣国と協定を結び、侵略されないように外交を尽くしている。王女殿下が隣国の王妃となるのも両国の関係強化のためだ。
しかしこれは帝国からしたら面白くない。帝国が正式にこの結婚に抗議しないのは、筋の通らない内政干渉だと逆手に取られるのが分かっているからだ。ピリピリした国家間では、何がきっかけで戦端が開かれるか分からない。
では、ピリピリの帝国をどう宥めるか。
大事に育てた(ハンッ)私を帝国に差し出すことで、帝国にも重きを置いていることを主張するのが一番手っ取り早い。
ちなみに、帝国の皇帝は私より三十歳は年上で、後宮にはトップとなる皇后の他、各国から召し上げた妃が二十人以上いるという。皇子皇女は四十人以上。すでに孫もたくさんいるらしい。正確に分からないのは、後宮内のことはあまり外に情報が出てこないから。誰から何人生まれても、誰がいなくなっても、正確な情報は外には漏れない。
そこに私を送り込む。
この国は、王太子妃にするために大事に育ててきた私を手放したという譲歩を見せ、帝国は受け取ることで寛容であることを周辺諸国に見せつけられる。
ちなみに隣国はとっくに大陸一の美姫と謳われた姫を後宮に入れ、何がどうなったのか、皇帝ではなく皇太子との間に子をもうけ、数多の寵妃を押し退けていずれ皇太子妃となるだろうと言われている。後宮は皇帝のもので、皇太子は入れないはずだが……何があったのか知りたいような知りたくないような、後宮とはそんなところだ。
今後、後宮で私がひっそりと消えたとしても。
よしんば、上手く立ち回って後宮を牛耳るようなことになっても。
この国に損は何一つない。
クソだな。
でもまあ、私が唯々諾々とこの国に従っているのであれば、最適解であると私も理解できる。一人の生贄で国が守られるなら、と。
でも、私、従わないし。
育ててもらった恩? 貴族としての義務?
そんなの、これまでの働きでとっくに返していると思う。むしろ給料もらいたいくらいだわ。必要な物は与えられたけれど、給料はもちろん自由になる小遣いもなくこき使いやがって。
でもまあ、最後に引き継ぎくらいはするか。人としてな。
力の入らない身体を叱咤し、執務机に移動して山になっていた書類を仕分けた。婚約者候補の分だけ今さっさと処理してやった。確かに私の仕事かもしれないけれど、これだって量がおかしい。
生徒会、公爵家、王妃の山に分け、それぞれの書類の一番上にペラ一枚で申し送りを書いて置いた。最後に、もうすぐ書類を取りに来るだろう侍従に宛てたメモを置く。そもそも、侍らず従いもしない奴が侍従なんて名乗るなよな。
申し送りは全山同じ。
『今まで何故か私が進めていましたが、今後はやるべき人が行ってください。進捗は報告していた以上のものはありません。きちんと報告していた以上、その時点で私の手を離れたものと考えます。もしも何か問題があったとしても、そもそも、私がやるべき範囲を超えた仕事は私に責任はありません。私に仕事を任せていた人に責任を問うてください。もう無理です』
侍従へは少し恨みを込めて強めに。方方からコイツが持ってきた仕事を無条件にさばいていた己の愚かさを八つ当たりする。
『今まで良かれと思って手伝ってきましたが、これらは私が処理すべき書類ではありません。主の職域を理解せずに書類を運んできたことは不問にします。責任を持ってそれぞれの該当者に間違いなく戻すように。それがあなたの最後の仕事です』
これでよし。さあ、逃げるか。
逃げたところで、まあ探されるだろうなあ。今まで私に仕事を押しつけて楽していた連中だもん。
でも、見つからない自信があるよ。
だって、性格の悪い(自分で言って結構なダメージ)生活能力皆無な公爵令嬢を探すんでしょ? どんなに体調が悪くても……怖い思いをしても、背筋を伸ばして表情ひとつ変えなかった人……それが私。私がそのまま町に逃げても、そりゃすぐに目立って見つかるわ。
でも今の私は、性格はそんなに悪くないし(たぶん)、庶民オブ庶民の言動で、加えて過労死寸前。痛いのも気持ち悪いのも苦しいのも隠すことはない。そもそも感情を隠すこともしないし。
きっと、私を目の前にしても『私』だと気が付く人はいないんじゃないかしら。
いつもビシッと結い上げていた髪を解いてふんわりとした三つ編みにして、いかにも「具合が悪いです……」という表情をして(いや、事実具合悪いんだけど)、念のため、目が悪くなっても体裁が悪いと人前ではかけたことのない眼鏡をかけると、髪の色も目の色も顔の造形も変わらないのに別人になった。
そうして私は堂々とフラフラしながら自分の執務室を出た。何人か生徒とすれ違ったけれど、『私』とすれ違う時とは違い、恐れられもせず道も譲られず特に話しかけられることもなく寮に戻ることができたのだった。
そう、寮なんだよ。
公爵家の姫で王太子殿下の婚約者候補がだよ?
