懸念
夢を見た。
俺は一人、例の雑木林に立ち、崖の下を覗き込んでいた。
濃い夕闇のせいで、奥は暗くて見えないが、どこかに木下沙織がいるはずだった。
早く逃げないと逮捕されてしまう。
昔はそんな恐怖で飛び起きたものだ。
だが、いまは――むしろ警察に捕まりたいとさえ思っている。
この愚劣な犯罪行為を正しく裁いて欲しい。
俺はみずから通報すべく、ポケットをまさぐってスマホをさがした。なのに、なぜか見つからなかった。彼女を突き飛ばしたときに、一緒に落としたのかもしれない。いや、本当は落としていない。だから本心では通報したくなかったのだろう。俺はずっと混乱し続けている。
ふたたび崖の下を覗き込んだ。
崖と言っても天然の崖ではない。崩れないようコンクリで舗装されている。
どうしようか……。
俺はのちの歴史を知っている。
彼女がまだ生きていることを知っている。
そして下へ行けば、組織の連中を待ち伏せできることも。
連中を殺せば、いまみたいな事態は回避できるはずだ。
あるいは木下沙織を完全に殺すのでもいい……。
俺は未来を変えたかった。
*
「おはようございます」
目を覚ますと、部屋の隅で正座している女に声をかけられた。
この世のものとは思えない、まっしろな女。
間宮氏の孫だ。
「おはようございます……」
「うなされてましたね」
「そう……?」
自分では慣れたつもりでいたが、じつは苦痛を感じていたらしい。
ともかく、ここは間宮氏の自宅アパートだ。
古びた畳の上に、上質な綿布団が敷かれている。わざわざ来客用のを出してくれたのだ。
遅かったこともあり、彼女の祖母が泊めてくれた。
彼女は、するとおもむろに土下座した。
「昨日は、多大なるご迷惑をおかけいたしました」
「いや、大丈夫ですよ。頭をあげてください」
「祖母にも厳しく注意されました。次に飲んだら家を追い出すと」
「そうですか……」
気の毒とは思うが、自業自得だ。
もう二度と飲まないほうがいい。
*
軽く朝風呂などを頂戴して家を出た。
二日酔いはない。
大半のビールは彼女が飲んだ。
研究所につくと、部長……元オフューカスから呼び出された。
「どうだった?」
「おかんむりですよ」
間宮祖母は、俺を責めなかった。孫のことも、俺の前では叱責しなかった。だが、孫のあの委縮ぶりを見るに……裏で相当しぼられたのだろう。
「災難だったな」
「その代わり、間宮氏に貸しはつくれたかもしれません」
俺は淡々と返事しているが、彼が自分だけ逃げたことを快く思っていない。
人に面倒を押し付けてさっさと帰りやがって。
だが部長は、無表情のまま、三白眼の目でじっとこちらを見ていた。
本当に怖いからやめて欲しい。
「じつは雑談のために呼び出したんじゃない」
「なにか、いいニュースでも?」
「よくもないし、悪くもない。じつは警察のスパイについて、一人は特定していてな」
「えっ?」
特定?
一人は?
「二課にスコーピオってのがいるだろ? あいつがそうだ」
「はい?」
「ただ、あいつはもう本来の業務はしてない。完全にここに馴染んじまってる。ミイラ取りがミイラになったってわけだ」
確かにここをエンジョイしている印象はあった。
「え、じゃあどうするんです?」
「どうもしない。放置だ。あいつは調子のいい男だからな。味方にしてもデメリットしかない」
二番に命を救われて、口では協力すると言っていたが……。
それなら信用しないほうがよさそうだな。
部長は軽く咳払いをし、こう続けた。
「だが、スパイが一人とは限らん。まだあんたの疑惑が晴れたわけじゃない」
「いや、俺の経歴、知ってますよね? 調べたからここに引き入れたんですよね?」
「簡単な経歴しか知らない。人選をしたのは俺じゃないからな」
「なら、うちの前課長が?」
「いや、シスターズだ。彼女たちから提案を受けて、そのまま入れたんだ。だが、この手の工作はあんたが初めてじゃなくてな。以前もあった。そのとき何度か警察に入り込まれてな……」
シスターズというのは、御神体の娘たちのことだ。
「なぜ彼女たちはそんなことを?」
「きっと警察を正義の味方かなにかだと思ったんだろう。もちろんそういうのもいるとは思うが、そうは言っても組織の命令でしか動けない連中だからな。そもそも警察って肩書からしてそうだろう。警察の怖さは、警察自身がよく知ってる。命令に背くようなマネはしない」
命令に背いた男は職を失い、最後はオルガンで消去された。
「証明しようもないけど、俺は犯罪者なんですよ。警察になれるような男じゃないんです」
「悪かった。そんな顔しねぇでくれ。なにがあったかは詮索しない」
どんな顔をしているのか、自分でも見てみたいところだ。
きっとダサいくらい消沈しているのだろう。
俺はいっそ話題を変えた。
「警察で思い出したんですが、零課ってのはなんなんです?」
「死体処理を担当する部署だ。同じ社会奉仕部だが、あんたらとは業務が異なる。ああ、武装してないから安心していいぞ。オルガンを楽器だと呼べればの話だが」
「元警官が一人、そいつらに消されました」
「……」
また三白眼でじっとこちらを見てきた。
せめてなにか言って欲しい。
