亡命
ついに始まる。
始まる。
始まるのだ。
そう思いながら、何日かが過ぎた。
状況に変化はない。
情報もない。
本当に始まるのか?
みんなやる気はあるのか?
そんな焦燥感だけが募っていった。
いや、焦燥感が募っているうちはまだいい。やがてそれさえ面倒になり、いつの間にか「そういえばあの件どうなったっけ?」となることもある。
「三番くん、今日のお昼どうする?」
「蕎麦屋は?」
「だーかーらー!」
なぜそこまで蕎麦を拒否するのか分からない。
俺は田舎にいたころ、蕎麦をうまいと思ったことがなかった。
東北すべてがそうだと言うつもりはないが、どちらかといえばうどんのほうがメジャーだった気がする。それも、鍋料理みたいにぐつぐつ煮込んだヤツだ。コシなど不要。とにかく煮込むことのほうが重要だ。なんにでもよく火を通す。
一事が万事その調子だから、蕎麦の長所など見つけようがなかった。
ところが上京してみると、そこらのチェーン店でさえ信じられないほどうまい蕎麦を出した。俺がいままで食っていたのはなんだったのか。
それで蕎麦好きになった。
まあいい。
さすがに一日おきに蕎麦はやり過ぎだったかもしれない。
昼になると十二番は保育課に帰るし、七番はサンドイッチを食う。
この組織がなくなる前に、いちどみんなで食事でもしたいとは思っているが、なかなかその機会は訪れない。
*
出動もなかったので、俺は過去のレポートを眺めて過ごした。
もうだいたいのパターンを見た。
一課は無関係な人間まで躊躇なく殺す。二課はターゲットを全員殺す。三課はとりあえず一人殺す。仲間同士で遭遇すると、やっぱり誰かを殺す。
その繰り返しだ。
*
退社後、俺はふらっと定食屋に入った。
いや「ふらっと」はウソだな。オフューカスに呼び出されたのだ。
「来たな」
彼の鋭い三白眼は、どこか精彩を欠いていた。
部長としての仕事が大変なのだろうか。
俺は対面に腰をおろし、ひとまずビールだけオーダーした。
「お疲れさまです。なにか進展ありました?」
「進展かどうかは分からんが、とんでもないことが起きた。御神体が姿を消したんだ。三日前からな」
「はい?」
三日前?
運び屋がやったのか?
それとも……オルガンの素材にするために、ついにポッドに入れられた……とか? いや、ダメだ。そんなこと、あってはならない。
俺は立ちあがりかけて、また腰をおろした。
「無事なんですか?」
「それを聞くために呼んだんだ」
彼は眉をひそめた。
理由はさておきキレそうだ。
俺に断りもなく、御神体をどうにかしやがって。
十二番でさえなにも言ってこなかった。もたもたしているうちに、敵に先手を打たれたかもしれない。
ふと、誰かが近づいてきた。
いや、そいつは近づいてきただけでなく、こちらの許可も得ず、勝手に着席した。
スーツ姿の、まっしろな髪の女だ。
見覚えのあるような、ないような、凛とした顔立ち。
「間宮です。祖母に言われて参りました」
彼女はそう告げた。
間宮――。
敵ではない。
オフューカスもほっと息をはいた。
「驚かせないでくれ」
「ご不要でしたら帰りますが」
「いや、いてくれ。きっと重要な情報を持ってきたんだろう」
冗談の通じなさそうな女だ。
自慢じゃないが、俺は女性の心証を損ねるのが得意だ。余計な口を挟まないほうがいいかもしれない。
「御神体は、いまアメリカにいます」
「アメリカ……」
「ですが、おそらく想像している場所ではありません。飛行機も船も使っていませんから」
オフューカスはふんと鼻を鳴らした。
「つまり米軍基地か大使館にかくまってもらってるってワケか」
「そうなります。そちらの前部長の取引相手でもありますね。皆さんが前回の取引を『手伝った』見返りとして、アメリカはかくまうことを承諾しました」