入学した時は公爵家のタウンハウスから通っていたけど、仕事に終わりも区切りもなくて、ここ一年は寝るためだけに学校の敷地内にある寮に部屋を借りてんだよ。
イヤもう本当に、奴隷だよ……。
そしてそれを『私がやらねばならない』なんてむしろ喜んでた私、マジでやばい奴だよ……。
寮の部屋は最低限の着替えと授業で使用する教材くらいしかない。
まざまざと自分の奴隷ぶりを目の当たりにして、後腐れなく出て行けるな~と笑ってしまった。寮に侍女は伴えないので、寮にいるのは王都に館を持っていない地方貴族の子が主だ。
私、公爵令嬢。でも、物心ついた時から侍女なんてドレスを着る時にだけどこかからやって来る人たちのことだったから、身の回りのことは自分でできるのだ。……ちょいちょい放置されていたことにも今気が付いたやい。
制服からワンピースに着替え、最低限の物しかない部屋から更に最低限の物だけを鞄に詰めて寮を出た。宝飾類やドレスは公爵家で保管しているから、部屋にある換金できそうな物は文房具類くらいしかない。腐っても公爵家が買い与えてくれたいいものだからそれなりに値がつくだろう。無いより遥かにマシだ。
貴族学校なので下働きの者たちの出入りも頻繁にあり、ワンピースに大きめの手提げ鞄を持った三つ編み眼鏡の私は下働きの町娘と大差なく、何一つ怪しまれずに通用門を抜けて町に出た。警備は厳重だが、大抵入場時に厳しく、退場時はそうでもないのだ。
文房具を換金した後(親の形見で……って言ったらかなり良い値になった!)、私は町の療養所に駆け込むと、無事に医者から「すぐに入院しなさい!!」と寝床の確保に成功した。
正直、すぐにでも国を出てしまいたかったけれど、身体が無理だった。
療養所には、「とある家で仕事をしていたが、寝る間もなく、食事もろくに取れず……ようやっと退職したところで。……親兄弟? ……(ほとんど)会ったことない(ぐすん)」と説明しておいた。
全くの嘘じゃないけど、医者と助手の姉ちゃんを泣かしてしまって、なんかゴメン。
ベッドに入って気が抜けたのか、一週間も私は昏睡した。
医者曰く、このまま目が覚めない可能性も充分あったとのこと。
マジでやばかったな~と、起きたから言える。
その間に、捜索の騎士が療養所にも訪れたらしい。雲隠れしたい人が『体調を崩して』と入院するのはよくあることだから、念のため王都全ての療養所を回っているようだった。
騎士たちは私が騎士団の予算を削減したのを逆恨みしていたから(娼館の代金を経費で落とすなよな)、私をとんでもない凶悪犯かのように語り、仮病を使って潜伏している恐れがあるので検めると診療所内を見て回ったらしいけど、医者が「こんな町の療養所にそんな公爵令嬢なんておりません。ましてや仮病の者は誰一人としておりません!」とピシャリ叱りつけて追い返したとのこと。
騎士は昏睡していた私も見たらしいけど、「貴族家の下働きで酷い目にあったらしく意識がない」と助手から聞き、気の毒そうに目を逸らしたという。
目が覚めてその話を聞いて、元気バリバリで性格の悪い公爵令嬢や逃亡中の凶悪犯(誰だよ)を探しているようじゃ……心配なく逃げ切れるな、うん、と安心した。私の絵姿なんてないだろうし(公爵家にででんと飾ってある家族の肖像画にすら私はいないくらいだし)、イメージだけで人を探すなんて無理すぎだろ。駆け回る騎士、かわいそ~イイ気味~。
結局、自覚よりも深刻だった私の過労と衰弱と睡眠障害が良くなるまで二ヶ月入院し、衰えた筋肉を解しては伸ばして、歩いたり家事をしたりと身体を動かすことに慣れるのに一ヶ月かかった。手持ちのお金は入院費ですっからかんになり、安宿に泊まりながら日雇いの仕事を掛け持ちし、旅費を稼いでから国を出たのは更に半年後のことだった。
まだ騎士たちは私を探していて(乙)、国境の検問も厳しいままだったけど……すっかり庶民の私に誰も疑いの目を向けることなく、私は悠々と国外にとんずらしたのだった。
目指したのは帝国。隣国は王女殿下が王妃となる国だし、万が一見つかれば、今度は隣国で保護という名で監禁され、一生飼い殺されるだろう。もういないことになっている私が消えても誰も探さないし、どの方面にも秀でた私を使わない手はない。
隣国と帝国の国境はそれぞれの辺境伯が治めている領地があって、帝国側の辺境にはとても栄えた町がある。いくつもの街道が交わる交易の町は人の流れも激しい。
木を隠すなら森。私の容姿はこの大陸にありきたりな色の組み合わせだが、顔立ちが庶民にしてはまあまあ整ってしまっているし、帝国語も話せるが、ネイティブからしたら外国人だと分かってしまうだろう。人間は自分のコミュニティに異質な者が入ればすぐに分かるものだ。ならば、はなからそういうコミュニティの所に行けば良いのだ。来る者拒まず去る者追わずの町ならば、私は仕事を求めて棲みついた大勢のうちの一人でしかない。
