ヴァーゴ
居室に入ると、すでに課長の席は撤去されていた。
いや、撤去されたのは二番の席か。
ともあれ席がひとつ減っていた。
「あー、なるほど。そういうことするんだ。勝手に。ふーん」
二番の情緒にやや乱れが生じた。
が、彼女はひとつ溜め息をついただけで、課長席へ腰をおろした。
「あのさ、三番くん。あたしのことは課長じゃなくて、ボスって呼んで欲しいな」
「は?」
「『は?』じゃない」
まあそうだ。
上司に失礼だったな。
「なぜボス?」
「私たちにとって、課長って言ったらあの人しかいないの。だから私のことを課長って呼ぶのはナシ。いい? これ命令だから」
「分かったよ、ボス」
少々ムカつかないこともなかったが、いまは彼女を刺激したくなかった。
始業時間と同時に、電話が鳴った。
「はいこちら三課。はい? また? なんでですか? いや、理由。教えてくださいよ。なんでいつも三番くん呼ぶの? たまにはそっちから来たら?」
上からの呼び出しだ。
くだらないことでモメやがって。
俺は受話器をふんだくった。
「はい三番です。すぐ参ります」
そして返事も聞かずガチャ切り。
「言いなりで恥ずかしくないワケ?」
「でもあいつら上司だからさ」
「ダサ。勝手に行ってくれば?」
「すぐ戻るよ」
いまの俺は、完全にサラリーマンしぐさが身についているな。
誇らしいぞ。
*
秘書らしき女は、一段と冷たかった。
軽蔑の眼差しで事務的に「どうぞ」と通した。
俺はいちおう「失礼します」と部屋に入った。
今日の御神体は、妙なコスプレはしていなかった。
黒いスーツを着ていたから、いちおうの弔意を示すつもりはあるらしかった。ちゃんと肩も脚も隠している。
「お呼びでしょうか、御神体」
「堅苦しいわね。むかしみたいに『沙織ちゃん』って呼んでよ」
「そんな呼び方、したことないんだが」
当時の呼び方は「木下さん」だ。
それ以外で呼んだことはない。
俺は勝手にソファに腰をおろした。
彼女は向かいのソファへ。
「で、立ったの?」
「はい?」
彼女の急な質問に、俺はつい間の抜けた返事をしてしまった。
立つ?
なにが?
「傷心の若い娘をうまいこと騙して、部屋に連れ込んだみたいじゃない?」
「監視してたのか?」
「驚かなくていいわ。監視は基本的に全員につけてるから」
まあ、そうなるか。
俺が勝手なことをしたら、組織にとってもマイナスだからな。
「あのまま帰したら死にそうだったから、やむをえず家に連れてきたんだ」
「あら、それは親切ね。私にもそんなことしたことないのに」
「差別するつもりはない。もし死にそうならいつでも来てくれ。だがそうでないならお断りだ」
本当に死にそうなら、な。
彼女は肩をすくめた。
「ああ、そうそう。今日はケンカするために呼んだわけじゃないの。ちょっと相談があって」
「相談?」
どうせロクでもない提案だろう。
その点だけは、聞かなくても分かる。
「いちおう、辞令は私の名前で発令することになってるけど、人事権までは持ってないの。だから、これはあくまで打診ね」
「なんの?」
「二課に転属する気はない?」
「はい?」
あのクソどもの巣窟に行けってのか?
いまの俺の心情を理解していないのか?
理解した上でいたぶるつもりか?
