人生のピーク
しばらくは平和な日々が続いた。
平和というか、仕事がないだけだが。
俺はレポートを読み続けた。
べつに細部まで読み込んでいるわけではない。すでに読んだような内容なら飛ばす。珍しいものだけちゃんと読む。
参加したのは誰か。標的となった人々は誰か。なぜ標的とされたのか。被害者は誰か。
そういう情報が簡潔に記載されている。
このうち「なぜ」は、だいたい借金だ。研究所は事前にすべて説明した上で金を貸す。借りる側は契約に応じる。しかし返済できなくなる。すると職員が乗り込んでゆく。
珍しいのは、一軍と二軍が同じ標的に乗り込んでゆき、互いに戦闘になったケース。
あとは同じ課の中でも、上司が部下を撃ったり、部下が上司を撃ったり、もうやりたい放題だ。
誰が誰を殺してもお咎めナシ。むしろスコアが与えられる。少なくとも現場でやる限りは。
ただし同僚を殺せば、別の同僚に警戒される可能性がある。いくら報復しても無罪なのだ。やるときは慎重でなければならない。
電話が鳴り、課長が出た。
「はい、すぐ向かわせます」
その言葉で、誰からどんな電話が来たのかは分かった。
受話器を置いてから、課長は告げた。
「三番くん、悪いんだけど宝物殿行ってくれる?」
「はい」
*
ゆったりとした大きなエレベーターで、最上階へ向かった。
ドアが開くと、赤いじゅうたんと、巨大な木製のドアが視界に入ってきた。
出迎えたのは秘書らしきメガネの女性。
「ああ、来ましたか。どうぞ中へ」
冷淡なのは以前と同じだが、今日は特にぶっきらぼうだった。
目も合わせてくれない。
前回、特に粗相をしたおぼえはないのだが……。少なくともこの人物に対しては。
「失礼します」
俺は自分でドアを開き、中へ入った。
ここは三方のガラス窓から光が差し込んでくるから、ひときわ明るい。
空中庭園にいるかのような錯覚を受ける。
まあそれはいいとして……。
俺は思わず深い溜め息をついた。
「あの、ご用は?」
「まあかけて」
「はぁ」
ソファへ腰をおろす。
彼女は今日は、隣ではなく、対面に腰をおろした。きちんと足を閉じて、清楚なお嬢さんのように。
まあいいのだ。
問題は、彼女が、なぜか児童みたいな格好をしているということだ。きちんと胸元までボタンを閉じたブラウスに、紺の吊りスカート。ウィッグをつけてロングヘアにしている。
まさか、いまこの場で俺に殺して欲しいのだろうか?
彼女はとびきりの笑顔を向けてきた。
「分かる?」
「えー、お招きいただきましてありがとうございます。本日はお日柄もよく……」
「ちゃんと見なさい」
「うるせぇよ。俺も安っぽいパーカーを着て、崖からあんたを突き飛ばせばいいのか?」
彼女の格好は、小学生だったころのそれだった。
ああいう清楚なカッコをして、両家のお嬢さんみたいに振る舞っていたものだった。とりわけツラだけはよかったから、みんな騙されていた。
彼女は肩をすくめた。
「うるせぇよ? 小学生のころから変わってないわね。それとも、この雰囲気に合わせてくれたのかしら?」
「暴言を吐いたことはお詫びします。申し訳ありませんでした」
「悪いとも思ってないのに頭をさげられる『大人』になったのね」
「ちゃんとした大人は『うるせぇよ』とは言わない」
自分で言っておいてなんだが、そうなのだ。
「あのころを思い出さない?」
「思い出したけど、そうすると殺意しか芽生えない」
「治療してあげる」
「やめてくれ、本当に。あんたじゃ治らないって、こないだハッキリしただろ」
本当に最高の体験だった。
欲しくて欲しくてどうしようもなかった女が、俺のために献身的に奉仕してくれたのだ。
それでもムリだった。
あれでどうにもならないのだから、他の誰でもムリだ。事実は事実として認めざるをえない。
彼女は舌打ちし、どっとソファに背をあずけた。
「ムカつく男ね……」
「それは否定しない」
「いい? 私、有機周波数を発してるの」
「またその話か……」
「この施設は、私の周波数をずっと観測してる。私がどんな感情でいるのか、研究者には丸分かりってこと。つまり、あなたみたいななんの才能もない下っ端に、私が欲情してるってことが、みんなにバレてるワケ。軽蔑されるに決まってるでしょ?」
軽蔑?