なるほど。
なぜわざわざ部長の処分を一日遅らせたのかと思えば、アメリカに恩を売っていたわけか。
だがアメリカが絡んでくるとなると、この話は手に負えなくなってきそうだ。
オフューカスもヤケ気味にコップのビールをあおった。
「いったいどんな手品を使ったんだ?」
「人間にはにおいがありますよね。あなたはにおいで個体を判別できますか?」
「できるわけないだろ、イヌじゃあるまいし」
「私たちも同じです。有機周波数を感知することはできますが、個体の識別には特別な才能と訓練を要します」
おそらく事実だろう。
十二番は、あの別荘でオニゲシの気配を特定できなかった。
間宮氏は店員からコップを受け取り、自分でビールをついで一口飲んだ。
「まず、運び屋が運送会社に扮して、宝物殿へ荷物を運び込みました。名義はアメリカ大使館ですから、秘書も中身は検閲できなかったはず」
「なにを運び込んだんだ?」
「中身の入った培養ポッドです。御神体がいなくなったあとも、有機周波数を発し続けるためのダミーとして。ですが、このダミーは不要だったかもしれません。周波数を観測しているのは、彼女の娘ですから。観測されたデータも、ネットワークを介してリアルタイムに改竄されていますし。誰も異変に気づけません」
「おいおい。うちのセキュリティはそんなにガバガバだったのか……」
ガバガバだったのだ。
「とにかく、御神体は無事です。あとは現部長であるあなたの采配次第で、いつでも始められます」
「分かった」
心底ほっとした。
十二番は約束を守ってくれた。
これで御神体は自由だ。
オフューカスはぐったりと背もたれに身をあずけた。
「しかし本気で焦ったぜ。よそから妨害が入った可能性もあったからな。ま、カルトにとっちゃ御神体の消失なんて致命傷もいいところだ。絶対に公表しないだろう。三番、この件は内密に頼むぜ」
「もちろんです」
御神体がいなくなった以上、上は不完全な状態でオルガンを稼働させることになるだろう。
その不完全さを利用し、オルガンに接続された娘が関係者を消失させる。国会の最中に消去された五代大のように。
出資者は慌てて支援を取りやめるだろう。
その後、孤立した組織を俺たちが内側から叩く。
簡単に言えば以上だ。
実際にうまく行くかは別の話だが。
するとオフューカスが、なぜか不審そうにこちらを見てきた。三白眼でじっと見られるとさすがに緊張する。
「なんです?」
「いや、最後になると思うからあらためて確認しておくが……。あんた、警察の人間じゃないよな?」
「はい? 全然違いますよ。それ、前の課長にも聞かれましたけど……」
「じつは警察もうちのことは快く思ってなくてな。何度かスパイを送り込んで来たんだ。違うならいい。まあ事実でもそうとは言わんだろうがな」
警察のスパイまで紛れ込んでいる可能性があるのか?
まったく心当たりがないが。
絶対に俺は違う。年齢を考えれば、二番も違うだろう。十二番も違うと断言できる。なら七番は? そうは見えない。少なくともうちの班にはいない。
「警察がいるとなにか問題なんですか?」
「組織が力を失った途端、みんなを逮捕する可能性があるだろ。まあ逮捕されても仕方のないことをしちゃあいるが……。こっちとしては、せめて組織がつぶれたあとにして欲しいワケだ。な? そう思うよな?」
「俺、ホントに違いますからね」
「分かってる。まあ飲め」
ぐいぐいビールを進めてくる。
そもそも、俺をハメたのは前課長とオフューカスだ。なのに、こうも俺を疑ってくるとは……。
自分たちで俺を選んだんじゃないのか?
もしくはオフューカスこそが警察のスパイとか?