彼女はにっと麗しい笑みを浮かべた。
「もっと仕事がしたいでしょ?」
「望んでない」
「でもいまのままだと、あの小娘と二人きりよ? 耐えられる?」
「いまの彼女には俺が必要だ」
すると、彼女の笑顔がすっと消えた。
「そういうセリフを、私の前で言わないで」
「うるせぇな。別に俺じゃなくてもいいが、ほかにいないんだからしょうがないだろ。文句があるなら人員を補充しろよ」
「うるせぇな?」
「非情にうるそうございます」
訂正し、言い換えたが、彼女の機嫌は直らなかった。
「あなたの手足を切り落として、ここでペットとして飼ってあげてもいいのよ?」
「その儀はご容赦いただきたく」
すると彼女は立ち上がり、なにかを探すように部屋を歩き回った。
頭でもおかしくなったのかと思ったが……。
「来て」
「はい」
彼女は本棚の前に立ち、そこへ背をあずけた。
分厚い本がぎっしり詰め込まれているが、読んでいるとは思えない。
「壁ドンしなさい」
「はい?」
「私の機嫌を損ねたんだから、挽回する機会が欲しいでしょう? ほら、壁ドン」
「壁ドンって……。なんか古くないか?」
「死にたいの?」
「いえ、壁ドンいたします。やらせていただきます」
パワハラとセクハラのダブルコンボだ。
いやモラハラもあるな。
こいつは歩くハラスメント女だ。
俺はやむをえず、本棚に手をついた。
「ドンしました」
「そこであまいセリフを吐くのよ」
「あまーい」
「……」
至近距離で目が合っている。
だが、まったくワクワクしない。
彼女は殺したそうな目で俺を見ている。
俺はそっと距離をとった。
「どうも俺には、その手の適性がないようで……」
「いいわ。面白いものが見られたから。ホント面白いわね。なんなの『あまーい』って」
「他人のギャグ」
「知ってる。もう座って。話の続きをするから」
拷問だ。
早く帰りたい。
「あー、もし俺と二番さんを引き離したいなら、彼女を事務方に転属させるって手もあるのでは?」
「それは彼女が課長になる前に言って欲しかったわね」
「二課に行くつもりはない」
「けど、誰かさんのせいで、二課のメンバーが四人もいなくなっちゃったのよ」
「どうせまたクソみたいな採用試験で補充するんだろ」
「そうなるわね」
死んだ四人は自業自得だ。
他人の命をスコア稼ぎに使いやがって。
「データも取れて満足だったかな?」
「まだ足りないわね」
「いつか地獄に落ちるぞ」
「覚悟してる」
ふざけやがって。
誰も幸せにならない。
できれば彼女にも地獄に落ちて欲しくない。
彼女は溜め息をついた。そのしぐさひとつとっても絵になる。
「いい? うちの考えでは、普通、たいていの職員は二課に所属することになってるの。三課は新人か、あるいは落ちこぼれの受け皿に過ぎない」
「一課は?」
「二課の枠におさまらない変人たちね。あまりに突出した人間は輪を乱すから、仕方なく二課から切り離してる。それだけ。あなたは二課へ行くべきよ。だから申請書を出しなさい」
「断る。出世するつもりはない」
「年収低いとモテないわよ?」
「モテたところで意味がない」
いや、意味はあるかもしれないが。
どうせ役に立たないのだ。
人並の幸せを期待しても虚しいだけだ。そもそも俺は、自分の遺伝子を残したいと思わない。
「あら、なに? 下半身の心配してるの? ザマないわね」
「仰る通り。バチが当たったんだ」
「でも体外受精って手もあるじゃない?」
「まあ、どうしてもとなったらな……。けど、それはそのとき考える。いまはいい」
だいたい、こんな女に俺の結婚の心配をされたくない。
俺が結婚したいのは、いまでも、目の前にいるこの女だけだ。しかし不幸になるのは分かり切っている。地位も名誉も釣り合わない。
再会しなければよかった。
すると彼女は、窓の外を見た。
冬のすんだ青空が広がっている。
そして彼女は、大人になったいまでも、顔には当時のおもかげがあった。目鼻立ちがハッキリしていて、マネキン人形のようだ。
「もし望むなら、私の秘書にもできるけど……」
「秘書って? 俺を? 外に突っ立ってる彼女はどうなる?」
「書類整理でもさせるわ」
「で、代わりに俺があそこに突っ立つことになるのか」
「いいえ。ここにいて、私の話し相手になってくれてもいい」
儚げな表情で言う。
そうだな。
想像しただけで、いくらか幸福な気分になれた。
近くもなく、遠くもない距離。
会話してもいいし、しなくてもいい。
あの秘密基地みたいな雑木林で、ただ日暮れを見つめていたのを思い出す。
彼女は家に帰りたくなかった。
俺は、彼女と一緒にいたかった。
ただ時間だけが過ぎていった。