国と帝国の間で私の後宮入りは進んでいただろうけど、まさか辺境の一移住者になっているなんて思わないだろうしね。
そうして、私は国を出て路銀を稼ぎながら隣国を一年かけて横断し、無事に帝国のこの町にたどり着いたのが三ヶ月前のこと。
入国審査の検問所で、その時まさに張られようとしていた『隣国と帝国の言葉を読み書きでき、計算ができる人募集』との張り紙を奪い取り、町役場に経理兼雑用担当の下っ端として就職することができたのは、幸運だった。
町役場の紹介で住む部屋もすぐに見つかり、過労死寸前から約二年、ようやく落ち着くことができたのだ。
はあぁぁぁ~……幸せ。
飯が旨い。
酒が旨い。
そして夜寝てもいい。
なんて幸せなんだろう。
本当は大陸中の言葉を扱えるし、計算どころか国や領地経営もドンと来いだけど、私はもう過ちを繰り返さない。できると分かればやれと言われ、やればもっとと増えていき、そして、やって当たり前になっていくのだ。
私の充実した毎日を守るために、いただくお給料で求められている以上のことは絶対にしない。もう、絶対に『良かれ』とは思わない。
それに、前世では男性とお付き合いをするどころか、はっきりとした初恋もなかったと思う。学校のアイドル的存在にキャーキャー言う程度しかなかった。
今世でも王太子殿下のたかが婚約者候補の一人でしかなく、しかも一緒に生徒会として仕事をする仲間(だと向こうは思ってないだろうけど)なのに、仕事の話をしても王太子殿下は「ああ」か「いや」くらいしか返事をしてくれない仲だった。それだって前世を思い出してから気が付くくらい、私も王太子殿下に関心無かったしな。
私が急にいなくなったことで、色んなことが滞ってあの国は混乱したかもしれない。だけど、自分一人が我慢すれば成立する幸せなんてクソ食らえだ(あらイヤだ)。まあ、私も我慢とは思っていなかったんだけどね。たかが王太子の婚約者候補の一人でしかなかった私が担っていたことなんだから、皆で力を合わせれば何とかなるでしょ。ねえ?
でもまあ、私は性格が良いので(自虐)、私がいなくなって大変な思いをしている人たちを想像しては酒の肴にしているだけで、別に私の仕事に地雷を仕掛けてもいないしね。仕事については真面目・誠実がモットーなんですよ。それが、散々私が心ない言葉で傷付けてきた周囲の人たちへの詫びってことで、もう二度と関わらないお互いの場所で幸せになりましょう。
今でも私は充分に幸せなんだけど、できれば良いご縁を見つけて結婚して家族を持ちたい。
今世の家族との縁が希薄過ぎて、私にとっての家族は前世のお母さんだ。お母さんと過ごした時間のように、裕福でなくても、頑張ればたまに贅沢ができて、おはようとお休みを言い合える家族が欲しいのだ。
笑いたい時は一緒に笑い、泣きたい時は寄り添って共に泣き、蔑ろにされたら我慢せずに怒る。
そんな人とシワシワのおばあちゃんになるまで一緒に生きていきたい。
生きていくのに必要な給料以上の仕事もしたくない。
私は、自分の手で守れるものだけ守って、幸せに生きていくと決めたのだから、後悔しない。
というわけで、貴族も王族ももうコリゴリ。
私がいなくなったことで、今更私に対する扱いのひどさに目が覚めちゃって私を探し始める王太子殿下とか家族とか国とか、そーいうのホントに要らないから。帝国のたくさんいる皇子たちも隣国の王弟も私の人生に登場しなくていいから。フラグじゃないよ!? 心の底から、ホントに要らないからね!?
読んでくださり、ありがとうございました。
主人公は自分の境遇に気が付かないように教育され、そのままでも使命感に燃え、文字通り命を使うことに意義を見いだして生きたでしょう。見守る人たちも同じような価値観なら環境が変わることもなく。
そこに『それヤバイ』って思う価値観が生まれたらどうなるかな? と思って書きました。
文明文化を「それっておかしいよ」って言っただけで変えられるはずもないから、逃げの一手しかないんじゃないかな……と。
でも、小さな一石は小さな波紋になって……やがて何かになるのかただ消えていくのか。
この先も主人公は自分の価値観で幸せを噛みしめ生きていきます。
ただ、視点を変えれば、貴族から庶民になる=不幸のどん底と見る人もたくさんいて。
結局は自分自身が幸せを感じてるかどうかなんだなぁ……と書いていてしみじみ思いました。
主人公は前世を思い出した今となっては、自分を人間として扱わなかった人たちを一生許さないでしょう。
でも、いつか絆されそうな気もします。まわりの気付きと努力次第かな。
では、また別の作品でお会いできますことを願いまして、ありがとうございました。m(_ _)m