疑い出すとキリがない。
否定する材料がないのも事実だが。
間宮氏は、自分は無関係とばかりに枝豆を食っている。
用が済んだなら帰ってもいいと思うが。
ついでに食事も済ませていく魂胆かもしれない。
それにしても、まっしろで美しい女だ。
化粧っ気もない。
ただそこにいるだけで、妙な緊張感をもたらしている。おそらく、枝豆を食っているのでなければ、もっと近寄りがたかったろう。
彼女は弓矢だけで一課を蹴散らした。怒らせないほうがいい。
ふと、彼女はごくごくとビールを飲み干した。
「いけませんね……。祖母からは、決して人前で飲むなと言われているのですが……。ですが、まあ、勧められたとあっては……」
なんだ?
誰も勧めていないが?
まさかこの女、行き過ぎたアルコール愛好家なのでは……。
嫌な予感がする。
だが、話が長くなると予想したオフューカスが、すでにかなりの量の焼き鳥をオーダーしていた。
あと三十分は帰れない。
*
深夜零時。
街灯が虚しく公園を照らしていた。
俺と間宮氏は缶ビールを手に、つめたいベンチに並んで腰をおろしていた。オフューカスはうまいこと逃げた。俺は逃げ遅れた。
「それでね、私、聞いたんですよ。なんか変だなって思って。私、そういうのすぐ気づくほうなんで」
「はい」
「そしたら、二十年近くも、ずっとストーカーに付きまとわれてる……的なことを言われまして……。それで私、ついムキになってしまいまして……。いえ、普段は……普段は冷静なんです。祖母からもそうするよう厳しく言われてますんで。子供のころからずっと厳しくて……。でもちゃんと言うこと守ってですね」
「はい」
「でもストーカー……。最悪じゃありませんか? 私、言ったんです、そんなのいますぐ殺さないとダメだって! あ、でも殺すっていうとちょっと言葉が強すぎますから……。ええと。この世から葬って……葬ったほうが……いい、ですよね?」
「はい」
話の筋がまったく分からないが、命の危険だけは感じる。
彼女はおそらく、御神体と会話でもしたのだろう。
そのときに、ストーカーに付きまとわれているとかなんとか言われたのだ。
それでストーカーに殺意を抱いた、という話だ。たぶん。
「でも内心、ちょっとイラっとしたのも事実でして……。なんかこの人、自分が美人だからって鼻にかけてるのかなって……。あ、ごめんなさい。皆さんの御神体を悪く言ってしまいました。信者の皆さまには、心からお詫び申し上げます」
「いえ」
「でもダメですよ、カルトなんて。あんなの神さまじゃありません。ただの人間じゃないですか。いますぐ目を覚ましてください! 私、哀しいです! お互いに騙したり騙されたり! そんなだからいつまで経っても平和にならないんです!」
「そうですね」
「だから、三番さん、一緒に頑張って悪いヤツを倒しましょうね?」
「はい」
「あと、いまから帰ると祖母に怒られるので、全力でフォローしてくださいね? もう仲間ですよね? ね?」
「はい」
なぜ給与外労働は発生してしまうのか?
せっかく間宮家と良好な関係を築けたというのに、この女の酒癖のせいで破綻に追い込まれるかもしれない。
それだけは絶対に阻止しなければ。
全世界の行き過ぎたアルコール愛好家よ、願わくば、もっと自重してくれ。
己の限界を超えたアルコールを摂取することなかれ……。
「あ、じゃあ俺、タクシー呼ぶんで」
「待ってください! まだ心の準備が……」
「遅くなると、それだけ怒られるんじゃ?」
「イヤです……」
泣きそうになっている。
泣きたいのはこっちだ。
「じゃあタクシー呼ぶんで」
「待ってください! このビールどうするんですか? まだいっぱい残ってますよ?」
「なんでこんなに買ってしまったんだ……」
「きっと飲むと思ったから……」
ふざけやがって……。
もう金輪際、飲むな……。
(続く)