俺はソファから立ち上がった。
「ま、気が向いたらそうさせてもらおうかな。けど、いまはまだやるべきことがある」
「悪いことは企まないでね」
「悪いこと? なんの話だ?」
「たまにいるのよ。勝てない相手に戦いを挑む無謀な人間が。あなたって、なんだかそういうタイプに見えるから」
俺はそんなタイプじゃない。
勝てる相手としか戦わない。
「肝に銘じておくよ」
「小娘ごときの誘惑に負けないでね」
「分かってる」
べつに誘惑されてない。
仮に負けたところでなにも起きない。
年増のひがみにしか聞こえない。
見た目だけはいいんだから、そんな見苦しいマネはしないほうがいいのに。
いったいなにを焦っているのやら。
*
居室に戻ると、俺と二番のほかに誰かいた。
女だ。
ベリーショートの髪の、鋭い目つきの女。
「ごめんなさい。勝手にお邪魔してた。私、二課のヴァーゴ。むかしなじみが課長に昇進したって聞いて、挨拶に来たの。すぐ帰るわ」
背が高くて、すっとしている。
どちらかというとカッコいいタイプの女性だ。
昨日あんなことがあったばかりだというのに、よく一人でここへ顔を出せたものだ。
二番は能面みたいな顔になっていた。
「なら帰って。もう用は済んだでしょ?」
「子猫ちゃんが、ずいぶん生意気な口をきくようになったね」
「うるさい。帰れ」
「はいはい。でもこの人は借りてくよ。ちょっと話があるから」
「なんでそうなるの?」
「私の勝手でしょ? ほら、三番。こっち。ジュースおごってあげる」
まるでガキ同士のやり取りだな。
まあおごりなら行くが。
*
二番の罵倒を聞きながら、俺たちは居室を出た。
「協定があってね。お互い、余計な干渉はしないことになってたんだ。けど、それは前の課長との協定。いまは協定なんてないから、もう自由。あ、なに飲む?」
「ならブラックコーヒーを」
「オーケー」
サバサバ系というか、ここまで来るとズケズケのほうが近いな。
こちらの都合をまったく考慮してくれない。
彼女は壁に寄りかかり、同じくブラックコーヒーの缶をあけた。
「じつはほっとした。あいつ、落ち込んでるんじゃないかと思ってたから」
「挑発に来たのかと思った」
「まさか。その逆。あの子、採用試験のときから頼りなくてさ。でも生き延びて、一緒に三課に入ったんだ。あ、私も元三課だよ。ていうかみんな最初は三課だけどね。前の課長と一緒になって、あの子のこと事務方にトばそうとしてたんだよね。でも、なかなかやめなくて」
俺と同じ苦労を、彼女もしていたわけか。
「それであの子にキツい言葉を?」
「そう。でももう手に負えなくて、課長に任せて二課に行ったんだ。その間も、ずっと心配してた。怪我とかしてないかなって」
厳しそうな風貌に似合わず、意外と優しい。
こんな仕事を続けるべき人間ではない。
「けど昨日は、そちらのお仲間に殺されそうになったんだが」
「あいつら、功を焦ったんだ。一課なんて行ったって、どうせ馴染めやしないのに。ああ、こう見えて、ちょっとだけ一課にいたんだ。でもついていけなくて、二課に戻ってきた。一課はヤバいよ。仕事に関係ないヤツまで殺しちゃうんだから。ああいうのはついていけない」
殺人鬼の集団というわけか。
こんな仕事をしていれば、そういうのも出てくるのだろう。
彼女はしばらく天井を見あげ、黙ってコーヒーを飲んだ。
「ま、とにかく、安心したよ。まだムリしてる感じはあるけど。たぶん爆発はしないと思うから。あの子、すっごく課長になついてたからさ」
この話だけ聞くと、普通の子という印象を受ける。
だが、昨日の二番はほとんどキリング・マシーンだった。躊躇も容赦もない。状況を把握し、狙ったところを撃ち抜く。
あんなに戦えるとは思いもしなかった。
「でも昨日の変貌ぶりは……」
俺がそう言いかけると、彼女も表情を渋くした。
「そう。私も映像観てビックリした。あの子、間違いなく才能あるよ。だからこそ心配してる。一課はあの子を欲しがるだろうね」
「映像?」
「あるの。まあそこは置いといてさ。悪いんだけど、あの子が一課に転属しないよう、見といてくれないかな?」
「えっ?」
「あの子には、壊れて欲しくないんだ。ま、本人が転属願出さなければいいだけだから。うまいこと誘導しといてよ。またジュースおごるからさ」
「ああ、いや、それはいいけど……」
「とにかく、よろしくねー!」
俺の背中をバンバン叩いて行ってしまった。
本当に自分の都合だけだな。
協力を拒む理由もないが。
人は、自分の知らないところで誰かに助けられているものなのかもしれない。
二番だけでなく、あるいは俺も……。
(続く)