俺が?
それとも彼女が?
気にはなったが、あえて尋ねなかった。
彼女は溜め息をついてから、こう続けた。
「そんなリスクをおかしてまで、あなたにこだわってる理由、分かるわよね?」
「復讐のため?」
「広い意味ではそう。けど本心は愛ね。あなたに対する愛」
バカみたいなコスプレしながら言われても、素直に受け入れられない。
「からかわれてる気もするが」
「違うわ」
「ならホントに? わざわざ俺と会うために、あの採用試験に放り込んだのか?」
すると彼女は肩をすくめてみせた。
「それも違うわね。採用試験に誰がエントリーされるのか、私は知らない。あなた、きっとうちからお金を借りたんだと思う。それか誰かの保証人になったか」
「心当たりがない」
「なら誰かに名義を使われたのよ。気の毒だけど」
あのメンバーは無作為ではなく、きちんと理由があったのか。
だが本当に、俺には心当たりがない。
巻き込み事故もいいところだ。
「とにかく、運命の再会を果たしてしまった以上、私たちにはやり直す義務があるわ」
「なにをやり直すって言うんだ?」
「二人の子供を作るの」
「断る」
逆に考えてみて欲しい。
俺がこの女に執着し続けて、再会した途端、俺の子を産んでくれなんて迫ったら……。普通なら警察沙汰だ。
彼女もさすがに笑みを消した。
「まさかとは思うけど、私のこと嫌い?」
「そんな質問しないでくれ。もうそんなまともな判断ができるレベルじゃない」
「なら両想いよね」
恥も外聞もなくぐいぐい来る。
そうまでして「なんの才能もない下っ端」に執着する理由があるのか?
「ならハッキリ言うぞ。俺はあの日から……。いやもっと言えばあんたと出会ったそのときから、もうずっとあんたのことばかり考えてる。いまに至るまでずっとな。電車に揺られているとき、トイレでドアを見つめてるとき、風呂場で頭を洗ってるとき、寝ようと目をつむったとき。なにかにつけて考える。そういう意味では、もうあんたのことを考える機械みたいなものだ」
「気持ち悪いわね」
「だがそっちはどうなんだ? 俺と同じくらいの熱量を持って言ってるのか?」
彼女は興覚めしたように、すっと目を細めた。
「私? 私は忘れてたわね。例の採用試験であなたの姿を見るまでは」
あまりにも残酷な現実。
いや忘れていたなら、精神衛生上そのほうがいい。
「つまり、俺に執着する理由はないってことだ」
「そんなことないわ。見たら欲しくなった」
「孫なら作ってやってもいい」
もうどうしても断って欲しかったので、俺は最低の提案をした。
彼女もどういうことか数秒考えた末、首をかしげながらこう返してきた。
「孫? つまり娘とヤりたいってこと?」
「そうなるな」
まあオーケーされても物理的にムリなのだが。
俺の目論見通り、彼女は本当に気味悪そうにこちらを見た。
「そう言えば私が引き下がるとでも思ってるのね……」
「なかなかかわいかったぜ。自分のこと天使ちゃんとか言っちゃってさ」
「本当に器の小さな男ね。しかもその器からこぼれるくらいの愚かさを有している。もっとも、そうでもなければ人の命なんて奪わないわね」
「そういうことだ。頼む相手を間違えてる」
彼女が望めば、志願する男は山ほどいるだろう。
俺である必要はない。
彼女はしかし冷酷な笑みを浮かべた。ウィッグがややズレているのに。
「もしかしたら、気づいてないのかしら? 私がその気になれば、あなたの死体から遺伝子を回収することも可能だってこと」