彼は急に止まったり急に動いたりするから心臓に悪い。すっと息を吸い込み、ようやく反応をくれた。
「オルガンについて、どこまで知っている?」
「人を消すんですよね?」
「消す、というよりは、遺伝子を模倣子に変換しているらしい。ただし無差別にはできない。ムリにやろうとすると、培養ポッドの中身まで一緒に壊れる。だから普通は、ターゲットとなる人物の周波数にチューニングして、そいつだけ変換することになる。だが、これはあくまで運用の一部だ」
「一部?」
「変換以外の演奏もできるってことだ。たとえば、模倣子を模倣子のまま送り込んだりな。声が聞こえない人間に対して、声を送り込むこともできる。まあちょっとした『天の声』的な演出だな。洗脳装置として使える」
例の警察官は、謎の少女に言われて茨城の研究所へ向かったらしい。
誰かに誘導されたのだ。
いまは亡きデータ観測室の室長か。
「オルガンを使えば、信者も増えそうですね」
俺の皮肉に、彼はにこりともしなかった。
「だからこそ止めるんだ。本格的な運用が始まってしまえば、この国の秩序は完全に崩壊する」
「いつ仕掛けます?」
すると彼は苦い表情で笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「それが今日の本題だ。御神体が消えたことで、上は危機感を募らせたようだ。近々、代理の培養ポッドへの接続試験が実施される。そのときが最初で最後のチャンスだ」
「作戦は?」
「その前に、十二番に関する懸念点を伝えておく」
「はいっ?」
十二番?
彼女になにか問題でも……?
「重大な問題になるかどうか分からないから、最終的な判断はあんたに任せる。ただ、それなりに難しい事実だから、ちゃんと考えた上で判断してくれ」
「はい」
「あいつと、もうひとりオニゲシってのがいただろ? 二人の父親は五代大だ」
「ご、五代……?」
本当に?
もし事実なら間違いなく懸念点だろう。
十二番は、あっち側の人間かもしれない。
どう判断したらいい?
「あくまで遺伝子を提供しただけの、生物学上の父だがな。互いに面識があったかは分からない。ただ、この事実は本人も知っている。その上で、これまでの行動を振り返ってみると……」
「いや、俺たちを裏切ってるとは思えませんよ」
「同感だな。だからこそ、彼女をよく知るあんたに判断を任せたい。これまでの貢献も無視できないしな。ただ、最後の最後で逆転を狙っている可能性もある」
フェイルセーフ。
以前、十二番はそんな言葉を口にした。
工場などにおいて、機械が制御不能になったとき、なんとしても止めるための仕組みのことを指す。電源を落としただけでは、たとえば慣性が働いてモーターの回転が続いたりする。だから電源を落とすのではなく、外から物理的に締め付けて止める。まともな停止措置ではない。ムリに止めるから、機械が壊れることもある。つまりは最終手段だ。
なにかを犠牲にしてでも、なにかを止めるためのもの。
もちろん、カルトを止めるための手段を言っているとは思うのだが……。
俺たちがギリギリのところで組織を壊そうとしているように、彼女もギリギリのところでなにか企んでいるかもしれない。疑い出せばキリがない。
個人的には信じたい。
しかし俺の感情を優先して、仲間たちを犠牲にするわけにはいかない。
「ちょっと、考える時間をください……」
「土壇場での情報で悪いな。だが、重要なことだ」
*
段取りはこうだ。
接続試験は、五代大の例の別荘で行われることになっている。
これには出資者たちも参加するため、一課と二課が総出で警備につく。
三課は留守番。
以上が上層部の想定するプラン。
これに便乗し、俺たちも行動を開始する。
まずはオルガンに接続された娘が、出資者たちを消去する。
ここで全員を葬ることができれば、それで目的達成。
だが、もし生き残りがいたら? そいつらも殺害する必要がある。一人でも生き残った場合、そいつが組織を立て直してしまうからだ。
一課、二課、三課、入り乱れての戦闘となるだろう。
敵を倒して洋館に押し入り、中の出資者を根絶やしにする。その後、オルガンも破壊する。
これで世界に平和が訪れるかどうかは分からない。
別の誰かが、似たような組織を再建するかもしれない。それでも、少なくともいまある組織は機能しなくなる。俺たちも逮捕されるかもしれない。それでもいい。この異常な組織に致命傷を与えることができれば、とりあえずは成功なのだ。
黙って上の命令に従っていれば、昇進もできて金ももらえるというのに、じつに奇特なことだと思う。
だが仕方がない。
俺たちは組織のやり方にムカついている。
理由が低俗だろうか?
だが、この世界の大抵の事件は、ムカついたという理由で起きている。誰のためだとか、博愛のためだとか言っても、突き詰めればこれだ。気に食わないからぶっ壊すのだ。
もちろん暴力を使わずに変更できるなら、それでもいい……。しかし残念ながら、そういう仕組みにはなっていない。殺すしかない。
この組織にもフェイルセーフがあればよかったのだが。
もう引き返せない。
時が来れば、自動的に開始される。
まるで採用試験で体験したタイマー式の銃みたいだ。
無闇に気分が高揚してくる。
(続く)