「おいおい……」
「あるいは殺さずとも、力づくで回収できる。あなたの子種がどこにあるかは分かってるんだから」
「待ってくれ。そういうのは……じつによくない。平和に行こうぜ、平和に……」
我ながら、つくづく説得力がない。
自分のしたことを忘れたい。
「そうよね。痛いよりは、気持ちいいほうが好きでしょ?」
「完璧だ。仰る通り。反論の余地もない。ただ、こないだ飽きるほど検証しただろ? なにをどうしたってムリだって」
「あのときはムードがなかったから」
「ムードがあってもムリなんだ。遺伝子が欲しいってんなら提供するから」
「それじゃ面白くない」
「勘弁してくれ……」
こちらが不能だってことをネタにして遊んでいるとしか思えない。
いや、俺だって一人ならべつに……。
隙を見て二番の転属の話をしたいのに、やはりそれどころじゃない。
こいつにお願いなどしたら、いらぬ借りを作ることになる。
彼女はウィッグの位置を調整しながら言った。
「私、あなたのことが好きだった」
「……」
さらっと言ったな。
この女に「好き」などという感情があるのか?
「周りのみんなと違って見えたから。だって、どいつもこいつも誰かと同じような生き方しかしてなかったのに、あなたはそうじゃなかったでしょ? けど、大人になって、本当につまらない人間になっちゃった」
「情報が正しく伝わったようでなにより」
「……」
俺の返事が気に食わなかったのか、彼女はじつに不快そうに目を細め、じっとこちらを見つめてきた。
こんな表情でさえ絵になるんだから、顔のいい人間は得だ。
かすかに呼吸があった。
長く。
「心にもないセリフに、心にもない返事……。空疎とはまさにこのことね」
「もう二十年近くも前の話だ。なにもかも当時のままってわけにはいかない。好むと好まざるとにかかわらず」
「そうね。きっとあなたが正しいんだわ。お礼を言ってあげる。ありがとう」
芝居がかった態度は相変わらずだ。
彼女は当時からそうだった。
二番の言う通り「あたし美人ですけど」みたいな顔をして、そういう人物を演じていた。まるで完全無欠の良家のお嬢さんだった。
だが、彼女が年相応に振る舞ったことがあった。
両親の話を聞かせてくれたときだ。
「パパとママ、これから死ぬけど、沙織ちゃんは気にしないでね」
あまり理解していなかった彼女を放置して、二人は首を吊ったのだという。
しかも父親だけが死に、母親は生き残った。
いろいろあってうちの近所に引っ越してきた。
彼女の人生は、なにもかもがぶっ壊れていたのだ。
だから彼女は、その現実を否定したくて、キラキラした誰かを演じていた。
当時、俺もガキだったから、他人に共感している余裕はなかった。というか、あまりに理解不能で、ロクに共感しようがなかった。
それでも、優しく接するべきだとは思った。
クラスの連中が彼女にちょっかいをかけていると、俺は止めに入ったりもした。
そのせいでいじめられる、ということはなかった。ひやかされたが、その程度だ。いまから考えると、みんな最低限の良識はあったのかもしれない。
もっとも、なにかやらかすと家同士の関係にも影響するから、あまり子供の判断だけで独走できなかったというのもある。
ある日、彼女はぼそりとつぶやいた。
「いつも守ってくれてありがとう」
ナイトにでもなったような気分だった。
俺はカッコつけて「べつに」とかなんとか返事した気がする。
あれが人生のピークだった。
(続く)




